第34話 立ち葵

 「奈緒! 聞いて、聞いて! 昨日、大変だったのよ!」
 朝からテンション高く駆け寄ってくるのは、顔を見ずとも親友の塔子だと分かっていた。彼女の一日は、前日の些細な出来事を大事件の如く報告するところから始まり、次の事件が起こるまで尾ひれ背ひれを加えてクラス中に広めて回る。これが「光陵学園の番記者」を名乗る塔子の日課であり、日常であり、学校へ来る主たる目的でもあった。
 「どうしたの?」
 詳細を尋ねようとする奈緒に振り返る隙も与えず、塔子は椅子ごと背後から抱き付き、アナウンサー顔負けの早口で語り出した。
 「昨日ね、高木と久保田が松林中の不良どもに絡まれてさ……」
 塔子の話に「大変」は付きものだが、昨日は本当に大変だったと見えて、快活に動く黒い瞳が一段と大きく見開かれている。
 「駅前だったから野次馬は集まって来るし、高木も久保田も不良にビビッて全然役に立たないし、真嶋は逆にやる気満々で突っ込んで行くし。ホントに、ホントに大変だったんだから!」
 いまだ興奮冷めやらぬ口調から、彼女の孤軍奮闘ぶりが伝わってくる。間違いなく今日のトップニュースとなるであろう話の要点をかいつまんで整理すると――。
 テニス部のマネージャーである塔子は、昨日の放課後、高木と久保田の二人に駅前のスポーツショップまで部活動に必要な用具の買出しを頼んでいた。ところが、いつもより彼等の帰りが遅い。心配になった彼女が同じ一年生の透をお供に探しに出てみると、駅前で二人が不良達に絡まれている現場に出くわした。しかも相手は柄の悪さで有名な松林中学の生徒である。どうにか穏便に済ませたいところだが、止めに入る立場の透は「俺の仲間に手を出すな」と叫ぶなり不良達に飛びかかり、さらに騒ぎを大きくする始末。仕方なく塔子が警察を呼ぶ振りをして、ようやくその場を切り抜けたとの事だった。

 「まったく、私があの場にいなかったら、どうなっていたか。都大会前だっていうのに、どいつもこいつも!」
 昨日の出来事を振り返り、憤慨する親友の傍らで、奈緒はやんちゃ坊主の武勇伝をさもありなんとばかりに目を細めて聞いていた。季崎との一件を思い起こせば、透の一連の行動が手に取るように分かる。「俺の仲間に手を出すな」とは、いかにも彼らしい。
 透は決して自分から喧嘩を吹っかけたり、手を出したりはしない。しかし反対に仲間が絡まれたり、因縁をつけられた場合には、躊躇せず殴りかかってしまう性格だ。
 彼のそうした行動は、奈緒にとっては微笑ましいエピソードに聞こえるが、テニス部員にとっては笑い話では済まされない。都大会を前にして他校と揉め事を起こしては、出場停止になりかねない。塔子はその事を危惧しているのである。
 「しかもさあ……」と、塔子が声を潜めて続けた。
 「その不良どもの中に、唐沢先輩の弟がいたんだよね。
 噂では聞いていたんだけど、髪はオレンジに染めているわ、両耳ピアスだわ、まんまヤンキーで驚いたわよ」
 「えっ、その人って唐沢先輩の弟なの?」
 オレンジ髪の少年なら、奈緒も駅前で何度か見かけた事がある。最新の流行に流されがちな中高生の中で、昔ながらの分かりやすいヤンキー像を貫く生徒は多くない。同一人物と見て間違いないだろう。
 「なんだ、知らなかったの?
 お兄さん二人は光陵学園に入学出来たんだけどね。末っ子は中学受験に失敗して、松林中に行ったらしいよ。それが原因であんな風になったって。
 ほら、うちは中高一貫だから中に入っちゃえば楽だけど、その分、入試が有名私立並みに厳しいじゃん? 特に弟の時は倍率が高かったみたいでさ」
 「でも、その人……そんなに悪い人じゃないと思う」
 とっさに奈緒の口から少年を擁護する言葉がついて出た。知り合いと呼べるほどの間柄ではないが、彼の人柄には触れた事がある。あの少年は、見かけよりずっと純粋で良識的な人間だ。

