第2話 転校生

 朝のホームルームが始まろうとしていたが、塔子と詩織は先程出会った少年が「だらしない」か「ワイルド」か、いずれのカテゴリーに属するかで、いつまでも揉めていた。確かに好みの違いで、自分のタイプであれば「だらしない」が「ワイルド」に見えてしまうものである。
 奈緒も何度か意見を求められ、その度に記憶を手繰ってみるものの、パニックの最中にいた所為か、判然としなかった。
 そもそも奈緒は二人のように容赦なく男子を格付けするタイプではなく、この手の話題に関しては付き合い程度に乗っかるだけなのだ。
 琥珀色の澄んだ瞳。ドリップしたてのコーヒーの色。覚えているのは、これだけだ。
 しかし、あえて口にはしなかった。何故なら塔子と詩織がいた場所から瞳の色など見て取れるはずもなく、それは至近距離ならではの印象だからである。左眼の上の傷も、遠くからは前髪に隠れて見えなかったに違いない。
 “至近距離ならでは”だったと思うと、誰にも言ってはいけない気がしたのである。

 悶々とする頭の中を、ふと今朝の占いの言葉が通り過ぎた。運命の人と出会いの予感――。いや、それを鵜呑みにするには、何かが引っ掛かる。
 落ち着いて、一つひとつ視覚に入ったものを思い返してみる。
 あの少年が不思議な格好をしていたのは間違いない。その原因までは思い出せないが、何かがミスマッチしていたのは事実である。
 今一度、丁寧に記憶を掘り起こしてみる。
 まずは服装。ファッション・センスのある塔子が「着崩す」と評していた制服は、どちらかと言えば起きてすぐに慌てて着てきた感があるとは言え、不自然ではなかった。頭髪もボサボサと見るか、ルーズに散らしていると見るかは微妙だが、ミスマッチとは言い難い。
 それでは、一体何なのか。あと一つ、大事なものを見落としているような違和感がついてまわる。
 再び、奈緒が記憶を呼び戻そうとした時だ。学年一几帳面で気難しい教師と評判の大塚が、険しい顔つきで教室に入ってきた。

 奈緒のクラス担任であり、一学年の社会を担当する大塚は、他の教師がジャージやワイシャツのみの軽装をしている時でも常にジャケットとネクタイを着用し、鏡のごとくピカピカに磨かれた靴とセットで登場する。
 分け目がほぼ直線に見えるヘアスタイルは彼の几帳面な性格を露にしており、櫛の跡がくっきり残るほどテカテカに塗り固められた毛髪を見事な七三で分けている。
 ずり落ちてもいないのに何度も眼鏡を押し上げている様子から察するに、今朝は一段と機嫌が悪いらしい。教室の扉が開けっ放しだったとか、廊下に紙くずが落ちていたとか、生徒達の思いもよらない所で彼を不機嫌にさせる原因があったのだ。
 そのとばっちりが教室の最前列の席にいる生徒にまで及ぶ為、毎朝、奈緒はホームルームの時間を緊張の心持ちで迎えている。

