第15話 VS ハルキ

 遥希との対戦場所となるFコートに足を踏み入れた透は、あまりの人の多さに圧倒されて、しばらく棒立ちになっていた。ギャラリーが二人しかいなかった午前とは百八十度景色が異なり、コート周辺は午後の試合が組まれた部員以外、全員ここに集まっているのではないかと思うほど人の山で埋め尽くされている。
 しかもこのFコートは男子テニス部の敷地である六面のコートの中でも一番外側に位置する為に、ベースラインの両端だけでなく側面からも観戦できる。フェンスの仕切りがあるとは言え、三方から視線を浴びせかけられる環境は、試合経験の少ない透にとって、巨大な檻にでも入れられたような酷く気詰まりな緊張感をもたらすのであった。
 マネージャーの話では、午後のバリュエーションは皆がそれぞれ目標とする先輩達の試合を研究する為に散り散りになると聞いている。たかがルーキー同士の対決にここまで人が集まるとは、一体、どうした事だろう。
 不思議に思いながらも準備を進めていると、フェンスの向こうから観客に回った部員達のひそひそ話が漏れ聞こえてきた。
 午前のバリュエーションで遥希が唐沢に「6−0」の大差で敗れたこと。それに対して透は同じスコアで藤原に敗れたものの、初心者にしてはなかなかの健闘を見せたこと。主にこの二つが話題の中心であったが、特に遥希に関しては「期待外れ」、「肩透かし」といった不満の声が飛び交っている。
 恐らく午前の試合結果を知るまでは、誰もがルーキー同士の対決は勝負にならないと考えていたに違いない。ところが皆が期待を寄せていた遥希はあっさり副部長に大敗し、気にもかけなかった透が思いのほか善戦した。その事により、午後の対戦でも番狂わせが起きるのではないかと、部員達の関心が一斉にFコートへ向いたのだ。
 透自身、遥希の試合結果を聞いて、互角とまでは言えないが、チャンスはあると確信した。二人の実力差は、絶望視する程の開きはないのかもしれない。
 現にコート脇でスタンバイしている遥希は、先程から落ち着きがなく、苛立ちを露にラケットを上下に揺らしている。副部長の唐沢を相手に、よほど屈辱的な負け方をしたのだろう。
 相手が冷静さを欠いている今、これは好機である。透は少しでも試合を有利に進められるよう意識をギャラリーから外すと、自身のストレッチに専念した。

 第1ゲームのサーブ権は遥希にあった。
 「皆、随分手加減しているみたいだけど、俺は最初から本気で行くからな」
 開始早々、遥希は挑発めいた言葉を突きつけると同時に、透が今までに見た事もないサーブを繰り出してきた。
 フォームそのものは、高い打点から打ち込む透のサーブと変わりがなかった。トスが少し右側に寄っていた事と、インパクトの際の打球音が通常よりも鈍く聞えた事ぐらいだろうか。それにもかかわらず、遥希のラケットから放たれたボールは急激なカーブを描いてコートに入ってきたかと思えば、何故かバウンド後もほとんど弾みを見せずに、透の足元をすり抜けていった。
 「今のサーブは何なんだ?」
 一瞬の出来事で細部までよく見ていなかったが、ボールの軌道が極端に変化する球種である事だけは確かなようである。自分が今まで受けてきたサーブとは、打ち方が違うのか。
 透の困惑をよそに、遥希からは淡々とサーブが打ち込まれ、「30−0」、「40−0」と点差が開いていく。曲がるサーブはスピードがある訳でもないのに、落下地点の予測がつかない為に、ラケットに当てる事すら難しい。
 結局、軌道が変化するのはボールを放つ際にラケットのガットで特殊な回転を加えた所為だと理解した頃には、第1ゲームが終わっていた。全て遥希のサービス・エースであった。
 初っ端から実力を見せつけた遥希の顔には満足げな笑みが浮かんでいる。

 曲がるサーブの対処法を考える間もなく、透にサーブ権が回ってきた。正直なところ、見た事もないサーブにかなり動揺していたが、気持ちを切り替えるよう自分に言い聞かせた。
 まずは自身のサービスゲームをキープする。ここで集中を乱してブレイクされれば、取り返しのつかない事になる。
 サーブに集中する事で、打つべきコースが見えてきた。今までの対戦相手と比べ、遥希は小柄である。彼の体から外側へ逃げていくコースを狙えば、強打を浴びる可能性は低い。
 透は出来るだけ外側を狙ってラケットを振り下ろすと、どちらに返球されても良いようにセンターにポジションを置いた。
 案の定、戻ってきたコースはストレートであったが、今回もボールの軌道は直線的ではなかった。しかも透が打ち返そうとした瞬間、高く跳ね上がり、速いテンポのバウンドと共にコートの外へと出ていった。四本のサービス・エースに続き、今度は遥希のリターン・エースであった。