 基本的に非行とは無縁の学生生活を送る真面目な奈緒だが、彼女にも人には言えない秘密の習慣があった。非行の始まりとも目される、学校帰りの繁華街への寄り道。但し、奈緒の場合は道草と呼ぶ方が近いかもしれない。
 この二ヶ月間、彼女は駅前のショッピングモールの一角に店を構える雑貨屋に立ち寄っては、店頭に飾られている『メロリン』をひとしきり眺めてから自宅へ帰るという、不毛具合は小学生と変わらぬ寄り道を繰り返しているのである。
 『メロリン』は決して中学生が尻込みするような高級品ではない。たかだか四百五十円のキーホルダー付きのマスコット人形だ。それなのに奈緒が眺めるだけで購入に踏み切れない理由は、『メロリン』が恋の願いを叶えるとの触れ込みの猫型キューピットだからであった。
 この『メロリン』、姿形は猫だが頭に二本の触角を持ち、その先にはピンクのハートが付いている。噂ではハートの触角が二本とも取れると両想いになり、一本だけ取れると片思いで終わるらしい。
 以前、透と買い物に出かけた際にそれを見かけてからずっと、奈緒は雑貨屋に通い続けていた。告白などと大それた事をしなくても、触角が取れれば願いが叶う。そんな小心者の救世主を、何としても手に入れたいと思っていた。
 しかし、それをレジまで持っていく勇気がない。店の前までは行けるのに。財布にはいつも四百五十円を用意しているのに。どうしても、あとひと絞りの勇気が出せなかった。
 『メロリン』の購入は即ち、「只今、絶賛片思い中」と公表するに等しい行為である。店員を始め、見ず知らずの客にも教える事になる。それが恥ずかしくて、店頭で『メロリン』を手に取る事さえ躊躇われるのであった。
 そもそも躊躇いもなく買える勇気があるのなら、もう少し透との仲も自力でどうにかしているはずである。人一倍臆病な少女と人一倍鈍感な少年との関係は、地区大会の後に区営コートでテニスをして以来、深くも浅くもなっていない。つまり休日に二人で会っておきながら、単なるクラスメートの域を脱していないのだ。
 こんな不甲斐ない現状にどっぷり漬かる人間がいくら頑張ったところで、『メロリン』を手中に収める事など出来はしない。店先からレジまでの距離がヒマラヤ登山並みの難関に思える臆病者に出来る事と言えば、せいぜい山頂のお宝を物欲しそうに見つめては重い溜め息を吐く事ぐらいである。
 だが、その行為もまったくリスクがないとは言い切れなかった。
 人通りの多い駅前で女子中学生が独りで溜め息を吐いていれば、かなりの高い確率で危ない人達が声をかけてくる。松林中学の不良達もその一部で、冗談ともナンパともつかない常套句で誘ってきては、時に強引に連れ去ろうとするのであった。
 ところが一人だけ、不良グループの中に正義感の強い少年がいた。彼は大勢で一人に絡む行為が気に入らないのか、仲間が奈緒にちょっかいをかけるたびに「弱い者イジメするんじゃねえ」と言って、助けてくれていた。それがオレンジ色の髪をした、唐沢の弟と思しき少年だった。

