第31話 壁

 群青色の雲を透かすようにして、青白く滲んだ月が浮かんでいる。六月だと言うのに夜風に肌寒さを感じるのも、薄曇りの所為かもしれない。
 そろそろ梅雨入りするのだろうか。風の冷たい夜道をいつものランニングの半分にも満たない速さで走っていては、体を冷やすだけで成果は得られない。適当なところでトレーニングを切り上げなければと思いつつ、透の足は自宅とは反対方向の区営コートを目指していた。
 体はくたくたに疲れていても、意識は妙に冴えている。どうせなら意識を失くす程に疲労困憊すれば良いものを、何処までも中途半端な我が身が恨めしくて仕方がない。
 不明瞭な疑問が渦を巻き、頭に、体に、鬱積していく。いや、ハッキリしないのは答えの方であって、疑問は実に明確だ。あんなに練習したのに、どうしてバリュエーションで結果が出せなかったのか。

 光陵テニス部では、各大会の出場選手を選出する為の校内試合をバリュエーションと呼んでいる。それは単に順位だけで選ぶランキング戦とは異なり、選手の特性や対戦校との相性なども加味して選抜する査定試合も含まれているからだ。
 今日のバリュエーションは都大会に向けて行われたもので、透自身、知識も経験もなかった前回よりは成長したとの確信を持って臨んだはずだった。無論、簡単にレギュラー入り出来るとは思わなかったが、闇雲に試合をしていた頃と比べれば、何らかの戦績を残せる自信があった。
 日々の部活動に加え、区営コートでも練習を行い、朝晩の自主トレーニングも欠かさず、他の部員より努力をしてきたつもりである。それなのに――。

 午前のレギュラー決定戦でノン・レギュラーから勝ち上がってきたのは透と遥希の二人。そして旧レギュラーから降りてきたのは荒木であった。
 本来はノン・レギュラーから上位二名、旧レギュラーから下位二名の計四名で最後の二枠を争い、最終的に十名のレギュラー陣を選出するのが午前のバリュエーションのお決まりのパターンであるが、先の地区大会のレギュラー枠を正規の十名ではなく九名に止めた為に、旧レギュラーから降ろす人数が一人分少なくなったのだ。従って、今回は透、遥希、荒木の三名で最後のレギュラー枠二名を争う運びとなった。
 三名の候補の中から脱落者は一人だけ。透にも充分チャンスはあると思っていた。
 透が最初に対戦したのは、遥希であった。前回、彼にはゲームカウント「6−1」の大差で負けている。今度こそ雪辱を果たすべく、透はこの二ヶ月で学んだ全てをその一戦に投じた。
 入部してからの二ヶ月間、部活動では基本を学び、区営コートではそれを軸に試合を行い、実戦経験を積んできた。また地区大会の応援を通して覚えた戦術もいくつかある。それら全てを余す事なくぶつけるつもりで戦った。
 だが結果は前回と同じ「6−1」。またしても透の完敗だった。しかも遥希から奪った1ゲームは唐沢のスライス・サーブを模してキープしたものであり、そのサーブも二度目のサービスゲームでは逆にリターン・エースを取られるまでに攻略されていた。
 季崎との試合で威力を発揮したスライス・サーブだが、それは彼が唐沢と対戦した直後で上手く動揺を誘えたからこそ通用しただけで、所詮、人真似のサーブでは武器にもならなかったようである。
 せめてもう1ゲームでも物にしていれば敗戦の中にも進歩が実感できたのに、ゲームカウントは変わらず「6−1」で、ライバルとの差は一向に縮まっていなかった。それどころか試合内容を振り返るに、遥希は前回よりも手強くなっていた。
 実家がテニススクールで毎日プロのコーチ陣に囲まれ練習しているのだから、当然と言えば当然だ。テニス歴二ヶ月の透がいくら頭で考えトレーニングを積んだところで、簡単にエリートプレイヤーとの差が縮まる訳がない。

