第20話 縦型雁行陣

 千葉の解説のおかげで、透にもダブルスの基本が少しずつだが分かってきた。単に二人で戦うものだと思っていたダブルスにはいくつかの陣型があり、それによって試合の進め方も変化する。プレイヤーの能力や戦況に合わせて、いかに効率的な陣型を組んで戦うか。ここがダブルスの難しさであり、また頭の使い所でもあった。
 透は次に行われるD1の試合が楽しみになってきた。D2に続いて二試合目となるD1には、ダブルスの要 ―― 光陵テニス部の中でもコンビネーション抜群と言われる双子の伊東兄弟が出場する。
 今朝の遅刻騒動で兄の太一朗に動揺が残るのではないかと心配したが、副部長のフォローが効いたのか、今は落ち着きを取り戻している。この分ならプレーに支障を来たす事もないだろう。

 次の試合が始まるまでの間、透はD1以外にもダブルスについて知りたくなり、千葉に質問を投げかけた。
 「ケンタ先輩? 他の先輩達は、ダブルスに出場しないんですか?」
 「他の先輩って?」
 「例えば、成田部長とか、唐沢先輩とか?」
 「ああ、昔はペアを組んでいたんだぜ、あの二人。そりゃもう、伊東兄弟以上の最強コンビでさ……」
 千葉の話によると、成田と唐沢は一年生の時から光陵テニス部のダブルスの要としてD1を任されていたらしい。その頃は一年生がD1を務めるのはもちろん、大会の出場選手に抜擢される事自体が異例中の異例であったが、当時の部長とコーチの日高が他の上級生達を説得し、二人の実力に相応しいポジションを与えたという。
 今の海南中がそうしているように、光陵テニス部にも同じ改革の歴史があったのだ。
 透はほんの少しだけ、日高を見直した。古くから定着している慣習を破り捨て、新たな制度を確立させる所までを改革とするのなら、その偉業は意気込みや度胸だけでは成し得ない。選手の実力を見抜く眼力とそれを育てる指導力がなければ、さぞかし混乱したであろう当時のテニス部を今の強豪と呼ばれる地位にまで押し上げる事は不可能だ。酒好きで、ルーズさも目立つ日高だが、コーチとしての技量は確かなようである。
 「今のうちの部を支える先輩二人が、あの伊東兄弟を育てたんだ。強いのは当たり前だって」
 説明を続ける千葉からは、D1の二人に絶大な信頼を寄せている様子がうかがえる。
 光陵テニス部は自由な校風が直に反映されている所為か、シングルス向きの選手が多い。個性豊かな面々が集う中で、ダブルスの主力選手として育てられ、二年生にしてD1を任されている伊東兄弟。彼等がどんなプレーを見せてくれるのか。光陵テニス部の歴史を聞きながら、透はますます次の試合が楽しみになっていた。

 前のD2から連続して行われるはずのD1の試合は、なかなか開始されなかった。準備を終えた伊東兄弟は先程からベンチで待機させられたまま、二十分以上が経っている。対戦相手の芙蓉学園の選手二人が、服装のことで審判と口論となり、開始が遅れているのが原因であった。
 騒ぎの中心に目を向けると、審判に詰め寄る選手達のユニフォームの袖は肩口の箇所から引きちぎられ、露になった二の腕にはタトゥーと思しき青緑色の文字が刻まれている。芙蓉学園には咎める者がいないのか。彼等は規定通りのユニフォームに着替えるよう注意を受けた、その根本的な原因からして理解できないという風に、スプレーで着色されたラケットを振り回し、大声で怒鳴り散らしていた。
 本来なら彼等を指導する立場の人間が事態の収拾に当たるべきだが、芙蓉学園の場合にはそれに該当するのが事務処理専門の顧問しかおらず、大会では受付の時しか姿を見せないとの事だった。
 顧問が不在で、生徒が興奮した状態では、ますます騒ぎが大きくなるばかりである。試合に適さないユニフォームを着用しているのだから、大会規定を用いて棄権を命じる手もあるが、審判は不良達の剣幕に圧されたのか、おどおどした様子で一向に話が進まない。
 結局、しびれを切らしたコーチの日高が続行を促し、それから程なくしてD1の試合は開始された。

