第14話 ナッチ応援団
手芸部で課せられた最低限のノルマを果たした奈緒は、学園祭の準備で賑わう校舎を抜け出し、中庭へと入っていった。テニスコートを目指すなら校舎から直接グラウンドへ向かった方が早く到着するのだが、今が昼休みである事を考慮して、テニス部員がたむろしているであろう部室近くの中庭を経由したのである。
すでに午前のバリュエーションは終了している。ナンバー3の先輩との試合はどうなったのか。ひどい負け方をして、落ち込んでいなければ良いのだが。
はやる気持ちを抑えて中庭を歩き回っていると、花壇の前の石段に腰を下ろし、ラケットを手にしたまま項垂れる体操服姿が目に入った。気持ちのやり場がないと言わんばかりに激しくラケットを上下に揺さぶる仕草は敗者の雰囲気を醸し出していたが、それは奈緒が案じた人物ではなく、遥希であった。
奈緒は幾度かテニススクール主催のトーナメントでこれと同じ光景を見た事があった。試合に負けたり、思うようなプレーが出来なかった時、遥希はこうして独り座り込み、小刻みにラケットを上下に揺らすのだ。
悔し泣きするでもなく、意気消沈するでもなく。しいて言えば、自身に怒りをぶつけているような痛々しい姿を見るにつけ、慰めの言葉が必要ではないかと思案するのだが、小心者の奈緒は上下するラケットを目にしただけで臆してしまい、結局、いつも声をかけずに通り過ぎていた。
今回も声をかけようとして躊躇った。但し、苛立ちを前面に押し出す姿に臆した訳ではない。以前、ドラッグ・ストアで話をした時の印象的な場面が思い出されたからである。
「無菌培養で育てられた野菜と同じなんだよ、俺」
その言葉がどういう意味なのか、遥希は詳しく語ろうとはしなかった。しかし彼が人とは違う悩みを抱えている事と、安易にそれを曝け出せない性分である事は、独り言のような響きを持つ独特の話し方から察せられた。
恐らく今も、彼が他人に、しかもテニススクールを中途退会した運動音痴に心を開く事はないだろう。彼と心を通わせられる人間は、自分ではない。
奈緒は物音を立てないように中庭を通り過ぎると、テニス部の部室へと足を速めた。
部室の前まで来ると、掲示板の側でテニス部の先輩らしき人物がコーチの日高に抗議めいた口調で詰め寄っていた。
「遅いッスよ、コーチ! 午前の試合、もう何も残ってないッスよ!」
その口振りからして、特別措置を設けた張本人である日高は午前のバリュエーションに顔も出さず、昼休みを迎えた今になって呑気に登校してきたようである。しかも威勢の良い部員の声が響くのか、しかめっ面で頭を抱えている。明らかに、二日酔いの症状だ。
「昨日、飲み過ぎちまってな。まったく龍の奴、岐阜に引っ込んでから一段と強くなりやがって……」
龍というのは、確か透の父親、真嶋龍之介の呼び名ではなかったか。もしかして彼等は息子達の試合もそっちのけで、昨日の夜から飲み歩いていたのか。たぶん、昨夜から今朝までだろう、この酒臭さは。
「トオル、すっげえ頑張ったんッスよ! あのシンゴ先輩から2ポイントも奪って、一時はゲームが取れそうな所まで行ったんッスから!」
先輩らしき人物は透の試合を最初から最後まで観戦していたと見えて、いかに後輩が健闘したかを懸命に訴えかけているのだが、肝心の日高は頭痛がひどいのか、さほど興味を示すことなく、こめかみの辺りを擦っている。
なんとルーズなコーチだろうか。今回のバリュエーションの為に必死になって練習を積んできた透の姿を知るだけに、奈緒は複雑な思いで聞いていた。
するとそこへ副部長の唐沢が現れた。彼は他の先輩と違って、二日酔いのコーチを見ても驚きもせず、挨拶のついでといった軽い口調で午前の報告をし始めた。
「どっちも『6−0』でした。五分差でハルキの方が早く終わったけど。
まあ、あんなもんでしょ」
不思議なことに、たったこれだけで二つの試合内容が伝わったようで、日高も
「そうだな。もともと荒療治で組ませた試合だからな」と、それらしい答えを返している。
「コーチ? 荒療治って、どういう意味ッスか?」
透の試合を説明していた先輩が二人の会話に付いて行けずに聞き返したが、日高は唐沢に「午後のバリュエーションが始まったら、呼んでくれや」と言い残し、よれよれと校舎の中へ引っ込んでいった。
試合の詳細は分からなかったが、透も遥希も共にラブゲームで敗北したのは事実のようである。先程の不機嫌な遥希を思い出し、奈緒の心配はますます膨らんでいった。
