第17話 アッサムとアールグレイ

 学園祭が近づいていた。活躍の場がある無しにかかわらず、全校生徒達の気持ちが華やぐこの時期に、学級委員の宮越はただでさえ堅苦しく見られがちな顔貌をさらに硬くして廊下に立っていた。
 正確には、茫然と立ち尽くしていたと言った方が近いかもしれない。何故なら廊下に張り出された中間テストの学年順位表の上位には、彼が思いも寄らぬ人物の名前が記されていたからだ。
 真嶋透と日高遥希。彼等が学級委員の自分を押しのけ、十位以内に入っている。
 小学生の頃から週二回の進学塾と英会話スクールに通い続け、家では通信教育の課題も欠かさず提出し、ひたすら学年トップを夢見て努力してきた自分より、毎日ラケットを振り回し遊び呆けている彼等のほうが優れている。これは断じて許しがたい事実であった。
 確か日高遥希は父親がテニス部のコーチで、強豪と名高い同部の先輩達からも一目置かれるサラブレッドと聞いている。家庭環境に恵まれ、スポーツにも秀でた人間が、勉強も出来てしまう。そんな理不尽な話があって良いものか。
 いや、日高遥希に関しては、まだ我慢が出来る。問題は、もう一人の邪魔者、真嶋透である。
 彼は転校初日に田舎者丸出しの言動で騒動を起こし、担任の教師をパニックに陥らせたばかりか、場を静めようとした宮越の「学」の名前を揶揄して貶めた。おかげで学級委員の威厳は失墜し、宮越はクラス全員から「学ちゃん」と悪意ある愛称で呼ばれ続けている。
 何より気に入らないのは、最近、真嶋透が西村奈緒との距離を詰めつつある事だ。
 宮越が元いた前列の席は彼女の隣席で、非常に居心地の良い理想的な環境であった。彼女はクラスの他の女共のように我先に物を言うタイプではなく、静かで控えめで大人しい。成績優秀、品行方正の学級委員の隣には、こういう奥ゆかしい大和撫子が似つかわしいと思っていた。
 それなのに、真嶋透が担任に目をつけられたばかりに宮越は後ろの席へと追いやられ、代わりに粗野な田舎者が彼女の隣を陣取り、いつの間にか仲良くなっている。しかも近頃では下品な田舎者に感化されたのか、奥ゆかしいはずの大和撫子が前列の席で人目もはばからずに口を開けて大笑いしている事もある。
 宮越がこつこつと築き上げてきた理想的な学園生活が、真嶋透が転校してきた事により、跡形もなく打ち砕かれようとしている。せめて最後の砦の定期テストでは学級委員の威厳を死守せねばと追随を許さぬ覚悟で臨んだが、その結果がこれである。日高遥希、学年五位。真嶋透、八位。宮越学、十二位。

 宮越が放心状態で廊下に佇んでいると、そのすぐ後ろを問題の二人が通り過ぎた。
 「ハルキ! お前、見かけによらず、頭良いんだな?」
 「ああ、お前は見かけどおりのバカらしいな?」
 「何だと、てめえ! そんなに俺にぶっ飛ばされてえのかよ!?」
 「あれ? 俺の事は、テニスで倒すんじゃなかったの?」
 最近、クラス内で日常化している彼等の痴話喧嘩が、宮越の神経を逆撫でする。八位の真嶋透がバカなら、十二位の自分はどうなるのか。日高遥希に他意のない事は分かっているが、真嶋透がバカとからかわれるたびに、自分が「バカ以下」と言われているようで、ますます気持ちが沈んでいく。
 するとそこへ、諸悪の根源となる田舎者が明るく元気よく話しかけてきた。
 「よう、学級委員! ノート、ありがとな。おかげで助かった」
 宮越の気分が滅入る原因は、もう一つあった。彼はこの真嶋透にノートを貸していた。
 無論、親切心から貸した訳ではない。宮越にとって真嶋透は目障りな邪魔者。いつか目に物を見せてくれようと、虎視眈々とチャンスを狙っている。そんな相手に親切にするほど、お人好しではない。
 それは十日前の出来事だった。