 続いて荒木と対戦した透は、ますます己の未熟さを思い知らされる結果となった。
 荒木のパワーボールは地区大会の応援席で想像していたものよりも遥かに重かった。鍛え抜かれた肉体から放たれるショットは、ボールの芯に鉛が入っているのではないかと錯覚する程の重量感があり、ラケットを持つ手にも激しい重圧をかけてきた。無論、そんなボールを筋力も経験も等しく乏しい透が捌けるはずもなく、途中でやむなく両手打ちに切り替え応戦したものの、浮き球にならないようラケット面を真っ直ぐ当てて返すのがやっとであった。
 しかも両手打ちに切り替えた事で、今度は自分の動きが制限されてしまい、思い通りのプレーが出来なかった。必死で打開策を見つけようとしたが、重量級のパワーボールに翻弄されて、一矢報いるチャンスも作れず試合は終了した。

 結局、透を除く二人がレギュラーの座を勝ち取り、遥希は部長から代表選手の証である光陵テニス部のユニフォームを受け取った。
 正規のレギュラー十名の中から大会に選ばれる選手は、団体戦の補欠枠を含め、大抵、九名が上限で、必ずしも全員が出場できるとは限らなかったが、不慮のケガや故障で突然出番が回ってくるかも分からない。その為、レギュラー入りした部員はいつ選手に指名されても良いように、午前のバリュエーションが終わった時点でユニフォームが支給される決まりになっていた。
 ジャージの上下と、ゲームシャツとパンツがそれぞれ二組。いずれも白を基調として襟や袖口に濃紺と赤のラインが入っており、ジャージの下だけは逆に濃紺をメインカラーに白と赤のラインがポケット口にワンポイントで付いている。
 特別目立つデザインでもなく、公立校にありがちなシンプルだけが取り柄のユニフォームであるが、透は遥希がそれら一式を受け取る姿を目にした途端、自身の中にどうにも処理し難い感情が湧き起こるのを自覚した。
 それは今までに経験した事のない、ぎとぎととした粘り気のある何とも悩ましい感覚だった。すっきりと割り切る事など不可能で、熱いような、痛いような、始末に終えない感情が噴出してくる。多分、これが嫉妬というものだろう。
 透は遥希が羨ましかった。同級生でありながら自分よりも早く大会に出場する権利を得た彼に、嫉妬の感情を抱かずにはいられなかった。

 今まではただ強くなりたいと願うだけで、特にレギュラーの座に固執した事はなかった。しかしあの地区大会での激闘を見てからというもの、透の中で勝負に対する欲求が大きく膨らんでいった。自身しか頼る者のいないコートの中で、互いの力と技をぶつけ合う。そんな真剣勝負の場に自分も上がってみたい、と思うようになっていた。
 部長からユニフォームを受け取るライバルを目の前にして、ぎとぎととした嫉妬と共に言い知れぬ虚しさが体中に広がった。
 レギュラーになる為に、考えつく限りの努力はした。毎日へとへとになるまで練習したのに、それでも縮まらない遥希との力の差。手も足も出なかった荒木のパワーボール。
 この二ヶ月で成長を実感していただけに、落胆も大きかった。そして何より辛いのは、現状を打破する解決策を見付けられない事だった。
 このまま同じやり方でトレーニングを続けたとしても、ますます差が広がるのは目に見えている。何とかしたい。でも、どうにもならない。何か打開策があるはずだ。でも、分からない。
 一向に出口の見えない堂々巡りの焦りからだろうか。透は夜も遅いというのに、つい普段のランニングコースを延長して区営コートまで足を伸ばしていた。