試合慣れした遥希でさえ、あれだけ苛ついているのだ。初心者の透はどうしているのだろう。
奈緒は掲示板前の熱気から離れ、人目を避けられるような静かな場所を中心に探し回った。
余計な事をしているかもしれないとの自覚はあった。自身の数少ない経験から、試合に負けた後の選手というのは独りになれる場所を好むはず。周りから慰められたり、終わった試合のアドバイスをされるより、独りで静かに過ごしたい。透もそんな風に思っているのではないだろうか。
ただもう一つ、自身の経験で言うなら、少し離れたところで誰かが見守っていてくれると心強い。最低の気分を味わった後に、「独りじゃないよ」と支えてくれる誰か。自分がその誰かになれるかは分からなかったし、透がそれを望んでいるかも疑問であったが、もしも彼が必要としているのであれば、望まれた誰かでなくても良いから側にいたかった。まだこの学園に味方の少ない彼の為に、出来る事は何でもしたいと思っていた。
中庭、テニス部の部室、グラウンドと回って、最終的に奈緒が透の姿を見つけたのは、テニスコートの間に設けられた壁打ちスペースの前だった。彼はそこで独り黙々とボールを打っていた。
一見して、落ち込んでいるようには見えなかった。悔しがっている風でもない。しかしながら、奈緒は遥希の時とは別の理由で声をかけるのを躊躇った。
試合前の透とは何かが違う。一心不乱にボールを追う姿と、その真剣な眼差しから、今朝、話をした時には感じなかった必死さが伝わってくる。
「今はそっとしておいた方が良いよ、ナッチ!」
奈緒が少し離れたところから透の様子をうかがっていると、突然、金髪の先輩が声をかけてきた。テニス部の先輩に知り合いはいないはずなのに、どうして彼は“名前らしきもの”を知っているのだろう。
疑問を解決する間もなく、先ほど日高に透の試合内容を説明しようとしていた先輩もやって来た。
「ああ、ここにいたか。トオルの奴、午後に備えて練習してんのか? まったく、転んでもただじゃ起きねえ野郎だな」
「あの……彼はあそこで何をやっているんですか? ウォーミング・アップじゃないですよね?」
二人の見知らぬ先輩に囲まれて小心者の奈緒は圧迫感を覚えたが、今は透の方に意識が向いていた。
「トップスピン・ロブの練習だろ。さっきの試合も、もっと早くにあれが完成していたら、流れが随分違っていたからな」
「負けたんですよね、午前の試合?」
「ああ。けど、悪くなかったぜ。初心者にしては善戦したんじゃねえか」
もしかすると、この先輩が透の話にかなりの頻度で登場する「ケンタ先輩」かもしれない。後輩を見守るスタンスが優しく、そして暖かい。
奈緒の知らないうちに、透はテニス部で少しずつだが絆を増やしている。透の人間性を理解して歩み寄る、あるいは見守ろうとする仲間達がいるようだ。ここは彼等の言うとおり、そっとしておいた方が良いのだろう。
奈緒が安堵共にその場を去ろうとした時だ。金髪の先輩が
「ところでナッチは、『ウ吉』とどういうご関係?」と、目をキラキラさせて迫ってきた。
「実は、俺ッチ、見ちゃったんだよね。この前、二人が仲良さそうに買い物しているとこ! まさか『単なるクラスメートです』とか、言わないよね?」
「ウ、ウ吉?」
咄嗟の事にうろたえる奈緒に向かって、今度は「ケンタ先輩」と思われる先輩が
「ああ、悪りぃ。こいつ、陽一朗って言うんだけど、勝手にトオルのことを『ウ吉』って呼んでいるんだよ」
と親切な説明を加えながらも、同じように興味津々で迫ってきた。
「で、どういうご関係?」
明らかに、二人の先輩達は透との仲を知りたがっている。それも単なるクラスメート以上の回答を得るまで、一歩も引かない構えである。
まさか先日の買い物が、こんなに各所で目撃されているとは思わなかった。手芸部の先輩に続き、テニス部の先輩からも注目を浴びるとは。しかも彼等のほうが手芸部の先輩よりも性質が悪そうだ。
奈緒が答えに窮していると、壁打ちスペースで練習をしていた透が慌てて駆け寄ってきた。
「先輩達、何やってんですか!?」
「何って、可愛い後輩の為に、俺等が一肌脱いでやろうかなって。な、陽一?」
「そうそう。せっかく『ナッチ応援団』を結成したんだから」
「えっ? お前、トオルの応援じゃねえのかよ?」
「ケンタ先輩」と思しき先輩が訝しげな顔をして「陽一」と呼ばれた先輩を振り返るが、彼も同じような顔を向けている。
「何、言ってんの? 野郎を応援したって面白くないっしょ?