 「太一先輩と陽一先輩、大丈夫なんスか? D2の奴等よりパワーアップしてますよ?」
 どう見てもフェアプレーとは縁遠そうな対戦相手とその迫力を目の当たりにして、透は強い不安を覚えた。
 「確かにヤバそうだけど、コーチがオーケー出したんだ。問題ねえだろ?」
 「そんなもんスか?」
 「まあ、見てろって。うちのD1の実力を」
 試合は芙蓉学園のサーブから始まった。
 通常はサーブ権を持つ側が先制攻撃をかけ易いが、だからと言って、リターン側から攻め入るチャンスがない訳ではない。現に透の目から見ても、攻撃を仕掛ける機会は何度かあった。それにもかかわらず、光陵ペアは一度も攻める素振りを見せず、二人揃って後ろのベースラインにポジションを置いていた。
 「ケンタ先輩? あれが、さっき言っていた並行陣ですか?」
 「ああ、そうだ。あれは並行陣の中でもダブルバックと言って、二人が後方にポジションを取る事で鉄壁の守りになる陣型だ。
 太一は用心深いから、これで相手の出方を見ているんだろう」
 「そうか! 二人とも後ろに下がれば、ラフボールは喰らわない。
 あっ……でも、こっちからも攻撃できないですよね?」
 「それでも、あいつ等には点を取る方法がある」
 千葉が自信ありげに断言した。
 攻撃をしないで点を取るとは、どういう事なのか。ベースラインにポジションを置いている限りネット前から攻撃するのは難しく、必然的に守りに徹する事になる。運良く相手が自滅してくれるのなら可能かもしれないが、後方に陣を構えた状態で容易に得点できるとは思えない。
 ダブルバックから点を取る方法。その具体的な答えを思案しているうちに、試合は互いにサービスゲームをキープする形で「2−2」まで進んでいた。

 流れが変わったと感じたのは、第5ゲームに入った直後であった。今まで調子よく見えていた芙蓉学園の選手から、ミスショットが連続して出始めた。
 「もう、疲れてきたんでしょうか?」
 不思議に思いながらも透が確かめると、千葉は先程と同じ自信ありげな笑みを更に広げて言った。
 「いや、ここからが伊東兄弟の本領発揮ってとこだな。攻めるだけが点を取る方法じゃないって事を、今から見せてやる」
 透はコートの中に視線を戻し、慎重に双方の動きを観察した。相手の選手は度重なるミスに苛立ってはいるが、疲れている訳ではなさそうだ。
 では何故ミスショットが連続して起こるのか。答えは、双子の返球にあった。
 試合の序盤、防戦一方に見えていた打ち方が、第5ゲームではがらりと変わった。ボールのスピードに緩急をつけながら、トップスピン、スライスと回転の種類も変えて、前衛に集中して返されている。
 一人の前衛に対して、二人の後衛が相手をしている。一見、攻撃のポジションについている前衛の方が有利に見えるが、そうでもない。いくら二人を相手に攻撃を続けたところで、守る側はコートの半面だけを守備範囲とするのだから余裕がある。
 体力的にも精神的にも余裕のある二人から、一人に的を絞って返球される。しかも慣れてきたはずの相手の打球が、突然、第5ゲームから球種もスピードも変えられランダムに打ち込まれてくるのである。よほどのテクニックを持つ選手でなければ、二人からのボールを捌き切れるものではない。
 この状況では、相手の後衛はやたらと助けに出られない。下手に前衛のところまで出て行けば、空いたオープンスペースにボールを落とされ失点してしまう。
 これは敵の力量を見極めた上で太一朗が立てた“前衛潰し作戦”だ。