 さすがに月が顔を出す時間までここに留まり練習を続ける者は皆無のようで、普段は熱気を帯びて見えるコートも暗闇に冷やされ静まり返っている。
 最初から練習相手がいない事は分かっていた。しかし、どうしようもない焦りから来てしまった。ここへ来れば何らかのヒントが見付かりはしないかと。
 透にとってこの区営コートはテニス部以外で初めて獲得した練習場所であり、多くの選手と出会った思い出の場でもある。中でも海南中の村主との出会いは、大きな財産となった。
 強くなりたいとの信念を持っていれば、何処にいても、何をしていても、テニスの練習に繋がる。そう教えてくれたのが、村主であった。遥希と違って何もかもゼロからスタートしなければならなかった透には、この教えが心の支えとなった。
 こんな時、村主ならどうするか。「負けた試合にこそ得るものがある」と説いてくれた彼なら、現状を打破する為の術を知っているかもしれない。
 ぼんやりと考え事をしながら歩き回るうちに、いつしか透は四面のコートの奥に設置されている壁打ちボードの前に着いていた。思考はお手上げ状態であっても、本能は一人で練習できる場所を探していたらしい。体に染み付いたテニスへの執念に気付き、思わず深い溜め息が漏れる。
 「俺も相当なテニスバカってことか……」
 自分で自分に呆れながらも、透が二枚あるうちの手前のボードに足を踏み入れた時だった。奥のボードで淡々とボールを追いかける一人の男の姿が目に入った。
 但しボールを追いかけると言っても、一つのボールではない。彼は一人で二つのボールを巧みに操り、クロスとストレートの二つのコースを正確に打ち分けていた。
 強く打ち込めば打ち込むほど、ボールのスピードも上がる。それを彼は意図的に行っているらしく、ボールが壁や地面に打ち付けられる音の間隔が徐々に短くなっている。
 透はしばらくの間、彼のプレーに見入っていた。光陵テニス部にも壁打ちボードはあるが、こんな荒業は見た事がない。よほどの技術と身体能力が無ければ、二つのボールを返し続ける事は不可能だ。
 人並み外れた鮮やかなボール捌きに見入っているうちに、透の頭に埋もれていた記憶の片鱗が呼び覚まされた。ここまでの高度な壁打ちは初めて目にするものだが、彼とは何処かで会っている。あの瞬時に弱者を退かせる気迫を持った眼光鋭い男は、地区大会で唐沢の試合を偵察に来ていたライバル校の部長ではなかったか。確か、京極と言っただろうか。去年の都大会優勝校・明魁学園の部長だと教えられた覚えがある。

 透の気配に気付いたのか、京極が一旦練習を中断し、こちらに目を向けた。恐らく、地区大会でチラリと見ただけの他校の一年生など記憶の片隅にも無いのだろう。彼は一瞥しただけで挨拶を交わす事もなく、すぐにまた練習を再開した。
 今まで見た事もない高い技術を目の当たりにして、透は闇雲に渦巻いていた焦りが一つの方向へ向かっていくのを感じた。あまりにも大胆、且つ、無謀な決心が形になりつつある。しかし、それを口にするのは彼の練習が終わるのを見届けてからにしなくてはならない。
 学校の部活動と違って、この区営コートには他人の面倒を見る為にやって来る人間など一人もいない。互いの練習の邪魔をしないというのが暗黙のルールであった。
 京極の決して乱れぬ正確なフォームと軽やかなステップを目に焼き付けながら、透は彼の練習が終わるのをじっと待っていた。

 三十分ほど経ったところで、京極がもう一度、透に視線を移した。
 「こっちのボードが良いのか?」
 「いえ、京極さんにお願いがあって、練習が終わるのを待っています」
 「誰かは知らんが、見ず知らずの奴にお願いされる謂れはない」
 「俺は、光陵学園テニス部一年の真嶋透です」
 「名乗ったところで話をする気はない。俺は忙しい。とっとと失せろ」
 京極は鋭い視線をボードへ戻すと、練習を再開した。
 二つのボールを一度に操る男。打ち返す回数が重なるにつれて難易度が高くなるにもかかわらず、フォームは変わらない。観察しているうちに更に三十分が過ぎたが、透は見飽きるどころか、その鍛錬の賜物とも言うべきプレーにすっかり見惚れていた。
 「このまま突っ立っていても、体を冷やすだけで何の得にもならないぞ?」
 さすがに根負けしたのか、京極が練習の手を止めた。
 「それでも待っています」
 「まったく、この時間なら集中できると思って来たんだが……。で、用件は何だ?」
 京極はラケットとボールを手にしたまま、あくまでも「試しに聞くだけ」といった態度を崩さない。取るに足らない用事なら、すぐにでも練習を再開する構えである。
 突拍子もない頼み事であるのは承知の上で、透は覚悟を決めて頭を下げた。
 「俺と試合をしてください。お願いします!」

