第19話 地区大会開始

 地区大会当日、朝から透は沸き立つ興奮を抑えきれず、そわそわと落ち着きのない時間を過ごしていた。
 今までテニスの試合と言えば、父親が仕事で使う研究資料としての映像でしか見たことがなく、しかもその映像は観戦目的で編集されたビデオやDVDとは異なり、プレイヤーの細かな動きや体の一部を映したものであったので、幼い透にはそれが競技に位置づけされるかどうかも定かではなかった。
 だが、今は岐阜の山奥のような閉鎖的な環境で生活している訳でもなければ、父親の研究資料が情報の全てという訳でもない。テニスがれっきとしたスポーツである事も知っているし、自身もレギュラーではないにせよ、光陵テニス部の一員となって日々その奥深さを実感している。
 おまけに今回の大会には、テニスを通して絆を深めた先輩達が大勢出場する。入部当初から何かと面倒を見てくれている千葉を始め、バリュエーションで対戦した藤原や、部長、副部長もオーダーされている。さらに光陵テニス部が初戦を勝ち抜けば、あの村主率いる海南中と戦う可能性もあった。
 これまで出会ってきた様々な選手達が今大会に集結して、しのぎを削る。彼等の真剣勝負を間近で見ることが出来る。そう考えるだけで、透は体中の血がざわつき、居ても立ってもいられなくなるのであった。

 「真嶋君、事件です!」
 地区大会の会場となるスポーツセンターに着くや否や、久保田と高木が慌てて駆け寄ってきた。何事かと問いただす間もなく、彼等は代わる代わる息継ぎをしながら、団体戦のダブルス二試合目に出場する太一朗が集合時刻になってもまだ受付に姿を現していないと告げた。
 太一朗と言えば、双子の兄の方である。
 「陽一先輩じゃないのか?」
 咄嗟に透は遅刻したのが太一朗ではなく、弟の陽一朗の方ではないかと疑った。真面目で几帳面な太一朗が、遅刻するとは考えにくい。
 「それが太一先輩、超が付くほど方向音痴でさ。今朝も用心して早く家を出たらしいんだけど、後から出発した陽一先輩が到着したのに、太一先輩はまだだって」
 高木が周囲を気にして小声で囁いたそばから、部長の成田の怒声が聞こえてきた。
 「だから二人一緒に行動しろと、あれほど注意しておいただろう!」
 「すいません。まさか、こんなに近い距離で迷うとは思ってなくて。
 太一が『弟に頼らず、独りで行きたい』って言うので、一応、兄貴の面子もあるのかなって……」
 普段お調子者の陽一朗も、事の重大さが分かっているのか、意気消沈した様子で答えている。
 双子と言えども、兄貴のプライドがあるのだろう。太一朗は、大会の度に弟を頼らなければならない現状に我慢が出来なかったようである。
 改めて見ると、この伊東兄弟は双子でありながら顔以外の共通点がほとんどない。兄の太一朗はやんちゃな弟を常に諭す側に立っており、次男坊色の濃い陽一朗は、その隙を突いて悪戯ばかりやらかしている。まさに静と動、正反対の兄弟だ。
 故に、太一朗の方が年上に見られ、よく似た年子の兄弟と思われる事が多かった。しかし、いくらしっかりしていると言っても、所詮は中学二年生。超が付く程の方向音痴は、そう簡単に克服出来るものではない。まして地区大会当日に克服しようとするなど、考えが甘かった。

