第10話 ロブ

 やはり村主は『熊のおっさん』によく似ている。皆の見ている前で、しかも赤の他人に怒られたにもかかわらず、透は何故か清々しい気分であった。
 村主の話は、どれも正論だった。『熊のおっさん』に対する気安さから他校の部長を「おっさん」呼ばわりした事や、目上の人間に対して敬語を使わず接した事はこちらに非があるし、意図的ではないにせよ、ろくにルールも勉強しないで試合に臨み、彼等の練習の邪魔をした事も事実である。
 察するに、村主は自身の為に怒った訳ではない。海南テニス部の部長として、そしてまた初心者の透の為にもそうした方が良いと判断したのだろう。彼の諭すような口調には、人柄から滲み出る愛情が感じられた。

 暗がりの中、透は記憶を頼りに区営コートの一番奥を目指した。
 時間は夜の八時を過ぎていた。さすがにもう解散したかとも思ったが、どうしても今日のうちにきちんと謝罪をしておきたかった。
 コートの入口まで来て中を覗いてみると、海南テニス部の二年生の伊達ともう一人の部員が、活動を終えてクールダウンをしている最中であった。
 「お前、さっきの? 帰ったんじゃなかったのか?」
 夜遅い訪問者の気配に気付いた伊達が、驚いた様子で顔を上げた。
 「はい。一旦戻って、ルールを頭に入れてから出直してきました。村主さんは?」
 透は村主に怒られた後、教室に置きっ放しにしていたマニュアル本を取りに学校へ戻り、一通り読破してからまた区営コートへやって来たのである。
 「部長なら、もう帰ったぜ」
 まさか「出直してきます」と言って、その日のうちに戻ってくるとは思わなかったのだろう。伊達は困ったような、呆れたような、戸惑いの表情を浮かべている。
 すでに他の皆も帰ったと見えて、残っているのは伊達ともう一人の部員だけだった。透は即座に二人の前へ進み出ると、コートの上に跪き頭を下げた。
 「今日は皆さんの練習の邪魔をして、本当にすみませんでした!」
 突然の土下座に伊達は慌てて頭を上げるよう促したが、透はそのまま動かなかった。実際、村主に謝罪する事だけを考えて戻ってきた為に、この後どうすれば良いのか分からなかった。他校の部活動に割り込み、部長をど素人の試合に付き合わせた結果、皆の練習時間を無駄にしたのである。正直なところ、いっそ殴ってもらった方がスッキリするとも思っていた。
 「おい、分かったから、もう良いって」
 潔い土下座を目の当たりにして、血の気が多いと言われる伊達も戦意を削がれたのか、どうにかして透を元に戻そうと説得に入ったが、もう一人の部員がそれを制した。
 「真嶋君だったね?」
 彼は自分が副部長の石丸だと名乗ってから、穏やかな口調で語りかけた。
 「君は球拾いをしている時、どこでボールを受けるか、考えてやっているかい?」
 その問いかけに透はようやく頭を上げたが、姿勢は正座のままだった。
 「いいえ、特に考えた事もありませんでした」
 「それじゃあ素振りをする時は? ボールをどこで打つか、イメージしながらやっているかい?」
 「はい。それはやっています」
 「なぜ?」
 何故かと聞かれても、そもそも素振りはボールを打つ事を前提に行う訓練で、球拾いは後輩の責務、雑用の一つだと思っていた。二つの行為を結びつける共通点があるのだろうか。
 頭に浮かんだ疑問を見透かしたように、石丸が問いを重ねた。
 「素振りでは何処で打つかイメージするのに、球拾いではそれをしない。せっかくボールが自分に向かって飛んでくるのに、勿体ないと思わないか?」
 この問いかけが大きなヒントとなった。先ほど村主が「球拾いを馬鹿にするな」と怒鳴った理由も、徐々に解明されていく。
 「球拾いもラリーの延長だと思って取り組めば、インパクトのタイミングを掴む練習になる。そういう事ですか?」
 「そうなんだ。球拾いを単なる雑用だと思わずに、ボールを捕らえる、あるいはラケット面を作る為の練習だと思えば、有意義な時間になる。少なくとも、つまらないなんて言葉は出て来ないはずなんだ」
 石丸が静かに続ける。
 「例えば、先輩のラリーを見ながら次に来るコースを予測してみる。先輩が取れなかったボールを、自分が返すつもりで拾ってみる」
 「インパクトだけでなく、フットワークやサイドステップの練習にも繋がるって事ですね?」
 「その通り」
 ルールを頭に入れてから出直してきたという、透の言葉が嘘ではないと確信したのだろう。石丸が口調と同じ穏やかな笑みで頷き、更に何かを言いかけた時だった。
 「石丸先輩? 続きは『がんこ』に行ってからにしませんか? 俺、もう腹減って死にそうなんッスけど?」
 伊達が両手で腹を抱え、今にも倒れそうなポーズで訴えた。
 「仕方のない奴だな、まったく」と言いながらも、石丸は『がんこ』が海南テニス部の行きつけのラーメン屋である事を説明した後で、透にも一緒に来ないかと声をかけてくれた。
 「いや、あの……俺も腹は減っているんですけど、金がなくて」
 夜の八時を過ぎているのだから、当然、腹は空いていた。だがテニスシューズも買えない程の貧乏人に外で食事をする余裕はない。
 「下っ端のくせに遠慮するな。石丸先輩のおごりに決まってんだろ?」
 伊達の期待に満ちた笑みに石丸が苦笑で応えている。海南テニス部では、上級生が下級生に食事を奢るのが慣例となっているらしい。その対象を他校の下級生にまで広げて良いのか、他人の懐ながら心配になったが、透は素直に彼等の好意に甘えることにした。

