第3話 ライバル

 昼休みになるのが待ち遠しかったと丸分かりの勢いで、塔子が最前列の席までやって来た。恐らく彼女が向かうのは親友の奈緒ではなく、その隣に座ることになった転校生・真嶋透の席だろう。
 「ねえ、真嶋? アンタ、テニス部入部希望?
 だったら、私マネージャーだから手続きしてあげる」
 案の定、塔子はクラスの誰もが距離を置こうと決めた場所までやって来ると、今朝のホームルームの一件などなかったかのように興味津々で話しかけている。
 積極性の塊である彼女は、新入生の借り入部期間を目一杯使って所属クラブを選別していた詩織や奈緒と違い、入学初日からテニス部のマネージャーを希望しており、すでに一人いるから充分だと言われたにもかかわらず、自らテニス部顧問に交渉して自身の籍を獲得した兵だった。その理由は単純で、テニス部に格好良い先輩がいたからとの事である。
 さしずめ塔子は転校生の麻袋に差し込まれているテニスラケットを目ざとく見つけ、テニス部の入部希望者と踏んだに違いない。
 何というチャンレジ精神の持ち主か。奈緒は改めて親友の性格を羨ましいと思った。自分ならこういったトラブルメーカーは極力避けて通るが、彼女は少しも気にしていない風である。
 「私は清水塔子。こっちは山内詩織」
 今朝方真嶋にA評価をつけた詩織も塔子に便乗してきたらしく、ちゃっかり会話に加わった。基本的にマイペースな詩織だが、彼女は自分がどう行動すれば必要なポジションが得られるのかをちゃんと分かっている。そこが鈍臭いと言われる奈緒とは決定的に違うところであった。
 結果的に、転校生と最も近い席にいるはずの奈緒が遠巻きに彼女達の会話の様子をうかがう格好になっていた。

 「サンキュー、塔子。それじゃあ、頼んでいいか?」
 例によって真嶋が初対面であるはずの塔子を呼び捨てにした途端、彼女の顔つきが変わった。
 「ねえ、アンタさ、どうしていきなり皆をファーストネームで呼ぶの? 初対面でしょ?」
 今朝のホームルーム以来、奈緒がずっと気になりながら聞けなかった質問を、塔子は本人に直接ぶつけている。そしてそれを皮切りに、彼女のマシンガン・トークが炸裂した。
 「だいたい転校生って、どっから来たわけ? 東京都内じゃないわよね? 今朝、奈緒とぶつかった時、イノシシがどうとかって、言ってたし。
 それにその鞄みたいな袋と、古臭いラケットは何? 違和感ありまくりなんだけど?
 アンタさ、今朝ホームルームをメチャメチャにして自己紹介まだなんだから、これくらい答えなさいよね」
 奈緒はそれが適切な聞き方であったかはともかく、物怖じしない親友の存在を頼もしいと思った。何故ならその質問は、今朝、出会った時から溜めていた疑問が全て網羅されていたからだ。

 相手に息をも吐かせぬ勢いでまくし立てる塔子に対し、真嶋も臆することなく自身に向けられた質問をクリアにしていった。
 「俺が住んでいたのは岐阜の、ここから見ればすげえ田舎かな。家はかなり山奥にあったから、野生のタヌキはしょっちゅう出ていたし、イノシシにも出くわしたことがある」
 彼は空中で質問を整理するかのように視線を天井に這わせながら、一つひとつ丁寧に答えている。今朝のハチャメチャな言動とは打って変わって、その落ち着いた答え方はごく普通の少年に見えた。
 「俺のいた小学校は、全員苗字じゃなくて名前で呼んでいたんだ。兄弟や親戚で同じ苗字が多いから、名前で呼ばないと間違えるだろ?」
 驚いたことに、真嶋は塔子の質問の内容を瞬時に記憶し、一つも漏らさず返している。今朝のお姫様抱っこだけでなく、担任の大塚、学級委員の宮越と、次々と怒らせていった鈍感ぶりから、もしかしたら頭のネジが少々緩いのかと思ったが、どうやら正常に機能しているらしい。
 目線を上に向けたままで、更に彼は続けた。
 「この鞄は勘太……あっ、岐阜でジャガイモ農園やってる俺の弟分から餞別代りにもらった物で、えっと、ラケットは俺のクソ親父のだ。
 ホームルームをメチャメチャにしたつもりはねえけど、自己紹介、これで良いか?」

