第27話 エースのプライド

 第一試合で敗れた先輩達には申し訳ないが、この一敗によってS2の唐沢まで出番が回ってきた。ついに副部長の試合が見られるかと思うと、透は胸の高鳴りを抑える事が出来なかった。
 正直なところ、唐沢に対する印象は機会あるごとに変わっている。最初は部長の補佐役に徹する人望厚い副部長かと思いきや、裏では校内試合を賭け事に利用するギャンブラーの顔を持ち、性質の悪い二重人格者だと距離を置いて接していたら、地区大会では意外にも後輩想いの一面を見せている。
 玉虫色に変化する人格に触れるにつれて“掴みどころのない先輩”との印象が濃くなっていくのだが、一つだけ確信を持って言えるのは、彼には決勝戦のS2を任せられるだけの実力があるという事だ。影で散々悪事を働いているにもかかわらず、コーチや部長が唐沢を責任ある立場に据え置き頼るのも、それらの所業を帳消しにする程の力を備えているからに他ならない。
 だがしかし、対戦相手の季崎もまたチームのエースとして出場するぐらいだから、その実力は疑いようもないのだろう。先程の二人のやり取りを聞いた限りでは、さしずめ因縁の対決といったところか。
 いずれにせよ、今回のS2の対戦がかなりレベルの高い試合になる事は、倍に膨れ上がった観客の数から見ても明らかだ。

 コート上では、さっそく季崎が宣戦布告とばかりに唐沢に詰め寄っていた。
 「君にあのウィニングショットは決めさせないからね」
 ウィニングショットとは、いわゆる決め球の事である。透はまだ目にした事はないが、唐沢には決め球となる得意なショットがあるらしい。そして季崎には、それに対抗する秘策があるようだ。
 「へえ……そりゃ楽しみだな、タク」
 涼しい顔で答えているが、唐沢もすでに戦闘モードに入っているのか、いつもより目つきが鋭くなっている。
 「やっと思い出してくれたみたいだね、僕の名前」
 「さっきは、ちょっとからかっただけだ。集中しているところを邪魔されたから。
 季崎拓美。ライバルの名前を忘れる訳がない」
 試合開始前から、両者の間には不穏な空気が流れている。さすがに優勝のかかったS2の対戦ともなれば、士気の高まり方も違うのだろう。彼等から放たれる気迫がコートの外にも伝わってくる。

 透は注目の一戦を一瞬たりとも見逃すまいと、応援席の中でも審判台の後ろに位置するベストポジションを確保した。ここならコートを側面から捉えられるので、コートチェンジが行われたとしても障害物に阻まれる事なく双方のプレーを観察できる。
 ところが透の意気込みとは裏腹に、期待したS2の試合は激戦になるどころか、拍子抜けする程のんびりとしたペースで進められた。両者とも積極的に攻撃を仕掛ける様子はなく、ひたすらベースラインでの打ち合いが続いている。時折、季崎のフットワークが不規則に乱れるが、それ以外は実に単調で、審判が真剣な眼差しでボールを追っていなければ試合前のウォーミング・アップと勘違いしてしまいそうな変化の無さである。
 一つのポイントを決めるのに、一体どれくらい打ち合いを続けるつもりだろうか。様子を見るにしても長過ぎる。特に唐沢は攻めあぐねていると言うよりは、攻める気が無いような、のらりくらりとしたリズムでボールを返している。
 序盤から激しいラリーの応酬を期待していた透は、面白味のない試合運びに段々と飽きてきた。
 決して自慢にはならないが、透は内に留めておくべき考えが表に出やすい性質である。本人は悟られないよう気を付けているつもりでも、傍目には注意力散漫な様子が容易に察知できるらしい。隣で観戦していた日高がちらりと透を見やり、髭が生えかけているのか、剃り残したのか分からない、薄っすらと青黒い顎をコートの方へ差し向けた。
 「おいおい、せっかくベストポジションにいるんだから、唐沢のプレーをよく見ておけよ」
 「『よく見ておけ』って言われても、これじゃあ普段の練習と変わらないじゃんか」
 「ま、今のお前なら、そう見えても仕方ないか」
 「他に、どんな見方があるんだよ?」