 海南テニス部の行きつけの店だという『がんこ』に入り、注文を済ませると、透はすぐに石丸と伊達の二人から質問攻めにあった。テニスの知識と運動能力が見事にかけ離れている不可思議な現象がどうして起きたのか、彼等はいまだ腑に落ちない様子であった。
 透はつい最近まで岐阜の山奥で暮らしていたことや、父親の仕事の都合で転校してきた経緯など、都会の人間にも理解してもらえるよう説明していった。
 転校初日は皆の注目が集まること自体、不思議で仕方がなかったが、さすがに何度も質問攻めに合えば要領も分かるというものだ。自分の中に都会の常識では考えられないギャップが存在する理由は、ラケットとボールを道具代わりにして野山を駆け回っていた為に、スポーツとしてのテニスの知識や経験が皆無であっても、コントロールだけは磨かれていたからだ。
 石丸も伊達も、透の話を興味津々で聞いていた。特に伊達は、一時は険悪な雰囲気になったにもかかわらず、今ではすっかり心を開き、相槌の代わりに「すげえ!」を連発しながら熱心に耳を傾けてくれていた。

 店の看板メニューの味噌チャーシュー麺とギョーザを平らげ、デザートの杏仁豆腐が来たところで、話題は海南テニス部の内部事情に移っていた。
 久保田の話していた通り、海南テニス部は男女合わせてコートが一面しかない為に、石丸達は一日おきに区営コートまで行かなければ練習場所も確保できないのが現状で、去年までは一、二年生達がボールに触らせてもらえる事もなく、ひたすら球拾いと基礎トレーニングを繰り返していたのだが、村主が部長になってから「皆で強くならなきゃ意味がない」と言って後輩達にも積極的にボールを打たせるよう改革を行った結果、ようやく下級生同士でもラリーが続けられるレベルまで到達したとの事だった。村主も石丸も、一、ニ年生時の苦労があったからこそ、球拾い一つを取っても真摯に取り組む姿勢が出来ているのだろう。
 「何処にいたってテニスの練習は出来るんだよ」
 話の合間に何気なく漏らした石丸の言葉を、透は忘れてはいけない教訓として胸に刻んだ。
 一言でテニス部と言っても、その環境は様々だ。透の所属する光陵テニス部は男子だけでも六面のコートと壁打ちのスペースまで完備されているのに対し、海南テニス部は男女合わせて一面しかなく、一日おきに区営コートまで行って練習をしなければならない。その不公平極まりない現実を卑下することなく、海南テニス部の部員達は自身に必要な練習を工夫しながら重ねている。彼等と出会った時に感じた逞しさは、こうした背景から来るのだろう。
 透は村主にもう一度会いたくなった。会って、きちんと謝りたかったし、お礼も言いたかった。

