第36話 ふたりの兄

 奈緒から立ち葵の話を聞かされて以来、透は下校途中に河原へ立ち寄ることが習慣となっていた。灰色の曇天を突き抜けるようにして佇む立ち葵は、満足な日差しや養分がなくとも着実に花芽を増やしている。その健気な姿が自身と重なり、つい様子を確かめに足を伸ばしてしまうのだ。
 「よっしゃ! お前等、あと半分で頂上制覇だな?」
 『梅雨葵』とも呼ばれるこの花は、上端の蕾が開花する頃に梅雨が終わると言われている。螺旋階段を登るが如く、遠回りでも確実に。夏に向けて地味な努力を繰り返す。ゆかしくも逞しい花に顔を近付け、「俺も負けねえかんな!」と同志の誓いを立てている時だった。河原の向こう岸で、見るからに柄の悪そうな集団に囲まれ奮闘する疾斗の姿が目に入った。
 あの場所は不良達の間ではお約束の場所なのかもしれない。またしても相手は芙蓉学園の生徒のようだが、今回は全員が木刀を手にしており、武器を持たずに素手で対抗する疾斗は酷い傷を負いながら、たった一人で応戦しているらしかった。

 考える間もなく、透の足は対岸へ向かった。数の問題よりも、不良達の構えの方が気になった。鉄パイプと変わらぬ持ち方で木刀を担ぐ姿は、剣道四段の透の父親とはまるで違う。得物の使い方も知らない連中とまともに遣り合っては、打撲や擦り傷だけでは済まされない。
 疾斗の身を案じる一方で、透は先日、伊達から聞いたばかりの唐沢家の内情について思い浮かべていた。
 寺の住職を勤める厳格な父親と、世間的には優秀だがひと癖もふた癖もある兄二人。しかも兄同士は互いにいがみ合っているという。家の中に疾斗の居場所は何処にもない。
 疾斗の瞳に宿る冷たい光が複雑な家庭環境から来るものなのかは分からない。だが彼が何か騒ぎを起こすたびに、それは一層強い光を帯びて見える。
 他人を傷付ける事で、あるいは自らが傷付けられる事で、行き場のない怒りを鎮めようとしているのか。もしくは、自分の存在価値を見出そうとしているのか。
 透には危うさを秘めた冷たい光と彼が暴れ回る理由とが、根底で繋がっているように思えてならなかった。

 「相変わらず卑怯な連中だ。大勢で群れなきゃ、喧嘩もまともに出来ねえか?」
 対岸に駆けつけた透は、相手の関心が自分に向くよう挑発し始めた。すでに疾斗は立っているのがやっとの状態で、長身の体は出血と痣の両方で赤く染まっている。
 透は素早く敵の人数を確認すると同時に、背中のラケットに手を伸ばした。相手は丸腰の人間に対して平気で木刀を振るう連中だ。こちらもラケットで応戦しなければ、いちいち素手で受け止めていては身が持たない。
 「またこの間のガキか? ちょうど良い。二人まとめてやっちまえ!」
 十人近い人数が塊となって、透を目がけて襲い掛かってきた。
 「まったく、素人はこれだから。そういう危ない得物はちゃんと使い方を学習してから振り回さねえと、てめえがケガするぜ?」
 常日頃から剣道四段の父親に鍛えられている透が、素人の太刀筋を読めぬ訳がない。力任せに振り下ろされる木刀を素早くラケットで受け止めると、一人三発以内で本体を仕留めていく。
 三発以内と限定したのは、大人数を相手にする自身の体力を考慮したからではない。単純作業を続ける為にはリズミカルにこなした方が、効率が良いと思っただけである。
 「だから、学習しろって言ったのに」
 五分と経たないうちに単純作業を終えて一息ついた透の側には、気絶の山が築かれていた。
 「悪りぃ。また疾斗の喧嘩を横取りしちまった」
 「お前、一体何者だ? もしかして、その筋の人か?」
 疾斗が探るような目つきで透の顔を覗き込んでいる。ラケット一本で武装集団を伸したのだから、そう思われても仕方がない。
 「兄貴達には内緒にしててやるから、正直に言ってみろ」
 「違うって。ただ、日頃からもっと性質の悪い奴と遣り合っているから、自然と鍛えられたんだ」
 これ以上、この話題を続ければ、自分の家の恥を晒す事になりかねない。透はまだ何か言いたそうにしている疾斗に近付き、肩を持ち上げると、通常よりもゆったりとしたペースで歩き出した。