 含みを持たせた言い方の意味するところが分からず、透が詳細を尋ねようとした矢先、季崎のボールがネットにかかった。相手のミスショットで、ようやく1ポイントが決まった。ここまで来るのに、ゆうに五分は経っている。
 透の目の前で審判が「0−15」と告げた。心なしか気だるそうに感じるアナウンスを聞いてから、再び日高が口を開く。
 「良いか? 一見単調に見えるかもしれないが、このラリーの主導権は唐沢が握っている。
 ボールを繋ぐだけの季崎と違って、唐沢は返球に何かしらの変化を付けている」
 日高の助言を参考にして、透は唐沢のプレーを注視した。
 最初に目に付いたのは球種の変化であった。唐沢は球種を小まめに変えながら返している。トップスピンの合間にスライス、緩いボールの合間にスピードボール。通常なら直線的になりがちなストレートを山なりに、逆に山なりのクロスを直線的にと、軌道もコースも違えながら打っている。しかも、のらりくらりと見えるのは上半身の動きだけで、下半身は細かく動かし対応している。
 表面上は単調に映るラリーから、少しずつ水面下で行われている攻防が見えてきた。唐沢はただ相手のボールに合わせて返球するのではなく、自発的に回転やスピード、更にはコースも変えて打っている。
 「ラリーには長くなればなる程、ある種のリズムが生まれる。唐沢は相手がそのリズムに乗る直前で打球を変えて、ペースを崩している」
 「ペースを崩す?」
 攻撃に出るのか、防御に回るのか。この二つのパターンしか打ち方を知らない透は、「ペースを崩す」という意味が咄嗟に理解出来なかった。その困惑を見越してか、日高が一つ頷きを入れてから説明を続けた。
 「簡単に言えば、気持ち良くラリーを続けているところに水を差すようなものだ。ラリーの最中に、相手が勢いに乗ろうとする直前で球種を変える。ただでさえ不規則なボールで対処がしにくい上に、これを繰り返されれば、いくら季崎でもミスが出る」
 先程、季崎のフットワークが不規則に乱れていたのは、唐沢にペースを崩されていたからだ。話をしている側から、またボールがネットにかかった。
 飄々とラリーを続ける唐沢とは対照的に、エースの顔が曇っている。

 「季崎はアンビでエースを張るだけあって、容易にポイントを奪える相手じゃない。実際、相応の力があるからこそ、ここまでラリーが長引くわけだ。
 唐沢はそれを計算に入れて、チェンジペース作戦をしいている」
 「チェンジペース作戦? だけど今はアンビのサービスゲームだから、唐沢先輩に主導権を握られる前に、速攻を仕掛ける事も出来るだろ?」
 「少しは学習したようだな。お前の言う通り、そろそろ反撃に出るだろう。季崎も点差を広げられまいと焦ってくる頃だ」
 日高が言い終えたと同時に、季崎が先手を取ってネットダッシュをかけてきた。その瞬間、唐沢からパッシングショットが放たれた。まるで矢で射抜かれたようにコートを駆け抜けていくショットは、透が今までに見たどのパッシングよりも速かった。
 「すっげえ! あのパッシング、伊達さんのより速えんじゃねえか?」
 華奢な体から矢のようなスピードボールが飛び出すとは思わず、透はうっかり禁句にされたはずの「すげえ」を使っていた。毎回玉虫色に人格を変える唐沢だが、試合においては良い意味で透の予想を裏切ってくれる。一度は冷めてしまった興奮が、復活しつつあった。
 その傍らで、日高が冷静に指摘する。
 「いや、球速は他の選手とそう変わらないはずだ。ただその前に散々緩いボールを見せられているから、何倍も速く感じるだけだ」
 「そうなのか? 俺には、メチャメチャ速いボールに見えたけど……」
 「目の良い奴ほど、このトリックにかかり易い」
 「これも、唐沢先輩の作戦の一つって事か?」
 「まあな」