 「俺のこと、ぶっ倒すんじゃなかったの?」
 遥希が一段と笑みを深くした。但し先程の満足げなものとは違い、明らかに侮蔑を込めた冷ややかな笑みだった。
 不思議なことに、悔しさは起こらなかった。ただ、焦りに良く似た圧迫感が押し寄せていた。ネットを挟んで戦っているはずなのに、敵陣でプレーさせられているような。ゲームの主導権を握られている時に感じる独特のプレシャーであった。
 遥希はその優位な流れに乗じて、圧力をかけている。
 しかしながら、透は相手の挑発を一切無視すると決めていた。午前の藤原との一戦で懲りているのである。
 下手に反論すれば、せっかく高まりつつある集中力が切れてしまう。この不利な状況でどこまでやれるか分からないが、いま頼りに出来るのは己の集中力のみである。
 ボールを軽くバウンドさせながら、透は遥希のフォームを思い返していた。ボールの軌道が極端に右に曲がるサーブと、縦方向に高く跳ね上がったリターン。特殊な回転がかけられている事だけは理解できたが、通常とは異なる変化にどう対処すれば良いのか分からない。

 その時、ふと久保田から渡されたマニュアル本の一頁が浮かび上がった。確か参考程度に球種についての説明が記されており、何も回転のかけないボールをフラット、縦方向に順回転をかけたものをトップスピン、そして横回転のサーブ、もしくはトップスピンとは逆方向にかける回転球をスライスと呼んでいた。
 そこを読んでいる時は単にボールに回転がかかるというだけの認識で、それ程重大な事だと思わず流していたが、実際に受けてみると威力の程が良く分かる。テニスボールは他の球技と違ってボールの表面がフェルトで覆われている為に、回転をかけると急激に球筋が変化する。特に、バウンド後の弾み方が極端だ。
 透は安易に読み流していた事を後悔した。これらの球種を知っているのと知らないのとでは、ボールを返す際の準備の仕方がまったく違う。いや、知っていなければ、返しようがなかった。
 恐らく、先程のサーブはボールに横回転を加えるスライス・サーブだろう。だからボールを放ったと同時に右側に向かって急激に曲がり、バウンド後も地面の上を這うような低い弾道を見せたのだ。そしてリターンで使われた高く弾むボールは、トップスピンと呼ばれる縦方向に順回転をかけたものに違いない。
 これで、全ての合点がいった。試合前に、遥希から「皆、手加減している」と言われた訳も。
 海南中の村主を始め、過去に打ち合った先輩達は皆、初心者の後輩を気遣い、フラットでしか返球していなかった。透が受けた唯一の回転球が、村主のトップスピン・ロブである。それを受けた時も、見よう見真似で練習している時も、トップスピンなるものがボールにどういう変化を与えるのか、ほとんど認識は無かったが。
 当然、透自身もロブ以外のストロークはフラットでしか打った事はないし、素振りの基本も全てそれを想定しての動作である。つまり回転をかけない“直線の世界”でしか、透はプレーをして来なかった。
 以前、コーチの日高が話していた「相手の返せない球を計算して打つ」というのは、何も相手のいないコースへ打ち返す事だけではなかった。ボールに回転をかける事で軌道を変えたり、バウンドの高低を調節したりして、相手のペースを乱す。こうした戦い方も含まれている。
 そして遥希は、このボールに回転をかけるテクニックに長けているのである。体の小さな彼は、トップスピンやスライスなどの回転球を打ち分ける事により、対戦相手との体格やパワーの差を縮めているのだろう。

