第28話 ムスクをつけたナイト

 さわさわと降りてくる優しい雨のようなシャワーの滴を、季崎は恨めしく思った。節水対策の一環なのだろうが、湯量を調節できるはずのコックを目一杯捻ってみても水圧は変わらず、点線状の細かな水滴が体の表面を湿らすだけだった。
 ここのスポーツセンターはいつもこうだ。競技で使用する器具や設備は最新のものを揃えているくせに、選手控え室やシャワールームなど、観客の目に触れない舞台裏がお粗末なのだ。
 泡でぬめったコックと格闘すること数分。季崎の口から溜め息が漏れる。帰る前に洗い流しておきたいものが流れていかない。大量にかいた汗も、こんもりと泡立ててしまったボディーシャンプーの泡も、試合後に握手を求めてきたライバルの涼やかな笑みも。
 気を取り直して顔を上げ、シャワーヘッドから滴る少量の湯の粒を正面から受け止める。今日一日の出来事を跡形もなく消し去るには、こうしてじっと待つほかないようだ。
 生温い湯を浴びながら、「問題ない」と心の中で呟いた。部員達の悲願であった優勝を逃した事は無念だが、チームとしては上位二校の枠内に留まり都大会への切符も手に入れたのだから、大勢に影響はない。しばらくはエースの重荷を背負わされる事もないだろう。

 爽快感の乏しいシャワーを終えると、季崎は控え室のロッカーからオーデコロンの小瓶を取り出し、いつもより多めにつけてみた。無香性の制汗剤が圧倒的な支持を集めるテニス部内で、彼だけはムスクのコロンを愛用している。
 スパイシーな香りの中にもエレガントな甘さを残す季崎のムスクは使い方次第でオヤジと化してしまう扱い辛い代物だが、敢えてそれを極める事で、大人の男の仲間入りが出来るような気がしていた。当然の事ながら安価なものではない。主にヨーロッパ方面を中心に輸入業を行う父親を通じて、パリから取り寄せたこだわりの一品だ。
 つけ過ぎると下品になるので、普段は微量に止めている。だが今だけは、この官能的な刺激に包まれていたかった。
 ほとんど無色に近い薄黄緑色の液体を手に取り、首筋から鎖骨にかけて馴染ませる。シャワー室のカーテンの隙間から立ち昇る湯気と共に、大人の香りが部屋中に広がった。

 「問題ないですよ」
 幾層にも重なる白い蒸気をある一人の人物に見立て、季崎はお決まりのフレーズを繰り返す。悔しさを顔に出さずに、平然と言ってのける。そうしなければならなかった。帰宅後、父親から今大会についての質問を受けた時の為に。
 貿易会社の経営に携わる季崎の父親は、独自の帝王学を持っている。故に、彼の前では冷静沈着、迅速果断、どんな窮地に立たされようとも常に毅然とした態度でいることが要求された。たかが地区大会レベルの試合で惨敗した挙句に落ち込んで帰るなど、決して許される行為ではない。
 天井にこもった湯気が次第に冷やされ消えてゆく。その実体のない人物に向かって、苦手な箇所を滑らかに言えるよう、もう一度繰り返す。
 「問題ないですよ。今日も楽勝でした」

 会場前に待たせておいた自家用車で帰る途中、季崎は新しい刺激を取り込もうと窓の外に目を向けた。自分では如何ともし難い感情を薄めてくれる材料を探して、オレンジ色に暮れゆく街中の雑踏を追いかける。
 しかし、敗戦の惨めさを塗り替える程の景色はそう簡単には転がっていない。家路を急ぐ人の波。携帯電話を片手にせかせかと歩くビジネスマン風の男や、友達とふざけ合いながら蛇行気味に進む自転車も。目に付く順に注意深く観察してみるが、すぐにあの光景が浮かんでしまう。息一つ乱さず飄々とラリーを続けるライバルの姿が、人を小馬鹿にしたような涼しげな笑顔が、頭から離れなかった。
 「あそこで停めてくれ。少し頭を冷やしてくる」
 季崎は何気なく目に入った区営コートの入口に車を停車させると、運転手をその場で待たせ、独り奥へと入っていった。
 これと言って深い考えはなかった。今日の試合を振り返り、反省すべき箇所を修正するなどの思惑があった訳ではない。ただ父の前で強気な息子を演じる為には、何処かで情けない自分を着替える必要があったのだ。