 奈緒は非常に満足だった。これでようやく勘太の母ちゃんの謎が解けた上に、不思議な鞄の正体も分かった。
 勘太は真嶋の弟分で、勘太の母ちゃんはその母親で、中学生が背負うにしては違和感のある鞄はやはりジャガイモを収穫する際に使う麻袋だったのだ。思うに、彼は勘太なる少年と家族ぐるみの付き合いをしていたに違いない。会話の端々に勘太の母ちゃんが当然のように出てくるのも、その所為だ。
 日々の置いてきぼりにしがちな小さな疑問が解けると、何だか幸せになる。改めて調べるほどではないけれど、ちょっと気になる疑問が日常生活では意外に多い。そしてそれが偶然解けると、なんだか得をしたような気分になるものだ。
 奈緒と感性の似ている詩織も同じ気分になったのだろう。全ての疑問を網羅した答えに気を良くした彼女は、更なる疑問を投げかけた。
 「真嶋君の通っていた小学校も山奥だったの? 生徒は何人ぐらいいたの?」
 「まあ、山奥と言えば山奥だな。生徒は、全校合わせても十五人ぐらいだったかなぁ」
 積極的な塔子とは対照的に、マイペースな詩織は口調も間延びした感がある。それにつられて真嶋もリラックスし始めたようで、表情が最初に塔子から質問を受けた時より柔らかくなっていた。
 「それじゃあ授業とか、どうしてたの? まさか、先生の方が人数多かったりして? 
 体育でサッカーなんて出来なかったでしょ?」
 「ああ、授業は二学年ずつ一緒に受けてたし、体育は人数が少ねえから、器械体操かバスケばっかりだったな」
 「そうなんだ。それで……」
 「ちょっと、待った。今度は俺の番だ」
 延々と続くかに思われた詩織の質問を、真嶋が制した。
 「名前で呼んじゃいけねえのか、こっちは?」
 「あったりまえでしょ! 名前で呼ぶのは、幼馴染みとか、よっぽど仲が良いとか。
 特に異性に対しては、付き合っているとかじゃないと、まず呼ばないわよ」
 マイペースな詩織に代わり、ここは塔子がキッパリと断言した。その反論の余地のないほど確固とした返事を聞いて、真嶋が困ったような、つまらなそうな、複雑な表情を浮かべている。
 初め奈緒は塔子が自分の気持ちを代弁してくれているようで爽快な気分であったが、彼の神妙な面持ちを見ているうちに、何となく気の毒になってきた。
 イノシシに出くわすこともあるという山奥の全校生徒が十五人しかいない田舎の小学校。そこでの日常が全てであった彼にとって、一学年平均八クラスもある、しかも中高一貫の都会の学校はどのように映ったのだろうか。奈緒達が感じる以上のギャップを感じているのではないだろうか。
 「ふうん、そっか」
 琥珀色の瞳が一瞬、隣席の奈緒を捉えた。彼は何かを言いかけていたように見えたが、突然、会話に乱入してきたクラスメートの日高遥希によって遮られた格好となった。

 「お前がテニス部なんて、止めといた方が良いんじゃない?」
 日高遥希は父親が光陵学園のテニス部で中高兼任のコーチをしており、更に実家がテニススクールを経営している事から、地元ではちょっとした有名人だった。おまけにその父親は元プロのテニスプレイヤーで、少しは名の知れた選手であったので、本人が知らなくても地元住民は大抵彼を日高プロの息子として知っている。
 実は、奈緒が通っていたのも彼の実家である日高テニススクールであったが、そこのジュニアクラスで挫折した経緯があり、遥希と会うと何となく後ろめたさを感じてしまうのだ。
 その彼が会話に割り込んだ事で、奈緒はますます話の輪の中に入っていけなくなっていた。
 「なんでだよ、ハルキ? 別に良いじゃねえか、俺がテニスやったって!
 お前に指図される筋合いはねえんだよ」
 先程まで意気消沈したかに見えた真嶋が、いつの間にか口を尖らせながら遥希を睨んでいる。
 この二人は知り合いなのだろうか。奈緒だけでなく、塔子も詩織も彼等の接点を計りかねているらしく、二人を交互に見比べていた。
 「昨日までテニスは外国人がやるものだと思っていたのは、どこの誰だっけ?」
 遥希が小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべ、それと同時に真嶋の唇が更に鋭く尖がった。
 せっかく諸々の疑問が解決したというのに、またしても奈緒の中で新たな疑問が浮上した。しかも今度は「勘太の母ちゃん」レベルのささやかな疑問ではない。是非とも解決したい最大級の疑問である。
 「まったく、江戸時代の人間じゃあるまいし。テニス始めるんなら、文明開化の勉強してからにすれば?」
 皮肉たっぷりに追い討ちをかける遥希に対し、真嶋が尖った口をもごもごと動かした。
 「うるせえよ。俺ん家はテレビの電波が届かなかったんだから、仕方ねえだろ? 親父のビデオ見て、勘違いしただけだ」