 険しい形相を崩さぬままに、担任の大塚が口を開いた。
 「今朝は、転校生が来る予定でしたが……」
 彼が言い終わらないうちに、教室の前の扉がガラリと開いた。
 「おっ、ラッキー! やっと見つけたぜ、1年4組。
 まったく、無駄に教室多すぎだぜ。やっぱ勘太の言うとおりだった。都会の学校はごちゃごちゃしていて、性に合わねえや」
 そこには今朝、奈緒をドラマチックな経緯もなしにお姫様抱っこした少年が立っていた。途端に担任の眉間が狭くなる。
 「き、君は……」
 またしても大塚が言い終わらないうちに、少年は
 「ああ、アンタが大塚先生! 俺、今日から世話になる真嶋透。よろしくな!」と言って、臆する風もなく教室に入ってきた。
 大塚の眉間がさらに狭くなり、皺が深くなった。
 これで担任が不機嫌である原因がはっきりした。遅刻。しかも転校初日の遅刻である。
 几帳面で規律を重んじる担任には、信じがたい出来事なのだろう。今にも失神しそうである。
 「き、君! な、何ですか、その挨拶は」
 真嶋透と名乗った少年は、大塚のようやく発した言葉を無視して教壇前までやって来ると、さも興味深げに担任ではなく奈緒の顔を覗き込んだ。
 「あっ! お前、今朝の? 名前……何だっけ?」
 クラス中の視線が最前列にいる奈緒と真嶋少年に向けられていたが、彼はまったく動じず話しかけている。
 「西村奈緒です。今朝は、ありがとう」
 奈緒は手短に答えを返すと、少年の親しげな視線を遮り俯いた。大塚が睨みつけていたのである。
 「いや、あれは俺が悪かったって。上手く避けきれると思ったんだけどさ。
 それにしても、奈緒? お前、軽かったよな。ちゃんと米、食ってっか?」
 爆発寸前の担任を尻目に平然と女子に話しかけている少年の大胆な行動を目の当たりにし、教室中が凍り付いていた。怒りに震える大塚の表情は、まるで火山の噴火をビデオで早送りしているようで、迫りくる惨事に皆が緊張を強いられていたのである。
 まず言葉にならない唇の震えから始まる地響き、連動して肩がワナワナと震える地震、徐々に深くなっていく眉間の皺と同じ状態の地割れと、最後に噴火。恐ろしいことに、この噴火に真っ先に巻き込まれるのは最前列の席にいる奈緒だった。

 「ま、真嶋君! わ、わた、私の話をき、聞き……聞き……」
 どうやら大塚は自ら起こした地響きのせいで、まともに言葉が発せられない様子であった。
 助かったのか、そうでないのか。
 緊迫した時間を過ごす奈緒の視界に、突如として教室では見かけないものが入ってきた。農園で収穫したばかりの作物を入れる麻袋が、目の前に現れたのだ。
 今日はこれで二度目である。切羽詰った時の無駄な思考に襲われるのは。
 今はどうやって担任の噴火から逃れるかを考えなければならないはずなのに、奈緒の視線も思考も麻袋に釘付けになっていた。
 朝から悩んでいたミスマッチの謎がようやく解けた。ずっと違和感を抱いていた原因は、真嶋少年が背中に背負った麻袋にあった。
 見たところ教科書を入れる鞄の類は所持していないようなので、背中の麻袋をその代わりにしているに違いない。適度に厚みのある袋の口からは、今時珍しい木製のテニスラケットの柄が覗いている。
 彼はジャガイモなどの根菜類をキロ単位で買う時に使用する麻袋に紐を通し、それを背中に背負って鞄代わりにしていたのである。しかも農場の作業服でもなければ、スーパーの店員の制服でもなく、ジャガイモとはまったく接点のない中学生が学ラン姿で担いでいたからミスマッチに見えたのだ。
 先進国の中でも麻袋を鞄代わりに背負っている中学生は、恐らく彼だけだろう。
 どうりで運命の人と思うには引っ掛かりを感じたはずだ。麻袋を背負った運命の人など、いくら現実が厳しいとは言え、酷すぎる。
 奈緒は、今朝読んだ占いの本が間違っていることを切に願った。

 「先生、熱でもあんのか? 顔、真っ赤だぞ?」
 今朝、お姫様抱っこをした時と同じ心配そうな顔つきで、真嶋が大塚の顔を凝視した。
 お前が怒らせたのだと、クラス全員が同じ思いを抱いているのだろうが、誰一人としてそれを口にする者はいなかった。いや、出来なかったのだ。
 日頃から規律正しく躾けられている生徒達にとって、リーダーであるべき担任の機能停止は非常事態であるものの、枠からはみ出すなと教えられている為に、この型破りな少年とどう接して良いのか、見当もつかなかった。
 いまだ大塚は自身の発する噴火の熱に対応しきれず、「ふがふが」言うだけで復活の見込みはなさそうだ。まさに怒り心頭といったところか。身の内から湧く怒りを制御出来ずに、自分でも何を言っているのか分からないようだった。
 几帳面な人間によくある現象だ。マニュアルの枠外で行動する真嶋のような右脳型人間が苦手で、突飛な行動に対してのリアクションの用意がないのである。
 「俺、保健室まで連れっていってやろうか?
 なあ、奈緒? 保健室の場所を教えてくれないか?」
 教室が沈黙しているのには、もう一つ訳があった。真嶋が先程から奈緒のことを呼び捨てにしているのである。
 転校してきたという事は奈緒とは初対面のはずなのに、彼は苗字ではなく名前のほうで呼んでいる。それが周りの生徒にも異様な印象を植え付けていたのだった。
 麻袋を背負った礼儀知らずの転校生。やはり運命の人とは別人に違いない。
 奈緒は心底そう願っていた。

