第13話 コート上のスプリンター

 試合開始から五分と経たないうちに、透は対戦相手の藤原から3ゲームを連取されていた。区営コートでの試合なら、とっくにゲームセットになっている。
 バリュエーションが6ゲーム・1セットマッチである事に感謝しつつ、テニス部ナンバー3との実力差を初めて我が事として実感する。試合前、皆が自分に同情の目を向けていた理由も、なるほど、こういう事かと得心した。
 テニスを始めて日の浅い透は、強い選手の基準となる物差しを持っていなかった。しいて挙げれば区営コートで対戦した海南中の村主ぐらいだが、彼に関しても「すげえ強い」と思っただけで、具体的に何処がどう凄かったのか、誰と比べてどの点が強いのか、今後の指針とするまでには至らなかった。
 従って部内ナンバー3の藤原と対戦すると伝えられた時も自分より格上である事しか分からず、ここへ来て、立て続けに3ゲームを、それも1ポイントも許さず奪われて、ようやくナンバー3がどれ程強いのか、実感したのであった。
 スコアボードに記された「3−0」の表示がやけに重たく圧し掛かる。ただの数字がこんなにも圧迫感をもたらすのは、精神的にも追い込まれている証拠だろう。
 しかしながら勝負を捨てた訳ではない。反撃のチャンスはまだあるはずだ。残りの3ゲームも奪われてしまう前に、その糸口を自力で見つけなくてはならない。
 試合経験の少ない透には、今のこの圧倒的に不利な状況で冷静さを保つ事だけでも困難に感じられたが、諦めの悪い性分が敗北に傾く気弱な心を瀬戸際で踏み止まらせていた。

 「ちょっと、坊やにはハードルが高すぎたんじゃないかしら?」
 透の背後、テニスコートを囲む金網フェンスの向こうから、滝澤の困惑したような声が聞こえてくる。
 滝澤は情報収集、整理、解析にかけては部内随一とされており、マネージャーが二人体制になる前は彼の作成した資料を基に各大会に出場する選手の査定も行われていた事から、当時を知る先輩達からは尊敬の意も含めて「軍師・唐沢の知恵袋」と呼ばれている。切れ者の唐沢までもが頼りにするほど豊富な知識と情報網があるとの例えであり、実際、今でも入手困難な情報は彼を通して得ているらしかった。
 その滝澤が何故ここにいるかは不明だが、他の部員達がこぞって唐沢と遥希の注目の一番を見届けようとAコートへ詰めかける中、彼と二年生の千葉だけは透の試合が行われているDコートに来てくれていた。但し、日頃から世話になっている千葉はともかく、滝澤が透を応援するつもりで観戦しているかは分からない。
 「ハードルが高いも何も、無茶ッスよ。そりゃあ、コーチには何か考えがあるとは思うんですけどね。
 ハルキは即戦力になるとしても、トオルはまだテニスを始めて二週間の初心者ですよ?」
 「だからこそ、必要だと思ったんじゃないかしら。僕が思うに、今回の特別枠は、ハルキはおまけで、坊やがメイン」
 「そうなんッスか?」
 「井の中の蛙、大海を知らず。されど空の高さを知る。空の高さを悟った蛙がどうするのか。楽しみね」
 「それって、どういう……?」
 千葉の問いかけに、滝澤は「ふふっ」と意味ありげな笑いを漏らしたが、その後は押し黙ったままだった。