 「受付終了まで時間もあるし、もう少し待ってみよう」
 副部長の唐沢が部員達を動揺させないように、事態がそれ程深刻ではない事を強調して言った。
 光陵学園は、去年の地区大会優勝の実績からシード扱いで一回戦が免除されている。その分、受付の締め切りも他校に比べて遅い時間に割り振られているのだが、それはあくまでも大会手続き上の混雑緩和を目的としたもので、実際には二十分程しか猶予がなかった。しかも悪いことに、こういう時に限って初戦の相手が一回戦を不戦勝で勝ち上がってきたとの事で、大会事務局の係員が早く受付を済ますようコーチの日高のところへ催促しにやって来た。
 透は会場周辺を探しに行こうと、体を表門のほうへ反転させた。テニス部へ入部する際に、準備もろくにしなかった透に気前良くテニスシューズをくれた太一朗。その先輩の為に、何か役に立つ事をしたいと思ったのだ。
 「俺、その辺を見てくる。会場の近くまで来て、迷っているかもしれないし」
 そう言って場を離れようとする透を、唐沢が引き止めた。
 「いや、真嶋とハルキは念の為、ここでスタンバイだ。こいつ等二人と出場選手以外で、手の空いている者は周辺を探しに行ってくれ」
 唐沢の言う「念の為」の意味が分からぬままに、透は遥希と共に会場に残された。その隣で、コーチの日高、部長、副部長が三人で話し込んでいる。
 「最悪、オーダーは変更せずに太一の穴を埋める形を取る。
 初戦は芙蓉学園だ。何とかなるだろう」
 「太一の穴を埋めるとなると、ハルキになりますね?」
 「いや、却って初心者の真嶋の方が、陽一はやり易いかも……」
 首脳陣による物々しい会話の中で、透と遥希の名前が交互に挙がっている。もしかして、コーチ達は二人のうちのどちらかを太一朗の代わりに出場させるつもりだろうか。
 「お前、ダブルスの経験は?」
 首脳陣の会話を透と同じように解釈したのか、遥希が仏頂面で聞いてきた。
 「ダブルスって、二人でやるヤツだよな?」
 「やっぱ、その程度か」
 「悪りぃかよ? ダブルスなんてやった事ねえし、やり方だって分かんねえし。だいたい二人で戦うなんて、俺の性には合わねえよ」
 「いいや、悪くない。実は俺も苦手なんだ、ダブルス」
 一瞬、透は遥希と意見が合った事に驚いた。だが、遥希の苦手と自分の苦手では、レベルが違う。透にはダブルスが二人でプレーする事以外、知識らしい知識は何もない。どの順番でサーブやレシーブを行うのか、どこにポジションを置くのか、ルールも何も分からない。この状態で苦手と言っては申し訳ない程の知識の無さである。
 まさか良識ある首脳陣がルールもろくに知らない選手を出場させるような暴挙には出ないと思うが、先程から何故か唐沢は透を推している。下手に苦手意識のある遥希より、ど素人の透の方が使い易いという事か。
 こんな事なら性に合わないと思っていても、ルールぐらいは覚えておくべきだった。己の勉強不足を反省していると、会場の入口付近をチェックしていた遥希が安堵の溜め息を吐いた。
 「どうやら、免れたみたいだぜ?」
 会場周辺を探しに出ていた高木が、上手い具合に迷子の太一朗を見つけたようである。二人で成田の方へ駆け寄っていくのが見えた。
 「部長! お騒がせして、すみませんでした」
 真面目な太一朗は、自分がどれほど周囲に迷惑をかけたか分かっているらしく、顔面蒼白になりながら平謝りに謝っている。
 「時間がない。お前の処罰は後で考えるから、さっさと準備に入れ」
 厳しい口調を崩すことなく、成田が短く指示を出した。だが太一朗の方はまだ罪悪感から抜け出せないのか、青い顔のままでその場に立ち尽くしていた。
 「俺、皆に迷惑かけて……どうしたら……」
 肩を落とし、今にも泣き崩れそうな様子で佇む太一朗。そんな彼を抱きかかえるようにして、唐沢が穏やかな口調で諭している。
 「この借りは試合で返すつもりでさ。まずは気持ちを切り替えて、プレーに集中すること。落ち込むのは、試合の後でも出来るだろ?」
 さすがに、こういう時の唐沢の判断は的確だ。厳しい部長に対して副部長としてのフォローを忘れず、後輩を適切な行動へと導いている。
 程なくして太一朗が弟とウォーミング・アップに取り掛かる様子を確認してから、唐沢が親指を立てて各所にサインを送り、一件落着した旨を知らせた。すでにD2の試合の為にコート内でスタンバイをしていた滝澤・荒木の先輩ペアも安堵の色を見せて、滝澤にいたっては「お疲れさま」の意味だろうか。唐沢に艶めかしいウィンクを送り返していた。