俺ッチは、ナッチを応援するの!」
なかなか話が噛み合わない先輩二人を前にして、透が呆れ顔で
「どっちでも良いですけど、奈緒に変なこと吹き込まないでくださいよ」と文句をつけると、それを聞いた金髪の先輩が透の正面から身を乗り出すようにして
「『奈緒』だって! やっぱ、そういうご関係?」と食いつき、もう一人の先輩も
「で、で、どこまでいった?」と興奮気味に鼻の穴を膨らませ、透の背後から擦り寄っていった。
彼等はどうあってもこの話題から離れるつもりはないらしく、透は二人の先輩の間に挟まれ身動き出来なくなっている。とてもさっきまで「そっとしておいた方が良い」と真顔で話していた人達とは思えない。
このままでは収拾がつかなくなると判断したのか。透が先輩二人の隙をついて、奈緒の腕を引っ張り、駆け出した。
「逃げるぞ、奈緒!」
彼が先輩達のワイドショー並みに厳しい追及から助け出そうとしてくれた事は、素直に嬉しかった。しかし野山で鍛えた脚力の持ち主と筋金入りの運動音痴が手に手を取って逃げ回る様は、またしても連行されている観が否めない。本来なら繋いだ手から温もりなんぞを感じて胸をときめかせたりするのだろうが、走るスピードが違い過ぎて、そんな余裕もない。
どうして現実はいつもいつも、奈緒のささやかな憧れを壊していくのか。生まれて初めて異性と意識した男子と手を繋いでいるにもかかわらず、そこから感じられるのは置いていかれまいと必死になる自身の手汗だけだった。
テニスコートからグラウンドの中程まで走ったところで、さすがに透もスピードの格差を実感したのだろう。グラウンドの外れ、体育館の裏手にある体育倉庫に隠れようと言い出した。
ちょうど中等部と高等部の敷地の間に、仕切りのようにして建てられている体育倉庫。そこは高等部の生徒達も出入りする共同利用の保管庫である為に、中等部からは盲点になるはずだ。
「ごめんね、トオル。練習の……邪魔しちゃって……」
体育倉庫に入るなり、奈緒が息も絶え絶えに謝ると、透は「お前が謝ることじゃない」と言って、呼吸の乱れもなく笑った。
「俺のほうこそ、もっと早くに気付けば良かったのに、悪かったな。ちょっと、考え事しながら打っていたから」
「ううん。そ、そんなこと……ないって」
まだ息が苦しかった。何しろ、奈緒の自己最速を遥かに越えるスピードでグラウンドを走り回ったのだ。今すぐ酸欠で倒れたとしても不思議ではない。
おまけに、今頃になって繋いだ手の感触に心臓が反応し始めている。温もりよりも、引っ張られた痛みのほうが強かった。それでもドキドキが止まらない。
「奈緒、もう喋んなくて良いって。辛そうだ」
透はそう言いながら、体育倉庫の隅に収納されている跳び箱を背に腰を下ろした。壁打ちをしていた時の必死な形相は影を潜め、いつもの屈託のない笑顔に戻っている。
「ここ、秘密基地みたいで面白いな」
「う……うん。あの……」
「だから喋らなくても良いって。俺が勝手に話しているだけだから」
透が無邪気な笑顔をそのままに、しげしげと倉庫の中を見回している。彼は本当に嘘の吐けない性格なのだと、改めて思った。秘密基地みたいだと話した口元は、まさしくそれを発見した時の子供のように得意げで、琥珀色の瞳は目新しい物を捕らえるごとに、丸くなったり、瞬きしたり、忙しく動いている。
彼を好きだと思う気持ちが、ますます強くなる。こんな時に不謹慎だと分かっているが、二人きりでいる事を意識せずにはいられない。
心の中で「落ち着け」と繰り返し、奈緒は息を整えた。何か話していなければ、胸の鼓動を聞かれてしまいそうで怖かった。
「あの……そろそろ出る? 次の試合の準備とか、あるでしょ?」
本当は、もっと一緒にいたかった。だが午後の対戦相手は、あの遥希である。先程の苛立ち具合から考えて、彼は例え相手が初心者であろうと容赦なく向かってくる違いない。