 一瞬の間が空いた後に、京極が特に驚いた風でもなく理由を尋ねてきた。
 「なぜ俺と?」
 「強くなりたいんです」
 これ以外の理由は考えられなかった。自分で考えたトレーニングも、区営コートでの練習も、まったく役に立たない今となっては、強い選手と対戦するしか己を鍛える手段は無いのではないか。
 だがその答えは京極の欲していたものとは違ったようで、彼はムッとしながら再び問いかけた。
 「それはお前が試合を望む理由だろう? 俺が聞いているのは、俺でなきゃならない理由だ」
 「俺が今まで出会った人達の中で、一番強そうに見えたからです」
 「だが、俺にはお前と試合をする理由がない」
 「どうしてですか?」
 「お前が弱そうだから。違うのか?」
 そう言われれば、ぐうの音も出ない。この男は、海南中の村主ほど情に厚くはないらしい。
 こうなったら最後の手段に出るしかない。透は地面に跪いて頭を下げた。この街へやって来て、三度目となる土下座である。
 「お願いします。1ゲームだけでも構いません。俺と試合をしてください!」
 ところが京極は必死で頭を下げる透を無視して、帰り支度をし始めた。
 明魁学園の部長ともなれば、こういう厄介ごとは日常茶飯事なのだろう。いちいち付き合っていては身が持たないと、その態度が示している。
 そもそも彼が興味を抱くような相手なら、とうに選手として名前も知れている。彼の記憶に無かった時点で、透は時間を割くに値しない素人に格付けされているのである。
 「今日の練習は終わりだ。お前も帰れ」
 土下座の脇を平然と通り過ぎる京極に、透は尚も食い下がった。
 「強くなりたいんです。どうしても!」
 必死で京極を留め置く言葉を探した。何でも良いから、現状を脱出する糸口を掴みたかった。
 「強い人達の頂点に立つ選手がどれ程強いのか。俺は何処まで走り続ければ強くなれるのか。せめて、その距離だけでも知りたいんです。
 1ゲーム、いえ、サーブだけでも良いです。俺に貴方のボールを受けさせてください。一瞬で良いから、頂上を見せてください。お願いします!」
 都大会の優勝候補と噂される明魁学園の部長なら、確実に遥希よりも強いはず。ライバルとの距離を見極める為にも、頂点に君臨する男のボールを受けてみたかった。
 京極の足が止まり、ふうっと苛立ちを吐き捨てるような吐息が漏れた。
 「1ゲームだけだ。その間に俺のサーブが一本でも返せたら、3ゲーム先取のハーフマッチをやってやる」

 ネットを挟んで京極と向き合った透は、懐かしい緊張を身の内に感じていた。それは岐阜の山中で初めてイノシシと対峙した時と同じ感覚であった。相手から溢れ出る気迫で押し潰されそうになりながら、秘めたる興奮が脈打つ瞬間を待っている。そんな99パーセントの緊張と1パーセントの興奮がない交ぜになった感覚だ。
 最初、そのか細い興奮は張り詰めた空気に圧迫されて鳴りを潜めているのだが、ふとした拍子に緊張を破って噴出してくる。埋もれていた興奮が緊張に取って代わる瞬間は、幼い透には忘れられない体験となった。あの時の身震いする程の快感は、今でも鮮明に覚えている。
 京極は目付きだけでなく、全身から発する気迫そのものが『山の主』と呼ばれたイノシシにそっくりだ。彼と対峙すれば、あの時と同じ快感が得られる予感がした。
 緊迫した空気を突き抜けるようにして、高いトスが上がる。基本通りの綺麗なトスだと思った次の瞬間、ボールは透の足元をすり抜けていた。
 京極のノータッチ・エースであった。透は一度もボールに触れる事なくエースを決められたのだ。
 一瞬の出来事で細部までは判別できなかったが、京極が放ったサーブは回転をかけないフラット・サーブのようである。バウンド後の急激な変化もなかったし、軌道もほぼ直線であった。
 数少ない証拠から、ある程度、球種の予測はつくものの、スィング・スピードが速過ぎて、フォームを捉えるまでには至らない。コースも何も見極める間もなくボールが飛び出し通り過ぎていくのだから、落下地点まで行って拾う事など不可能に近い。
 この山の主、想像以上に手強い選手である。