 男が男に送るウィンクなどあまり見たいものではなかったが、透は我慢してD2の試合が行われるコートから目を離さずにいた。地区大会ほどの大きな試合となると、何が起こるか分からない。先程のように、突然ダブルスの穴埋めを命じられる事もある。そうなった時にうろたえずに済むように、せめてルールぐらいは頭に入れておこうと思ったのだ。
 透が真剣にコートを見つめていると、背後から唐沢が声をかけてきた。
 「残念だったな、真嶋。もう少しでお前のデビュー戦だったのに」
 「残念だなんて……俺、ダブルスやった事ないんですよ?」
 「だからこそ、薦めたんだけどね。面白いレースになると思ってさ」
 「唐沢先輩? まさか、俺の試合で儲けようなんて?」
 「冗談だ。俺は公式戦でのギャンブルはしないってポリシーでね。これでも一応、けじめはつける方だから」
 だったら、もっと手前でつけて欲しいと思ったが、透は黙って聞いていた。
 確かにけじめはあるらしく、今日の唐沢は透の事を『ウ吉』ではなく苗字で呼んでいる。大会の時だけは、副部長としての自覚があるようだ。
 透はいつになく真剣な眼差しでコートに視線を送る唐沢を、本人にそれと気付かれないように観察した。
 屋外で活動するテニス部員にしては肌の色が透けるように白く、体つきもどちらかと言えば華奢な方である。ココア色をした頭髪も、日の光に晒されたものではなく生まれついての色だろう。その証拠に、瞳も眉毛もまつ毛の色も、皆、同様に赤みがかった茶であった。
 何処からどう見ても体育会系のイメージとはかけ離れているこの先輩が、光陵テニス部で部長の成田と一、二を争う実力者だという。一体、彼はどんなプレーをするのだろうか。
 「軍師」の異名を持つ程だから、肉体的なハンデを頭脳でカバーしながら戦うのか。あるいは遥希のように技術を駆使して敵を追い込んでいくのか。バリュエーションで他者の試合を観戦する間もなかった透には、彼のプレーする姿がいま一つ想像できなかった。

 唐沢について、あれこれと考えを巡らしていると、二年生の千葉が
 「何とか落ち着いたみたいッスね」と言いながら、歩み寄ってきた。
 「まあね。ちょっと残念な気もするけどね」
 唐沢は意味ありげな笑みを口元に浮かべ、隣にいる透をちらりと見やった。
 コート上では、初戦に出場する先輩二人が試合前の練習に入っていた。地区大会では、対戦前にサーブとリターンをフォアサイドとバックサイドの二箇所から二球ずつ練習できる決まりになっている。本来ならその様子を見ながらペア同士で最後の打ち合わせを行ったりするのだが、先程から滝澤が一方的に話しかけているのに対し、荒木は一言も返さずムッとしたままである。
 いくらダブルに関して無知な透でも、ペアのコンビネーションが必要な事ぐらいは知っている。こんな調子で上手く行くのだろうか。
 「唐沢先輩? あのD2の二人って、仲悪いんですか?」
 透は頭に浮かんだ疑問を、唐沢に投げかけた。
 「初めて見る奴は、そう思うかもな。荒木は元々ああなんだ」
 話の途中で唐沢は、何かを思い出したようにジャージのポケットから携帯電話を取り出すと、
 「ケンタ? 悪いが、真嶋にダブルスの基本から教えてやってくれ。
 俺、まだ成田と打ち合わせがあるからさ」
 と早口で言い残し、さっさと会場奥の管理棟の中へ消えていった。