 困惑顔を向ける親友の塔子に、奈緒は少年に助けてもらった時の経緯を ――『メロリン』が絡まれた原因である事を伏せて―― 話してみたが、彼女はあくまでも見方を改める気はないらしく、困惑顔を呆れ顔に変えてまくし立てた。
 「奈緒はお人好しが過ぎるのよ。そういうの『お人バカ』って言うの。
 相手に下心とかあったら、どうすんの? 助ける振りをして、手込めにするかもしれないんだよ?」
 「手込めって……時代劇じゃあるまいし」
 唐沢の弟というだけあって、少年は兄と同様、誰もが好感を持てる整った顔立ちをしており、特に品良く通った鼻筋と切れ長の目元がよく似ていた。身長は兄より高いだろうか。派手な外見のせいで近寄りがたい雰囲気はあるものの、決して悪人には思えなかった。
 しかしながら、奈緒の心許ない見解だけでは頑固な親友を説得するには不充分だったようで、塔子の口調はますます熱を帯びていった。
 「第一、良識ある人間がヤンキーになる訳ないじゃん! あのオレンジ髪の、何処がまともだって言うのよ?
 男ってのはね、何の見返りもなく女の子を助けたりしないんだから。もっと気を付けなくちゃ駄目だよ!」
 「それぐらいにしてあげなよ、塔子。今日は、奈緒ちゃんの特別な日でしょ?」
 永遠に続くと思われた説教が、もう一人の親友、詩織の一言で静まった。
 「あっ、ゴメン! 忘れてた。
 詩織、あれ持って来てくれた?」
 「もちろん!」
 親友二人が揃って奈緒の机の上に綺麗にラッピングされた包みを差し出すようにして置き、「お誕生日おめでとう!」と声を合わせて言った。
 今朝の騒動ですっかり記憶の彼方に追いやられていたが、今日は奈緒の十三歳の誕生日であった。

 「マジッ!? お前、誕生日なのか?」
 親友から渡されたプレゼントの包み紙を丁寧に開いていると、突然、隣の席から透が会話に割り込んできた。
 「うん、まあ……」
 好意を寄せる相手から直球で尋ねられ、奈緒は思わず曖昧な返事で誤魔化した。前々から誕生日を知らせたい気持ちはあったが、プレゼントを催促するようで言い出せないまま過ぎていた。
 動揺を露にする奈緒を置き去りにして、親友二人は「作戦成功」とばかりに自分達の席へ戻っていく。
 どうやらプレゼントは品物だけでなく、隣席のテニスの事しか頭にない鈍感な少年に今日が奈緒の誕生日だと知らせる事も含まれていたようだ。秘めていたはずの恋心がどこで勘付かれたかは知らないが、これも彼女達なりの配慮だろう。
 「何だよ、奈緒? そういうことは前もって言えよ。水臭せえぞ?」
 社交辞令やお愛想ではなく、透は本気で気分を害したらしく、ムッとした顔でこちらを睨み付けている。
 好きな人から見つめられると、その視線までも見惚れてしまう。相手は真剣に怒っているというのに、胸の高鳴りに気を取られ、いつもの“単なるクラスメート”としての距離が保てない。
 「お前には、色々世話になってんだからさ。
 そうだ、帰りに何か買ってやる。部活終わってからになるけど、一緒にどっか行かねえか?」
 「で、でも……」
 「あのキザ野郎のせいで、鞄の礼も中途半端だったし。駅前のショッピングモールなら、遅くまで開いてんだろ?」
 「でも……」
 好きな人からのプレゼントを断る理由は何もない。しかし、待っていましたとばかりに「買って!」と言えないのが、小心者の性である。恥ずかしさから、ついつい「でも」を連発してしまう。
 「迷惑か?」
 遠慮から来る「でも」を拒絶と解釈したのだろう。透の声のトーンが落ちている。このままでは、せっかく塔子達がくれたチャンスを逃してしまう。
 「違う! 迷惑なんて、そんな事ない。ただ急な話だし、部活もあるのに悪いかなって……」
 勇気を出して理由を告げてみたものの、やはり最後は消え入りそうな声になっていた。
 親友が作ってくれたチャンスにがっつく気概もなく、だからと言って、気持ちを押し殺す事も出来ず。つくづく自分は中途半端な人間だと、痛感させられる。
 イエスともノートもつかない返事に困惑したのか。透が少し困ったような顔で覗き込んできた。
 「お前、また我慢してんじゃねえのか? 具合が悪いなら、ちゃんと言えよ?」
 「ち、違うよ。本当に」
 誕生日は年に一度。目の前に転がるチャンスに手を伸ばさなければ、単なるクラスメートから脱却する機会は来年まで来ないかもしれない。
 「じゃあプレゼント、一緒に買いに行くか?」
 透の問いかけに、奈緒は一年分の勇気を振り絞って頷いた。
 「お、お願いします……」