「いや。もう少し、ここにいて良いか?」
「私は良いけど……」
予期せぬ答えにまたも胸の鼓動が高鳴るが、中庭での遥希の姿を思い出した今となっては、嬉しさよりも心配のほうが強かった。
よほど不安げな顔をしていたのか。透が諭すような口調で言い足した。
「今さらジタバタ小細工しても、ハルキには通用しねえだろ?」
薄暗い体育倉庫の壁と天井が接する部分には、採光用の小さな窓がついていた。その高い小窓に覆い被さるようにして、桜の木の枝が顔を覗かせている。桜と言っても、華やかな季節はとうに過ぎて、今は瑞々しい新緑が主役であった。
透はその緑の隙間から落ちてくる木漏れ日に目を留めると、ゆらゆらと揺れる光を静かに追っていた。
「俺はハルキみたいに試合経験も多くはないし、知識も技術もまだまだだ。シンゴ先輩と試合をしてみて、よく分かった。強え奴って、やっぱ理由があるんだよな」
彼は自分を卑下している訳でも、自棄(やけ)になっている訳でもない。冷静に自分の置かれている立場を分析した結果、この答えに辿り着いたに違いない。
風が吹くたびに揺れる日差しが、二人の間をさらりと通り過ぎていく。そのレースのカーテンのような淡い光が、やんちゃ坊主をいつもよりほんの少しだけ大人びて見せる。
顔を上げ、光の落ちてくる小窓を眺めながら、透が続けた。
「俺さ、ずっと考えていた。なんで親父は俺にテニスを教えてくれなかったのか」
普段は脳と舌が直結しているのではと思う程ズバズバと物を言う少年が、今は丁寧に言葉を選びながら話していた。
「最初は、肩を壊した所為だって思った。テニスを教えたくても、教えられなかったんだって。
だけど、本当はわざと教えなかった気がする。それが事実なら、ムカつくんだけど。
今朝だって、息子の初めての試合があるっていうのに、家にいねえし」
そう言えば、コーチの日高が今朝方まで酒を飲んでいた相手は、透の父親だ。やはり真嶋家の親子関係は、余所の家庭とは異なる独自の距離が感じられる。
「自分勝手で、すげえムカつく親父なんだけど……だけど、シンゴ先輩と試合をした後で、これもアリなんじゃねえかと思ったんだ。
上手く言えないけど、教えられるものが全てじゃないって言うか。自分の手で掴んだものだと、簡単に忘れないだろ? だから……」
そこまで話をしてから、透は
「う〜ん。やっぱ、よく分かんねえや。ゴメンな、変な話して」と決まり悪そうに頭を掻いた。
形になりそうで、形にならない。伝えられそうで、伝えられない。胸の中に溜めていた想いの正体が掴めずに、彼は困惑しているようだった。
「全然、変じゃないよ。きっと、まだ途中なんだよ。今は分からない事でも、歩いているうちに答えが見つかると思う」
たとえ今は暗闇に見えたとしても、その先には光があるはずだ。これが奈緒にかけられる精一杯の励ましの言葉であった。
しばらくの間、透は驚いたように奈緒を見つめていたが、やがて自分なりに納得する答えが見つかったのか、いつものやんちゃ臭い笑顔に戻っていた。
「そうだよな。やっぱ進むしかねえよな、今は。
サンキュー、奈緒。俺、そろそろ行くわ」
「午後の試合、大丈夫?」
「ああ。本当は、午前の試合でボロ負けして、やべえって思ってた。けど、もう大丈夫だ。
答えが出るまで進んでみる。ビビッてたって、しゃあねえし」
透は父親が使っていたという古びたラケットを肩に担ぐと、体育倉庫の出口へと向かった。
「あっ、待って。私も一緒に行く!」
「お前、手芸部は?」
「午後は一試合だけ、お休みを貰ったの。だからトオルの試合、見に行っても良い?」
「ああ。お前が来てくれるんなら、勝てる気がする。頼んだぜ!」
窓から差し込む木漏れ日が、体育倉庫の中の小さな埃を光に変えて通り過ぎた。その一瞬、それを捕らえた琥珀色の瞳も、ドリップしたてのコーヒーの滴のようにキラキラと輝いて見えた。