 第4ゲームは、透のサーブから始まった。正直なところ、どこを狙えば良いのか、見当もつかなかった。
 藤原の打球は特別パワーがあるでもなく、体格も上背はあるものの、大柄とは言い難い。ただ俊敏な彼は、コーナーを狙おうが、センターを狙おうが、容易に追いつく脚力を持っている。どんな球でも必ず拾われ、最後はボレーで決められてしまうのだ。
 元陸上部の短距離選手というのは伊達ではない。ダッシュし始めるタイミングからして、他者とは違う。それだけ反応が良いのだろう。
 今のところ、完全に藤原のペースで試合が進められている。この第4ゲームで透が自身のサービスゲームをキープしなければ、今後の展開が苦しくなるのは間違いない。
 「相手がスピード勝負で来るなら、俺も付き合うまでだ」
 透は腹を決めると、サービスエリアのコーナーを狙ってサーブを打ち込んだ。それと同時にコートの中央まで戻り、どのコースに返されても良いように体勢を整えた。
 これは区営コートでの村主との対戦から学んだ事だった。リターン・エースを決められない為には、相手の返球に備えて、何処でも拾えるポジションに体をセットしておく必要がある。
 初め藤原の視線は、コーナーを鋭く突いたサーブを受けてストレートを狙うかに見えたが、透が素早くセンターへポジションを戻すのを認めた直後、彼はすぐさまコースを変更しクロスで返してきた。
 「よし、いける!」
 透は相手がまだ対角線上にいる事を確認してから、クロスで返されたボールをサイドラインに沿ってストレートで返球した。区営コートに出入りする同学年が相手なら、これが決定打となるのだが、俊足の藤原には通用しなかった。彼は逆サイドに打ち込まれた打球を難なく拾って前へ詰めると、早速ボレーの構えに入っている。
 ここからが勝負である。透は再びポジションをセンターに戻すと、ネット前からの攻撃に備えた。
 山で野うさぎ等の野生動物を追いかけ回して遊んでいた透には、少しぐらいボレーで揺さ振られたとしても追いつける自信があった。右に、左に振られながらも、必ずセンターにポジションを置き、体をニュートラルな位置に保てるよう心がけた。
 フットワークの軽やかさに関しては元陸上部と大差はなかった。しかし経験値の差なのか、ボレー対ストロークでは分が悪いのか、後一歩のところで振り切られてしまい、またしてもポイントを奪われた。

 追い上げるどころか、カウントは「0−15」とますます点差が広がった。スコアボードの数字が一方的に増えていく。
 だが透は、数字の上での格差が徐々に気にならなくなっていた。次のボールをいかに振り切られずに返すか、その一点に集中した。
 「今度こそ……」
 先程と同じ展開で、藤原からのボレー攻撃が始まった。
 「死んでも喰らいついてやる!」
 透はネット前からのボレーの連打を浴びながら、自身の集中力が急速に高まっていくのを感じていた。全身の神経がボールを返す事のみに集結していくような、余計なものが入らないクリアな感覚に体が満たされる。同時に、区営コートで村主と対戦した時のロブの映像が頭をよぎった。ネット際の相手を避けるようにして弧を描く、あの村主のロブが。
 もしかして、今がロブを放つ最大のチャンスではあるまいか。
 透は長身の藤原の背丈を計算し、彼の頭上を上手く越えるようにロブを打ち上げた。
 「やっべぇ!」
 まさかボレーの連打に悪戦苦闘する初心者にロブで反撃する余裕があるとは思わなかったのだろう。予想外のロブに慌てた藤原は、自慢の俊足を活かしてコート後方の金網フェンスまで突っ込む勢いで下がったが、ボールはすでにベースラインの外で二回、三回と短いバウンドを繰り返していた。

