第22話 新星・海南中
昨年の地区大会優勝の実績によりシード枠から発進した光陵学園は、初戦で当たった芙蓉学園をストレートで下し、三回戦に駒を進めていた。今年も大会連覇を狙う先輩達には万事予定通りの経過のようだが、大会と名の付く公式試合そのものが未知なる世界の透にとって、優勝に向かう過程の一つ一つが新鮮で、胸躍らされる出来事であった。特に次の三回戦は個人的にも期するところが多く、対戦表を目にした時からそうなる事を願っていた。
光陵テニス部での練習後、より多くの経験を積む為に通い始めた区営コートで知り合い、少しずつ親交を深めてきた海南中のテニス部員。次の対戦相手は彼等であった。
学校の部活動と区営コートと、それぞれ違う場所で透が強いと認識する先輩達が、同じ舞台で対峙の時を迎える。これまで想像でしかなかった夢の対決が見られるかと思うと、今朝から抱えていた興奮は最高潮に達し、まるで祭りの前のような高揚感を身の内から感じるのであった。
次の試合までの中休み、透は昼食を取ろうと、テニス部の先輩達がたむろする控え室を離れて外へ出た。普段、練習の合間に取る昼休憩なら千葉や陽一朗と過ごすのが常だが、さすがに今日は遠慮した。陽一朗は次のD1に、千葉はS3に、それぞれ出場する。集中が必要となる彼等の邪魔をしてはならないと、考えての事だった。
地区大会の会場であるスポーツセンターは、テニスコートの他にも野球場や陸上競技場なども併設されている複合施設で、広々とした敷地の中には低木の植え込みを仕切りとする芝の広場が随所に見られ、出場選手のみならず競技とは無関係と思われる老夫婦や親子連れにも憩いの場を提供していた。
透が木々の濃い緑と芝生の黄緑が交差する清々しい景色を楽しみながら歩いていると、何処からか自分を呼び止める声がした。
「よう、トオル! 光陵学園も調子良さそうだな?」
声のする方を振り返ると、海南テニス部の部長・村主が他の部員達と一緒に芝生の上で弁当を広げていた。ここが地区大会の会場だと意識しなければ、ピクニックにでも来ているような和やかな雰囲気だ。
常々思う事だが、海南中の部員達は皆、仲が良い。個性派揃いの光陵学園にはない団結力がある。どちらが良いとか、悪いとかではなく、透はその海南中の輪の中に心地良さを覚えていた。都会にいながらにして故郷にいるような、ほのぼのとした温もりを実感するのである。
「村主さん、三回戦進出おめでとうございます!」
「おいおい、良いのか? 『おめでとう』を言われるのは嬉しいが、俺達は次の対戦相手だぞ?」
「良いんですよ。俺、自分の学校も応援してますけど、海南中も応援してるんで!」
「ハハッ! 相変わらずだな、お前は」
村主は敵も味方も関係ないという透の大らかな発言が気に入ったのか、熊のように大きな体を揺らしながら豪快な笑い声を芝の上に響かせた。出会った当初は口の聞き方からしてなっていないと、村主に叱り飛ばされた透だが、今では他の部員と変らぬ程に可愛がってもらっている。
続いて二年生の伊達が、握り飯で半分以上塞がった口をもごもごと動かし、声をかけてきた。彼もまた村主と同様、他校の垣根を飛び越え透を可愛がってくれている。
「昼メシまだなら、こっちで一緒に食うか? お袋が試合だってんで、多めに作りやがってさ。良かったら食ってくれ」
「でも、お邪魔じゃないですか?」
「タ〜コ! ここまでうちの部に馴染んでおいて、今更だろ?」
海南中の部員とは、区営コートで一日置きに顔を合わせている。しかも帰りが遅くなった時には、部長の村主か副部長の石丸にラーメンをご馳走になっている。着ているジャージこそ違うが、透も海南テニス部の一員と化しているのが現状だ。
「そうッスよね。それじゃ、お邪魔します」
透が伊達と並んで握り飯を頬張っていると、副部長の石丸が自身のジャージの上着をそっと差し出した。
「これ、着ておいた方が良い。真嶋にそのつもりがなくても、あらぬ噂を立てる輩は何処にでもいるからな」
言われた意味が分からず、きょとんとしていると、隣から伊達が言い足した。