 あの賭け事しか頭にないはずの唐沢が、副部長の如く振舞っている。他校では至極当然の事だが、光陵テニス部に限っては、これは驚きに値する事件であった。
 透は自分でも気付かぬうちに、足早に去り行く後姿を呆け顔で見送っていたのだろう。唖然とする気持ちは分かると言いたげに、千葉が苦笑によく似た笑みで笑いかけてきた。
 「まるで別人だろ、あの人?」
 「はい。こう言っちゃ失礼ですけど、本物の副部長みたいですよね?」
 「俺も時々、どっちが本当の唐沢先輩なのか、分からなくなる。
 ただあの人は、色んな意味で普通じゃない。色々とな」
 「何となく分る気がします」
 『闇の学園祭』を体験した直後だけに、千葉の言葉には説得力があった。あの学園祭での賭け将棋をセッティングする際の段取りの良さと言い、先輩達の欺き方と言い、並みの中学生の成せる業ではない。
 しかも唐沢は、勝負強さも半端ではなかった。将棋に関してはいささか自信のある透だが、それでも舌を巻く程に強かった。頭が良いと言うよりは、切れると言うべきか。いや、頭が良い上に切れると言うのが、最も的確な表現かもしれない。
 唐沢のような男がコートに立つと、どんな勝負をするのだろう。学園祭以来、透は唐沢という人間に対して、苦手意識とは別に少なからず興味も持ち始めていた。

 副部長の役目を真面目にこなす唐沢に代わり、千葉が初戦に出場する荒木・滝澤ペアについて教えてくれた。
 「荒木先輩は、昔から無口でさ。俺も『はい』と『別に』以外、喋ったのを聞いた事がない。だけど何故か、滝澤先輩とは意思が通じるみたいでさ。
 お前も知っての通り、滝澤先輩はアレでナニだから。な、分かるだろ?」
 阿吽の呼吸を求めるかのような物言いから推察するに、千葉が明言を避けている部分は滝澤の性別についてだろう。しかし、いくら何でもアレとナニだけでは、彼等がどうやって意思疎通を図っているのか分からない。
 困惑を露にする透に対し、千葉が声を絞り出すようにして叫んだ。
 「だから、滝澤先輩はあんな感じで、何つうか……そうだ、奥さんだ!」
 「奥さん、ですか?」
 「そうそう、あのペアは長年連れ添った夫婦みたいなモンなんだ」
 光陵テニス部内で誰もが気付いていながら、あえて触れずに放置しているグレー・ゾーン。そこを無難に切り抜けられた事に安堵を覚えたのか。束の間、千葉の表情が和らいで見えたが、コートに視線を戻した途端、厳しい目付きになった。
 「芙蓉の奴等、早速やってくれるじゃねえか」
 千葉につられて透もコートを見やると、中では荒木が腕を抱えたまま座り込んでおり、その足元にはボールが転がっていた。試合開始早々、対戦相手からボールをぶつけられたようである。
 「ケンタ先輩、もしかしてラフプレーってヤツですか?」
 「ああ。芙蓉学園ってのは、不良の中でも特に柄の悪い連中が集まる学校でさ。試合中にボールをぶつけるのは当たり前。試合前に対戦相手を殴り倒して、出場停止になった事もある。
 くっそ、あいつ等、今年も出場停止になってくれりゃあ良かったのに」
 コートを睨みつけながら、千葉が舌打ちをした。
 「あんな卑怯な真似されて、どうして先輩達は黙っているんですか? 俺、一発ぶん殴ってきましょうか?」
 「やめておけ。よっぽど露骨にしない限り、『わざとじゃない』って言われれば、それまでだ。
 悔しいが、ここは我慢して試合で勝つしかないんだよ」
 「そんな……それじゃあ泣き寝入りじゃないッスか!」
 幸い、荒木のケガは大事には至らなかったようで、すぐにプレーに復帰した。その様子を見届けてから、千葉が自信ありげに呟いた。
 「あの二人が、泣き寝入りで終わるかよ」

