第21話 必勝方程式

 いよいよシングルス戦が始まった。
 三試合目のS3に出場したのは二年生の中西だ。彼は取り立てて大柄でもなければ、筋骨隆々でもないが、日々のトレーニングから必要な筋力をつけているのだろう。引き締まった肉体から繰り出されるボールは力強く、自身よりも体格の良い選手を相手にパワー重視の鋭いショットで得点を重ねていた。
 「そう言えば、俺、中西先輩と話した事ないッスね」
 透はコートを囲む金網フェンスに背中をぴたりとつけて、首から上を百八十度後ろへ回すという奇妙なポーズでS3の試合を見学していた。
 「あいつとまともに話した事のある奴なんて、うちの部には一人もいねえよ」
 千葉も同様にして背後を取られないよう細心の注意を払いながら、かろうじて隣に聞こえる程度の小声で答えている。
 忍者屋敷ならともかく、ジャージを着てのこの体勢はどう見ても怪しく不自然で、必然的に他校の生徒からも訝しげな顔を向けられていたが、今の二人にはこうする以外、我が身を守る方法は考えつかなかった。
 昼日中、各校の精鋭がしのぎを削る地区大会の会場で、二人が最も注意深く目を光らせている相手は彼等が所属するテニス部の先輩、滝澤風雅であった。薄々感じてはいたが、やはり滝澤は本来異性に対して抱くべき特別な感情を男に対して抱くらしい。
 それが明確になったのが、先程の第二試合の直後 ―― 無邪気に「ダブルスは面白い」と感想を述べた透に対し、滝澤の魔の手が伸びてきた。
 後ろから限りなく羽交い絞めに近い状態で抱き締められ、もがけばもがくほど両手足の自由は奪われていった。耳元に絶え間なく吹き掛けられる生温かい吐息と、体の上をねっとりと這いずり回る指の感触と。それは透が今まで体験した事のない、カテゴリー不明の恐怖であった。
 入部したての頃に、唐沢が滝澤に声をかける場合は気を付けないと「食われる」と話していた。その時は意味が分からず困惑したが、並行陣の説明をするのに執拗なまでに胸の突起をまさぐられた今となっては良く分かる。
 幸いな事にすんでのところでS3の試合が始まり、それを機に千葉が強引に連れて去ってくれたから助かったものの、あのまま雁行陣の説明に移っていたら本当に食われていたに違いない。

 コート周辺の警戒を緩める事なく、透は会話を続けた。
 「もしかして、中西先輩も荒木先輩と同じで無口とか?」
 「いいや。あいつの場合は憧れだろうな。中西は荒木先輩のことをメチャメチャ尊敬しているから、少しでも憧れの先輩に近付きたくて無言を通している感じだな」
 「俺、荒木先輩のことも良く分かんないッス」
 普段から「はい」と「別に」しか発しない先輩を理解するには相応の年月が必要で、新入部員の透には無理からぬ事だった。
 「荒木先輩は、言ってみりゃ男だ」
 「男、ですか?」
 「余計な話は一切しないけど、いざという時はビシッと決める。『不言実行の男』なんだ」
 千葉の話を聞きながら、透は第一試合で荒木が最後に放った一打を思い返していた。卑怯な振る舞いを重ねる芙蓉学園の選手に対し体ごと吹っ飛ばしたあのパワフルなショットは、確かに男らしい決め方だった。口数は極端に少ないが、荒木は個性の豊か過ぎる光陵テニス部において、数少ない常識人と呼べるかもしれない。
 ダブルスの説明と称して白昼堂々後輩の体を弄ぼうとする性別不明の先輩や、試合中にやたらと古臭い台詞を使ってくる『寅さん』マニアのナンバー3、校内試合をギャンブルに利用して金儲けを企む副部長。これらの面々に囲まれていれば、たとえ「はい」と「別に」しか言わない無口な先輩だったとしても、その存在は光り輝いて見える。