「光陵の生徒が俺達と仲良くメシなんか食っていたら、情報を流しているんじゃないかって思われるかもしれないだろ? 部活の後に他校の部員と一緒に練習している奴なんて、普通はいねえから」
どうやら石丸は、透にスパイ容疑がかからぬように気を遣ってくれたらしい。こういう細かい配慮が、部長の村主の絶大な信頼を得ている要因でもあるのだろう。
確かに迂闊であった。区営コートならまだしも、ここは各校がしのぎを削る地区大会の会場だ。下っ端の自分が疑われたとしても大した問題にはならないだろうが、海南中の皆にあらぬ疑惑がかけられては事である。
透が退散しようと半分腰を浮かせたところを、伊達が素早く引き止めた。
「遠慮する柄じゃねえだろ? せっかくだから着てみろよ。うちのユニフォーム。
そうだ! いっそのこと、お前、うちの学校に転入してテニス部員になっちまえ。今なら漏れなく区営コートの利用券が付いてくるぞ?」
その冗談に応えるようにして、周りから一斉に笑い声が起きた。
伊達は、海南中の中でもムードメーカーの役割を果たしている。短気で、根っからの体育会系気質だが、きめ細やかな一面も合わせ持っている。今の冗談にしても、遠慮する透を気遣い、咄嗟に飛ばしたジョークである。
頼りになる兄貴分で、仲間思いで、それでいて自分が気を遣っているところを他人に知られたくない。透はふと、伊達と千葉はよく似ていると思った。
気心知れた仲間の輪に入り楽しく談笑していた透は、途中から自分が光陵テニス部の一員であるとの自覚を失くしていた。伊達からの宣戦布告を聞くまでは。
「トオル? お前には悪いが、今日の試合で俺達は光陵学園から『強豪』の名をぶん取るつもりだ。
S3で俺と対戦する千葉って野郎に、『ナメてかかると痛い目見る』と伝えてくれ」
口調は穏やかだが、真っ直ぐ向けられた視線には揺るぎがなく、それが彼の真剣さを物語っている。
透は全身が緊張で強張っていくのを感じた。
この地区大会に出場するほとんど全ての学校が、打倒・光陵学園を目標に掲げ、日々練習を重ねて来ている。海南中も例外ではない。その証拠に、伊達が束の間に見せた闘志は他の部員達にも伝染し、今まで和やかだった輪の雰囲気が緊迫したものへと変わっていった。
まるで敵陣に囲まれたリングの中に、うっかり足を踏み入れたような気分であった。
強豪の名をぶん取る。それは、三年の歳月をかけてようやく同じ土俵にこぎつけた海南中の悲願でもあるのだろう。彼等の静かなる闘志に圧された透は、「分かりました」と答えるのが精一杯だった。
昼食を終えて、海南中の輪の中から抜け出した後でも、透の緊張はまだ解けなかった。自分が試合に出場する訳でもないのに、体は硬直したままだ。
単純にハイレベルな試合が見られると、今朝から両校の対戦を楽しみにしていたが、彼等の決意を聞いた今となっては、その考えが甘かったと反省せざるを得ない。この会場には、参加した者全員を勝者と敗者に分断するというシビアなシステムが存在する。皆が敗者側に蹴落とされないよう決死の覚悟で試合に臨んでいる。その大前提を忘れ、観客気分ではしゃいでいた。
人は己が優位な立場に立つと、足元の真実を見失うものである。
透は、口では「海南中を応援している」と言いながら、自分のチームが敗退する可能性など考えもしなかった。男女合わせて十二面のコートを有し、レギュラーの編成もきちんと組織化されている。充実した設備と優れた指導者は優勝への優待券のようなもので、それを手中に収める光陵テニス部は皆が欲しがる栄冠から最も近い位置にいるのだと。
実際、優待券かもしれない。だが、引換券ではない。その事を、海南中は証明しようとしている。彼等は設備こそ整っていないが、勝つ為の努力や苦労は他校の何倍もして来ている。それはこの一ヶ月間、練習を共にしてきた透が誰よりも知っているはずではなかったか。
勝つ為の努力こそが最も手堅い引換券であり、優勝への切り札でもある。その当たり前の事実を思い出し、透は身近に迫った敗北という名の緊張に捕らわれ、身動き出来ずにいた。
「よう、トオル? メシ、食ったか?」