 試合開始からずっと「0」のまま動かなかったカウントが、僅かではあるが前進の兆しを見せた。
 「おっしゃ〜!」
 透は身の内から闘志が湧き上がってくるのを、得点の喜びと共にひしひしと感じた。光明が差すとは、この事だ。部内ナンバー3の先輩からもぎ取った貴重な一点は、必ず形勢逆転の足がかりとなるに違いない。
 今のロブが決まった事により、藤原はネット前からの攻撃を躊躇うはずである。不用意に前へ出て行けば、ロブで抜かれる事になる。彼のボレーさえ防ぐ事が出来れば、こちらにも攻撃のチャンスはある。
 集中力も高まり、湧き立つ闘志が背中を後押しする中、視界も広く鮮明になってきた。ボールだけでなく、相手の動きも細かく見えてくる。
 この調子なら、逆転勝利も夢ではない。そう思った矢先、藤原が再びネット前を目指してダッシュをかけた。
 今のロブは、牽制になっていなかったのか。不安を色濃く含んだ疑問が頭をもたげ、透の動きをしばし鈍らせていたが、区営コートでの自らの体験がそれを打ち消した。いくら俊足の藤原でも、ネット際からあのロブを返せるとは思えない。村主との対戦を思い返し、透はもう一度チャンスをうかがった。
 ネット前の藤原は、挑むような目付きで透を見つめている。初心者の放ったロブがまぐれかどうか。確かめようとしているのかもしれない。
 「悪りぃな、一年坊主!」
 藤原は嬉々とした笑顔でそう言うと、緩い弾道のボレーを返球した。透は左斜めに落ちたその球を、今度はバックハンドのロブで打ち返した。
 高く舞い上がったボールは藤原の頭上をまたも越えて、ベースラインへと落ちていく。 ネット際の先輩はボールを追いかける間もなく、立ちすくんだままだった。
 やはり自分のロブは、ナンバー3にも通用する。透がそう確信した直後であった。
 緩やかな弧を描いて落ちていくロブを目で追いながら、藤原が奇声を上げた。
 「いやはや、大したもんだよ、蛙の小便。見上げたもんだよ、屋根やのふんどし、ってな!」
 「へっ?」
 透は一瞬、何を言われているのか、分からなかった。
 「蛙の小便? 屋根やのふんどし?」
 試合中だと言うのに、一体、彼は何の話をしているのだろう。答えを求めて周りを見回すが、観戦に来ていた滝澤と千葉は気まずそうにコートから顔を背けている。

 「シンゴ先輩? 今のって、ひょっとして『寅さん』ですか?」
 「おお、真嶋! お前、『寅さん』を知ってんのか?」
 「ええ、まあ。親父が、時々ビデオで見ているから」
 『寅さん』と言えば映画『男はつらいよ』シリーズに登場する主人公で、今の台詞はテキ屋稼業を生業とする『フーテンの寅さん』が商売に使う口上だ。無論、映画自体、真剣に見入った記憶は一度もないが、口上ぐらいは知っている。日本人なら誰しも耳にした事のあるフレーズだ。
 「そうか、そうか。お前の親父さん、なかなかのセンスだなあ。
 俺ん家、DVDあるからさ。今度、一緒に見ようぜ!」
 「DVD、ですか?」
 「お前も絶対ハマるから。山田洋次監督の人情味溢れる作品の数々を、俺がじっくり語って聞かせてやる」
 「いや、あの、俺は……」
 「おっと、試合中だった。悪りぃ、悪りぃ!」
 「は、はあ」
 オヤジ世代にヒットした映画がDVDで販売されている事すら知らなかった透は、色々な意味で驚いた。元陸上部の短距離の選手で、見た目も爽やかな好青年の藤原が、オヤジ臭漂う『寅さん』に精通しているなど思いも寄らない事である。性別不明な滝澤と言い、賭け事にしか興味のない副部長の唐沢と言い、光陵テニス部にはまともな三年生はいないのか。
 するとそこへ、遥希と試合をしていたはずの唐沢がフェンスの向こう側に現れた。驚いたことに、彼は試合前と変わらず息一つ乱していなかった。
 テニスに関しては経験の浅い透だが、勝負に関しては勘が働くほうである。あれは負けた者の顔ではない。遥希との勝負を制したのは、唐沢だ。しかもこんな短時間で片が付いたという事は、大差で打ち負かした事になる。
 遥希が負けた。実家がテニススクールで、コーチを父親に持つ遥希が負けた。つまりそれは、この光陵テニス部では彼の培ってきた強さも決して特別ではないという事だ。彼よりも強い先輩が当たり前のように存在する。恐らくは、いま対戦している藤原もその一人に違いない。