 透は中西の荒木に憧れて無口を通す気持ちが、他人事ながら理解できた。
 人間誰しも、理想を追い求める際に目標となる人物が必要だ。己の理想に到達する為に、そこに近い人物を探して、考え方や行動を把握し、自身の中に取り入れようとする。そして取り入れた中から一つでも形になれば、それは理想を現実にする為の確かな手段となる。
 中西の場合、その対象が荒木なのだ。候補者が極端に少ない部内で、彼は無口な先輩を自分の中に取り込み、己を理想に近付けようとしている。
 では、透の理想とする人物は誰なのか。いや、その前に、光陵テニス部で何を追い求めているのか。今一度、自分に問いかけてみる。
 同級生の遥希を倒すこと。これが当初の目標で、テニス部に入った最大の理由である。
 しかし遥希を打ち負かす為には彼を目標にするのではなく、彼を越える実力の持ち主を目標に設定する必要があるのではないか。
 遥希より強い選手と言えば、最初に頭に浮かぶのは唐沢だ。唐沢は前回のバリュエーションで遥希をラブゲームで下した兵であり、部内でも部長の成田と一、ニを争う実力者だと聞いている。
 だが唐沢の人間性を含めて考えた場合、反射的にこれ以上関わりを持ちたくないと思ってしまう。あの先輩が関与すると、借金が膨らむだけでろくな事が無いというのは、すでに経験済みである。
 だからと言って、パワーヒッターの荒木を目標にするのは無理がある。人間性とプレーの両方から尊敬できて、目標にしたいと思える先輩は、残念ながら光陵テニス部には見当たらない。

 「トオル? お前さ、理想のプレースタイルってあるか?」
 問題児だらけの生活環境を振り返り、悶々とし始めた透であったが、千葉の問いかけで我に返った。
 「プレースタイルですか? 正直、まだ良く分からないです」
 「そうか。この話は、ちょっと早かったか。
 でもな、自分の理想とするプレースタイルについて考えるのは悪い事じゃない。むしろそれを意識する事で得意な勝ちパターンが分かってくるし、そこへ行き着く過程を覚えれば、試合も有利な展開に持っていける。
 単純に相手の攻撃を防ぐだけじゃ、この先、勝ち抜いていくのは不可能だからな」
 防御だけでは点は取れない。それは、今までの対戦からも感じた事だった。
 相手の攻撃を防ぎながら、自分の得意とするパターンに繋げて、点を取る。防御から攻撃へと試合の流れを変えていく確かな手順。つまり自分のプレースタイルを意識するとは、勝利を掴む為の方程式を明確にするという事だ。
 「けど、俺、どんなスタイルがあるかも知らないし」
 プレースタイルを意識する事の必要性を理解できても、やはり知識と経験が伴わない。己の理想とするプレーがどういうスタイルで、どんなやり方が合っているのか。具体的なビジョンが無いのである。
 透のテニスに関する知識がいまだ初心者レベルである事は、本人よりも一歩先を行く千葉の方が分かっているのだろう。彼は「心配するな」という風に軽く笑って見せてから、身近な先輩を例に挙げながらプレースタイルについて更に詳しく教えてくれた。
 「聞き慣れない言葉だと難しく感じるかもしれないが、お前の周りにも参考になる先輩はたくさんいるんだぜ。
 例えば、シンゴ先輩。あの人は典型的なサーブ&ボレーヤーだ」
 藤原とは、前に一度だけ対戦した事がある。元陸上部の彼は、自慢の俊足を活かしてサーブと同時にネットに付き、ボレーで攻撃するという試合展開を見せていた。
 「他にもパワー、脚力、持久力、テクニック。自分の得意とする能力を活かしてプレースタイルを固めていくのが、一番の近道なんだ」
 試合の行方を気にしながらも、千葉は他の先輩についても説いていった。部長の成田はオールラウンドプレーヤーで、副部長の唐沢は、相手の球威を利用して反撃に変えていくカウンターパンチャーというスタイルであった。
 オールラウンドプレーヤーは、ネットからでもベースラインからでも相手に合わせて変幻自在に攻撃を仕掛けられるのが特徴で、非常に順応性の高いスタイルである反面、多様な能力が必要となる。また、カウンターパンチャーは他のスタイルに比べて受身に思えるが、それはそれで高度な技術が要求されるという。
 透は先輩達がコートで戦う姿を頭に描いてみた。
 いつも厳格な部長としてテニス部を率いる成田。彼は恐らくイメージ通りの隙のないプレーをするのだろうが、オールラウンドプレーヤーと呼ばれるスタイルがある事を今日初めて知った初心者には、それ以上は想像できなかった。
 更にイメージの湧かないのが、副部長の唐沢だ。あのギャンブルしか頭にない男が真剣勝負を行う絵図は、将棋盤の前でこそ相応しく、カウンターパンチャーという覚えたての用語をもってしても、汗を流して戦う姿は浮かんでこなかった。