 唐沢のパッシングショットによって、ネット前を取ろうとしていた季崎が後方に下げられた。シングルスのコートの枠を目一杯使って、再びラリーが続けられる。
 今回は、透も飽きる事なくコートの中のやり取りを見つめていた。コースや球種を変えるタイミングとそのフォーム、一つひとつの手順を目に焼き付けた。ランダムに見えるショットのうち、どの組み合わせが相手のペースを乱す為に最も有効なのかを確認し、細部に至るまで記憶する。
 細かく観察すればするほど、このラリー自体、いかに高度な技術が要求されるかが分かってくる。やはり唐沢は只者ではない。
 後方へ追いやられた季崎は次々と送り込まれる多種多様なボールに対処するのに精一杯で、なかなか攻撃態勢に持ち込めない。強く打ち込もうとして高低の激しいボールでかわされ、前へ出ようとして左右に振り回され、ベースラインで焦れているのが見て取れる。
 精神的なものなのか、あるいはペースを崩された所為かは分からないが、またしても季崎のスッテプが乱れてイージーボールが上がる。それを易々と沈め、第1ゲームは唐沢が先取した。

 単調だと思ったラリーの中で、着々と行われていた唐沢のチェンジペース作戦。それは透が今までに見た事も聞いた事もない試合展開であった。
 豪快なパワーショットで力押しするのではなく、スピードを活かしたネットプレーで攻め立てるのでもなく、様々な球種を織り交ぜ相手を崩す。いくつもの伏線を張り巡らし、敵をじわじわと追い込んでから仕留める戦法は、まるでコートの上で将棋を指されているかのようだ。
 唐沢が仕掛けた罠の正体を知るにつれ、透は自身の体が硬直していくのを自覚した。
 「これがうちのS2の実力……」
 「いや、これからだ」
 日高がにやりと笑った。

 長かった第1ゲームに比べて、第2ゲームはすぐに決着がついた。
 唐沢のサーブはパワーがあるでもスピードがある訳でもなかったが、フラット・サーブとスライス・サーブを同じコースに器用に打ち分ける事が出来た。
 ややこしい事に、彼のスライス・サーブは大して湾曲せずにコートに入る。一見して軌道は直線コースを描くフラットとほとんど変わらず、ボールの弾み方を見て初めてそれと分かるスライスだ。また、その弾み方も通常の外側へ大きく逸れるスライスと違って、体の内側に向かって真っ直ぐ低く、食い込むようして迫ってくる。
 フラット・サーブと変わらぬ軌道で入ってくるのに、いざ返そうとするとイレギュラーなバウンドを起こすのだから、受ける側は混乱する。季崎の技術をもってしても、リターンは甘い返球となっていた。
 その機を逃さず唐沢が仕留め、ポイントを重ねていく。結果として、第2ゲームは一度もラリーに繋がる事なく終了した。