 学校からショッピングモールへ行くには、河川を一つ越さなければならなかった。河川と言っても大した幅もなく、それに沿って広がる河原も、一キロほど続く桜並木を除き、野生の草花が好き勝手に生えているだけの荒地だが、そこは奈緒にとって特別な思い入れのある場所だった。桜が満開の頃、透と初めて出会ったのがここである。
 開花の時期はとうに過ぎ、代わりに芽吹いた緑の葉が今は並木の主役を務めている。しばらく続いた雨のせいか、頭上の緑と地面の双方から湿った風の匂いがする。
 河原を吹き抜ける風が最も潤うこの季節。奈緒には密かに楽しみにしている事があった。
 「ねえ、トオル? あれ、知ってる?」
 奈緒は、傾斜した土手に郡をなして咲いている薄紅色の花を指差した。
 「ピンクの……ヒマワリか?」
 テニスのことしか頭にない少年に、花の名を問うても無駄だった。ふんわりとした輪郭の漏斗形の花冠を伴い、空に向かって凛と背筋を伸ばす姿は、何処からどう見ても立ち葵に相違ないのだが、彼の目にはそれがヒマワリと同種に映るらしい。
 「あれは『立ち葵』って言うんだよ。下の方だけ花が咲いているの、見える?」
 土手に佇む立ち葵はまだ咲き始めたばかりで、途中までしか蕾を付けていなかった。
 「『梅雨葵』って呼ぶ人もいるの。下から順番に咲き出して、一番上の花が咲く頃にちょうど梅雨が終わるから」
 「へえ、頭良いんだな」
 花のウンチクなど嫌がられるかと思ったが、透は興味深げに奈緒の話に耳を傾けてくれている。
 「私ね、六月生まれでしょ? お誕生日はだいたい雨で……。だから立ち葵みたいに、夏に向かって一生懸命準備している花を見ると、何だか嬉しくなるの」
 「あの花、螺旋階段みたいだ。
 少し前なら何とも思わなかったけど、今はあの花、偉いと思う。ああやって一つ一つ順番に花を咲かせて、頂上を目指してんだよな」
 「うん、そうだね」

 今まで違う環境で育った二人が出会い、同じ空間で同じものを見て、同じことを感じる。同じ時間を過ごす事で、同じだと思える瞬間が増えていく。時間は流れるものではなくて、重ねていくものだと、奈緒は思った。そして同じ気持ちでいられる相手と重ねた時間が、後から振り返った時に幸せの形をした思い出となるのだろう。
 「俺はまだレギュラーには程遠い場所にいるけど、あの花みたいに頂上まで一つ一つ登って行こうと思っている」
 決意を秘めた透の力強い視線が、立ち葵の青々とした蕾を捕らえている。好きなものに対して直向きになれる。未熟だけど努力する、と言い切れる。彼のその真っ直ぐな情熱に触れるたびに、奈緒は胸が痛くなる。
 昔はそれが途中でテニススクールを辞めてしまった負い目から来るものだと思っていたが、今は違うと断言できる。自分は彼のそういうところが好きなのだ。
 「だいじょうぶ。トオルなら出来るよ、きっと」
 「お前にそう言われると、出来る気がするから不思議だよな。まずはレギュラー取りに行かねえとな!」
 透の笑顔に応えようとして、顔を上げた瞬間、奈緒の視線は別のところへ釘付けになった。河原の向こう岸で、例のオレンジ髪の少年が複数の不良に取り囲まれているのが見えたのだ。
 遠目からだが、十人近くはいるだろうか。相手は柄の悪さでは松林中学と一、ニを争う芙蓉学園の生徒達で、少年はたった一人で応戦するつもりでいるようだ。
 助けを呼ぼうとして奈緒は辺りを見回したが、その目の前を何かの影が駆け抜けていった。呼び止める間もなく走り去る後姿は、たった今、隣で話をしていた透のものだった。