 審判の合図と共に、試合が再開された。
 「良いか、トオル? 基本的に、ダブルスの陣型は二つある。選手がネットに対して並列に並ぶ“並行陣”と、前衛がコートの前、後衛が後ろのポジションを取る“雁行陣”だ」
 試合が「3−0」と光陵のリードで進む中、千葉がダブルスのポジションについて詳しく解説してくれた。
 「それじゃあ、いま先輩達が取っているフォーメーションは、雁行陣ですね?」
 「そうだ。あの陣型だと攻守がはっきりするから、互いの役割分担が明確になる」
 千葉の解説を聞きながら、透は先輩二人の動きを観察した。ベースライン付近でラリーを続けているのが後衛の滝澤で、そのボールの流れに乗るようにして、前衛の荒木がボレーで攻撃して得点を重ねている。荒木が攻、滝澤が守である事は明らかだが、荒木がスムーズに得点を重ねられる原因は立ち位置だけではなさそうだ。
 「ダブルスはペアによって戦術の立て方が違ってくるが、あの二人の場合、一見、地味に見える後衛がゲームを作っている」
 「ゲームを作る?」
 「ああ、ゲーム・メーカー。つまり試合を組み立てる人間だ。
 滝澤先輩の場合、3ゲームもあれば相手の癖から攻撃パターンまで見抜いちまう。一見、余裕で打ち返しているように見えるあのフォームも、優れた眼識があるからこそ保っていられるんだ」
 千葉に言われるがまま、透は滝澤の動きを注視した。
 入部当初、透は滝澤をモデルにして素振りの練習をしろと言われた事がある。それ程までに、彼のフォームは基本に忠実で無駄がない。試合中でもそのスタイルは変わらず、どんな球でも優雅に追いつき返している。あれは、実際に相手の返球パターンを予測しているという事か。
 「ほら、後衛がクロスで返球した瞬間に、前衛がネットから攻撃しているだろう? ああやって、滝澤先輩は後ろで守りながら、前衛が攻撃しやすいチャンスを上手く作っている。荒木先輩は体が大きい分だけリーチが長いから、後衛が作ってくれた僅かなチャンスも見逃さずに攻撃できるんだ。
 あの二人にかかれば、一瞬で守りを攻撃に変えられる」
 分析力のある滝澤が丁寧にラリーを繋げながらチャンスを作り、大柄で力のある荒木がそれを決める。相手のペアはどうにかして後衛の滝澤を揺さ振ろうとするが、優雅なフォームが崩れる事はなく、また荒木の攻撃をかいくぐろうと大柄な選手が苦手とする体の正面を狙ってみるものの、彼は巧みに膝を使って打点を合わせ、多彩な攻撃を続けている。
 千葉が「あの二人は長年連れ添った夫婦みたいだ」と言った理由が、透にも見えてきた。彼等は互いの役割分担を正確に把握していて、ゲームの流れによってパートナーに託すのか、自分が出て行くのかを瞬時に判断し、適切な処理を行っているのである。
 透は改めてダブルスにおける位置取りがいかに重要かを理解した。きめ細やかな滝澤の守りと、パワフルな荒木の攻撃。それらが攻守のハッキリした雁行陣というフォーメーションで、更に活かされている。