 ゲームカウント「2−0」と、試合は光陵学園のペースで進められている。
 季崎にサーブ権のある第3ゲーム、つまり唐沢がリターンに回る次のゲームでは、第1ゲームと同じ戦法でポイントを取るつもりなのだろう。再び長い打ち合いが始まった。
 透と共に試合の経過を見ていた日高が、珍しく穏やかな顔を向けた。
 「唐沢のプレーは、昔の龍にそっくりだ」
 「龍って、親父に?」
 「ああ。龍も、ああいうトリック・プレーが得意だった」
 「なあ、おっさん? 親父って、どんな選手だった? 強かったのか?」
 これは透が予てから父に聞きたくて、いまだに聞きそびれている質問であった。
 前回のバリュエーション以降、龍之介とは今まで以上に会話のない親子になっていた。いくら気持ちが荒れていたとは言え、肩の故障が原因でやむなくコートを去った父親に対し、日高と同じようにテニスを教えてくれないと責めてしまったのだ。ずっと後ろめたい気持ちを背負っていたが、反抗期真っ只中の息子には父親に謝罪するという発想は微塵もない。
 だが、聞きたい事は山ほどあった。光陵テニス部員であった父・龍之介はどんな選手だったのか。プレースタイル、戦い方、得意なショットや目標としていた選手等々、テニスを深く知れば知るほど、その欲求は膨らんでいった。
 「ま、そこそこ強かった。俺の次ぐらいに、な」
 意味ありげな笑みを口元に浮かべ、日高が透の顔を覗き込む。
 「唐沢の頭脳とテクニックにお前の柄の悪さを足したのが、学生時代の龍之介だ」
 「俺は、親父から柄の悪さしか継いでないのかよ!?」
 酷い言われように口を尖らせ抗議をするが、日高は当然と言わんばかりの態度で反問する。
 「今のところは、しょうがないだろう? まだお前はプレースタイルすら確立していない、初心者だ。ひよっ子にもならない卵と鶏を比べるようなもんだ。共通点を見付ける方が難しい。
 ああ、その荒っぽい気性はそっくりだがな」
 「嬉しかねえよ」
 常々、性格が悪いと思っている父親にそこが似ていると言われても、素直に喜べるはずもない。期待外れの返答に釈然としない透であったが、試合の続きが気になって、コートへ視線を戻した。

 相変わらずコート上では長いラリーが続けられていた。
 唐沢は長身でもなければ、筋肉もさしてなく、瞬発力や持久力に長けている訳でもない。むしろアスリートとしては、競技に不向きな体である。それでもエースの季崎をここまで追い込めるのだから、「すげえ!」としか言いようがない。
 唐沢のプレーが父の姿と重なった。龍之介もこんなテクニックを駆使したプレーをしていたのだろうか。そして、その父よりも強いのが、隣にいる日高だという。あくまでも本人談で怪しい気もしたが、仮にも元プロなのだから、あながち嘘でもないのだろう。
 透は先程の村主との会話を思い出し、日高に真相を確かめてみたくなった。
 「おっさんって、唐沢先輩の兄貴と光陵の伝統を変えたって聞いたけど、本当なのか?」
 「そんな大層な話じゃない。ただ、北斗がインターハイに行きたいと言うから、手助けしたまでだ。部員の願いを叶えてやるのが、コーチの務めだからな」
 「インターハイ? それって、高校生が行くヤツだろ?」
 「ああ。北斗は昔から、現実直視の男でな。あいつが入部したての頃のテニス部は、せいぜい都大会まで行ければ万々歳のレベルだった。
 うちが全国まで行ったのは、後にも先にも、俺と龍が高等部で現役の頃。その一度きりだ」
 「つまり、唐沢先輩の兄貴は中学から高校までの六年計画で狙ってんのか? 全国を?」
 「今でこそ部員達の意識も高いが、数年前までは、全国なんてのは夢物語だと思われていたからな」
 そう言えば、以前、マネージャーの塔子からも同じ話を聞いた記憶がある。光陵テニス部が日高をコーチとして招き入れ、充分な設備と体制を整えたのは五年ほど前の事だと言っていた。
 「先輩たち強えから、ずっと強豪なのかと思っていた」
 「トップの座を守り続けるのは、それだけ難しいという事だ。第一、うちが強豪でいられるのはこの地区大会までで、都大会に進めば今でも弱小だ」
 「もっと強い奴が、たくさんいるって事か?」
 「ああ、そうだ」
 「じゃあ、おっさん? 俺も強い奴等と戦いたいから、全国まで行かせてくれよな。部員の願いを叶えてやるのが、コーチの務めなんだろ?」
 一瞬、日高の顔色が変わったように見えたが、すぐに普段通りのふてぶてしい顔に戻った。
 「断る。お前は俺をコーチと認めていないだろう?」
 「何だよ、おっさん! 俺だって、部員じゃねえか!?」
 「だったら、コーチと呼べ。いつまでも、おっさん、おっさん、言うな」
 「大人気ないぞ、おっさん」
 父親の古くからの親友であるとの気安さから、透は日高のことを「コーチ」と呼んだ事がない。入部した時から「おっさん」で通している。
 「おっさんが俺の願いを叶えてくれて、本当にすげえって思ったら、そん時はコーチって呼んでやる」
 「そういう意固地なところが龍にそっくりなんだよ、お前は!」
 「おっさんに言われたくないって」