 嫌な予感がして、奈緒も後を追った。案の定、透は対岸に到着すると同時に応戦する構えを見せている。但し、その拳は芙蓉学園の不良達に向かって握られていた。
 突拍子もない行動に驚いたのは奈緒だけでなく、オレンジ髪の少年も同じであった。昨日「俺の仲間に手を出すな」と飛びかかってきた人間が、なぜ自分の味方に付こうとしているのか。まるで見当がつかないといった様子で、透を睨み付けている。
 「おい、お前! どういうつもりか知らねえが、勝手に人の喧嘩に割り込んでくるんじゃねえよ」
 「そんだけボコボコにされて、よく言うぜ」
 透の言う通り、少年はすでに全身傷だらけになっていた。敵に両脇を押さえられているところを見ると、多勢に無勢でやられたようである。
 「今度は別の仲間か? それとも、逃げた仲間が助っ人を呼んだのか?」
 不良の一人が冷やかし気味に笑った。その口振りから、少年の仲間が彼を残して逃げたと分かる。
 「こいつが仲間の訳ねえだろうが!」
 満身創痍でふらつきながらも、少年は強気の姿勢を崩さない。どうして奈緒の周りには「退く」という言葉を知らない男子が多いのか。
 不安に傾く奈緒の耳にもう一つ、威勢の良い啖呵が飛び込んできた。
 「ああ、そうだ。仲間じゃねえよ。こいつは俺のダチだから!」
 「はぁ? お前、もしかして、頭弱いのか?」
 少年がそう思うのも無理はない。誰よりも透を間近で見てきた奈緒でさえ、その意図が分からない。
 困惑を多分に含んだ二つの視線をものともせずに、透はきっぱりと言い切った。
 「俺のダチがお前の世話になったんだ。だから、俺とお前も今日からダチだ」
 どうやら透は、今朝、奈緒が少年に助けてもらったと話すのを聞いて、その借りをここで返そうとしているらしかった。彼の気持ちは嬉しいが、どう考えても分が悪すぎる。相手は悪名高き芙蓉学園の不良集団。こちらは負傷した少年と透の二人。
 最悪の状況を回避すべく、奈緒も塔子の真似をして、警察を呼ぶ振りをしようかと思った矢先である。透の右拳が少年の両脇を捕らえる不良の一人に命中し、振り向きざまに蹴り上げた左足が、もう一人を吹っ飛ばしていた。
 一瞬のうちに、少年の体は自由になった。その早業たるや、いかに透が喧嘩慣れしているかを物語っている。
 「さっさと片付けさせてもらうぜ。昨日みたいな騒ぎになると面倒だ」
 好戦的な笑みを浮かべ、透が制服のシャツの袖をまくった。それを合図に、残りの不良達が一斉に襲いかかった。
 体格からして、恐らくほぼ全員が上級生だろう。跳びかかった不良達に埋もれ、一瞬、二人の姿が見えなくなった。だが、数秒後には全員が意識を失った状態で仰向けに倒されていた。
 さすが頑なにヤンキー像を貫いているだけの事はある。オレンジ髪の少年は解放されたと同時に透に負けず劣らずの素早さで不良達を捌いていき、あっという間に二人で集団を伸していた。