 奈緒の疑問が、驚愕に変わった。単なる勘違いで済まされる話だろうか。
 真嶋の住んでいた家がテレビの電波も届かない山奥だった事は想像できる。何しろ日常の中でイノシシと出くわす場所なのだ。テレビ番組が見られない生活を身近に感じることはできないが、どうにかイメージは出来る。
 だがしかし、それがテニスは外国人の文化だと思い込んでしまうほど偏った思考を育むかは疑問である。
 我々がフラダンスやコッサクダンスを、異文化だと思っているのと同じ感覚なのだろうか。それにしても、誰かが意図的に仕向けない限り、普通はどこかで気づくはず。
 中学生という未熟な年頃は、小さな勘違いや思い込みが露呈し易い時期ではある。自分の家の中では常識だと思っていた事が、部活動など集団生活に入った時に非常識極まりない行為だったと、発覚する場面が多くある。
 例えば修学旅行で、男兄弟で育った女子がトニックシャンプーを使うのは男性だけだと気付いたり、朝のシャワーを浴びながら風呂場で歯磨きをしていた男子が、世間では洗面台でやるものだと悟ったり。この程度の失態なら笑って済ませられるが、今、奈緒の隣の席にいる転校生の勘違いは、周りの人間を黙らせてしまうほどの威力があった。
 テニスは外国人がやるスポーツだと思っていた。
 同じ日本に住んでいながら、真嶋透は遥か昔の時代からタイムスリップしてきたような、ずれた感性を持っている。

 すっかり挙動不審に陥った奈緒を見て、遥希がすかさず相槌を求めるようにして話しかけてきた。
 「こいつ、変だよな? 普通、何処かで気付くだろ?」
 彼の意見はもっともだ。自分も同じ事を考えた。だが、奈緒は反射的に目を逸らしてしまった。
 いつもの遥希らしくない。そう思ったのだ。
 確かに日高遥希には、同じ年頃の級友達と比べて卑屈な部分がある。テニス部のコーチであり、テニススクールのオーナーであり、更には元プロのテニスプレイヤーという肩書きだらけの父親の息子。その重圧と好奇心の目を彼はいつも背負っているせいか、物事を裏側から見るような、素直さに欠けるところがある。
 偉大な身内を持つと苦労するのは、奈緒にも少なからず理解できた。まったくもってスケールが小さくなるが、奈緒の弟も運動神経が良過ぎて、小学生の時に苦労した経験がある。
 弟のクラスメートが姉の奈緒もスポーツ万能に違いないと、運動会のたびに期待の目を向けられてきたのである。勝手に期待され、勝手に落胆される。その繰り返しだった。
 だが、ハルキの場合は少し違う。彼は奈緒のような運動音痴ではない。
 ジュニアの頃から日高テニススクールのトーナメントでは常に優勝、調子が悪い時でもベスト8をキープしており、当然の如く入部したテニス部でも期待のルーキーとして先輩達からも一目置かれる存在だと聞いている。多少の不満はあったとしても、コンプレックスを感じる要素はないはずだ。
 しいて言えば小柄な体格ぐらいだろうが、それも目立って小さい訳ではない。
 そもそも普段の彼は、人との交わりを避ける事はあっても自分から会話に入ってくる事などほとんどなく、嫌味を言っている姿を見た事もない。
 では何故遥希は、こんなにも意地の悪い発言を重ねているのだろう。しかも相手は、昨日までテニスを異文化だと思い込んでいた素人だ。
 奈緒の困惑をよそに、遥希はしつこく絡んでいた。
 「こいつ、テニスも知らないのに、なんでラケット持ってるか、知ってるか?
 護身用なんだってさ。山でタヌキとかイノシシを倒してたらしいぜ」
 「えっ!?」
 一瞬にして奈緒は、遥希の心配などしていられなくなった。
 ラケットでどうやってイノシシを倒すのか。いや、それ以前に、どうして護身の為にラケットを使うなどという暴挙に出るのか。いくら山奥で物資がなくとも、ラケットを武器に使ったりはしないだろう。
 一体、真嶋の家はどうなっているのか。親は、家族はどうしているのか。息子の暴走を止める者が一人もいなかったのか。