 「お前の家、こっちで良いんだよな?」
 「ああ、悪りぃ」
 さすがに今は抗う気力もないらしく、疾斗は素直に従っている。
 区営コートでの一件から三日と経っていない。それでこの乱闘騒ぎとは、いかに彼が荒んだ生活を送っているかが、よく分かる。
 「あのさ、さっき言っていた『もっと性質の悪い奴』って……お前の兄貴か?」
 透の態度から何かを感じ取ったのか、あるいは彼自身も触れられたくない話題を持ちかけたからなのか。疾斗が遠慮がちに聞いてきた。
 「いいや、俺の親父だ」
 「親父? お前の親父って、そんなに危ない奴なのか?」
 「危ないっつうか、常識じゃ測れないところがあるって言うか。俺の家には至る所に木刀が置いてあって、気に入らない事があれば剣道四段の親父が容赦なく打ち込んでくる」
 「マ、マジで……?」
 「俺が背中にラケットを背負うようになったのも、アイツから身を守る為だから」
 透がいまだに麻の鞄を愛用するのは、岐阜での思い出が詰まっているとか、ラケットバッグを買う金がないとか。これらも理由の一つだが、一番の理由は父・龍之介の木刀から身を守る為にラケットを“護身用として”常に携帯しておく必要があるからだ。
 「お前も身内で苦労しているんだな」
 ホッしたような呟き声が、透の肩先から聞こえた。
 先程から疾斗は、透の肩に寄りかかっては離れるという、何とももどかしい行為を繰り返している。支えてくれる相手がいる事に安堵しつつ、まだ全てを預けられない。そんな寄りかかり方であった。

 「あんまり身内とは思いたくないんだけどさ……」
 普段は決して自分からはしない父の話を、透はごく自然に話していた。
 ある日突然、仕事の都合で転勤すると言い出し、たった三日の準備期間で岐阜から東京まで転校させられたこと。光陵テニス部のOBであるにもかかわらず、息子にはテニスの存在すら教えてくれなかったこと。酒好きの飲んだくれで、息子が何をしようが、たとえそれが命に係わる重要な事柄であっても、一切関心を示さない、極めて自己中心的な父であること。
 疾斗の兄・北斗とは違う意味での“伝説”は、一度話し始めたら止まらなかった。
 世間的にはスポーツ科学の第一人者と言われ、尊敬する人間も多いようだが、息子にとっては最悪の父親だという事を、疾斗になら分かってもらえる気がした。
 透の話を最後まで聞いてから、疾斗が同情と感心とが入り混じった視線を向けてきた。
 「お前、そんな親父に育てられて、よくグレなかったな?」
 確かにそうだ。我が侭で、横暴で、自己中心的な身内に振り回される構図は、隣にいる疾斗と何ら変わりがない。ただ一つだけ、違いがあるとすれば――。
 「たぶん、倒したい奴がいるから……かな?」
 透は言い終えてからも、自分の発言が正しいかどうか少し考えてしまった。ライバル・遥希の存在は、透にとってそんなに有難みを感じられるものではない。しかし彼を倒すという目標があったからこそ、脇目も振らずに走ってこられたのも事実である。
 「たぶん、そうだと思う。気持ちが荒れる前に、アイツと出会ったから。暴れる時間も体力も、ハルキを倒す方に注ぎ込んだんだ、きっと」
 「ライバルってことか?」
 「そんな洒落たモンじゃなくて、何か、こう、妙にムカつく奴なんだ。倒すまでスッキリしないっつうか……」
 遥希の話題になると、何故か透は握り拳を作ってしまう。やはり大事な存在と言い切るには無理があるようだ。