 透は動揺を抱えながらもベースラインに戻ると、自身の試合に意識を向けた。
 現在カウントは「30−15」で、透が1ポイント分リードしている状態だ。村主を手本にした見よう見真似のロブが立て続けに2ポイント決まり、試合の流れもこちらに傾いている。逆転の可能性は充分にある。
 ところが、試合再開と同時に不可思議なことが次々と起こった。
 先程まで綺麗に決まっていたロブがベースラインを割り、ショットにもミスが出始めた。相手の動きも鮮明に見えていたはずなのに、何故か裏をかかれてばかりである。
 気が付けば、物にできると思っていた第4ゲームも藤原が収めていた。
 集中力が切れている。一見、唐突に思えた『寅さん』の口上。あれは藤原の策略だったのか。
 透の背中を押していた闘志も、ボールを返すことのみに専心できたクリアな感覚も、今はどこか遠くへ離れてしまっている。
 一度切れた集中力は、なかなか元へは戻らなかった。恐らくはそれを見越してあの可笑しな口上を吹っかけて来たのだろうが、策略とは無縁に思えた爽やかな笑顔と『男はつらいよ』のほのぼのとした世界観に騙され、不用意に反応してしまった己の軽率さが悔やまれる。
 元陸上部の藤原は、集中力を高めた選手がいかに厄介であるかを十二分に知っている。だからこそ、連続ポイントとなる2ポイント目をわざと見過ごし、試合を中断させる為の“間”を作った。経験豊富な先輩が仕掛けた罠に、透はまんまんと引っ掛かったのだ。

 次のゲームは藤原からのサーブであった。
 透は今一度、集中力を取り戻すべく、じっと目を閉じた。視界が遮断された状態で、相手の癖を思い出す。彼はボールを二回バウンドさせてから、トスと同時に体をしならせる。
 ここぞのタイミングで目を開けると、イメージどおりのサーブが打ち込まれる直前だった。
 これは透が川魚を捕まえる際に、よく使った手法であった。余計な情報を一切断ち切り音だけを捕らえる事で、倍の速さで集中力を高めることが出来るのだ。但し、集中力を得るには得られたが、依然としてゲームの主導権は藤原が握っていた。相手のサービスゲームなのだから、無理もない。
 サーブを放ってから素早くネットに詰めてボレーを浴びせかける。サーブ&ボレーと呼ばれるプレースタイルだが、藤原はこのやり方で自身のサービスゲームを有利に進めていき、結局、第5ゲームも透が得点する事なく終了した。