 自分の置かれた状況が整理できた透は、再びサーブを外側に打ち込むと、相手のフォームとラケット面を注視した。順回転のトップスピンなら縦方向に、逆回転のスライスならボールの下を擦るようにして打つはずだ。ラケット面から加えられる回転を観察し、ボールの軌道と落下地点を予測する。
 遥希がラケットを下から上へ擦り上げるようにして大きく振り切った。トップスピンの打ち方だ。
 曲がるボールの性質さえ事前に察知できれば、それに合わせた準備が出来る。高い弾道のトップスピンであれば、通常よりも後ろに下がって返せば良いし、低い弾道のスライスであれば、腰を落として打点を下に取れば良い。完璧とは言えないまでも、透は少しずつ回転球の変化に対応できるようになっていた。
 「サービスゲームをキープして、五分五分に持ち込んでやる!」
 ところが、透が強い意気込みと共にトップスピンを返球した途端、遥希がネット前へ詰めてきた。このままネットに出られれば、断然、向こうが有利になる。透も同じくネットダッシュしようとした瞬間、またもスピンのかかったボールに阻まれた。
 高い弾道のボールを深めに打たれる事で、前に出たくても出られない。ラケットをボールに当てて返すのが精一杯だ。しかもトップスピンやスライスといった回転の種類だけでなく、ボールのコースにも前後左右と変化をつけて打たれる所為で、こちらの動きが更に制限されている。
 自身のサービスゲームにもかかわらず、相手に主導権を握られているのが良く分かる。
 結局、透はベースラインから離れることが出来ずに、ネット前からボレーの連打を浴びて、大事なサービスゲームをブレイクされてしまった。ゲームカウントは「2−0」。早くも点差をつけられた格好だ。
 これが遥希の戦い方。彼の強さなのだ。
 強い奴には理由がある。透は午前のバリュエーションで得た教訓を、ここでも苦々しい思いと共に噛み締めていた。

 第3ゲームまで進むと、透にもスライス・サーブの軌道が読めるようになってきた。だが、相変わらずネット前を陣取れないまま、遥希にサービスゲームをキープされていた。
 自分が勝つ為には、あの深いコースで飛んでくるトップスピンをどうにか処理する必要がある。
 「せめてネット前に出られれば……」
 大きく息を吐いて、肩の力を抜いてみる。コート周辺を囲むギャラリーに目をやると、不安げな面持ちでこちらを見つめる奈緒が視界に入ってきた。敗戦色濃い戦況を目の当たりにして、まるで無策の初心者の身を案じてくれているのだろう。
 透は出来るだけ明るく笑って見せた。追い詰められていると思った相手から陽気な笑顔を返された彼女は、丸みの帯びた瞳を一層丸くして驚いていたが、プレー中の選手に余計なプレッシャーを与えまいと判断したのだろう。すぐにその反応を打ち消すように、たどたどしい笑顔で手を振った。
 奈緒の表情は分かりやすい。頭の中で考えている事が、そのまま表に出てしまう。そういう素直なところが、彼女の魅力でもあった。
 透は体育倉庫で交わした奈緒との会話を思い出し、気持ちの萎えかけた自分に渇を入れた。
 「あいつの為にも、みっともねえ負け方は出来ねえからな」

 テニスは不思議なスポーツだ、と透は思った。気持ちの持ち方一つで崖っぷちだと感じた事が、チャンスに転ずる事がある。
 奮い立たせた闘志から芽生えた一筋の光明。午前の試合で体得した“あれ”なら、今のピンチがチャンスに変わるかもしれない。透はサーブをサンター寄りに打ち込むと、すぐに次のリターンに備えた。
 右か、左か。センター寄りのサーブを、遥希ならクロスに返して前へ出るはずだ。
 予想どおり、彼はコートのほぼ中央で受けたサーブを右へと返球してきた。その打球はまたしてもトップスピンがかかっている。
 透は相手が前方へダッシュするのを確認してから、もう一度ボールを中央へ返し、ラケットを構えて次のボレーに全神経を集中させた。コートの右側に追いやられた透に対し、遥希は左のコースへボレーを叩くはず。
 「思った通りだ!」
 その瞬間、透は持ち前の俊敏さで離れたボールに追いつくと、両手でラケットを握り締め、昼休みに練習していたロブを打ち上げた。
 急激に回転のかかったボールは放物線を描きながら上昇すると、相手の頭上を越えて落下した。ネット前に詰めていた遥希を、透がロブで抜いたのだ。

 明らかに、遥希の油断であった。
 午前の藤原との試合内容を詳しく知らない彼は、初心者からロブを、それもトップスピンのかかったボールを打たれるなど、予想だにしていなかった。回転をつけたボールに翻弄されている選手が、まさかトップスピン・ロブを習得しているとは思わない。
 ここがテニススクールのマニュアルに沿って育てられてきたエリートと、アクシデントだらけの山奥で育ったヤンチャ坊主との決定的な違いであった。物事を能力に応じて段階的に習得するのではなく、必要に迫られた順に覚えていく。それが透の育った環境だ。山の中では力の弱い動物から順番に襲ってくる事はないし、川の中の魚も釣り人の能力に合わせて泳いでいる訳ではない。
 事実、透自身も村主の見よう見真似でロブを放っていたが、それがトップスピンをかけるが故の打ち方だと理解したのは遥希のフォームを見てからだ。
 見る見るうちに遥希の表情が険しくなっていった。唇を噛み締め、目を細めながら、透を睨みつけている。
 透のロブは跳躍力のある藤原にこそ通じなかったが、小柄な遥希のネットダッシュを牽制するには充分な役割を果たしていた。しかもロブを打つ事で相手を後ろに遠ざけ、代わりに自分が前から攻撃するチャンスも生み出せる。
 遥希のトップスピンとボレーのコンボを、透はロブを放つ事で自身に有利な攻撃態勢に塗り替えた。
 今まで敵陣に見えていたコートが、自分の陣地に戻っていく。この機を逃さず、透はネットについた。
 午前の試合で頭に焼きつけた藤原のネットプレーを思い出し、ボレーの連打で反撃を開始する。完全に二人の立場が逆転した。