 ふつふつと湧き出てくる奈緒の疑問を見透かしたかのように、遥希が真嶋家の事情について事細かに教えてくれた。
 それによると、真嶋透の父親は海外では広く知られたスポーツ科学を専門とする学者で、遥希の父親とは同じ光陵テニス部出身で同期であった事からいまだに親交があるのだが、本人は天才肌にありがちな気まぐれ、自己中、破天荒と三拍子揃った変わり者らしく、住居もいきなり東京からロンドンへ移り住んだかと思えば、突然岐阜の山奥へと転々としていたようで、それ故、息子同士は昨日初めて会ったとの事だった。また残念なことに学生時代の過度な練習が元で肩を故障した彼は、志半ばでテニスから遠ざかったものの、光陵テニス部には彼の残した“遺産”があるという。
 遥希の嬉々として話す口ぶりから、真嶋の父をかなり尊敬している風だった。
 「ハルキ、よく知ってんなあ。うちのクソ親父がここのテニス部員だったなんて、いま初めて聞くんだけど」
 一見、非常識とも取れる能天気な真嶋の発言に、遥希がムッとした顔で応じている。
 もしかしたら遥希は嫉妬しているのかもしれない。実家がテニススクールで、元プロのテニスプレイヤーを父に持ち、テニス漬けの日々を送ってきた遥希と、変わり者の父親に山奥でのびのびと育てられ、ラケットを護身用に使いながらもテニスとは無縁の生活を送ってきた真嶋透。
 見事なまでに対照的な二人の間には、平凡な家庭で育った奈緒には計り知れない何かがあるのだろう。

 「ちくしょう、あの野郎! わざと俺にテニス教えなかったんだ。絶対そうだ!」
 真嶋が本日二度目の奇声を上げた。
 彼には気の毒だが、奈緒も同じ意見であった。理由は分からないが、彼の父親が息子からテニスに関する情報を隔離していたと考えれば、この不可解な現象にも説明がつく。
 「お前ん家、テレビだけじゃなくて、親子の会話もなかったわけ?」
 「そんなモン、あるわけねえだろ! ああ、ムカつく! あのクソ親父!」
 遥希の再三の嫌味もものともせずに、真嶋は怒りの矛先をこの場にはいない父親に向けていた。どうやら彼は今更ながら知らされた事実に、かなり腹を立てているらしい。
 確かに考えてみれば、これほど虚しい事はない。
 テニスの道具だと知らずにラケットを武器に野山を駆け回る息子と、そんな息子の暴挙を止めることなく暮らし続けたスポーツ科学者の父。やはり真嶋透の父親は、奈緒の想像をはるかに超える変わり者のようである。
 「決めた! 塔子……じゃなかった、えっと清水?
 俺、絶対にテニス部に入部するからな」
 散々父親に対する文句を言い連ねた後で、真嶋が塔子というより自分に誓いを立てるかのように宣言した。
 「あのクソ親父が隠していたって事は、絶対面白いはずだ。俺の勘がそう言ってる」
 「『はず』ってねえ、アンタよく知らないのに入部して大丈夫?」
 彼女が心配するのも無理はない。昨日まではラケットを武器として扱っていた人間が、異文化だと信じていたテニスを始めるなんて、こんな危なっかしい事はない。
 だが、真嶋は頑として譲らなかった。
 「いいや、間違いねえよ。あの親父の行動パターンからして、テニスは絶対面白いに決まっている。昔あいつが隠し持っていたゲームソフトも、こっそりやったら面白かったし」
 「ゲーム感覚でテニスやられちゃ迷惑なんだけど?」
 遥希なりに、子供の頃からテニスを習い続けているプライドがあるのだろう。冷たく言い放つ彼の顔には、先程からチラつかせていた嫉妬ではなく、どちらかと言えば闘争心のようなものが垣間見えた。
 そしてまた、真嶋にも似たような熱が見えていた。
 「ハルキ? てめえ、さっきから俺に喧嘩売ってんのか?」
 「だったら、どうする? その護身用のラケットで、俺のこと殴り飛ばすか?」
 「いいや、拳じゃ簡単に片ついちまうからな。ハルキ、てめえの土俵で勝負してやるよ」
 「どういう事だ?」
 その場にいた誰もが要領を得ずに、次の言葉を待っていた。
 「確かに俺は、テニスに関しては初心者だ。ルールもよく分からねえし、ラケットの使い方だってまだ知らない。
 だけど、てめえが嫌な奴だというのは、よく分かった。
 だからテニスでてめえをぶっ倒す!」
 琥珀色の瞳がドリップしたてのコーヒーの滴のようにきらきらと輝き、口元は我が意を得たりとばかりに大きく綻んだ。それは奈緒が出会ってから初めて目にする、いかにも真嶋透らしいと思える満面の笑みだった。






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