 完全に延びている不良達を横目に、少年が透の方へ向き直った。
 「俺、唐沢疾斗(はやと)。お前は?」
 「トオルだ。真嶋透」
 「正直、助かった。今日のところは礼を言っておく。
 だけど、二度と余計な事はするな」
 疾斗と名乗った少年は、まだ透に警戒心を抱いているようだった。前日に拳を交えた相手から友達だと言われても、そう簡単に受け入れられるものではない。
 「ダチの借りを返しただけだ。お前の邪魔をする気はない」
 疾斗は傍らにいる奈緒に視線を移し、少しの間、記憶を辿る仕草を見せていたが、すぐに「ダチの借り」の意味するところを理解したらしく、いくらか警戒心を緩めた顔で呟いた。
 「別に、助けるつもりでやったんじゃない。ただ弱い者イジメが嫌いなだけだ」
 「他の仲間は、疾斗を置いて逃げたのか?」
 「疾斗って……呼び捨てにすんじゃねえよ!
 お前、一年だろ? 俺は二年だ。言葉遣いに気をつけろ!」
 噛み付かんばかりに声を荒らげる疾斗に対し、透は平然と言ってのけた。
 「いいや。お前は俺の先輩じゃないから。ダチは呼び捨てだろ、普通?」
 「お前とダチになった覚えはない」
 「お前がどう思うかなんて、関係ねえよ。俺がダチと決めたら、ダチだから。
 それより疾斗、なんで逃げなかった? 独りじゃヤバイって、分かっていただろ?」
 「逃げるくらいなら、負けた方がマシだ」
 「ああ、それもそうか」
 小心者の奈緒には理解しがたい理屈に思えたが、透は納得した様子で頷いている。似た者同士にしか分からない道理があるのだろう。その反応を視界の端で捕らえた疾斗が、この時、初めて笑顔を見せた。
 しかし、それはほんの一瞬で、透の背中のラケットを見るなり彼はまた表情を硬くした。
 「お前、光陵の生徒だろう? テニス部なのか?」
 「ああ。疾斗はテニスやらねえのか?」
 「俺はやらない。兄貴達みたいになりたくねえからな」
 吐き捨てるようにそう言うと、疾斗は口を閉ざしてしまった。その隣で透が首を傾げている。発言の意図を計りかねているのだろう。
 今朝、塔子から、唐沢三兄弟のうち末っ子の疾斗だけが入試で落ちて光陵学園に入れなかったと聞いた。それが事実であるならば、彼は二人の兄に対してコンプレックスのようなものを抱いているのかもしれない。忌々しげに話す口調からは、穏やかならぬ感情が見え隠れしている。
 兄弟間の確執は、他人が軽々しく踏み込める問題ではない。しかし本当に他人に立ち入られたくないのなら、自らテニスの話題を持ち出す事もしないのではないか。
 お節介だと思いつつ、彼の態度が気になって、奈緒が声をかけようとした時である。
 「やっべえ!」
 薄紫色に染まった景色を見回しながら、透が叫び声を上げた。そしてその慌てぶりを目にして、ようやく奈緒も本来の目的を思い出した。
 「すっかり遅くなっちまった。急げ、奈緒! ダッシュだ、ダッシュ!」
 待ったをかける間もなく、透が奈緒の腕を掴んで駆け出した。何事にも直向な彼がひと度走り出してしまえば、誰にも止められない。
 呆気に取られる疾斗を河原に残し、奈緒は透に引きずられるようにしてその場を去った。土手から駅へと続く道路まで駆け上がる途中、首を後ろに回して振り返ってみたが、辺りは夜の帳と立ち葵の群生に飲まれ、オレンジ色の髪がぼんやりと霞んで見えるだけだった。


 駅前のショッピングモールは二つの顔を持っていた。日中の学生達を相手に秩序ある営業を展開する店舗に代わり、夜は会社帰りのサラリーマンをターゲットとする怪しげな飲食店が目を覚ます。
 奈緒と透がショッピングモールの入口に着いた時にはすでに赤や紫の派手な色の看板が煌々と軒先を照らしており、中学生が出入りできそうな健全な店は店仕舞いを始めていた。
 急に気持ちが後ろ向きになった所為だろう。奈緒は何もない平坦な場所で足を取られてしまった。
 「奈緒、大丈夫か? 悪りぃ、強く引っ張り過ぎた」
 「ううん、平気。それより、今日はもう良いよ。お店も閉まっているし」
 「駄目だって! 今日が誕生日なんだろ?」
 「でも……」
 「分かった。ちょっと、ここで待っていろ」
 透は理由も告げずに奈緒をショッピングモールの入口に残すと、さっさと独りで駆けていった。