 今までのゲームを通して、透には一つ分かったことがある。リターンの構えをする時、藤原は両足のスタンスを他の選手よりも広く取る。彼の身長を考慮しても、まだ広い。恐らくは俊敏さを活かし、何処にサーブが来たとしても拾えるように考えての構えだろう。
 もしもそこへ体のど真ん中を狙ったサーブを放てば、どうなるか。試してみる価値はありそうだ。
 透は開いた両足の中心部を目がけてサーブを打ち込んだ。広いスタンスで構えていた彼は、一瞬体勢を崩したが、上手くラケット面を合わせて浅めのボールを返してきた。
 やはり思った通りである。透はこの機を逃さず、ネットに向かってダッシュした。
 スタンスが広いという事は、外側へ逃げるボールは取り易いが、ど真ん中に来るボールは取り辛い。脚を大きく広げた状態では、体を捻って打たなければならないからだ。
 しかも透のサーブはスピードがある。当然、敵にチャンスボールを与えない為には、ラケット面を利用した浅めの返球となる。即ちそれは、透にとってネット前を陣取る為の絶好球に他ならない。
 今度は透が反撃に出ようと、浅い返球を拾ってネットについた。だが、次の瞬間、藤原もまたネットに躍り出た。俊敏さは互角でも、ネットプレーを得意とする先輩の方がボールの処理は確実だ。
 透がボレー、藤原がストロークの有利な展開に持ち込もうとしたのに、ボレー対ボレーの不利な展開なっている。反撃の出鼻をくじかれ、藤原の得意な土俵に引きずり込まれた格好だ。
 スピードに惑わされない。相手の動きを良く見る。透は自身にそう言い聞かせて真っ向勝負を挑んだが、やはりボレー巧者の前では歯が立たない。
 次第に追い込まれていく窮地をどうにかしようと、透は再びロブを放った。最初に藤原からポイントを奪った時と同様、完璧なロブが舞い上がる。
 「もらった!」と思ったのも束の間、ネット際にいた藤原はロブの軌道に合わせて素早く後方へ移動すると、高い打点からスマッシュを決めてきた。
 先輩からポイントを奪えると思ったロブは、たった二球で攻略されていた。いや、或いはその二球も初心者の透の力量を見極めていただけで、最初から返せたのかもしれない。
 恐らくは第4ゲームで藤原がロブを見送っていたのも、ボールの軌道を確認する為の行為だろう。何も『寅さん』の口上を披露する為だけに見送った訳ではない。
 テニス部ナンバー3の実力を誇る先輩を相手に、何度も同じロブが通用すると思った自分が甘かった。
 あれが拾われるという事は、もっと高いロブを上げなければならない。しかし、もともとベースラインの際に落ちるよう計算して上げているものに更なる高さを加えるとなると、何か工夫を施さなければオーバーしてしまう。
 透はもう一度、村主のロブを正確に思い出そうと目を閉じた。

 まるで頭の中に必要とする写真のデータが保存されているかのように、透は村主のフォームの細部まで思い出すことが出来た。今まで自覚はなかったが、察するに、これは集中力のなせる業だろう。頭の片隅に埋もれた記憶が、全神経を集中させる事で鮮明に引き出せる。
 確か村主はラケット面を地面に対してほぼ垂直に立てたまま、下から上にボールを擦り上げる要領で打っていた。こんなやり方でボールが上がるかは疑問であったが、今は自分の記憶を信じてやるしかない。
 透はサーブを相手のスタンスのど真ん中に叩き込み、先程と同じ流れでネット前を陣取った。するとネットプレーによほど自信があるのか、藤原もまた前に詰めてきた。再びボレー対ボレーの攻防が始まった。
 相手のスピードに惑わされないよう気をつけながら、透がチャンスをうかがっていると、「ロブを打ってください」と言わんばかりの緩めの絶好球が送り込まれてきた。
 頭の中のイメージ通りにラケットを垂直に立てて、擦り上げるようにスィングしてみる。だが、残念ながら結果はアウトであった。再び試してみたが、やはりコートの外に出てしまう。村主のロブと比べて、何か勢いのようなものが足りない気がする。
 カウントは「0−40」。もう後がない。これが最後のサーブになるかもしれなかった。
 透は大きく息を吸い込んで、相手コートの外側、コーナーへサーブを放った。藤原がそれをクロスへ返球しながら、またもネットに詰めてきた。
 今度は、透はネット前へ出る事なくコートの後方で構えていた。前方からロブを放とうとすれば、コートの長さが短くなる分、アウトにならないよう反射的に加減して打ってしまう。それが逆にボールを浮かせてしまい、結果的にオーバーするのである。この原因に気付いた透は、藤原からの絶好球を待ってボールの落下地点を見極めると、コートの後方から力一杯ボールを擦り上げた。
 ボールが空を舞った瞬間、自分イメージしていたロブはこれだと思った。村主が透に放ったロブ。それはトップスピン・ロブと呼ばれる、ボールに順回転をかけたロブだった。
 充分な回転を含んだボールは勢いよく上昇し、ネット際にいる藤原がスマッシュで捕らえる事は不可能に見えた。
 「今度こそ、決まる!」と、透は確信した。だが次の瞬間、ネット前にいた藤原が大股で数歩後ろへ下がったかと思えば、その反動で地面を柔らかく蹴って長身の体をふわりと浮き上がらせた。
 確かに透の放ったロブは、藤原と同じ背丈の選手がジャンプしたとしても頭上を抜ける程の高さがあったが、それも元陸上部の彼には問題にならなかったようである。軽やかに空中に舞い上がる脚力は、まさしくスプリンターならではのものだった。 
 時間を費やし、ポイントを費やし、やっとの事で完成させたにもかかわらず、自分の持ち得る全てを注いで放ったトップスピン・ロブは、上空で難なく藤原に捕まり叩き落された。
 茫然とする透のすぐ脇を、高いバウンドのボールが通り過ぎた。それは透が初めて目にするジャンピング・スマッシュが決まった瞬間であり、ゲームセットの合図でもあった。