 天気の良い土曜日とあって、区営コートは和やかな空気に包まれていた。家族連れやカップルが楽しげにボールを追いかけ、そこ此処から笑い声が上がっている。
 純粋にテニスを楽しむ人々 ―― セカンド・サーブをミスしても「ごめん」と言って笑い合える彼等が、別世界の住人に見えた。はらわたが煮えくり返るほど悔しい思いをさせられたテニスが、ここではレジャーとして親しまれている。
 手を伸ばせば届く距離にいながら、決して交わる事のない異質な空間。そこから、ふと目を背けた時だった。
 突然、視界に飛び込んできた少女に、季崎は息を呑んだ。コートの外で独り佇む姿は、幼い頃に思い焦がれていた初恋の彼女によく似ていた。
 顔や姿形ではなく、どこか儚げな雰囲気がそっくりだ。特に首を軽く傾けて伏せ目がちに俯く仕草は、季崎の記憶にある彼女と瓜二つのポーズであった。
 季崎は躊躇う事なく声をかけた。
 「ねえ、君……ひとり?」


 地区大会はめでたく光陵学園の優勝で幕を閉じる結果となったが、表彰式終了後に控え室に集められた光陵テニス部員は、全員、緊張の面持ちで立っていた。
 この大会が始まる前、D1に出場するはずの太一朗が集合時刻に遅れて大騒ぎとなった。強豪チームがひしめく中での勝利に、透はもちろん、他の部員達もとうに遅刻の件など失念していたが、部長の成田だけは記憶の容量が違うと見えて、大会の総評の後で恐ろしい事を口にした。
 「太一の遅刻の件だが、まず罰として五ミリ以下の坊主。それから一ヶ月間の部室掃除とコート整備。後は……」
 通常、坊主と言われてイメージするのは野球部員のトレードマークである五分刈りが一般的だが、今回、成田はそれより短い丸刈りを指定した上に、更なる処罰を考えているようだ。一体、彼はどれ程の罰を課そうとしているのだろうか。
 よどみなく言い渡される判決文のような物言いに全部員が首をすくめて固まっていると、副部長の唐沢がやんわりとした口調で遮った。
 「成田、それぐらいにしてやろう。これ以上の処分は練習に響くだろう? 都大会を前にしてダブルスの要の太一に潰れられたら、俺達が困る」
 確かに遅刻は重罪だ。しかし年頃の中学生にとって坊主は極刑に近いものがあり、部室掃除とコート整備が加われば充分な処罰と言えよう。
 正面切って太一朗を擁護するのではなく、チームの都合を理由に挙げて取り成すあたりは、さすが女房役の副部長である。延々と続くと思われた部長の厳命がぴたりと止んだ。
 「んじゃ、そういう事で。祝勝会、パーっと行くぞ!」
 一件落着する頃を見計らっていたかのように、コーチの日高が陣頭指揮を執る。但しその口振りは遅刻した太一朗をかばったと言うよりは、酒盃の楽しみを優先させた結果に思えてならなかった。

 祝勝会へ向かう部員の流れに逆らい、透は奈緒と待ち合わせをした区営コートへと急いだ。前々から鞄を修理してくれた礼の代わりに、テニスに付き合う約束を交わしていた。全員参加が原則の祝勝会を欠席するのは少しばかり気が引けたが、彼女の為に最も長く割ける時間を考えると、地区大会が終了した後のこの機会しかなかった。
 なかなか上達しない自分に劣等感を抱いて、テニススクールを辞めた奈緒。その彼女が「もう一度テニスがしたい」と言い出した時、透は迷わず「一緒にやろう」と提案した。それは単に鞄の修理に対する感謝の気持ちだけでなく、テニスの思い出を苦痛の一言で終わらせて欲しくないと思ったからである。
 「あいつ、もう来ているかな……」
 今日は色々な事があった。太一朗の遅刻で危うくダブルスに出場させられそうになったり、芙蓉学園の卑怯なプレーに激怒したり、性別不明の滝澤に襲われ怯えもしたが、先輩達のプレーはそれらのごたごたを吹き飛ばしてしまうほど見応えのあるものだった。試合の流れによって変わるダブルスの陣型の数々、一度は敗れた千葉の見事な復活劇や、タイブレークまでもつれ込んだ藤原と石丸の対戦や、どれを思い出しても胸が熱くなる。
 透は、奈緒に会ったら何から話そうかと思いを巡らせながら区営コートまで足を速めた。
 いつも取り留めのない話に耳を傾け、大した落ちがなくとも笑ってくれる。透が初めて体験した出来事には共に目を丸くして驚き、失敗談にはケガはなかったかと心配してくれる。そんな彼女に一刻も早く会いたかった。会って話がしたかった。
 今まで抱いた事のない感覚が全身を包む。楽しいとか、嬉しいとか、わくわくするといった、ありきたりな感情ではなく、帰るべきところに帰らないと身も心も落ち着かないような、本能的な作用であった。
 胸の鼓動が速くなるにつれて、脚も速くなる。体の何処かに磁石でも仕込まれているかのように、彼女のいる方へと引っ張られていく。この引力にも似た感覚を不思議に思ったが、深くは追求しなかった。
 何故かと問いかける暇があるのなら、彼女と会って話がしたい。一刻も早く会って話をする方が、この不思議な感覚から解放される。どういう訳か、それだけは確信があった。

