第24話 俊足のオフェンス VS 鉄壁のディフェンス

 シングルスの二戦目が始まろうとしていたが、伊達との対戦で敗れた千葉は退場後もフェンスの外からコートを睨み付け、身じろぎもしなかった。恐らく戦いの場となった白いラインの中に、まだやり残した事があるのだろう。
 力を出し切れなかった試合というのは、形式上は終わったとしても気持ちの上では踏ん切りが付かず、いつまでも燻ぶるものである。
 あの時、こうすれば良かった。もっと早くに対処していれば、違う結果が待っていたかもしれない。過去の行動を振り返り、逃したポイントが悔やまれる。どの場面においても自身が判断ミスを犯した気がして、今さら変えようがないと分かっていても、打ち損じたショットを何度も頭の中で再現してしまう。
 言い訳もせず、悔し涙も見せず、ただひたすらコートの中の一点を睨み続ける千葉に、透は声をかける事が出来なかった。
 試合に出場する限り、勝者と敗者に振り分けられる。勝負に参加した時点で、自分も敗者となる可能性を含んでいる。頭では理解していても、実際に「敗北」の二文字に直面すると、途方に暮れるのが現実だ。
 入部以来、連敗続きの透には敗北した者の気持ちがよく分かる。分かっているだけに、かける言葉が見つからない。
 今はそっとしておくしかないのだろう。兄貴分と慕う先輩の為に何も出来ないのは心苦しいが、不用意な言葉は却って傷付ける。自らの経験からそう判断し、透は次の試合に意識を集中させた。

 シングルス二戦目には、海南中からは副部長の石丸が、光陵学園からはナンバー3の藤原がオーダーされていた。この対戦もまた、透がよく知る二人の組み合わせである。
 バリュエーションで敗北した透に「お前は強くなる」と言ってさり気なく励ましてくれた藤原と、区営コートで村主にこっ酷く怒られた後、優しくフォローしてくれた石丸と。それぞれに恩のある先輩二人であった。
 この戦いにも、いずれは終わりが来る。そして彼等のうちのどちらかが、千葉と同じ立場に立たされる。それを考えると複雑な気分になったが、今は唐沢の指示に従い、先輩達の戦う姿から学ぶ事だけを考えた。

 試合は序盤から対照的なプレースタイルの攻防となった。サーブ&ボレーヤーの藤原はネット前から積極的に攻撃を仕掛け、石丸はベースラインに留まり堅い守りを見せている。
 一見、攻める側が有利に思えるが、石丸の防御の前では必ずしもそうとは限らない。下手に前へ出て攻撃しようとすればロブやパッシングショットで牽制される上に、最も手の出し辛い絶妙なコースを突かれる為に、結果としてコート内を前後左右と走らされてしまう。
 相手を後ろへ遠ざけるロブと左右に揺さぶるパッシングショット。この二つを上手に組み合わせ、ネットからの攻撃をかわしながら点を取る。これが石丸の防御を主とするプレースタイルであった。
 対する藤原は、ロブやパッシングが放たれる前にネットへ詰めてポイントを決めていく。但し一撃必殺、もしくは二打目のボレーで決めなければ、三打目に入る頃には鉄壁の防御に阻まれる。もともと彼は速攻型のサーブ&ボレーヤーだが、今回は特にスピード重視で攻めていた。
 藤原の攻めのプレーと石丸の守りのプレー。それぞれが独自のスタイルでポイントを重ねていき、自身のサービスゲームをキープしている。
 両者とも相手のサービスゲームでブレイクを狙っているのだろうが、いまだ突破口を開けないまま、ゲームカウントは「3−3」の引き分けで進んでいた。