 同じクラスでテニス部員の高木が、西村奈緒にノートを見せてくれと頼んでいた。テニス部員は学業が疎かにならないよう、定期テストで三十点以下を取った時点で休部届けを出して勉学に励まなければならない決まりがあるらしく、日々の部活動の疲労から授業中によく居眠りをしている高木は、五日後に行われる中間テストを無難にやり過ごす為に大人しい彼女に協力を迫っていたのである。
 「なあ、西村? 頼むよ。とりあえず、英語と数学と国語の三教科だけで良いからさ」
 三教科もノートを頼んでおいて「だけ」と言い切る高木を、宮越は密かに「世渡り上手、罰当たり」と呼んでいた。そこへもう一人、罰当たりな田舎者が介入してきた。
 「奈緒、俺も頼む!」
 高木と同じテニス部員の真嶋透である。
 大人しい性格の西村奈緒は、罰当たりな連中の我が侭な願いを断りきれず、仕方なくノートを手渡した。
 ところが罰当たりな田舎者はどこまでも罰当たりに出来ているようで、彼女のノートを写し始めた五分後には「飽きた」と文句を言い出した。本人の言い訳によると、文字を書く行為そのものが苦手だと話していたが、単に一所にじっとしていられないのは一目瞭然だった。要するに、彼は傍迷惑な言動はもとより、性格も知能も幼児並みに出来ているのである。
 「お前、真面目にやれよ。休部がかかっているんだぞ?」
 高木の忠告も何処吹く風で、真嶋透は椅子を二本足にして寄りかかり、「面倒臭せえなぁ」と愚痴を零している。これでは休部は免れない。
 正直なところ、宮越は良い気味だと思っていた。ざまあみろとも思っていた。
 だがしかし、心優しい西村奈緒が現状を見兼ねたのか、
 「それじゃあ、私がノートのコピーを取っておくから。部活が終ったら、手芸部まで来てくれる?」と言い出した。
 「マジで? 良いのかよ?」
 「別に、良いよ。どうせ手芸部でコピーを取らなきゃならない資料もあるし」
 話がとんでもない方向へ発展している。あの野蛮な田舎者を、放課後まで彼女と一緒にさせてはいけない。
 焦った宮越は親切な学級委員の振りをして、
 「西村さん、その必要はありませんよ。僕のノートを真嶋君に貸してあげましょう」と名乗り出た。
 学年トップを狙う宮越は、すでにテスト範囲に指定された箇所を授業のノートとは別にまとめてあった。本当は苦労して作り上げたノートを知能の低い田舎者に貸してやるのは気分の良い事ではなかったが、背に腹は変えられない。これ以上、二人が接近する事だけは、何としてでも阻止しなければならなかった。
 「サンキュー、宮越! やっぱお前、良い奴だな」
 宮越の真の目的にも気付かず、真嶋透は無邪気に喜んでいた。この能天気な無邪気さが更に憎悪を掻き立てるが、この時点で宮越は万事順調に進んでいると思っていた。
 これで二人の急接近は避けられる上に、自分は頼りになる学級委員として西村奈緒にも好感を持たれる。そして中間テストで学年トップに君臨すれば、再び学級委員の威厳は復活するはずだった――。

 「お〜い、学級委員! ノート、ありがとな! おかげで、助かったぜ!」
 中間テストの学年順位表の前で茫然と佇む宮越に、真嶋透が屈託のない笑顔を向けている。
 苦労してノートを作成した本人よりも、貸した相手のほうが上位にいるとは、何事か。せめて嫌味の一つでも返してやりたいところだが、学級委員という立場上、それも叶わず、宮越は「いえ、どういたしまして」と答えるのが精一杯だった。


 学園祭が近づいていた。中間テストの結果にショックを受ける一部の生徒を除き、学校中のほとんどの生徒が春うららかな陽気と共に浮かれていた。
 中高一貫のモデル校で、進学校でもある光陵学園では、体育祭、合唱祭、学園祭の三大祭を春の一週間で集中して行い、これを総称して『光陵祭』と呼んでいた。本来は、夏休み前に学業以外の主な行事を全て消化して、休みに入ると同時に受験モードへ切り替える事で高等部の大学進学率を上げようと学校側が組んだカリキュラムであったが、いつの間にか主旨がずれて、一週間のお祭り騒ぎのほうが主体となっていた。
 因みに『光陵祭』のスケジュールは、月曜日がクラス対抗、火曜日がクラブ対抗の体育祭で、水曜日の合唱際は一日だけだが、合唱とは名ばかりの、曲さえかかっていればミュージカルだろうがサーカスだろうが好きなパフォーマンスをやっても良いという極めてかくし芸大会に近い祭典で、木曜日の準備を兼ねた調整日を間に挟み、金曜日に前夜祭、土日に学園祭と、まさに生徒達に羽目を外してくださいと言わんばかりの一週間であった。