 ショッピングモールの入口からは、夜の駅前の様子がよく見えた。ロータリーの中央に設けられた広場では、噴水が時間ごとにライトアップされ、待ち合わせに利用する人々の目を楽しませている。
 仄白い光に照らされた時計台。忙しなく通り過ぎる車のテールランプと、原色に彩られたビルの看板。明るい時間帯では目立たないもの達が、次々と暗闇の中から姿を現す。
 人も車も建物も、それぞれが昼と夜の二つの顔を使い分けているように見えた。通学路だと思っていた駅前は、これから夜の時間を過ごす大人達の為の舞台へと変わっていく。
 人目をはばかることなく抱き合うカップル。コツコツと響く革靴の音と、やたらと騒がしい車のエンジン音。煙草の煙と香水の匂い。どれも中学生には縁遠いものだった。
 居たたまれなくなって、思わず奈緒は俯いた。自分が不釣合いな場所にいるような気がして、ひどく居心地が悪い。
 「トオル、まだかな……」
 心細さから口にした名前が、胸の痛みを連れてくる。ついさっき別れたばかりだというのに、もう彼に会いたくなっていた。朝のドリップしたてのコーヒーを思わせるような澄んだ琥珀色の瞳。僅かなコロンの香りさえも「臭せえ」と言い切る彼に、今すぐ戻ってきて欲しかった。

 「悪りぃ! 待ったか?」
 声につられて顔を上げると、透が息を切らしながら目の前に立っていた。
 「うん、ちょっとだけ……」
 時間の長さを言ったのではない。本当に待っていたからだ。少しの間しか離れていなくても、心の底から会いたいと願っていた。
 「片付けているところを無理やり開けさせたから、遅くなった。ごめんな?」
 「お店、入れたの?」
 「これ、プレゼント。誕生日、おめでとう」
 透が小さなストラップをちょうど奈緒の目の高さに来るようぶら提げた。見慣れぬ夜の風景に後ずさりしていた不安な気持ちが、一瞬で消えた。
 「トオル、これって……」
 「お前、こういうの好きなんだろ?」
 目の前でゆらゆらと揺れるピンクのストラップは、猫型キューピットの『メロリン』だった。二ヶ月も前の事なのに、奈緒が物欲しそうに眺めていたのを、彼はちゃんと覚えていてくれたのだ。
 「キーホルダーの方が売り切れていて、代替品なんだけど。来年はもうちょっとマシなのやるから、今年はこれで勘弁な?」
 照れ臭そうに差し出された『メロリン』には、確かに二本の触角が付いている。本物の『メロリン』のストラップバージョンだ。

 ずっと欲しいと思っていた『メロリン』をプレゼントされたにもかかわらず、奈緒は素直に喜びを表現することが出来なかった。嬉しいサプライズに感激したのもあるが、それだけではない。
 ひょっとして透は『メロリン』の噂を知っているのではないか。告白しなくても恋の願いを叶えてくれるキューピットであることを。もしそうだとしたら、最も知られたくない相手に自分の想いを知られた事になる。
 万が一の可能性を考えて押し黙る奈緒に向かって、透が不思議そうに尋ねてきた。
 「なあ、これって……」
 心臓が口から飛び出すのではないかと、思った。彼の視線は『メロリン』一点に集中し、その手は真っ直ぐピンクのハートを指差している。
 いくらテニスのことしか頭にない鈍感な少年でも、女子の間で大流行しているキューピットの噂を一度くらいは耳にした事があるはずだ。自分が一方的に想いを寄せている事実を、よりによって意中の相手に気付かれてしまうなんて。他の誰に知られるよりも恥ずかしい。
 ところが心して受け止めた言葉は、奈緒の予想とはかけ離れたものだった。
 「これって、猫か? 虫か? どっちなんだ?」
 『メロリン』の姿形は否定しようのない猫であるが、触角のせいか、透は虫だと誤解しているようだ。
 透が『メロリン』に差し向けていた指をハートの触角に伸ばし、「やっぱ、虫だよな?」と言いながら引っ張った。
 「あっ、触角は駄目! 引っ張っちゃ……!」
 奈緒は慌てて恋のキューピットを胸元に避難させた。この男はキーホルダーの『メロリン』に大車輪をさせた前科がある。これ以上無礼を働いたら、天罰が下るに違いない。
 第一、こんなところで触角をむしり取られては、せっかくのおまじないが台無しだ。あくまでもこれは自然に取れないと意味がないのである。
 「ブハハッ! 奈緒、案外ガキっぽいとこあるんだな?」
 真剣にストラップをかばう奈緒の姿を見て、透が噴出した。飾り気のないその笑顔は、周りのどの電飾よりも明るく見える。