 「やっぱ海南中の副部長ともなると手強いな。この試合、面白くなりそうだ」
 コート上の藤原が爽やかな笑顔で話しかけるが、石丸はろくに返事もせずに自分のポジションへと戻っていく。
 「おいおい、そんなに警戒するなよ。ここで遣り合うのも、何かの縁だ。お互い楽しくやろうぜ!」
 藤原も懲りずに声をかけるが、やはり石丸は無視を続けている。
 以前、バリュエーションで藤原と対戦した事のある透には、無視を決め込む石丸の気持ちが理解できた。あの笑顔に騙されてうっかり返事をすれば、突拍子もない口上が待っている。確か「大したもんだよ、蛙の小便」というような台詞だったか。
 中学生のくせに昭和の映画に心酔する藤原は、『寅さん』が客寄せに使う口上を時々口にする。練習の合間の休み時間ならともかく、気持ちが張り詰めている試合中にやられると、一瞬にして身も心も、解れなくても良い所まで解れてしまう。
 石丸が、あの癖のある口上を知っているかどうかは定かではない。だが、少なくとも相手にすれば自分の集中が乱される事ぐらいは、経験上、分かっているのだろう。
 さすが村主と共にここまで海南中を率いてきただけの事はある。安易に藤原の口上に引っ掛かる初心者とは違う。
 「そんな怖い顔しなくてもさぁ。笑う門には福来るって、言うだろ? スマイル、スマイル!」
 屈託のない笑顔を崩さずに、藤原も自身のポジションへと戻っていく。知らない人から見れば、彼は爽やかなスポーツマンとの印象を抱くだろう。しかしこの笑顔の裏側には、常に集中の糸を操る勝負師の顔が潜んでいる。
 元陸上部の彼は、集中の度合いが最高に高まった状態のアスリートの怖さを知っている。また嫌なことに、その断ち切り方も熟知しているのである。
 表面上は愛想よく接しているが、すでに駆け引きは始まっている。高らかに通り過ぎていった笑い声の中に、透は何やら仕掛けめいたものを感じていた。

 試合が動いたのは、この直後であった。
 今まで石丸のサービスゲームでは、藤原は堅い守りに阻まれ、ネット前から攻撃するチャンスを掴めずにいた。ところが今回彼が取った作戦は、皆の意表を突くものだった。
 それは藤原からの浅めの返球で始まった。サービスライン近くに落としたボールを拾って前へ出て来た石丸を、更にドロップショットでネット際へと誘う。藤原は後方で構えたまま、前へ出ようとはしない。誘き寄せられる格好で、石丸がネット前、藤原がベースラインに留まるという、今までとは正反対の図式が出来上がった。
 一体、藤原はこの態勢から何をしようというのだろう。
 透が固唾を呑んで成り行きを見守っていると、藤原から相手のサイドを抜く強めのショットが打ち込まれた。ネット際の石丸が素早く反応してボレーで返した瞬間。後方にいたはずの藤原が即座に前へダッシュして、逆サイドを突くボレーを決めていた。
 石丸を前に誘き寄せる事で、パッシングショットもロブも打てなくなる。こうしてネットプレーの足枷となっていた二つのショットを封じた上で、藤原は自身も一緒に前に出てボレーで勝負する策を取ったのだ。
 さすがの石丸も、これでは手の打ちようがない。浅い球を返球してから後ろへ戻れば、ドロップショットで決められる。だからと言って、ネット際からのロブは充分な距離がない為に、強引に打ったところで高さが保てず、ジャンプ力のある藤原に捕まるのが落ちである。
 無理やり前へ引きずり出された格好の石丸は、ネットプレーを得意とする藤原を相手にボレー合戦を強いられている。驚異的な足の速さとネットプレーに自信のある、藤原ならではの作戦だ。
 相手のプレースタイルが正反対であるからこそ、自分の得意なフィールドに連れて来てしまえば、その実力が半減するのは目に見えている。巧みな誘導作戦で石丸のサービスゲームをブレイクした藤原は、次の自身のサービスゲームもキープして「5−3」と王手をかけた。

 あと1ゲーム。次の第9ゲームを藤原が押さえれば、光陵学園の勝利が確定する。興奮で沸き上がる味方の声援の中で、透だけは黙ってコート上の二人を見つめていた。
 ここですんなり勝たせてくれるほど、石丸は甘くない。用心深い彼の事だ。きっと、何か仕掛けてくるに違いない。
 しかもまだ藤原からも発動されていない。あの癖のある口上が。あれは勝利の見通しが立った時のみ発せられる、切り札的な役割があるはずだ。
 藤原もまだ決着がついていないと思っているのか。それとも石丸に無視され続けて、出せずにいるだけなのか。いずれにしても、透は皆と同じように手放しで喜ぶ気にはなれなかった。