 透の拳から完全に力が抜け切らぬうちに、二人は目的地に到着した。
 話に聞いた通り、疾斗の実家は小規模ながらも歴史の重みを随所に感じる古めかしい寺だった。但し、古いと言っても頻繁に人の出入りはあるらしく、時代劇に出てきそうな重厚な造りの門をくぐると手入れの行き届いた小庭が両脇に広がり、その中央には滑らかな表層の敷石が建物の入口まで整然と続いている。石畳に沿うように植えられた庭木と草花は、四季折々に開花して来院する人々の目を楽しませているのだろう。豪華過ぎず、質素過ぎずの選定が、庭ばかりでなく古びた建物にも上品な彩を添えている。
 「なあ、疾斗? そこに咲いている花、『立ち葵』っていうの、知ってたか?」
 来客を出迎える役割を心得ているかのように、玄関の脇には立ち葵の花が咲いていた。
 「花なんて興味ねえよ」
 「俺もちょっと前まで無かったんだけど、ダチが教えてくれたんだ。この花、意外と根性あるんだぜ。梅雨の間にコツコツ準備して、夏が来る頃にてっぺんの花を咲かせる。努力と根性の花なんだ」
 透の話を聞いて、疾斗も自宅の庭に咲く花に目を向けた。
 「俺、『倒したい奴がいる』って言っただろ? その為に、今は頂上目指している。
 ヒマワリみたいに派手じゃないけど、こうやって一歩ずつ上を目指すのもありかなって。最近、思うんだ」

 しばらくの間、透は疾斗と二人で立ち葵を眺めていたが、ケガ人を無事に送り届けるという本来の目的を思い出し、建物の裏手に回った。
 疾斗の家には、表玄関の他に勝手口があった。都会で目にする機会はあまりないが、昔ながらの家屋や人の出入りが多い屋敷などには来客用の表玄関とは別に勝手口が設けられており、客の邪魔にならないよう、家族や業者はそこから出入りする。透の住んでいた岐阜の山奥では、地主の家がそうだった。
 当然の事ながら、そこは疾斗の実家であると同時に、透のテニス部の先輩である唐沢の住まいでもあった。二人が入るとすぐに、中にいる唐沢と鉢合わせをした。
 学校以外で、しかも寺院という神聖な場所で、この男に会うのは不思議な気がした。プレイヤーとして彼を尊敬しているのは事実だが、私生活となるとあまり関わりたくないのが本音である。
 校内試合を「レース」と称し、学園祭では部室で賭け将棋を催し、陰で荒稼ぎをする副部長。このギャンブル色の強い男が聖域にいること自体が不自然というか、ふざけているというか。しかも隣には、髪をオレンジ色に染めたヤンキーの弟がいる。
 このミスマッチな状況の中、透は唐沢に事情を話し、手伝いを頼もうとした。
 「唐沢先輩、実は疾斗が芙蓉の連中に絡まれてケガを……」
 最後まで言い終わらないうちに、唐沢が透に詰め寄った。
 「真嶋? まさか疾斗に手を貸して、芙蓉の連中と遣り合ったんじゃないだろうな?」
 いつになく険しい形相の唐沢は、傷だらけの弟と無傷の透を交互に睨み付けている。
 「はい。それより疾斗の手当てを……」
 「お前、自分が何をしたのか、分かっているのか?」
 またしても言い終わらないうちに、唐沢が畳み掛けてきた。その口調は明らかに、都大会を前に乱闘騒ぎを起こした後輩を責めている。
 「先輩、すみません。処分なら後で受けますから、疾斗の手当てを先にしてやってください」
 真顔の唐沢はさすがに迫力があったが、透も自分の主張を曲げる気はなかった。事実確認や処分よりも、ケガ人を優先するのは当然の事だと思った。
 だが、そんな透の主張を無視して、唐沢は無言のまま勝手口から出かけようとしている。
 「自分の弟がこんだけボコボコにされてんのに、アンタ、何とも思わねえのかよ!?」
 先輩に向かって思わず声を荒らげたのは、前に北斗の横暴さを見ていたからかもしれない。あるいは父・龍之介の姿と重なったからなのか。
 「アンタ等、兄貴がそんなだから、疾斗の居場所がなくなるんじゃないか!」
 透の怒鳴り声に、唐沢が一瞬だけ振り向いた。
 「こいつのケガは、いつもの事だ。それより……」
 説明する間も惜しいと見えて、唐沢は話の途中で慌しく扉を閉めて出ていった。
 来客をもてなす上品な趣向の表玄関と違い、勝手口は薄っぺらな木製の扉が一枚あるだけの貧相な造りであった。その対照的な出入り口が今の唐沢家の現実を表しているようで、何とも物悲しい気分になった。
 裏口の煤けた扉を前にして、透は恨み言の一つでも放ってやろうかと口を開きかけたが、自分が優先すべき事を思い出し、走り去る後ろ姿に背を向けた。