選手控え室から出てきた千葉が、いつもと変わらぬ様子で話しかけてきた。
「ええ、まあ」と曖昧な返事をしながらも、透は先程の伊達からの伝言をどうやって切り出して良いのか迷っていた。千葉に限って油断しているとは思えなかったが、もうすぐ試合が始まるというのに随分とリラックスして見える。
選手によって、試合前の準備の仕方はそれぞれ違う。個性派揃いの光陵テニス部では、特にそうだ。滝澤は鏡に向かって髪の手入れをしているし、荒木は終始無言のまま天井をじっと見つめている。伊東兄弟にいたっては、“あっちむいてホイ”などとふざけた方法で互いの集中力を高めている。
「ケンタ先輩は、準備とかしなくて良いんですか?」
「いや、俺の場合は特にない。いつも通り、自分のプレーをするだけだ」
透は思い切って、今しがた伊達から言い渡された宣戦布告を伝える事にした。
「へえ……お前、海南の連中と仲が良いんだな」
遠慮しながら話した所為か、要点が伝わらず、千葉の興味はまったく意図せぬ方向へ傾いた。
「そうじゃなくて、ケンタ先輩? 伊達さんはですね……」
海南中を侮ってはいけない。ハッキリそう言えれば良いのだが、千葉には千葉の思いがあるだろう。まして初心者レベルの後輩からの指摘となると、先輩の面子を潰してしまう恐れもある。どうやって先輩のプライドを傷付けずに伝えるか。
考えあぐねる透の背後から、胸の内と寸部違わぬ内容が明確な忠言となって流れてきた。
「ケンタ、俺からも忠告しておく。今年の海南は今までとは違う。格下だと思って油断していると、痛い目を見るぞ?」
いつになく物々しい声音で近付いてきたのは、副部長の唐沢だった。さすが「軍師」の異名を持つだけあって、彼はすでに何処からか海南中の実情を掴み、油断ならない相手だと判断したに違いない。
「分かりました。俺、ダブルス組と合流します」
透の中途半端な助言はともかく、副部長からの忠告は真摯に受け止めてくれたのだろう。千葉は早めのウォーミング・アップに入る為に、その場を後にした。
役目を終えて透が一息吐いているところへ、唐沢が唐突に質問をよこしてきた。
「真嶋? お前、海南の連中と親しいのか?」
「えっと、それは……」
透は咄嗟に口ごもった。もしかして石丸が心配していた通り、自分にスパイ容疑がかけられているのではないか。やましい事は無いはずなのに、疑われていると思うと変に焦ってしまう。
「えっと、それはですね。別に情報を流しているとかじゃなくて、部活の後によく区営コートで練習を一緒にさせてもらっていて、それで……」
「そんなに慌てて言い訳しなくても良い。俺は村主とはちょっとした知り合いだから、あいつの人となりは分かっている」
「そうだったんですか。良かったぁ」
スパイ疑惑から解放されて胸を撫で下ろした透に、唐沢から新たな質問が投げかけられた。
「真嶋はあいつ等のこと、どう思う?」
「どうって……とにかく、すげえ人達です」
「例えば?」
「毎日すげえ練習やっているし、メニューも半端ないし、チームワークって言うんですかね? それもすげえあるし、とにかく凄い人達です!」
「お前ね。もう少し頭を使って話してみろ。これから『すげえ』は禁句だからな」
知らず知らずのうちに、便利な言葉に頼っていたのか。「すげえ」を禁じられた透は、いかに普段から理論的に物事を捕らえていないか、痛感させられた。練習量が多いとか、練習メニューに工夫が見られるとか。本来ならしっかりと分析して伝えなければならない状況を、全て「すげえ」の一言で片付けてしまっていた。
透は頭の中を整理しながら、改めて唐沢からの質問の答えを返した。
「まず練習量がうちより多いのと、メニューの内容も豊富だと思いました。コートで打つだけが練習じゃないって、俺、あの人達から教わりましたから。
それと、海南中は村主さんを中心に団結していて、各選手が個々の役割を心得ているように思います」
これだけの内容を「すげえ」で済ませていたとは、怠慢にも程があると反省した。
「なるほどな。それでお前は、テニス部に団結力が必要だと思うか?」
「そう言われれば、テニスは個人プレーだし、必要ない……?