 「真嶋君? 保健室には僕が連れて行くから、君はこれ以上、先生を怒らせてくれないでくれたまえ」
 事態の収拾を図ろうと、学級委員を務める宮越学が席を立った。宮越は入学初日に自ら学級委員に立候補した上に、お約束のように勉強は出来るが運動神経と性格に難がある為に、一週間経った今でもクラスの皆から遠巻きに見られており、更にそんな状況にもかかわらず、何故か本人はいつも上からの物言いで級友達に話しかけているという一風変わった男子である。
 「おっ、サンキュー! お前、良い奴だな」
 見た目も言動も型破りな転校生は、一風変わったぐらいでは動じないのか、クラスの誰もが打ち解けられない宮越に対して屈託のない笑顔を向けている。
 「別に、君の為ではありません。このままだと授業に支障を来すからです。
 真嶋君、学級委員としてお願いします。このまま静かに着席してください」
 宮越はあたかもこの場を仕切れるのは自分しかいないと言わんばかりに満足げに話していたが、彼が悦に入れたのはほんの数秒ほどの事だった。
 「へえ、お前、学っていうのかぁ。
 すっげぇ! よく漫画に出てくる学級委員、まんまだな。
 学? お前、勉強できるだろ?」
 怖いもの知らずの転校生が、宮越の胸の名札をしげしげと眺めながら声を上げた。この瞬間、機能停止状態に陥っていた教室がどっと笑いの渦に包まれた。
 世の中には暗黙のルールがある。それは中学生にもなれば周囲の大人達の振りを見て少しずつ身につけていくエチケットのようなもので、触れてはいけない物事に関してはそっとしておいたほうが良いと自然に学んでいく、言わば社会の秩序を保つ為の掟である。
 中学校に入学してから一週間が経ち、最初はクラスの皆もこの暗黙のルールに従って宮越の「まんま」の名前には触れないほうが良いと黙していたが、そこはまだ小学生の悪戯心が残っており、尚且つ、温情をかけてやっている相手は何となく鼻持ちならない奴でもあり、社会の掟と本音とのバランスがぐらぐらと揺れている時期でもあった。そこへ転校生が事もなげに「まんま」発言をした為に、理性で封じ込めようとしていた本音が笑いとなって噴出したのである。

 「ま、真嶋君、き、君は僕をバカにして……!」
 担任の大塚とまったく同じ症状を発した哀れな犠牲者がもう一人。宮越は完全に冷静さを欠いていた。
 気の毒な学級委員を前にして、真嶋はなぜ宮越が怒っているのか。また、なぜ教室中が笑いに包まれているか。まったく理解できずに、琥珀色の瞳を不思議そうに瞬いていた。
 結局、ホームルームの時間が終了するまで犠牲者二人が復活することはなく、しかも大塚から目をつけられた転校生はもう一つの教壇前の席、つまりは奈緒の隣に座ることになった。
 「なあ、奈緒? なんで学は怒っているんだ? なんで、皆は笑うんだ?」
 奈緒の意思に反して、渦中の彼はすっかり打ち解けた様子で話しかけてくる。それが更にクラスの笑いを広げるのであった。
 どうやら真嶋は全ての原因が自分にあるとは、一ミリたりとも思っていないらしい。
 「神様、どうか運命の人は別人だと言ってください!」
 望みもしない運命の糸がぐいぐいと手繰り寄せられていく悲惨な状況を前にして、奈緒はそう願わずにいられなかった。






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