 「おっさん」か「コーチ」かの議論は二人の目の前で展開しているラリーのように果てしなく続いたが、第3ゲームも唐沢が制すると、どちらからともなく黙って試合に集中した。
 次のゲームで季崎が反撃を開始しなければ、挽回のチャンスは激減する。エースのプライドに賭けても、何か仕掛けてくるはずだ。
 ところが第4ゲームで透が目にしたのは、外側に大きく逸れるスライス・サーブに翻弄される季崎の姿であった。
 「おっさん、さっき唐沢先輩が打っていたスライス・サーブと違うよな?」
 「ああ、唐沢はフラット・サーブとは別に、二種類のスライス・サーブを打ち分けられる。外側に大きく逸れるスライスと、真っ直ぐ低く沈むスライスと」
 「意図的に軌道を変えてるって事か?」
 「今は技術的な説明をしても理解出来んだろうから、ざっくり言うと、コースを打ち分けた結果がボールの軌道やバウンドの変化に繋がると思えば良い。
 あいつ、さっきまでセンターばかりを狙っていただろ?」
 確かに唐沢は、コートの中央に集中してサーブを入れていた。
 「けど、それはフラットかスライスかで混乱させる為じゃなかったのか?」
 「それだけじゃない。ずっと同じコースに打たれる事で、リターナーは反射的にバウンドの上下だけを意識してしまう。そこへ外側に大きく逸れるサーブが加われば、相手は更に戸惑うはずだ。次は上か下か、右か左かってな。
 第2ゲームの低く沈むスライス・サーブは、ここで季崎を惑わせる為の見せ球だ」

 以前、透は遥希との試合でスライス・サーブを体験した事がある。だがそれは、今にして思えば軽く曲がる程度のスライスで、唐沢のサーブほど大きく逸れる事はなかった。
 外側に大きく逸れるという事は、それだけ軌道が読み辛いという事だ。直線コースであれば、ある程度予測がつく。しかし曲線となると、その軌道に慣れるまでに時間が必要となる。だからこそ唐沢はこの曲がるサーブを序盤で使わずに、後半になるまで温存しておいた。
 高いトスを上げてゆったりとスィングする唐沢は、まるで「取れるものなら取ってみろ」と相手に見せ付けているようだった。わざとらしいまでに時間をかけたフォームは、初心者の透には勉強になるが、季崎にとっては苦痛と感じるに違いない。あの品の良い顔立ちが、苦渋に満ちている。
 右か左か、上か下かと相手を惑わし、第4ゲームも制した唐沢が、更に追撃を加えた。
 「タク、そろそろ楽にしてあげようか?」
 優位に立つ者だけが出来る余裕の笑みを浮かべながら、唐沢がライバルに囁いた。

 「4−0」のゲーム差が唐沢を油断させたと、透は思った。
 「楽にしてあげる」とは現行のチェンジペース作戦を中断し、一気に片を付けるという事だ。即ち、唐沢が決め球で勝負に出る可能性が高い。だが、この試合が開始される直前、確か季崎は決め球に対する秘策があると宣言したのではなかったか。
 しかも次は季崎のサービスゲームである。彼の方が主導権を握り易い上に、4ゲームを経た事で、唐沢がどのタイミングでどんなショットを繰り出すか、大方の見当もつくはずだ。もしも秘策の話が本当だとすれば、決め球を捻じ伏せて試合の流れを引き戻すには絶好のチャンスである。
 案の定、季崎は苦渋に満ちた表情から一転して、活力を取り戻したように生き生きとプレーをし始めた。トップスピンを連打しながら、軽やかなフットワークで少しずつ前へと詰めている。
 対する唐沢は矢継ぎ早に放たれるトップスピンの後ろへ回りこみ、例の決め球を打とうとしているらしかった。
 「しまった!」
 声を上げたのは、季崎であった。彼は己の早計さを悔やむように、束の間、歯を食い縛り、それと同時に腰を落として体勢を低くした。その足元がぐっと踏み締められた瞬間、唐沢から放たれたボールはネット際ですとんと落ちた。