 疾斗の自宅は特殊な環境のせいか、一般家庭とは間取りが異なり、寺の本殿と中から行き来が出来るように一階には幅広の長い廊下が横たわり、それに沿って家具も何もない座敷が二間と、応接セットの置かれた洋間と、立派な床の間付きの茶室が並んでいた。いずれも仏事で来院する客の為に設けられた部屋のようだが、そこには住居スペースがまるでなく、家人は皆、帰宅するとすぐに二階へ直行する決まりになっていた。
 疾斗に誘導されて二階の彼の部屋と思しき場所まで通された透は、早速、ケガ人の処置を開始した。
 唐沢家ではカラーボックスほどの大きさの、三段に分かれた古い小引き出しを薬箱代わりに利用しており、内服薬、外用薬、テーピングやアイシングなどのケア用品と、どの引き出しも充実していた。男ばかりの三兄弟となると、それぐらいの常備薬が必要なのかもしれない。父・龍之介の職業柄、医療用製品に精通している透でも感心する程の品揃えである。
 この頃になると、さすがに虚勢を張るにも限界が来たのか。疾斗は手早く処置を開始する透に体を預け、自身はその手元を見ながら口だけをボソボソと動かした。
 「たぶん海斗は、黒鉄に話をつけに行ったんだと思う」
 「クロガネ?」
 「黒鉄は芙蓉の頭だ。あそこは小せえグループで頭を張る連中を幹部が束ねていて、その幹部を黒鉄が束ねている」
 「ヤバイんじゃねえのか、そいつ?」
 「うん、ヤバイ。だけど海斗なら対等に渡り合えるから」
 「それって、どういう……?」
 「海斗は昔、黒鉄とつるんでた。今でも海斗と目が合うと避けて通る不良もいるぐらい、暴れ回っていた時期があったんだ。
 きっと黒鉄のところへ行って、テニス部の為にこれ以上騒ぎにならないよう交渉するつもりだと思う」
 透は思わず手を止めた。
 やってしまった。またしても唐沢の真意も確かめずに、失礼なことを言ってしまった。
 前回も土下座までして謝ったというのに。バリュエーション後の後悔が胸に甦る。
 「気にするな。弟の俺ですら、海斗が何を考えているのか読めない時もある」
 弟の立場から透の動きが止まった理由を察したらしく、疾斗が宥めるように微笑み、また話を続けた。
 「海斗は、あの自己中の塊みたいな兄貴とヤンチャな俺に挟まれて育ったせいで、昔から考えとか感情とかを抑える癖がついている。三人でやりたい放題やったら、家の中がメチャメチャになるだろ?」
 疾斗に言われて少しは気が楽になったが、それでもやはり罪悪感は否めない。
 「ただお前には知っていて欲しい。他の奴には分かり辛いかもしれないけど、海斗は懐が深いっていうのか、本当はすげえ思いやりのある優しい奴なんだ」
 慎重に言葉を選ぶ疾斗から、少しずつ唐沢の素顔が明かされていく。
 「うちの兄貴はあんなだから、俺とぶつかる事が多くてさ。そのたびに海斗が間に入って、俺をかばってくれて。自分だって兄貴に振り回されて大変なのに、真っ先に俺のことを考えてくれる。
 他校の連中との揉め事も、本当にヤバイ時は必ず力を貸してくれる」
 「そうだったのか」
 「その薬箱も……」
 「薬箱?」
 「中身をいつも補充してくれているのは海斗なんだ。ほとんど俺が使っているのに」
 「それなのに、なんで『兄貴達みたいになりたくない』って言ったんだ?」