 翌日、部活動が終わると透は区営コートへ向かった。一日おきに練習していると話していたから海南テニス部が来ない日だと分かっていたが、じっとしていられなかった。もしかしたら村主に会えるかもしれないという期待もあったし、昨日の石丸達の話から、自分なりに必要な練習を工夫してやってみたくなったのだ。
 恵まれた環境に甘んずることなく、常に自分を磨くこと。彼等との出会いは、透に新たな刺激を与えていた。
 一通りテニスに関する知識を頭に叩き込んだ今、自分に欠けている要素が明確になってきた。球技としての経験である。その不足分を埋める為には、日々の部活動に加え、区営コートでの練習を積むことが最も効率の良い方法だと悟った。
 今まで果物や野生動物しか相手にしていなかった透は、人間と向き合ってラリーをやった事がない。故に、テニスが対人競技であるという認識に欠けていた。人間を相手に打ち合うことで、様々な変化が生まれる。ボールのスピードだけでなく、打ち方によってコースや軌道も違ってくる。これら変化に富んだボールを返すには、知識と運動能力だけは補いきれない。多くの選手との試合経験が必要なのだ。

 「まずはサーブをルール通りに打てるようになる事と、それを返すリターン練習からだ」
 当面の目標を定めて、透は昨日と同じ場所に足を踏み入れた。比較的早い時間に行ったので、区営コートにはまだ数人しか並んでいなかった。
 すると透の背後から、野太い声がした。
 「待ってたぜ」
 村主であった。
 「村主さん、昨日は本当にすみませんでした!」
 副部長の石丸から昨日の夜の出来事を聞いていたのだろう。透が土下座をしようと跪きかけたのを、村主は脇を抱えるようにして制すると、
 「アップして待っていろ。今、コートを空けてやる」と言って、四面あるうちの一面の中へ入っていった。
 順番待ちの行列は、村主がコートに入った事により、あっという間に散らばった。最初の二名は「3−0」で退かされ、その様子を見ていた残りの学生達は自主的に去っていった。「コートを空けてやる」とはこの事だったのかと、改めて村主の強さを実感する。
 「よし、昨日の続きを始めるか?」
 村主に促され、透はコートの中へと入っていった。

 区営コートのルールでは、最初のサーブ権は挑戦者にある。透は地面に向けて軽くボールをバウンドさせながら、自分が打つべきサーブのコースを考えていた。
 村主はベースラインよりも数歩前に出たところで構えている。ちょうど後ろのベースラインとサービスエリアの中間辺りである。
 昨日読破したマニュアル本によれば、確かサーブの受け手となるリターナーが取るべきポジションは、ベースラインまで下がった箇所だと書かれていた。あんなに前で構えていては、スピードボールに反応するのは難しい。
 テニスの技術も経験も乏しい透だが、サーブだけには自信があった。果物や木の実はもちろん、俊敏な動きをする野生動物さえ、ピンポイントで狙って仕留められる程の腕がある。村主が前で構えているのを好機と捉え、透は渾身の力をこめて高い打点からサーブを打ち込んだ。
 体験的に高い打点から放った方が、ボールのスピードが増すことを知っていた。だが次の瞬間、透の目の前を同じ速さのボールが駆け抜けていった。
 村主のリターン・エースだった。一瞬、何が起こったか分からない程のスピードだ。もう一度、今度は取りづらいはずの外側のコーナーを狙ってみたが、結果は同じであった。
 二打目のリターンで、ようやく透は続けてエースを取られる原因が村主のポジションにある事を理解した。
 村主はわざと前で構えていた。それによってコーナーやセンターを狙われたとしても、振られる幅が狭くなる分だけボールに容易く追いつける。そして、その位置からラケットをフルスィングするのではなく、ボールに対して壁を作る要領で面だけを合わせて返球したのである。
 このやり方であれば、サーブのスピードが上がるほど、リターンのスピードも上がる。ちょうど壁に向かって強打すれば、そのままの勢いで戻ってくるのと同じ理屈である。しかも村主は大柄なので、どこを狙われようが楽に追いつける。
 彼は昨日の時点で透のサーブはスピード勝負のボールである事が分かっていた。だからこそ、あえてこの返球方法を選んだのだ。これはマニュアル本の隅に沿えるように書かれてあった『ブロック・リターン』という打ち方だ。