 透はスピードを落とす事なく、区営コートの入口の長い階段を一気に駆け上がった。ところが約束の場所に到着してみると、そこには妙な男に絡まれて困り果てている奈緒の姿があった。
 「そんなに怖がらなくても良いよ。少し話をするだけ。
 こう見えても、君を楽しませる自信はある。僕なりの騎士道に則って。あ、武士道じゃないからね……」
 いかにも軽薄そうな男がつつと言い寄り、同じ歩幅だけ奈緒がつつと退く。内気な彼女は精一杯意思表示をしているつもりだろうが、軽薄男の前では無駄に終わる。
 「だって、日本の侍よりもナイトの方が共感出来ると思わない? 武士道って、何となく湿っぽいじゃない? それにお殿様より、お姫様を守りたいって思う方が自然でしょ?」
 彼女に会えて静まるはずの胸の鼓動が、ますます激しくなった。透は二人のもとへ歩み寄ると、男の肩を乱暴に掴んで振り向かせた。
 「俺の女に気安く話し掛けんじゃねえよ」
 本当は目が合うと同時に二、三発ぶん殴っておこうと思ったが、何処かで見覚えのあるその顔に振り上げた拳が止まった。
 「あっ……唐沢先輩にコテンパンに負けたキザ野郎……?」
 奈緒にちょっかいをかけていた男は、地区大会の決勝戦で唐沢に完敗した季崎であった。
 「な、何を失礼な。キザ野郎じゃなくて、それを言うならキザピョ……」
 途中まで言いかけて、季崎は口をつぐんだ。『キザピョン』と言い直そうとしたのだろうが、そのあだ名には嫌な思い出があるらしい。
 動揺を隠すようにして、季崎が問いただす。
 「君、彼女とどういう関係?」
 「だから、俺の女だって」
 奈緒の唖然とする顔が目に入ったが、透はひとまず季崎を追い払う事に重きを置いた。
 「俺達は今から大事な約束があるんだ。お前なんかの出る幕はねえから、とっとと消えな」
 通りすがりに声をかけた程度のナンパであれば、彼氏が現れた時点で諦める。季崎がすぐに引き下がることを期待して、透は彼氏の振りを続けた。
 しかし騎士(ナイト)気取りのキザ野郎は一向にその場を離れる気配がない。それどころか品の良い顔を引きつらせ、こっちを睨んでいる。
 予想以上にしつこく食い下がる相手に対し、透も同じように睨み返した。

 季崎は、いきなり人の話に割り込んできた見知らぬ少年が腹立たしく思えてならなかった。初対面で嫌悪を抱く事など滅多に無いのだが、何故か目の前にいる彼だけは癇に障る。
 せっかく想い人に似た少女と巡り会ったというのに、無神経にも邪魔する態度。忌まわしい過去を髣髴とさせる『キザ野郎』の呼び名。「コテンパンに負けた」という形容詞も気に入らない。しかも着ているジャージとラケットから推察するに、あの憎き唐沢と同じ光陵学園のテニス部員のようである。さしずめ地区大会に出場する先輩達の応援に駆り出された新入部員といったところだろう。
 決勝戦で惨敗してからずっと押さえ続けていた穏やかならぬ感情が、目の前の少年に向かって弾けつつあった。虫の居所が悪いと言うのか、彼の言動一つ一つに苛立ちを覚えてしまう。
 だが季崎にも理性はある。いくら気に食わないからと言って、ライバル校の新入部員を相手に敗戦の腹いせのような大人気ない真似はしたくない。
 どうにかして目障りな少年を退け、初恋の彼女に似た少女と話をする方法はないものか。季崎がわずかに残る理性で紳士的な解決策を思案していると、目の前の少年が
 「ん? 何の匂いだ?」と言って、クンクンと鼻を鳴らし始めた。
 恐らくは、先程シャワーを浴びた後につけたムスクの香りを辿っての事だろう。まるで焦げた魚でも探すような渋面で匂いの元を探る姿は、下品の一言に尽きる。
 思わず軽侮の視線を投げた季崎の耳に、信じられない一言が飛び込んできた。
 「くっせえ!」
 わざわざパリから取り寄せたこだわりのムスク。大人の男を演出する為の必須アイテム。それを「臭せえ」の一言で片付けられては堪らない。
 「あのねえ、君のような人種には馴染みがないかもしれないけれど、これはムスクと言って……」
 文化水準の極めて低い少年に世間の常識を教えてやろうと身を乗り出した季崎であったが、その行為が彼の嗅覚を呼び覚ましたらしく、閃いたとばかりに歓喜の声が上がる。
 「あっ、分かった! これ、デパートのババアの匂いだ! 化粧品売り場にいる厚化粧のババアと同じ臭さだ。な、そうだよな?」
 「デパートのババアって……」