 トップスピン・ロブを皮切りに、透は次々とポイントを決めていった。得点を重ねるごとに、コートを囲むギャラリーが騒がしくなっていく。
 テニスの英才教育を受けてきた遥希がテニス歴二週間の初心者に圧されているのだから、無理もない。軽い気持ちで逆転劇を噂していた部員達が、本気になって透に声援を送っていた。
 透は勢いに乗じて「30−0」、「40−0」とポイントを重ね、ついに最後のゲーム・ポイントを決めた。ゲームカウント「3−1」。あの遥希から1ゲームを奪ったのだ。
 「おっしゃ! サービスゲーム、キープだぜ!」
 周りの沸き上がる歓声と共に、透はラケットを高く掲げてガッツポーズを決めた。生まれて初めて、自分のサービスゲームをキープ出来たのだ。試合に勝利した訳ではないが、1ゲームでも相手から奪ったという事実は想像以上に気持ちが良い。
 この分なら、五分と五分と勝負に持ち込めるかもしれない。試合前より1ゲームを手にした今のほうが、勝利に対する気持ちが強くなっていた。

 透が勝利する為には、最低でも一回は相手のサービスゲームをブレイクしなければならなかった。
 今回、遥希はサーブを打った後、ネットダッシュをかけずに後方のベースラインで構えていた。先程のロブを懸念しているのではあれば、透がネット前から攻撃を仕掛けてブレイクするチャンスであった。
 しばらくの間、ベースラインでの攻防が続いていた。透はどうにかして前へ出て行こうとするのだが、深めのトップスピンに追いやられてしまい、ネット前まで辿り着けない。対する遥希も安易にネットに近づけない様子であった。
 どうにかして、こちらが先手を取る方法はないものか。透が高く跳ね上がるトップスピンの攻略法を思案していると、突如として遥希が打ち方を変えてきた。下から上へのトップスピンの打ち方ではなく、ラケット面を上向きにして上から下へ振り下ろすようなフォームである。
 瞬時に透はスライス回転のボールが来ると予測して、低い弾道の返球に備えた。ところが実際に返ってきたボールは、その予想を大きく裏切るものだった。
 確かに回転はスライスと呼ばれる逆回転がかかっており、通常なら伸びのある低い弾道で透のところまで戻ってくるはずだった。ところが遥希のラケットから放たれたボールはネットを越えると同時に失速したかと思えば、急激な落下と共に地面に力なく転がった。
 伸びのあるスライスを想定して後方で構えていた透は、ネット際で急降下したボールに追いつけず、ただ茫然と見送った。
 「ボールが失速して、落ちた?」
 それはボールに詰まり気味の逆回転をかける事によってネット際で急激に落下する「ドロップショット」と呼ばれるショットであった。
 「お前さ、全てが甘いんだよ」
 ネット際で転がるボールを確認してから、遥希が冷たく言い放った。
 確かにそうだ。トップスピン・ロブが決まったからと言って、勝てると思った自分が甘かった。
 たとえロブでネットプレーを封じたとしても、遥希は物心ついた時からラケットを握っているのである。ベースラインからでも攻撃する手段は持っている。
 それがテニス歴二週間と十年近いキャリアの差であり、今の二人の立場の違いでもあった。