 「よし、分かった」
 透はもう一度、高くトスを上げた。
 狙ったコースは同じく外側だが、今度は村主のブロック・リターンを想定して、素早く構えを取った。まずはサービス・エースを取る事にこだわらず、ラリーを繋げることを考えなくてはならない。
 ところが村主からのリターンは透が構えを取ったと同時に、今いる箇所の逆サイドを突き抜けていった。外側を狙ったサーブを逆手に取って、サイドラインに沿ってストレートで返球されたのだ。
 リターンが必ずしも自分のいる場所へ返ってくるとは限らない。思考能力の備わった人間を相手にしているのだ。透が相手の返せない球を考えて打っているように、相手も透の返せない場所を狙って打ってくる。コーチの日高も「そこがプレイヤーの腕の見せどころだ」と話していた。
 「まったくだぜ、おっさん」
 透は自身が追い込まれているにもかかわらず、相手の意思によって刻々と変化するこの状況が面白くて仕方がなかった。

 ここまで取られた三本のエースで、身をもって学んだことがある。自分はサーブに集中するあまり、相手のリターンに対する準備をきちんとしていなかった。
 残念ながら今の透の実力では、いくら強力なサーブを打ったとしても必ず村主に返される。サーブを打ったら、すぐに次のリターンに備えなければならない。そして自身が取るべきポジションはコートの真ん中、センターマークの位置である。そこからならボールがクロスへ来ようが、ストレートを狙われようが、どうにか追いつける。
 透は相手の返球コースを頭に入れながら、サーブを打ったと同時にセンターへ踏み込み、コート中央で構えを取った。村主からは左サイドを狙ったクロスの深いボールが返ってきた。
 「これなら、いける!」
 ボールに素早く追いつき、ラケットを引く。深めのコースで返しづらいが、ボールとの距離は充分だ。今度こそ村主のリターンを返せると思った矢先。
 打った瞬間に「しまった!」と思った。透はまだ、ボールが左側に来た際のバックハンドというものを打った事がなかったのだ。
 久保田から借りた本を読んでバックハンドのイメージが定着していた為にすっかり打てる気になっていたが、テニス部の練習でも素振りしか教わっていないし、野山を駆け回っていた頃は自分の好きなように打っていたのでサーブとフォアハンドが主であった。
 “打てる気”だけで返したボールは無残にもネットに引っ掛かり、村主の立つコートに届くことなく地面に転がった。