 確かにデパートの化粧品売場は、あらゆる匂いが混在する。いくら高級品でも、多くの香りが混ざれば不快なものに変化する。この品性の欠片もない少年にとって、香水の認識はその程度のものなのだ。
 「ねえ、君? 本当に彼と付き合っているの? 僕にはどうしても納得がいかないんだけど?」
 季崎の理性は「デパートのババア」発言で木っ端微塵に崩壊し、溢れ出た衝動が初恋の想い人に良く似た少女に向かった。彼女が不憫でならなかった。ムスクの価値も分からない粗野な少年と可憐な少女が釣り合う訳がない。
 「いえ、付き合っているだなんて、そんな……」
 「バカ、奈緒!」
 慌てふためく少年を横目に、季崎はほくそ笑んだ。最低だと思っていた一日の終わりに、最高のラッキーを手にした気分だった。
 「へえ、奈緒ちゃんって言うんだ。やっぱりね。君がこんな下品な人種を彼氏に選ぶ訳ないもんね。
 じゃあさ、これから僕とここでデートしない? ちょうどラケットも持っているみたいだし」
 「冗談言うな! 奈緒は、これから俺とテニスするんだよ!」
 脇で吠え立てる少年を完全に無視して、季崎は続けた。
 「今日、君と出会ったのは、きっと運命だよ。せっかくの神様からの贈り物を大切に使わなくちゃね」
 「いえ、あの……私……」
 口ごもる奈緒に向かって、季崎は優しく微笑みかけた。
 「そっちの彼、初心者でしょ? 大会で見かけない顔だし。
 どうせテニスをするなら、上手な人間とプレーした方が楽しいよ?」

 我ながら上手い選択肢を与えたと、季崎は思った。これで彼女がすんなり承諾してくれればラッキーだが、そうは行くまい。恐らく唐沢の後輩と思しき少年が異を唱え、どちらが優れたプレイヤーか、優劣を決める流れになるはずだ。
 口論でぐうの音も出ないほど打ち負かすも良し、実際にコートで決着をつけるも良し。勝負を挑まれたところを返り討ちにすれば、敗戦の憂さも晴れるし、正々堂々、彼女とデートも出来る。
 「バカじゃねえの? お前なんかと打ち合ったって楽しい訳ねえだろうが。こっちの事情も知らねえくせに、勝手なこと抜かしてんじゃねえよ!
 奈緒? こんな奴、放っておいて、さっさと行くぞ」
 少年が彼女の手を取り、背を向けた。どうやら彼には品性はなくとも、多少の知性はあるらしい。ライバル校のエースとまともに遣り合えば、どういう結果を招くのか、分かっているのだろう。
 「逃げるのかい?」
 季崎は更に追い討ちをかけた。一度溢れ出た衝動は、簡単には収まってくれそうにない。
 「まあ、無理もないか。光陵のテニス部員と言っても、君はまだレギュラーじゃないみたいだし。僕が相手じゃ、尻尾を巻いて逃げるしかないよね?」