 透達の背後では、中西が「4−1」とリードを広げていた。
 彼は荒木のようにパワフルなショットを連打できる程の豪腕の持ち主ではないが、要所要所で力強いボールを取り入れる事によって着実にポイントを決めている。ショットの使い分けが上手いのだ。
 だが千葉の話によると、それだけではないようだ。
 「あいつは荒木先輩のプレースタイルに近付く為に、決めの一打はインパクトを手前にして打っている」
 「インパクトを手前にすると、却って力を使う事になりませんか?」
 インパクト、つまり打点を手前にする為には、相手の球威が落ちる前にこちらから打ち返さなければならず、その分、余計な力が必要となるはずだ。
 「ああ。だけど、相手にコースを見切られる前に打ち込める利点もある。
 見ての通り、中西は荒木先輩のようにパワーボールを連続して打てる体じゃない。だから、ここぞの時に力と技術の両方を上乗せしてショットを放っている。
 平たく言えば、効率の良いパワーテニスってところだな」
 千葉の指摘を受けて、透はもう一度、中西のフォームを注意深く観察した。
 確かに、彼は通常よりもインパクトを手前にして打っている。足を小刻みに動かし、上手く打点を調節しながら、相手からの甘い球が来た時を狙って手前から打ち込んでいる。荒木ほどの派手さはないが、一撃必殺に匹敵するショットであった。
 「こういうプレースタイルもあるんですね」
 「パワー押し出来る荒木先輩のプレーは迫力もあるし、格好良いと思う。だけど、自分の欠点を補いながら理想のプレーに近付けていく中西も、俺はすげえ奴だと思う」
 透も千葉と同じ意見であった。特別な能力に恵まれていなくとも、工夫次第で理想に近付く事ができる。中西のプレーが、それを証明している。

 「ケンタ先輩は、誰が目標なんですか?」
 「俺は当然、成田部長だ」
 「オールラウンドプレーヤーを目指しているって事ですか?」
 「ああ、どうせ目指すなら一番が良い。だから、部長のプレースタイルを目指すんだ」
 成田がどんなプレーをするのか、まだ目にした事はなかったが、いかにも千葉らしい理由であった。
 透は「目指すなら一番が良い」という、先輩の言葉を胸の中で繰り返した。遥希を倒す事と一番を目指す事とは、同一線上のものなのか。一番を目指す過程で遥希を倒す事が出来るなら、それが透にとって最も理想的な形かもしれない。
 遥希を倒す術を考えているうちに、透の脳裏にふと父の姿がよぎった。父・龍之介の現役時代は、どんなプレイヤーだったのか。
 どうも遥希の話題になると、同時に龍之介を思い浮かべてしまう。父親同士が同じテニス部の同期であった事も関係しているのだろうが、それ以上に、父親から直接テニスを指導してもらえるライバルを心の底では羨ましいと思っていた。
 自宅がテニススクールで、父親がプロのコーチ。常にテニスに携わっていられる環境だ。その上、遥希の父親は、プライベートでは過保護の部類に入る。息子の行動にまったく関心を示さない父親を持つ透には、羨ましさが二重にも三重にも募り、だからこそ、尚更勝ちたい気持ちが強くなる。恵まれた環境にいるライバルを倒すことで、自分に無関心な父親をも見返せるような気がしていた。

 試合に意識を戻すと、ちょうど中西が最後のショットを決めた直後であった。「6−1」で、またも光陵学園が勝ち星を挙げた。素行の悪い芙蓉学園の選手達を相手に一時はどうなる事かと心配したが、終ってみれば光陵テニス部のストレート勝ちだった。
 コートを挟んだフェンス越しに、試合を見守る遥希の姿が見えた。転校初日に「必ず倒す」と心に決めてから、早一ヶ月。いまだ1ゲームしか取れずに馬鹿にされ続けている。
 今更ながら、己の立てた目標がとてつもなく遠く険しい道のりに見えてきた。しかし諦めようとは思わない。何度負けても良いから、勝つまでやる。これが透の信条だ。
 まずは自身のプレースタイルを固める為に、指針となる選手を探すこと。透の頭の中で、徐々にではあるが勝つ為の方程式が組まれ始めていた。






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