 「太一は、ゲームメークの達人だ。あいつはどんな相手であろうと決して見くびったりせずに、正確に実力を推し測った上でそれに合った作戦を立てる。そこが凄いところでもあるし、怖いところでもある」
 相手のミスの連続で、点差がじりじりと広がっていく。それにつられるようにして、千葉の笑みにも誇らしさが加わっていった。
 ゲームカウント「2−4」と光陵リードで迎えた第7ゲーム、苛立ちがピークに達した芙蓉学園の後衛が、太一朗を目がけてスピン・サーブを放ってきた。
 スピン・サーブとは、ボールにトップスピンをかける事によって打球がバウンド後に高く弾むサーブで、通常は安定性の高い事からセカンドサーブに使われるケースが多かった。だが芙蓉学園のこのサーブは、太一朗の顔面を狙う目的で入れられたようである。
 「相変わらず、卑怯な連中だ。あんなサーブを練習する暇があったら、素振りの一つでもやっとけよ」
 侮蔑を込めた千葉の言葉は、太一朗のリターン・エースでその正当性が証明された。所詮、対戦相手を傷つける事だけが目的のサーブでは伊東兄弟には通用しないと見えて、太一朗のみならず、続く陽一朗のリターンでもあっさりエースを決められ、芙蓉学園は第7ゲームも落としていた。

 「てめえ等、いい気になってんじゃねえぞ? 前へ出てきて勝負しろや!」
 芙蓉学園の選手が、暴言を吐きながら伊東兄弟を挑発し始めた。
 「それじゃお言葉に甘えて、俺ッチと前で勝負してみる?」
 第8ゲームのサーブ権は光陵サイドにあった。弟の陽一朗が笑顔と共にトスを上げ、サーブが入ったと同時にダッシュして前衛のポジションについた。
 兄の太一朗は、ダブルバックの時と同様、後ろで留まっている。
 「この陣型は……?」
 見た事もない陣型に、透は目を瞬かせた。後衛としてサーブした弟が相手の前衛のすぐ前に立っている。つまり、相手の前衛の正面に前衛、相手の後衛の正面に後衛がいるという、通常の雁行陣とは線対称に並んだ陣型だ。
 「あれは縦型雁行陣よ。考えたわね、太一」
 クールダウンを終えた滝澤が、いつの間にか透の背後に立っていた。その隣に荒木もいたが、相変わらず一言も発しない。
 「縦型雁行陣?」
 さすがの千葉も初めて見る陣型らしく、滝澤に説明を求めるようにして聞き返している。
 「前衛が相手の前衛の正面に立つ事で、余分なオープンスペースが無くなるわ。そうする事で、太一はまず、前衛を狙った危険なラフボールを封じたのよ。
 強引にぶつければ露骨な打ち方になるから、相手も失格のリスクを負う事になるでしょう?」
 滝澤の説明を聞きながら、透もコート内の前衛の位置を確認した。確かに目の前の選手にボールを当てるには、距離が短すぎてかなり露骨な打ち方となる。強引に打ったところで、自身が失格となるのが落ちだろう。
 「通常はラリーの流れであの陣型になる事が多いのだけど、太一はわざと取らせたみたいね。あのまま後衛同士がラリーを続ければ相手の前衛の出番はなくなるし、ラフプレーには結びつかないわ。
 縦半面で行われているラリーにタイミング良く割って入れるのは、陽一と同じ瞬発力を持った前衛だけ。ほら、決めた」
 滝澤が説明するそばから、陽一朗が隙を突いてボレーを決めている。
 後衛の正面に後衛が立つ縦型雁行陣では、打ち合うボールがコートの縦のラインに沿って真っ直ぐ飛び交う格好となり、そのラリーの間に割って入りボレーを決めるには、一瞬で状況を判断して移動する俊敏さが必要となる。
 太一朗は弟の並外れた瞬発力を計算に入れた上で、この陣型を最終ゲームの切り札として取っておいたのだ。