 「結構やるじゃん、うちのナンバー3も」
 いつの間にか、透の隣には遥希が立っていた。
 「このまま、一気に押し切れると思うか?」
 テニス歴の長い遥希が初心者の透に意見を求めるなど、珍しい事もあるものだ。
 前回のバリュエーションで唐沢と対戦していた遥希は、藤原の試合を見るのは初めてだ。遥希も多くの経験からスコア上の優勢が決してこの後の展開に繋がらない事を嗅ぎ取り、藤原との対戦経験を持つ透に、自分の勘が正しいか、確かめに来たのだろう。
 「いや……」とだけ答えて、透は口をつぐんだ。
 『寅さん』の口上の件は伏せておかなければならない。様々な学校が入り乱れて戦う試合会場では、何処で誰が聞いているとも限らない。万が一、石丸の耳に入るような事があれば、更にガードを固くするだろう。まして藤原が勝利を確信していない状態では、軽々しく口にするのは避けた方が良い。
 透は不意に罪悪感に襲われた。それはまるで爆破予告を聞いておきながら、知らん顔しているような。けれど、その爆破を少しだけ楽しみにしているような。
 あの真面目な石丸が試合中に「大したもんだよ、蛙の小便」と言われたら、どんな顔をするのだろう。目を白黒させて驚くのか。それとも、平然と無視するだけの精神力を持っているのか。
 人が窮地に陥る姿を楽しみにするなど悪趣味だと分かっているが、彼がどんな反応を示すのか、興味があった。自分がまんまと引っ掛かった後だけに、他の人間にも同じようなリアクションを期待してしまう。

 「5−3」で光陵学園がリードした後の第9ゲーム。予想通り、石丸は奥の手を使ってきた。
 ネットプレーを得意とする藤原に対し、あらかじめ準備していた策だろう。勢いに乗る藤原をネットにつかせると、ミスショットとも思えるような低いロブを上げた。
 ポイントを決めるには絶好の高さである。藤原が迷わずスマッシュを放った瞬間、石丸が繰り出してきたのはスライスのかかったロブだった。
 アンダースピン・ロブとも呼ばれるこのロブは、スマッシュの勢いが強ければ強いほど、上向きにセットしたラケットを擦り上げるだけでボールに高さが出る。威力のあるスマッシュに対して特に力を入れなくても、タイミングを掴むテクニックさえあれば充分に決め球となるロブだった。
 並外れたジャンプ力を持つ藤原を相手に、最初は強打されないよう低く短いロブを上げ、続いて彼のスマッシュの勢いを利用して、アンダースピン・ロブで決める。つまり一打目のロブをスマッシュで打たれる事を想定し、ロブの二段構えで反撃したのである。鉄壁のディフェンスを誇る、石丸ならではの策だった。
 不用意に前へ出ればロブの餌食になると悟った藤原は、一旦、後ろに下がって態勢を立て直そうとするが、石丸は自分がやられたのと同じ方法で彼をネット前へと誘き寄せると、次々とロブを上げていく。

 形勢が逆転した。ロブの二段構えで第9ゲームを制した石丸は、続く第10ゲームも物にして、試合を振り出しに戻した。
 「いや〜、なかなか良い試合になってきたな! やっぱ、S2はこうでなくちゃ。結構、結構!」
 海南中にゲームカウント「5−5」と追い付かれた時点で、またも藤原が声をかけたが、相変わらず石丸は知らん顔をし続けた。人の良い彼が徹底して無視を決め込むなど、普段は断じてあり得ない。
 あの二段構えのロブを上げるにはテクニックは勿論、集中力も必要となる。だからこそ、緊張の糸を緩めないよう気を付けているのだろう。藤原を無視し続けている限り、途切れる事はない。
 堅い守りで試合を進める石丸は、勝負師の駆け引きをも巧みに遠ざけていた。
 これでまた勝負が分からなくなった。このままでは、タイブレークに持ち込まれるかもしれない。
 タイブレークとはゲームカウントが双方とも「6−6」に達した時点で導入される試合形式で、そこで行われる最終ゲームに関しては、相手に2ポイントの差をつけて合計7ポイントを先取した側が勝者となるシステムだ。
 一旦は流れが光陵学園に傾きかけたが、この勢いなら海南中が勝利する事も充分考えられる。
 もしも藤原が敗れた場合、最後の対戦は唐沢と村主である。それを見越して、唐沢は早めのウォーミング・アップに入っている。

 息も吐けない攻防が続く中、遥希が遠慮がちに話かけてきた。
 「なあ、次の対戦も、ちょっと見てみたくないか?」
 「ああ。正直、俺も同じ事を考えていた」
 「楽しみ……だよな?」
 「ちょっとな」
 建前上、二人とも「ちょっと」と言ったが、本当は、「すごく」楽しみだった。大将戦を楽しみにする事自体、この状況では不謹慎だと分かっているので、遠慮して「ちょっと」を加えたに過ぎない。
 大将戦が始まるという事は、藤原の敗北を意味している。光陵テニス部員が身内の敗北を望むのは、どう考えても非常識な行為である。だがしかし、透も遥希もそれを承知で次の対戦を願わずにはいられなかった。
 光陵学園の副部長と海南中の部長との真剣勝負がどんなものか、見てみたい。これはテニス部員としてではなく、プレイヤーとしての願望だ。チャンスがあるなら高度な試合を見てみたいと願う、向上心の現れだった。