 透は次のサーブに備え、かなり後ろにポジションを置いてみた。ボールをラケットに当てるまでの距離を稼ぐことで、多少なりとも相手を観察する時間が作れるはずである。
 再び、京極から高いトスが上がる。ほんの一部であるが、彼のフォームが見えてきた。
 まるで釣竿のようだ、と思った。均整の取れた肉体が後ろへ傾く際のしなやかさと言い、そこで溜めた力を利用して放たれるボールの勢いと言い、釣り糸が海に投げ込まれる様に良く似ている。
 しかし二打目でようやくフォームが目視出来るようになったとは言え、肝心のボールが速くて手が出せない。一体どうすれば良いのか。
 あれこれ考えている暇はない。京極からのサーブはあと二本だけ。見えなくても、見るしかない。取れなくても、取るしかない。
 透には自分に残されたレギュラーへの可能性が、残りの二本のサーブに懸かっているように思えた。

 神経を研ぎ澄まして、じっと相手の動きに集中する。京極が再びサーブの構えに入った。この時、ぼんやりと解決の糸口らしきものが頭に浮かんだ。ボールの軌道が見えないのなら、多少なりとも見えているフォームからコースを判断する術はないものか。
 一連の流れの中で、体が横向きから前向きに転じる瞬間がある。その方向こそが、京極が狙ったコースに違いない。
 フラット・サーブは多くの試合で一球目の勝負球に使われるほど威力のあるサーブだが、体のしなりを使って生み出す力をボールの回転ではなくスピードに費やす為に、ほぼ直線にしか飛んでこない。従って彼のフォームから当たりをつけて、ボールが向かってくる方向に合わせてラケットをセットすれば、理論上は返せるはずである。
 釣竿のようにしなった体が横から正面へとうねりを開始した。
 「よし、今だ!」
 確信を持って振り上げた透のラケットが空を切った。だが、フレームの端の方にボールの触れた感覚が微かにある。返す事は出来なかったものの、このやり方でコースを判断して良さそうだ。
 「次はいける!」
 透は頭上に浮かぶ月明かりのような、控えめだが確かな希望の光を見出した気分であった。同時に、鳴りを潜めていた興奮が緊迫した空気を破ろうと騒ぎ出す。自分より強い相手と渡り合えると自覚した際の、快楽にも似た興奮がもうすぐやって来る。
 それにつられて、あの感覚が蘇る。最高に集中力が高まった時の独特の感覚。静まり返った頭の中でコマ送りに映し出される映像と、京極のフォームが重なって見える。
 しなやかな動きが横向きから正面に転じる一瞬が、透の目にもハッキリと映った。
 「ここだ!」
 相手のフォームからサーブのコースを予測し、ラケットを振った。この感触は間違いなくボールを捕らえている。最後の最後で、ついに返球する事が出来たのだ。