 奈緒のクラスでは、この『光陵祭』のメインとも言える学園祭の出し物について、文化委員を中心に話し合いが行われていた。
 中間テストが終った解放感も手伝って、話し合いはいつになく盛り上がりを見せており、遊園地さながらの巨大迷路やお化け屋敷、寄席、メイド喫茶、果ては毎年三年生の各クラスが脚本から力を注ぐ演劇に参戦しようという無謀な意見まで飛び出していたのだが、結局は一年生の身の程をわきまえ、大して準備も経験も必要のない平凡な喫茶店に落ち着いた。
 しかしながら、ここからが奈緒にとって最も緊張を強いられる時間であった。
 クラスの出し物が決定した後は、皆の役割分担を決めなければならない。会場の設営、仕入れ、調理、接客、配膳、会計と、喫茶店を運営するに当たり必要な役割が挙げられる中で、鈍臭い奈緒にも出来る仕事と言えば、候補が限られてくる。おまけに、男子の一人がクラスのオリジナリティが欲しいと言い出して、接客係の衣装が男子はホスト、女子はスカート丈の短いメイド風の制服を着る事なったので、要領の良い生徒達はこぞって裏方に立候補し始めた。
 特に学園祭当日は自由の身となる設営係には男子候補者が集中し、メイド服を免れたい女子は調理係と会計係に殺到し、最後はじゃんけんによる争奪戦まで行われていた。
 小心者の奈緒には自ら手を挙げて立候補するという行為からしてハードルの高い試練であり、まして争奪戦の修羅場に飛び込んでいく勇気などあろうはずがない。おろおろしているうちに次々と担当が決まってしまい、現在残っているのは仕入れ係と接客係だけだった。
 このままではメイド服で接客する羽目になる。こうなったら勇気を出して仕入れ係に立候補しようかとも思ったが、喫茶店の仕入れは責任重大だ。仕入れるコーヒーや紅茶のセンスで、店の評価が決まってしまう。そう考えると腰が引けて、結局、残った二つの選択肢を前にして、どちらにも手を挙げられずに困っていた。

 メイド服の接客係か、責任重大な仕入れ係か。究極の選択を迫られている奈緒の耳に、隣席のひそひそ話が聞こえてきた。
 「なあ、真嶋? 西村って、まだ役割分担決まってないみたいだぜ。
 お前等、仲が良いんだから、二人でホストとウェイトレスやってみれば?」
 無責任な話を持ちかけているのは、同じテニス部の高木であった。
 「別に、俺は暇だからやっても良いけどさ……」
 「あいつ、意外とあるぜ?」
 「何が?」
 「鈍い奴だな。胸の話に決まってんだろ? 体操服の揺らぎ具合が、他の女子とは違ってた」
 「ばっ……お前、体育の時に、そんなとこ見てんのかよ!?」
 「西村のメイド服、悪くないと思うんだよなぁ」
 本人達は内緒で話をしているつもりだろうが、隣の席にいる奈緒にはしっかりと聞こえていた。しかも隣と斜め後ろの両方から、体のラインを確かめるようないやらしい視線まで感じられる。
 所詮、男子は男子である。いくら言葉を交わし、心が通じ合ったとしても、男の本能の前では平気で裏切り行為を働くものなのだ。
 奈緒が男同士の内緒話に不信感を抱きかけた時だった。いきなり隣から手首を掴まれたかと思えば、勢いよく上に引っ張られ、次の瞬間には透と二人で席を立っていた。
 「俺、奈緒と仕入れ係やる!」
 状況が飲み込めず唖然としていると、教室の各所からブーイングが聞こえてきた。
 どうやらメイド服を期待していたのは、高木だけではなかったようである。複数の男子から「真嶋、格好つけんじゃねえぞ!」といった野次、罵倒が、透に向かって飛んできた。
 もしかして透は、奈緒がどちらにも立候補出来ずにいる事情を察していたのではないだろうか。あのいやらしいと感じた視線も、本当はこちらの様子を観察していただけなのかもしれない。