 初めにトラブルはあったものの、息の合った光陵ペアが着々と得点を重ね、いよいよマッチポイントを迎えていた。
 一瞬、透は相手の前衛がネット際にいる滝澤の顔面を狙っているのではないかと思った。序盤のラフプレーから判断しても、その可能性は大いにある。自らの敗北を悟った相手選手が、最後の嫌がらせに一発お見舞いしようとしている。
 「滝澤先輩、危ない!」
 試合中にもかかわらず、透は思わず叫び声を上げた。このままでは、滝澤の顔面にボールが直撃してしまう。
 ところが次の瞬間、滝澤は返球の構えを解いて、自身の体をネットに沿って真横に移動させた。失点覚悟で身をかわしたのかと思いきや、ボールを捕らえたのは背後で待ち構えていた荒木であった。
 滝澤の顔面を狙った高さのボールを、荒木は上から捻じ伏せるようにして相手のラケットを目がけて叩き込んだ。所謂ドライブ・ボレーと呼ばれるショットだが、そこには試合の間じゅう抑え続けた感情も込められていたに違いない。彼の剛球をまともに喰らった芙蓉学園の選手は、ラケットはもちろん、その体ごとコートの外まで吹き飛ばされていた。
 ゲームカウント「6−0」で光陵学園の圧勝だった。

 「ま、あれぐらいの礼は当然だろうな」
 コートに転がる選手から鼻血が滴り落ちるのを横目で認めた千葉は、透に向かって満足そうに白い歯を見せた。
 「そうッスよね。俺もスッキリしました」
 千葉と同様にして頬を緩ませた透のもとへ、コートから出てきた滝澤がフェンス越しに話しかけてきた。
 「坊や、心配してくれてありがとう。嬉しかったわ。
 でも、試合中は大声を出しちゃ駄目よ。坊やも光陵テニス部員として見られているんだから、観戦のマナーは守らなくちゃね」
 そう言って滝澤は、透に向かって艶めかしく片目を瞑って見せた。男から男に向けられたウィンク。それは、予想以上に気色の悪いものだった。
 試合前はダブルスを勉強するのに必死だった所為か、あるいは唐沢に向けたと分かっていたからなのか、どうにか我慢する事ができた。だが試合が終わった今となっては、さすがに耐え難いものがある。しかも今回は、ダイレクトに自分に向けられている。
 「ケンタ先輩? 俺、どんなリアクションを取れば良いッスか?」
 「とりあえず、やり返してみるのはどうだ?」
 「いや、それだけは勘弁してください」
 「だったら、ひとまず死んだ振りするか?」
 「熊じゃないんですから……」
 どんな反応を示すかで右往左往する透の前に、今度は荒木がやって来て
 「別に、放っておけ」と一言だけ言い残し、何事もなかったかのように悠然と去っていった。
 「ケ、ケンタ先輩、聞きました?」
 「ああ。あの無口な荒木先輩が、喋ったよな?」
 「俺、今日は珍しいものを色々見た気がします」
 透の頭の中に、今朝、会場に足を踏み入れてから見聞きした出来事が次々と浮かび上がった。
 真面目でしっかり者の太一朗が、実は超の付く程の方向音痴だったという新事実。ギャンブルしか頭にない唐沢が珍しく副部長の仕事をこなし、無口な荒木が「はい」と「別に」以外の言葉を発した。
 地区大会という特殊な環境下では、普段の練習では見られない姿が露呈し易くなるものなのだろうか。今朝からの迷場面、珍場面を頭に再現しながら、透は貴重な体験をしたと興奮している自分に、ふとした疑問を抱いた。
 確かに滅多に見られない光景だったかもしれないが、貴重だと喜ぶには何かが違う。珍しいと感じるのは単に光陵テニス部に変わり者が多いからであって、方向音痴の太一朗はともかく、副部長がその役割を真面目にこなす、あるいは先輩が「はい」と「別に」以外の言葉を発した。どれも当たり前の事ではないだろうか。
 この結論に達した時、透は光陵テニス部の一員である我が身に不安を覚えた。朱に交われば赤くなる。類は友を呼ぶ。自分もいずれは先輩達と同じように、変わり者の仲間入りをするのではないか。当たり前の事をしているのに、後輩から「珍しい光景を見た」と言って騒がれやしないだろうか。
 様々な学校のテニス部が一堂に会する地区大会。そこではジャージに同じ校名が入っている時点で同種とみなされるのが常である事を、透はまだ気付かずにいた。






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