でも海南中の部員を見ていると、それが選手のやる気に繋がっているようで、すっげえ……あ、いや、精神面では大事なのかと……」
やはり「すげえ」を禁句にされると、使用言語の半分を封じられたような不自由さがある。だがそれは如何に普段から物事を整理しないでやり過ごしていたかの証拠であり、その事を唐沢が指摘してくれたような気がしてならなかった。
先程から唐沢は厳しい表情を崩さなかった。理由は「すげえ」を禁止された後輩の心もとない回答の所為ではないだろう。少し前に始まった三回戦の初戦に出場している滝澤・荒木ペアが、開始早々、苦戦しているのである。
相手の海南ペアは両者とも小柄な体型にもかかわらず、荒木の攻撃を上手くかわしている。雁行陣を敷く光陵ペアに対し、ダブルバックの陣型と多彩なロブを組み合わせながら、荒木のパワーが活かせないような策を講じているのである。
抜きつ抜かれつの攻防から目を離す事なく、唐沢が再び質問を投げかけた。
「毎日、通っているのか? あのコート?」
どうやら唐沢も区営コートの存在を知っているらしい。
透は「はい」とだけ答え、余計な事は話さなかった。互いに一歩も引かないゲームの行方が気になっていたからだ。
ゲームカウントは互いのサービスゲームをキープする形で「4−4」まで進んでいたが、いまだ勝負は甲乙つけがたい状況でシーソーゲームが続いていた。それは即ち、相手選手の実力が息の合った光陵ペアと同等である事を物語っている。
昼休憩の時に感じた緊張が、またも透の体を襲う。優勝を目標に練習を重ねてきた自分のチームが負けるかもしれない。出場選手達は皆、この緊張感を背負って戦っているのである。夢の対決が見られると、はしゃいでいた己の愚かさが悔やまれた。
「試合がどう転ぶか、その展開は川の流れによく似ている」
緊張の面持ちでコートを見つめる透の隣で、唐沢がおもむろに切り出した。
「流れに逆らって無理をすれば、脆い箇所から崩される。だけど、どんなに勢いのある川でも必ず流れを変えられるポイントがあるはずだ。要は、そこを冷静に見極められるかが勝負の分かれ目だ」
直感的に透は、次の第9ゲームがその分かれ目だと感じた。
第9ゲームに入るとすぐに、滝澤と荒木は陣型をダブルバックにチェンジした。
双方で守りの陣型を組んで持久戦に持ち込むのかと思いきや、すかさず滝澤がネット際に落ちるボールを連打し始めた。遥希のドロップショットほど急激に落ちる事はなかったが、同じく後方に陣を構えていた海南ペアはコートの前後で揺さぶられる格好となり、かなりの苦戦を強いられている。
しかもある程度体力を消耗した後での揺さぶりは、試合経験の浅い海南ペアには効果覿面だったようである。滝澤のショットにつられた相手がネット前に出た途端、荒木も前へ躍り出て隙の出来た箇所へボレーを決めるという、いつもの勝ちパターンを見せている。状況から察するに、滝澤達がダブルバックで陣を後ろに置いたのは、海南中の絶妙なタイミングで上がるロブを敬遠しての事だろう。
唐沢の話していた「流れを変えるポイント」とは、やはりこの第9ゲームであった。それ以前のゲームでこの作戦を取ったとしても、まだ相手の体力に余裕があるうちは効果がない。だからと言って最終ゲームまで引き延ばしては、前後に移動する荒木の体力までが危うくなる。まさに今が絶好のタイミングなのだ。
「そう言えば、お前、さっき滝澤に口説かれていただろう?」
コートを見つめる唐沢から、厳しい表情が消えていた。
「あ、いえ、あれは……」
この質問こそ、やましい事は一つも無いはずなのに、何故か透は異様な焦りを覚えた。スパイ容疑をかけられたと思った時よりも、嫌な冷や汗が出てしまう。
「滝澤は、ゲームの流れを引き寄せるのが抜群に上手い。流れを読むという点ではダブルスもシングルスもそう変わりはないから、せいぜい仲良くしておけよ。色々と勉強になるはずだ」
「仲良くしろと言われてもですね。滝沢先輩の場合、説明の仕方がちょっと人とは違うと言うか、危ないと言うか……」
滝澤から吹き掛けられた吐息の感触が耳元で復活した。少し湿った感じのする気色の悪い温もりが、耳の後ろを刺激する。
「ま、勉強の為だと思って一晩ぐらいは我慢してさ。目を瞑っていれば、大抵の事は大丈夫だから」
「な、な、何を言っているんですか!? 俺、そんな趣味ないですよ!」
「趣味はなくても、興味はあるだろう? 滝澤がどっち側の人間なのか。男として男が好きなのか、女として男が好きなのか。
この際、うちの部で放置しているグレー・ゾーンに突入してみろよ。俺等の二個上の先輩達からお前等の代まで、五学年に渡って褒めてもらえるぞ?」
「いや、でも、あのグレー・ゾーンに安易に近付くのは本当に危険で、さっきもですね……」
しどろもどろで答える透の反応を、唐沢は腕組みしながら楽しげに眺めている。
「もしかして唐沢先輩、俺の事をからかっていませんか?」
「からかうって言うよりも、暇潰し? もう、勝負が見えちゃったからね」
コート上では滝澤・荒木ペアが海南ペアを振り切り、勝利を収めていた。つまり唐沢は、この少し前に行われた第9ゲームの様子を見て、勝利がどちらに転ぶかを判断していたという事だ。
考えようによっては、彼もまた滝澤と同様、試合の流れを読む達人に違いない。裏表の激しい困った性格はともかく、趣味の悪いギャンブルにも目を瞑れば、唐沢は副部長としてこの上なく頼れる存在だ。多少の但し書きが付いてしまうが、やはり強豪と呼ばれる光陵テニス部で副部長を任されるだけの事はあるのだろう。
唐沢が笑っているうちは、光陵テニス部が負ける事はない。先程まで敗北と背中合わせの緊張に支配されていた透には、彼の存在がいつになく心強く映っていた。