 物心ついた頃から十二歳までの誕生日は、ただただ平凡に過ぎていった。仲の良い友達からプレゼントをもらい、家族と夕食を囲み、ケーキを食べる。十三歳の誕生日も同じように過ぎていくと思っていた。
 まさか、こんなにも心揺さぶられる出来事が待ち受けているとは、思いも寄らなかった。恋には平凡な日常をドラマに変える不思議な力があるのかもしれない。今日の誕生日は忘れない。きっと大人になってからも。
 「トオル、本当にありがとう。すごく嬉しい」
 透が随分前に二人で買い物に出かけた時の事を覚えていて、閉店間際の店に駆け込み、プレゼントを買ってきてくれた。思わぬハプニングで知れた彼の優しさが、奈緒には嬉しかった。
 「たかがストラップで大げさな奴だな」
 こちらに向けられていた彼の笑顔が、ふいっと横向きに変わる。これ以上、プレゼントの話題に触れるなと、態度で示されているようだった。
 だがしかし、こんなチャンスは滅多にない。奈緒はありったけの勇気を振り絞り、透の誕生日を聞き出した。
 「十二月七日」と、ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
 十二月生まれという事は射手座である。早速ふたご座と射手座の相性はどうだったかと、知識と記憶を総動員してみるが、そこそこである事しか分からない。大して良くも悪くもない、単なるクラスメートと同レベルの相性だ。
 どうにも納得し切れなくなった奈緒は、更に質問を重ねた。
 「血液型は?」
 「A型」
 O型とA型は、相性が良いはずだ。日本人の約四十パーセントがA型であるにもかかわらず、O型はそれに次いで多いにもかかわらず、胸の中に安堵が広がった。

 先程から透は横を向いたままだった。誕生日や血液型の話がつまらなかったのだろうか。返事が素っ気ない。
 慌てて会話を繋いでみる。
 「私もトオルのプレゼントを考えておくね」
 「良いよ、俺のは」
 「困る?」
 「あ、いや、そういう事じゃなくて……」
 歯に衣を着せぬ透が、珍しく歯切れの悪い言い方をしている。だがそれは奈緒のように臆病な性格が原因ではなくて、何か大事なことを切り出す前の独特の間から来ている気がした。
 「だったらプレゼントは要らないから、ひとつ頼んでも良いか?」
 そう言いながら目を合わせた彼の眼差しは、いつになく真剣だった。
 「なに?」
 「今度のバリュエーション、見に来てくれないか? 俺、絶対レギュラー取るから」
 「そんな事で良いの?」
 もともと奈緒は応援に行くつもりであった。但し、それは好きな人を応援したいと思う乙女心から勝手に決めていた事であって、必要とされたからではない。
 中学に入ってからテニスを始めた透だが、腕前はすでに奈緒を抜いている。いくらテニススクールに通っていた経験があるとは言え、自分が彼の役に立つとは考えにくい。
 不思議に思っていると、透が更に歯切れの悪い物言いで、ボソボソと付け足した。
 「お前が見ていてくれると、勝てそうな気がするんだ。だから……頼む」
 言い終えるや否や、透はまたそっぽを向いてしまった。照れ臭くなった時、決まって彼は横を向く。
 素っ気ない返事の理由を知り、奈緒は自身の頬が次第に綻んでいくのを自覚した。
 「うん、分かった。肉だんごのお弁当、たくさん作って応援に行くね」
 恋の願いを叶えるという猫型キューピッド。この噂は本当かもしれない。
 誰にも気付かれないように、そっと微笑む奈緒の胸元で、『メロリン』のハートの触角が小さく揺れていた。






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