 陽一朗が次々とポイントを決めていく中、相手の前衛も反撃しようと強引に割り込んだ。だが、延々とラリーが続けられていたボールは予想以上に鋭くなっている。焦った前衛が無理やりラケットを伸ばしたが、ボールはラケットの端をかすめ、陽一朗の目の前にイージーボールとなって舞い上がった。
 前衛がカットに入った事で相手コートには完全なオープンスペースが出来上がり、そのがら空きとなった縦半面に、陽一朗が陽気なかけ声と共にスマッシュを叩きつけた。
 「はい、お疲れさまでした!」

 第一試合に続き、第二試合もゲームカウント「6−2」で光陵ペアが勝利を収める結果となった。
 「これが、うちのD1の実力なんですね!」
 透は改めてダブルスの奥深さを実感した。太一朗の冷静な試合運びと陽一朗の瞬発力。そして何より、二人のコンビネーションがあればこそのゲーム展開だ。
 ダブルスが始まる前は「二人で戦うなんて性に合わない」と口走っていたが、こんな試合を見せられた後では、撤回せざるを得ない。二人の選手の能力が、使いようによっては倍から二乗に変化する。これはシングルスにはない面白さだと思った。
 「ケンタ先輩? ダブルスって、面白いですね!」
 ダブルスに出場した先輩達の活躍を見た後の、透の素直な感想であった。ところが千葉は人差し指を口に当て、「黙れ」のサインを送っている。
 「ケンタ先輩?」
 次の瞬間、背後から両肩を掴まれたかと思えば、透は勢いよく後ろへ引き寄せられた。相手が誰かを確かめる間もなく、生温かい空気が耳元に吹き掛けられる。
 「あら、坊や。それは良かった。だったら、今度は僕とペアを組んでみない?」
 少し湿ったその空気は人間の吐息である。
 「初体験の坊やには、僕が手取り足取り教えてあ・げ・る」
 「た、た、滝澤先輩?」
 後ろから抱き締められた状態で怖くて振り向けずにいるが、その気色の悪い吐息の主は間違いなく滝澤だ。ダブルスに興味を示した透が気に入ったのか、このまま押し倒しそうな勢いで迫っている。
 いくら滝澤が性別不明と言っても、二学年の歳の差は、身長においても、腕力においても、格差があり過ぎる。すっぽりと先輩の腕の中に納まった透は、身動きが取れずにいた。
 グレー・ゾーンにどっぷり浸かった先輩に抱き締められ、ペアになれと口説かれている。この空恐ろしい状況から脱出するには、滝澤とペアを組んでいる荒木に助けを求めるしかない。
 「荒木先輩を差し置いて、俺がペアになれる訳ないじゃないッスか。荒木先輩だって、そう思いますよね? って、あ、荒木先輩……?」
 「別に」
 無口な荒木はそれだけ言うと、無情にもその場を離れていった。
 「そ、そんな……荒木先輩、見捨てないでくださいよぉ」
 透は必死で助けを求めたが、どうやら荒木にとってはいつもの事らしい。
 「そんなに緊張しなくても良いのよ、坊や。ダブルスって、本当に面白いんだから」
 「やっぱり俺、シングルスの方が性に合ってます!」
 「まずはフォーメーションから、じっくり教えてあげる。並行陣っていうのはね……」
 滝澤の細長い指が、透の鎖骨をつたって並列に並ぶ胸の突起をまさぐった。
 ダブルスは確かに面白い。だがそれは、あくまでも健全なパートナーとペアを組んで初めて味わえる醍醐味だった。地区大会を通じて、透はダブルスの奥深さを知ると同時に、得体の知れない恐怖もその身に刻むのであった。






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