 フェンス越しに見ていた透には、今ひとつ季崎の心理が理解できなかった。
 「なあ、おっさん? 今のボールって、ただのドロップショットだろ?
 決め球とは違うショットを出されて季崎さんが焦ったのは分かるんだけど、ポジション的には走ればドロップショットを拾える位置にいたじゃんか? なんで、後ろに留まったんだ?」
 「あれは、唐沢が第1ゲームから仕掛けたトリックに引っ掛かったんだ」
 「まだトリックがあったのか?」
 「唐沢のチェンジペース作戦は、単に相手のミスを誘うだけじゃなく、わざとラリーを長引かせる事で自分のフォームを相手の目に焼き付けさせる効果もある。季崎ほどのレベルになれば、ラリーの最中に相手の動きや癖を読み取って、次の返球に備えるはずだからな」
 そう言われて、透はようやく不可思議な現象が理解できた。
 唐沢はわざと相手にスライスのフォームを覚えさせ、それと同じフォームでドロップショットを放った。長いラリーですっかりフォームを頭の中にインプットされてしまった季崎は唐沢の放つボールを咄嗟に後ろに伸びるスライスと思い込み、前に詰められる位置にいながら低いバウンドに備えて踏ん張ってしまい、みすみすドロップショットを拾う機会を逃したのだ。
 決め球だと思わせスライス、そしてスライスだと思わせドロップショットと、たった一打で季崎は二重に騙された事になる。
 「トオル? お前も唐沢のプレーをしっかり観察していただろう? 奴のフォームを見ながら、次に打たれるボールを当ててみろ」
 日高から言われた通りにやってみて、透は愕然とした。
 ドロップショットと思えばスライス、スライスと思えばドロップショット。ことごとく予想を裏切るボールが放たれる。同じフォームで打たれるだけに予測は困難を極め、なかなか合致しない結果に苛立ちが募っていく。
 しかもスライスだけではない。唐沢は今まで片手で打っていたバックハンドを両手に持ち替え、そこからスピードの遅いボールを繰り出すという、厄介なショットもラリーに組み込んできた。
 通常、片手打ちの選手が両手で打つ場合、ボールに更なるスピードをつけたり、回転を加えたり、球威を上げる為に行うケースが多い。その常識を逆手にとって、わざわざ両手打ちのフォームで緩いボールを返球するのである。それも単一ではなく、緩い返球かと思えば本当に鋭いボールが襲ってくる時もある。
 まるで予測する者をあざ笑うかのように、ことごとく裏をかいてくる。自分の目が信じられない。記憶が当てにならない。全てが逆、もしくは逆の逆の場合もあり、唐沢から返球されるたびに透は混乱を強いられた。

 季崎もまた、透と同じ状況に陥っているのだろう。決め球を封じると宣言したエースの顔は、混乱の一言で片付けるには申し訳ないほど情けなく歪んでいた。
 全ては第1ゲームのラリーから罠が仕掛けられていたのだ。チェンジペース作戦、ボールの緩急を利用した目の錯覚、そして予測の裏をかかれる事による混乱。何より季崎を苦しめているのは、失点の原因の大半が自身にあるという事実。唐沢は一度たりとも攻撃を仕掛けてはいない。相手のミスで浮いた球を決める事はあっても、自分から攻めに転じて攻撃的なショットを放った場面はないのである。
 自らの落ち度による敗北 ―― それはプレイヤーにとって最も屈辱的な敗因であり、プライドが高ければ高いほど苦痛は倍増する。エースのプライドが、必要以上に季崎を追い込んでいる。
 唐沢のトリック・プレーに翻弄された結果、季崎は自身のサービスゲームとなる第5ゲームも失った。