 今日はやけに遥希と意見が合う。普段の遥希は口を開けば透を挑発するような事ばかり言うのだが、こういう大きな大会になると共通の目的がある所為か、いつもは反目し合う相手でも気持ちが一つになるらしい。
 唐沢にしても、今日はいつになく副部長らしい一面を見せていた。
 「そう言えば……」
 次の試合に出場するはずの唐沢は、何処にいるのだろうか。気になって探してみたが、それらしき人影は見当たらない。
 ゲームカウントは「6−5」だ。そろそろスタンバイしておかなければ、間に合わない。
 透が呼びに行こうとした矢先、フェンスの側でスポーツ新聞を広げる人物が目に入った。まさかとは思ったが、背格好はそっくりだ。
 赤みがかったココア色の髪と、色白で細身のその人物は、白を基調とした赤と濃紺のラインの入ったジャージを羽織っている。あれは、まさしく光陵テニス部のユニフォーム。
 間違いない。フェンスの側に立っているのは、副部長の唐沢だ。
 ちょうど透のいる場所から、彼が目を通していると思われるスポーツ新聞の紙面が見える。原色を使った派手な見出しの下に、豊満な胸を殊更に強調したポーズを取る水着姿のお姉さんのカラー写真が大きく掲載されている。とても健全な中学生が地区大会の会場で広げて読む代物ではない。
 透が思わず顔を背けた瞬間、遥希もその異質な存在に気が付いた。
 「うちの部には、まともな先輩はいないのかよ?」
 遥希が侮蔑を込めた目で唐沢を見やってから、その感情を持て余したように、同じ視線を透に投げてよこした。もっとも過ぎる意見に透が曖昧な笑みを浮かべていると、二人の後ろからダブルスに出場した双子の陽一朗がやって来た。
 「あれはさ、唐沢先輩流の集中の仕方なんだよね」
 「あれ、陽一先輩? 太一先輩と一緒じゃないんッスか?」
 「双子がいつも一緒にいると思うなよ。人気お笑いコンビは、出番の時以外は別々にいるだろ? それと同じだよ」
 お笑いコンビとダブルスを同じに考えて良いのか分からなかったが、それよりも、透はあのミスマッチな光景を説明してもらう方が先だった。
 「集中するにしても、どうしてアレなんですか?」
 「何でも良いみたいだよ、新聞だったら。顔の前で大きく広げて、一気に活字を斜め読み出来れば良いんだってさ。ちょっと変わった集中の仕方だけどね」
 “あっち向いてホイ”で集中力を高められる人間が言ってはいけない台詞だと思ったが、透は黙って聞いていた。
 「だったら、せめて経済新聞にして欲しいよな」
 透に代わって、遥希が仏頂面で苦言を述べた。まだ光陵テニス部に染まり切らない、言わば至極まともな意見にもかかわらず、陽一朗はそれに共感する気はないと見えて、遥希の苦言をさらりと受け流して言った。
 「いつも家に置いてあるのが、スポーツ新聞なんだって。
 だけどお前等、アレ読んでいる時の唐沢先輩に間違っても声をかけるなよ? うっかり話しかけて、鼻の骨を折られた奴もいるんだぜ。
 あの先輩、ああ見えて三人兄弟の次男坊だからね。普段はセーブしているけど、無心になっている時は口より手の方が早いらしいよ」
 「言われなくても、近付かないッスよ。仲間だと思われたら嫌だから」
 遥希が露骨に不機嫌な顔を陽一朗に見せてから、スポーツ新聞から最も遠い反対側のフェンスへと移動していった。その気持ちは分からなくもないが、さすがに透にはそこまでする勇気はない。極力唐沢へ視線が向かないようにして、試合に集中した。
 程なくして、審判がゲームカウントを告げた。だがそれは試合終了の合図ではなく、別の意図でアナウンスされたものだった。
 「6−6」までもつれ込んでも決着がつかない勝負の為に特別に用意された舞台 ―― タイブレーク突入の合図であった。






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