 「残念だったな。ブレイクしちまった」
 村主が苦笑しながら、声をかけてきた。まるで父親が連敗している息子を慰めるような、そんな妙に優しい笑顔であった。
 テニスの試合では、1ゲーム中、4ポイントを先取されれば、そのゲームは相手の得点となる。1ポイントごとに15、30、40と特殊な数え方をするが、結果的には4ポイントを取った者の勝ちである。
 透はすでに三本のリターン・エースと自らの失点により4ポイントを失い、1ゲームを奪われた状態だった。自身のサービスゲームを失うことを、テニスではブレイクされるという。
 「良いッスよ。俺も次、ブレイクすれば同じですから」
 強気で反論したものの、内心、透は焦りを感じていた。フォアハンドと比べ、バックハンドはイメージしていたよりも難しい。体の右側で捕らえるか、左側で捕らえるかの違いなのに、どうもフォアハンドとは勝手が違う。
 いっそどの返球も右側に来るよう回りこみフォアハンドだけで勝負しようかとも思ったが、村主のスピードのあるボールに追いつくには、やはりバックハンドをどうにか攻略しなければならなかった。
 こういう窮地に立たされて、初めて素振り練習がいかに大事か、思い知らされる。また、なぜ先輩達がボールを打たせる前に、基礎トレーニングを重点的にやらせようとしたのかも。頭にイメージがあるだけでは、向かってくるボールに対して体の動きがついていかない。素振りも基礎トレーニングもその動きを支える土台となるものだ。
 しかし、今は彼等の指導方針に感心している場合ではない。フォア、バック、関係なく突っ込んでくるボールを、どんな形であれ、返さなければならなかった。
 透は気を取り直して、リターンのポジションでラケットを構えた。
 「フォアだろうが、バックだろうが、絶対返してやる!」

 透の意気込みとは裏腹に、2ゲーム目は最初のサービスゲームよりも早く決着がついた。4ポイントとも、村主にサービス・エースを決められたのだ。
 大柄な村主から繰り出されるサーブはまさに剛速球と呼ぶに相応しく、現在フォアハンド、バックハンド共に素振りにて修行中の透は、まともにラケットに当てることさえ叶わず、意図せぬ方向へ飛ばしてアウトするか、空振りするかのどちらかであった。
 もう後がない。区営コートのルールでは、3ゲームを先取した方が勝者となる。つまり次のゲームを取られれば、透の敗北が決定する。
 悔しい気持ちよりも、村主に申し訳ない気持ちで一杯であった。恐らく彼は、石丸から昨夜の出来事を聞いて、練習日ではない日にわざわざ区営コートまで来てくれたに違いない。他校の礼儀知らずの後輩の為に、貴重な練習時間を割いて試合に付き合ってくれているのだ。せめて1ゲームで良いから、先輩達のようにラリーを続けてみたかった。
 次は、再び透のサーブであった。気持ちを落ち着けて、いま置かれた状況を整理する。
 まず、大柄な村主を相手に外側のコースを狙ったとしても意味がない。それどころか、先程のようにストレートで返球されれば、こっちが窮地に立たされる。そうなると、次に狙うべきコースはコートの中央、センターだ。
 「今度こそ……」

 案の定、透がセンター目がけて放ったサーブを、村主は角度をつけずに返してきた。思ったとおりである。こちらが角度をつければ同様に厳しいコースで返ってくるが、ど真ん中を狙えば、逆襲される確率は低くなる。
 透はコートの中央を陣取り、村主を少しずつ、右に左にと揺さぶった。だが左右に振られながらも、村主は透の弱点であるバックハンドを確実に突いてくる。どうにかタイミングを合わせて返球したものの、彼は透のボールが空中でもたついている時間を使って素早くネット前まで進み出ると、ボレーを叩き込んできた。
 またしてもポイントを取られてしまった。ようやくストロークでラリーが続けられるかと思った矢先のボレーである。
 ボレーはボールがノーバウンドで打たれて返ってくる分、返球する側は早い対応が求められる。バックハンドさえおぼつかない初心者に、ネット際からのボレー攻撃はきつかった。常に自分の立てた作戦の上を行く村主と対戦していると、己の未熟さを思い知らされる。
 同じ作戦が通用しないと知りつつも、透は今度もセンターを狙ってサーブを打った。何とかラリーに持ち込んで、村主から1ポイントだけでも奪う糸口を掴みたい。だが勝利に向かって足掻けば足掻くほど、カウントは「0−30」、「0−40」と点差が開いていく。
 あと1ポイントでゲームセットだ。やはり初心者が他校の部長を相手にするのは無理なのか。そう思った時だった。村主とよく似た『熊のおっさん』の弱点を思い出した。
 試してみる価値はあるかもしれない――。