 透には季崎が蜘蛛の巣にかかった蝶に見えていた。精巧に練り上げられた網目模様の罠に羽を捕られた獲物。一度でも触れてしまった瞬間から、各所に仕掛けられた罠が始動する。蜘蛛の巣から逃れようと足掻けば足掻くほど、全身にまとわりついた糸に絡め取られて自滅する。
 身動き出来ないエースを尻目に、優勝へのカウントダウンが始まった。
 「そろそろ仕上げだろう」
 日高の予想通り、唐沢は勝敗が決する第6ゲームで最後のトリックを披露した。
 サーブの構えに入った唐沢が、ゆったりとしたフォームでトスを上げる。またもスライス・サーブを打ち込まれると予測した季崎が、外側へ逸れるボールに備えてサイドへ大きく踏み込んだ。ところが実際に打たれたサーブは、体の正面を狙ったフラット・サーブであった。
 唐沢は第4ゲームの大きく曲がるサーブにも、罠を仕掛けておいた。ゆったりとしたフォームはスライス・サーブだと印象付けておいて、それとまったく同じフォームでフラット・サーブを打ち込んでいる。
 「あいつは一つのフォームでフラット、スピン、スライスの三種類のサーブを打ち分けられるが、違うフォームでも同様に三種類のサーブが打てる。無論、センター、ボディー、ワイドの三つのコースの打ち分けも可能だ」
 「マジかよ!? そんな神業みたいな事が出来るのか?」
 「インパクトの位置や角度を調節する事で、それを可能にしている。現に、目の前でやって見せているだろうが。お前の言う神業を」
 フラットだと思えばスライス、横に逸れるかと思えば正面に向かって食い込んでくる。記憶したはずのフォームがどれも裏目に出てしまう季崎に、最終ゲームから挽回する気力は残っていなかった。

 終わってみれば、ゲームカウント「6−0」で唐沢の圧勝だった。結局、彼は一度も決め球を出さずに季崎に勝利した。
 「お疲れ、キザピョン」
 試合後の握手を求めながら、唐沢が涼しい顔で話しかける。
 「最初から、僕をはめるつもりだったのか!?」
 「えっ、何が?」
 「とぼけるな! ウィニングショットを出すつもりなんか無かったんだろ!? 散々、人のこと持ち上げておいて……」
 痛恨とは、今の季崎の為にある言葉に思えた。青筋を立てて、怒りに震える季崎は、しばらくの間、唐沢を睨み付けていたが、やがてそんな事を続けたとしても後悔が増すだけだと悟ったのか、差し出された手を払いのけるようにして去っていった。
 対照的な二人の姿を見ていた日高が、透の肩を叩いた。
 「だから、さっき言っただろう? あいつの中では、もう試合が始まっていると」
 それを聞いて、透は得心した。
 この試合が始まる前、新聞を読んでいた唐沢は季崎を 「キザピョン」と呼んでからかっていた。そして試合に入ると「タク」と言い直し、あたかも季崎をライバル視しているように印象付けた。
 第5ゲームで季崎に決め球が出ると思わせたのも、「楽にしてやる」の台詞だけでなく、その前のあだ名を言い直すという伏線が効いている。自分はライバル視されるほど認められているのだから、唐沢もそれに相応しい形で勝負を挑むはず。「タク」と呼ばれる事で、季崎は反射的にそう思い込んだ。
 だが唐沢の中では最初から決め球を出す気などなく、相手を調子づかせる為の演出だったのだ。季崎のプライドの高さを利用したトリックは、試合前からすでに準備が始まっていた。