 ゲームカウント「6−0」。透の完敗だった。
 悔しかった。負けたことよりも、1ゲームも取れなかった自分に腹を立てていた。この日の為に毎日欠かさず練習を積み重ねてきたのに、ラブゲームで終わるなんて。勝利とは言わないまでも、せめて1ゲームだけでも努力の成果をこの手にしたかった。
 「ありがとうございました」
 試合終了後、口ではそう挨拶したが、心の中では「ありがとう」よりも「ちくしょう」が渦巻き、爽やかな笑みを見せる先輩に対し「この野郎」が浮かんでいた。
 ずっと集中していた所為か、疲れがどっと押し寄せる。全てを出し切った結果の負け試合とは、こんなにも疲労を感じるものなのか。
 「悔しいか、真嶋?」
 快勝した藤原が、嫌味なまでの笑顔で話しかけてきた。
 試合直後とあって、透は媚びることなく「はい」と返した。これが小心者の久保田やお調子者の高木なら謙虚な言葉の一つも出てくるのかもしれないが、透はそんな器量は持ち合わせていない。身の程知らずと笑われようが、ナンバー3に勝とうなんて百年早いと怒られようが、悔しいのだから仕方がない。
 ところが不機嫌にさせたと思った藤原からは、予期せぬ返事が返ってきた。
 「だったら大丈夫だ。お前は強くなる」
 その真意が分からずに首を傾げていると、彼は白い歯を見せながら言葉を継いだ。
 「俺だって最初から強かった訳じゃない。うちのテニス部は経験者が多いから最初は苦労するだろうけど、悔しいって気持ちがあれば大丈夫だ。お前も必ず強くなれる」
 そう言われて、透は初めて先輩の言葉の意味を理解した。
 恐らくは藤原が陸上部からテニス部へ転向した時も、今の透と同じような経験をしたに違いない。いくら運動能力があったとしても、テニスの技量が伴わなければ勝利は掴めない。何度も負けて悔しい思いをしたからこそ、今の立場があるのだろう。
 試合中、藤原から何度か絶好球が送られてきた。ひょっとしたら、あれも必死になってロブを体得しようとする後輩を手助けする意図があったのかもしれない。
 下手に慰めるのではなく、頭ごなしに説教するでもなく、彼はさり気なく「俺に続け」と応援してくれている。
 「シンゴ先輩、ありがとうございました」
 透はもう一度、今度はしっかりと頭を下げた。言い訳はしない。泣き言も言わない。ただこの敗北を自分の胸に刻んでおく。それが勝利への近道だ。
 「俺の方こそ、なかなか面白かったぜ。アリが十なら、イモムシはたち。アリが十匹、ありがとよ!」
 藤原はオヤジ臭漂う台詞を告げると、やけに爽やかな笑みを残してコートから去っていった。






 BACK  NEXT