 「ちくしょう!」
 今まで理性で封じ込めていた悔しさが、一気に噴出した。同学年というだけで、どうしてこうも悔しさの度合いが増すのだろう。
 午前の藤原に敗戦した時は、年上なのだから仕方がないと、心の何処かで思っていた。自分より強くて当然だと、納得できたのだ。
 だが、遥希は同じ一年生だ。肉体的にも大差はないし、どちらかと言えば彼のほうが若干不利なぐらいである。それなのに、なぜ力の差がここまで歴然と開いてしまうのか。
 透は、自分を山奥に閉じ込め一度もテニスの存在を教えてくれなかった父親を、改めて恨めしく思った。もっと早くにテニスを始めていれば、今日この時点で、遥希に勝っていたかもしれない。勝利の二文字をこの手にする事も、容易に出来たかもしれない。そう思うと、更に悔しさが増していく。
 生きてきた年数は同じであるにもかかわらず、育った環境が異なるだけで、同じ土俵に立つ事すら叶わない。
 遥希に勝ちたい。どうしても。喧嘩や口論ではなく、テニスで勝利を掴みたい。
 歴然たる力の差を見せつけられても、透は諦められなかった。自分にとって諦めるという行為が、最もみっともない負け方だからである。
 しかし遥希はドロップショットを容赦なく繰り出してくる。ネット前からはボレー攻撃、後方からはドロップショット。変幻自在の攻撃に打開策がないままに、気が付けばせっかくのブレイクチャンスを逃していた。
 ゲームカウントは「4−1」と、3ゲームの点差が開いている。

 何か方法があるはずだ。頭の中をフル回転させてみるが、一向に糸口が見えなかった。単純に遥希がラケットを振り下ろした瞬間にネットを目がけてダッシュを試みたが、深めのトップスピンで目一杯後ろへ追いやられている所為で、あと一歩が届かない。それ程までに彼のドロップショットは急激に落下するのである。
 こうなったら、強引にネット前を陣取ってボールを拾いまくるしかない。そう決心して前方にダッシュをかけた途端、遥希の冷笑する顔が見えた。
 透の頭上を、緩やかな弧を描いたボールが通過する。
 「しまった!」
 気付くのが遅かった。遥希は透がドロップショットに気を取られ、ネット前に詰めてくるのを見越して、ロブで抜く算段を立てていたのである。
 透が遥希からポイントを奪ったのと同じやり方で、逆にポイントを決められてしまった。後悔する透をあざ笑うかのように、ボールは頭上を越えて軽やかなバウンドを繰り返す。
 「やっぱ原始人の知能じゃ、ここまでか。一つ学習しても、すぐに忘れるんなら意味ないじゃん」
 遥希は透がトップスピン・ロブを習得しているにもかかわらず、その存在をすっかり忘れていた事を揶揄している。
 余裕を取り戻した遥希から、痛烈な一言が浴びせられた。
 「テニスってさ、バカには向いていないと思うよ?」

 透の全身から怒りが込み上げてきた。遥希に対しては勿論だが、自分自身対しても腹が立つ。
 悔しさと腹立たしさが入り混じるようにして湧き上がり、ラケットを持つ手を震わせている。毎日の部活動の他に自主的にトレーニングをこなし、区営コートに通った努力は何だったのか。
 区営コートでは海南中のテニス部員との出会いがあり、「何処にいたってテニスの練習は出来る」と教えられた。部長の村主は透と試合をする為に、わざわざ練習日でもないのに待っていてくれた。光陵テニス部では、千葉が素人の自分の為に素振りの基本から教えてくれたし、藤原は「お前も強くなる」と励ましの言葉をかけてくれた。
 テニスを通して絆を深めた皆の顔が浮かんでは消えた。
 最初にテニスで遥希に勝とうとしたのは、それが相手の得意分野であり、そこでの勝利の方が与えるダメージも大きいと思ったからである。だが、今は違う。
 テニスには透にとって大切な想いが詰まっている。テニスで遥希に負けたくない。「バカには向いていない」とせせら笑う、こいつだけには負けたくない。
 「こうなったら、ロブだろうが、ドロップショットだろうが、全部拾いまくってやる!」
 透は完全に我を忘れていた。それを見透かしたように、遥希は透の裏をかくショットで着実にポイントを重ねていく。
 彼のドロップショットは通常のスライス回転のショットとフォームがほとんど変わらない。その為、ボールが手元を離れるまで、前で落ちるのか、後ろへ伸びるのか、予測のしようがなかった。
 必死でボールに喰らいついているのに、何もかもが空回りしている。前と思えば後ろ、後ろと思えば前にボールが落ちていく。
 完全に試合の流れが遥希の方へ傾いていた。一旦崩れたゲームを立て直すのは、初心者には無理な課題であった。
 透の奮戦も虚しく、後半は遥希のショットに振り回され、我に返った時には「6−1」で敗北した後だった。
 生まれて初めてライバルと意識した相手。こいつだけには絶対に負けたくない。そう思って必死で戦ったのに、想いだけでは通用しない高い壁がそこにはあった。






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