 「お前等さ、文句を言う前に俺の話を聞いてくれよ」
 クラスの男子から次々と浴びせられる非難の声に怯むことなく、透が理路整然と仕入れ係に立候補した理由を説明し始めた。
 「もともと奈緒は手芸部と掛け持ちだから、当日にクラスで働ける時間は限られている。ウェイトレスを頼んだとしても中途半端になっちまうし、それに、こいつはコーヒーに詳しいんだ。
 そんでもって俺は紅茶に詳しいからさ。二人で買出しに行けば、喫茶店の仕入れは完璧だ。
 これ以上の適任者は他にいないだろ?」
 途中まで納得しかけた級友達が、「紅茶に詳しい」人物に関して疑問を持ったらしく、再び文句を言い始めた。
 「西村は分かったけど、真嶋の『紅茶に詳しい』は嘘だろう?」
 しかし、その疑問も予期していたかのように、透が朗々と語り出した。
 「一口に紅茶と言っても、ダージリン、セイロン、スリランカ、キームン、それから中国紅茶だってある。ミルクティーにするならアッサムだけど、アイスティーにするならアールグレイだって必要だ。
 それぞれ茶葉によって抽出時間も異なるし、ハーブティーも加えるなら、お湯の設定温度も変わってくる。当日の喫茶店に入れる客の数と、土日で捌けるコーヒー豆や茶葉の量と、設定料金と。全部、頭に入れて買出しに行ける奴、俺等の他にいるのかよ?」
 教室全体が、授業中よりも静かになっていた。話の内容もさることながら、お世辞にも品が良いとは言い難い田舎者から、ここまで詳しい紅茶の講釈が聞けるとは思わず、全員、言葉を失った。
 皆より少しだけ付き合いの深い奈緒でさえ、透が紅茶好きだとは知っていたが、せいぜいレモンティーにこだわりがある程度だと思っていた。
 予期せぬ展開に誰もが押し黙る中、遥希がすっと席を立った。
 「ついでに俺も、仕入れ係に立候補して良い? 手芸部とテニス部なら帰りもそんなに変わらないし、時間を合わせて買出しに行けるから」
 普段、犬猿の仲にある人物が絶妙なタイミングで透の発案を支持した為に、仕入れ係に反対する者は、もう誰もいなかった。

 放課後、奈緒はテニス部に向かう透を捕まえ、窮地を救ってくれた事に対して「ありがとう」と短く礼を述べた。ほんの一瞬でも疑ってしまった謝罪もこっそり込めて。
 「いや、強引に立候補させちまって、悪かったな」
 「ううん、そんな事ないよ。本当はね、メイド服を着るのにすごく抵抗があったんだけど、仕入れ係に立候補する勇気もなくて」
 「俺も」
 「えっ、トオルも? ホスト、嫌だったの?」 
 「いや、そうじゃなくて……」
 クラスの皆の前で弁を振るった時とは違い、その口調はもごもごと歯切れが悪かった。
 「俺も、嫌だった。メイド服」
 「えっ、メイド服?」
 「べ、別に、何でもねえよ。とにかく、お前の為じゃねえから。そんだけ!」
 彼は怒ったようにそう言うと、同じテニス部の遥希を追いかけ出ていった。教室の外の廊下では、二人の会話が聞こえてきた。
 「ハルキ! お前も買出し、行くんだろ?」
 「は? 行く訳ないじゃん」
 「なんでだよ!?」
 「俺、今週はコート整備があるからさ。待っててくれても良いけど、西村の帰り、遅くなるぜ?」
 「お前、最初からそれを計算に入れて立候補しただろ? 汚ねえ野郎だな!」
 一見、犬猿の仲に思える二人だが、奈緒は気付いていた。バリュエーションを機に、彼等の間には今までとは違う何かが芽生えている。それは友情と呼ぶには何処か屈折しているが、その分、彼等にしか分かり得ない独特のもの。単にライバルとは言い切れない、特別な何かが生まれつつある事を。
 「男子って、良いなぁ」
 際限なく言い争う二人の声を遠くで聞きながら、奈緒はオレンジがかった陽光の差し込む教室でひとりごちた。






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