 透は今までと同じようにサーブをセンターへ打ち込み、自身はコート中央で構えて、村主を左右に揺さぶった。この頃になると、持ち前の運動神経の良さで少しずつでもバックハンドのタイミングを掴みかけていた。フォアハンドほど強打は出来ないが、ネットにかけたり、相手にイージーボールを与えるようなミスもしない。
 右に左にと打ち分けながら、透が狙うのは相手の足元だ。
 その昔、『熊のおっさん』に怒られ、追いかけられた時、敵の懐へ飛び込むつもりで足元近くを駆け回り、難を逃れた事がある。大柄な体型というのは、案外小回りが利かないものなのだ。透はその経験から、左右に揺さぶるラリーの合間に足元にバウンドするボールを打ち込み、相手のミスを誘った。村主は上手くラケット面を合わせて短いバウンドで返球していたが、一度だけ対応が遅れたのか、彼にしては当たり損ないと思える短いボールが返ってきた。
 「よし、これでネットにつける!」
 先程やられた村主のボレー攻撃を、そっくり返してやろうというのである。こちらも同じようにネットから攻撃すれば、逆転のチャンスはあるはずだ。
 透が俊足を活かしてネットについて、ボレーの体勢に入ろうとした時だった。村主の放ったボールが下から上へと大きく弧を描きながら、透の頭上を通り過ぎていった。勢いそのものは大した事はないと思ったが、空高く舞い上がる放物線が頂点に達すると同時に、ボールは上昇した時の倍の速さで落下した。
 それは、透が生まれて初めて見るロブという種類の打球であった。ネット際にいた透の頭上を抜けてベースラインぎりぎりで落ちたボールは、コートの外へ向かって通常よりも速いテンポで二度、三度とバウンドを繰り返して出ていった。ボレーをしようとネット前まで詰めた瞬間にこんなロブを打たれれば、追いつく事はまず不可能だ。
 昨日読破したマニュアル本にも、ロブは載っていた。通常のストロークと違い、プレイヤーを避けるようにして山なりに放たれるロブは初心者の透には邪道のように思えたが、このタイミングにおいては立派な攻撃手段である。
 村主は透をわざと浅いボールでネット際まで誘い、最後はロブで決めるつもりだったのだ。ゲームセット。透の完敗だった。

 「村主さん、やっぱ強かったッスね」
 「お前は宣言通り、下手くそだったな」
 情け容赦のない言葉に悔しさがこみ上げたが、それだけではなかった。自分の持ち得る能力と知識、それに実戦経験がこの先の何処かでバランスよく繋がった時、何かとてつもなく面白いことが起こりそうな予感がした。ワクワクするとは、こういう感覚なのだと、久しぶりに実感した。
 テニスというスポーツは、力技だけでは押し切れない不思議な魅力がある。今日の村主との試合で学んだように、力強いサーブで圧そうとしてもブロック・リターンで反撃される場合もあるし、速いテンポのボレーで攻めようとしても、緩やかな軌道のロブで頭上を抜かれる場合もある。
 知識、技術、それに状況を見極める判断力。これらを駆使して相手の返せない球を打つ。これがテニスの醍醐味なのだろう。
 透の勘は当たっていた。テニスは面白い。たった一試合でこれだけ多くの収穫を得たのだ。自分の行く道にどんな面白いことが待っているのか。早く知りたくて仕方がない。
 「確かにスコアは最悪だったが、負けた試合にこそ得るものがある。お前はこれから強くなるんだろ?」
 村主の問いかけに、透は笑顔で応えた。
 「はい。その為に、ここへ来たんです!」
 「また来いよ? 練習の合間で良ければ、いくらでも相手をしてやる」
 ボールを介して、透は新しい絆を手に入れた。だがそれは同じテニス仲間としての繋がりだけでは済まされない事を、地区大会のレギュラーとは程遠い彼はまだ知らなかった。






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