 安い挑発だと分かっていながら、透は足を止めずにはいられなかった。「逃げる」の言葉より、「レギュラーではない」と言われた事の方に引っ掛かりを覚え、そのまま通り過ぎる事が出来なかった。
 今日の地区大会は初心者の透にとって参考になるプレーばかりで、非常に充実した内容であった。だが、そこで活躍する先輩達の姿を目の当たりにし、蚊帳の外で応援するしかない我が身を恨めしくも思っていた。
 早く自分も彼等のように大きな舞台で戦いたい。強い相手と渡り合い、打ち負かしてみたい。それにはまずレギュラーになる事が必須条件で、その為には日々の練習と同時に、試合慣れした選手との実戦経験も必要だと痛感した。
 今、透の真後ろに最高の相手がいる。
 「3ゲームで、どう? 僕は今日一日、シングルスに出場し続けた体で相手をするんだ。充分なハンデだと思うけど?」
 透の右手が背中のラケットに伸びた。ここで退いてはいけないと、心の奥で命令されている気がした。

 「止めとけよぉ、『ウ吉』。お前じゃ無理だって」
 声のする方を振り返ると、コート脇の茂みの中から祝勝会に行ったはずの陽一朗がひょっこり顔を出した。
 「そうそう、いくら唐沢先輩に負けたからって、一応この人アンビのエースだし……」
 その隣には千葉もいた。
 「先輩達、どうしてここに?」
 思わぬ訪問者に驚いた透は、ラケットに伸ばしかけた手を引っ込め、茂みの近くに駆け寄った。
 「だって、俺ッチは『ナッチ応援団』だから」
 陽一朗が片手でVサインを作り、奈緒に目配せをした。
 「祝勝会は?」
 「俺は一敗しているから、とても優勝を祝う気分じゃねえんだ」
 珍しくシリアスな口調の千葉に続いて、陽一朗も肩をすくめて見せた。
 「俺ッチもさ、ちょっと気まずくて。太一が遅刻の一件で落ち込んじゃっているからね」
 二人共それぞれ事情があると主張しているが、どうも心からの言葉とは思えなかった。その証拠に、真剣なはずの彼等の両目が所在なさげに動いている。目が泳ぐというヤツだ。恐らく彼等は冷やかし目的で透の後をつけて来たに違いない。
 下心丸出しの先輩達に感謝するかは別として、おかげで透は冷静さを取り戻す事が出来た。確かにライバル校のエースを相手に初心者の自分が勝負を挑むなど、無謀にも程がある。今日は奈緒とテニスをする為に区営コートに来たのだ。やはり、ここは相手にせずに無難にやり過ごすのが賢明だ。

 父親から譲り受けたラケットが、透の背中で揺れていた。奈緒の為にも、この勝負は受けない方が良いに決まっている。頭では分かっているのに、足が進まない。強い選手と戦ってみたい。今日の大会で頭に叩き込んだプレーの数々を、すぐにでも実践してみたかった。
 しかし、この願望は大きなリスクを伴う。今の自分の実力では、季崎に勝利する事はまず不可能だ。
 「行こう、奈緒」
 ここへ来た本来の目的を思い出し、透が立ち去ろうとした時だ。
 「だいじょうぶ。トオルならできるよ、きっと」
 聞き覚えのあるフレーズでなければ捕らえられない程の小さな声が、透を呼び止めた。
 「奈緒……?」
 「試合、したいんでしょ?」
 驚いて振り返る透に向かって、奈緒が少し困ったような顔で笑いかける。彼女には、人の心が透けて見えるのか。我が侭だと知りながら聞いてやるしかないと言いたげな、大人びた笑顔を向けている。
 「いや、でも、お前に迷惑かけるかもしれないし」
 「強い人と対戦してみたいんでしょ?」
 「そりゃ、まあ……でも……」
 「せっかくのチャンスだよ?」
 「良いのか? 本当に?」
 「あんまり良くないけど、チャンスだもん。私、トオルが勝つって信じている」

 透は背中のラケットを抜き取ると、季崎に向き直った。
 「3ゲームで良いんだな?」
 「やっと勝負する気になったのかい? 悪いけど、僕が勝ったら彼女に付き合ってもらうからね」
 「させねえよ」
 リスクに対する不安がまだ心の底で燻っていたが、奈緒から掛けられた「信じている」の言葉がそれを遠くへ押しやり、代わりに闘争心を連れて来てくれた。せっかく彼女が与えてくれたチャンスを前に、迷ってなどいられない。
 背後で千葉と陽一朗が「止めておけ」と騒いでいるが、奈緒がそれを制している。
 透はコートに入る手前で一旦振り返り、彼女に短く言い置いた。
 「あいつには渡さない」
 勝利も、そしてお前も。本当はそう続けたかったが、あえて多くは語らなかった。試合前の独特の緊張感が、余計な事はするなと伝えている。
 今日の大会で記憶した数々のプレーと、父から譲り受けたラケットと。この二つを握り締め、透はコートの中へ入っていった。






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