 「トオル、お前も将棋を指すなら『駒落ち』を知っているだろう?」
 おもむろに、日高が将棋で使う専門用語を出してきた。駒落ちとは、将棋で対戦する相手と実力差がある場合に、上位者側の駒をいくつか外して戦うハンデ戦のことである。
 「唐沢が決め球を出さなかったのは、さしずめ駒落ちってとこだろうな」
 それ程までに季崎と唐沢との実力の差は歴然で、まだまだ本気を出さずとも勝てる相手だったという事だ。
 言われてみれば、確かに唐沢は将棋が強かった。『闇の学園祭』の時に、それは実感した。日頃から父親に鍛えられている透ですら、舌を巻くほどの腕前だ。
 将棋の戦術にも、攻めると見せかけて相手を翻弄し、戦局を見誤らせる戦法がある。唐沢はそれをコート上で実践したのだろう。しかも、自身にハンデを課しながら。
 あの先輩が本気を出せば、どのくらい強いのか。想像しただけで体中の血が騒ぐ。
 「ただ、あいつが駒を外した理由は別にある」
 日高がコートの出入り口で試合を終えた唐沢に話しかけている目付きの鋭い男を指差した。
 「去年の都大会の優勝校、明魁(めいかい)学園の部長、京極だ」
 詳しい説明を聞かずとも、透は本能的にその男を大きな群れを率いるリーダーだと悟った。彼の人を射抜くような鋭い視線は、子供の頃に対峙した「山の主」と呼ばれるイノシシにそっくりだ。弱者を瞬時に退かせる気迫が、彼にはある。
 「恐らく偵察に来たんだろう。自分の学校も、今日は地区大会のはずなんだがな」
 「えっ!? 部長が地区大会に出場しなくても良いのかよ?」
 思わず出した大声が自分を指していると気付いたのだろう。京極が迷惑そうに透の方を振り返った。正面から見ると、ますます迫力のあるイノシシ顔である。
 「うちと違って、わざわざ部長の手を煩わせなくても地区大会ぐらい楽勝だそうだ」
 京極の代わりに返事をしながら、唐沢が透のところへ近付いてきた。その後姿を追うようにして、京極が声をかける。
 「相変わらず嫌味な野郎だな。今の試合と言い、その陰険な性格がプレーに滲み出ていたぜ」
 山の主が低い声で文句を言っているが、唐沢は全く気にせず、透に向かって歩いてくる。
 「たまたま有利な展開に転んだだけだ。計算尽くのプレーじゃない」
 「決め球を隠しておいて、よく言うぜ。せっかく見に来てやったのに」
 「ああ、アレね。出す前に、勝っちゃったんだよね」
 「まったく、食えない奴」
 「お前ほどじゃないさ」

 明らかに唐沢はとぼけている。彼は対戦相手の季崎のみならず、偵察に来た京極をも視野に入れて試合を進めていたのだろう。
 透は唐沢の底知れない実力の一端を見せ付けられて、自身の中に一つの“念”が芽生えているのを自覚した。普段は賭け事しか頭になくとも、ライバル校のエースを駒落ちで下した才あるプレイヤーに対して抱かずにはいられない。尊敬の念だった。
 重大な責務を果たしたわりには涼やかな顔の唐沢が、透の前まで来て立ち止まった。
 「今の試合、しっかり頭に叩き込んだか?」
 「はい! もう、バッチリです!」
 透は我ながら単純だと思った。尊敬する先輩の前で背筋がピンと伸びている。
 「よし、良い返事だ。すぐに都大会に向けてのバリュエーションがあるからな。
 今日の試合をどう活かすかは、お前次第だ」
 「はい!」
 「お前の借金、一万一千五百円だから。今度こそ稼がせてくれよな、『ウ吉』君!」
 「へっ!? 借金って……唐沢先輩?」
 呆気に取られる後輩を置き去りにして、唐沢は軽い足取りで控え室へと消えていった。
 後輩想いの先輩が、地区大会終了と同時に悪質なギャンブラーに戻っている。どうやらこの大会で授けてくれた教えは、全て透をレースに勝たせる為の指導だったようである。
 今回の大会で透が胸に刻むべきは、ダブルスの陣型でも、プレースタイルでも、ましてや戦術云々でもなく、光陵テニス部の先輩に安易に尊敬の念を抱いてはならないという何とも虚しさを伴う教訓であった。






 BACK  NEXT