 ところが京極から放たれたサーブは、透の予想より何倍も重かった。なるほど彼は逞しい肉体を保持しているものの、重量級というほど筋肉の隆起があるでもなく、そこから放たれたサーブも重さがあるようには見えなかった。
 ラケットのスィートスポットと呼ばれる中心部でボールを捕らえているのに、打ち損じた時と似たような“ぶれ”を感じる。ボールに加わるスピードと重みは対である事を、改めて痛感させられる。だが、ここで打ち負けてはせっかくのチャンスが無駄になる。透は全身の力を込めてラケットを押し返した。
 トン、トトンと、ボールの軽やかなバウンド音が暗闇に響く。透の渾身の一打は後わずかのところでネット上部の白帯に当たり、相手コートとの境界線を越える事なく地面に落ちた。
 先程まで鉛ように感じたボールが、今は何かの抜け殻のように力なく足元に転がっている。もう少しで掴めると思っていた希望の光が一瞬にして闇と同化した。
 結局、四本ともサーブを返せないままゲームを終わらせてしまった。せっかくのチャンスをふいにしたのである。
 透は自分のラケットをじっと見た。村主のラケット、唐沢のラケット、成田、藤原、千葉、遥希 ―― 次々と自身が強いと感じる選手のラケットが思い起こされる。彼等と同じ道具を使っているはずなのに、扱う人間によって何故こうも力の差が出るのだろうか。

 ラケットを握り締めたまま項垂れる透のもとへ、京極がゆっくりと近付き、
 「頂上は見えたか?」と聞いてきた。
 いくらか穏やかに聞こえる言葉の裏には、別の意図が含まれているのだろう。本当は「もう気が済んだか」と言いたかったに違いない。大人と子供以上に格差が露呈したお粗末な結果に、彼は呆れるよりも哀れを感じたのかもしれない。
 「いえ……せっかくチャンスを貰ったのに。俺には頂上を見る資格もないなんて……」
 透は次の言葉が続けられなかった。確かにチャンスは目の前まで来ていた。もう少しで掴めるところまで来ていたはずなのに、己の力不足の所為で逃してしまった。
 「なんで……?」
 悔しくて、情けなくて、堪えようとした涙が透の喉を詰まらせた。負けず嫌いの人間にとって、悔し涙ほど手こずる涙はない。ようやく見つけた希望の光を逃してしまった悔しさが、一つ二つと頬を伝っていく。
 自分から試合を申し込んでおいて、未熟さ故に自滅して、その結果を受け入れ切れずに悔し泣きをするなど、みっともない行為だと分かっている。しかし、やり場のない悔しさは一度溢れ出したら止まらなかった。
 ネットに阻まれ地面に転がるボールが、なかなか次のステップに上がれず佇む自分のようだと思った。コートの中央に立ちはだかるネットが、強者と弱者を隔てる高い防壁に見えてくる。周りの皆は軽々と越えていくのに、自分の放ったボールだけがネットに阻まれ落ちていく。
 こんな時に限って、バリュエーションで負けた悔しさが対になって甦ってくる。なぜ勝てない。なぜ縮まらない。なぜ自分はこんなにも非力なのか。

 俯く頬から滴り落ちるいくつもの涙を、京極は少しの間、黙って眺めていたが、やがて自分には関わり合いの無い事だと判断したのだろう。コート脇に置かれた荷物を手早くまとめると、くるりと背を向けた。
 「お前が本当に頂上を見たいのなら、来週のこの時間までに俺のサーブを返せるように練習しておけ」
 離れていくと思われた背中から低い声が漏れた。
 「えっ? 今、なんて……?」
 透は耳を疑った。
 「俺は同じ事は二度言わない。聞こえないバカに用はない」
 「あっ、いえ……聞こえました。あの、それって、もう一度、俺にチャンスをくれるって事ですか?」
 予期せぬ展開に戸惑う透を無視して、京極が畳み掛けた。
 「先に忠告しておく。俺のサーブを根性だけで返せると思うなよ」
 暗がりの中、青白い光を浴びて頂点に立つ男の後姿が凛と浮かび上がる。
 「ありがとうございます。でも、どうして……?」
 「調子に乗るな。次がラストチャンスだ」
 なぜ京極が心変わりしたのか、その返事から推し測る事は出来なかった。ただ、これ以上の質問を迷惑がっている事だけは確かなようである。そして温情か何かは知らないが、もう一度だけ、最後のチャンスを与えてくれた事も。
 「ありがとうございます。次は必ず!」
 透は京極に一礼すると、青白く照らされた後姿が完全に消えるまで見送った。






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