 「兄貴達みたいになりたくねえから」
 河原で疾斗と出会って以来、透はずっとその言葉が気になっていた。長男の北斗はともかく、そこまで慕う次男に対しても、なぜ嫌悪を示すのか。
 兄弟のひび割れた歴史を話すには、それなりの覚悟がいるのだろう。疾斗はしばらく部屋の天井を見つめてから、少しずつ紐解くように話していった。
 「海斗は、兄貴にコンプレックスがあるんだよ。
 俺は三つ離れているから学校にいる間は直接関わる事はないけど、海斗は二つしか違わないから、いつも兄貴とダブる年がある。海斗が一年の時に、兄貴が三年でテニス部にいる。それも絶大な権力を持つカリスマ部長の兄貴が……」
 透は、以前、唐沢がコンプレックスの話をした時の事を思い出した。確か「コンプレックスは原動力にもなるが、落とし穴にもなる厄介な代物」と話していた。その時は千葉の話だと思って聞いていたが、あれは自身の経験から来る言葉だったのかもしれない。
 「兄貴は確かに強い。悔しいけど、メンタル面でもフィジカル面でも、俺はまだ兄貴より上だと思う選手に出会った事がない」
 「そんなに強いのか?」
 「自分とこの部長のレベルを考えてみろよ」
 分かりやすい例えだ。常に団体戦の大将格にオーダーされている部長の成田。その成田と同じく部長を務め、さらに二年も先を行く北斗の強さは、透の知る限り無敵である。
 透が納得したのを見届けてから、疾斗が言葉を継いだ。
 「周りには見せないようにしているけど、海斗はいつも兄貴を追いかけている。縛られていると言っても良い。偉大な兄貴に」
 あの頭の切れる唐沢に、コンプレックスを感じさせる北斗。横柄な印象しか残っていないが、コートに立った彼はそれ程までに力のある選手という事だ。

 「海斗のテニスって、職人って感じがしないか?」
 「職人?」
 唐突な質問に透は首を傾げた。
 「試合に勝利するよりも、返せない一球にこだわる。たとえ後1ポイントで自分が勝てる状況であっても、一球でも返せないショットがある限り、海斗は試合を長引かせる」
 「なんでそんな事を?」
 「兄貴を倒す為さ。海斗にとっては、全ての試合が兄貴を倒す為の過程に過ぎない。
 だから試合に勝つよりも、返せない一球にこだわる。より自分の技術を高める為に。
 しかも兄貴は兄貴で『海斗に俺は倒せねえ』って、呪文みたいに言い続けているし」
 龍之介を父親に持つせいか、透には北斗の行動が手に取るように分かる。
 「てめえにテニスを教えてやる義理はない。どうしてもと言うなら、俺と同じ土俵まで上がってくるんだな」
 前に龍之介から、そう言われた事がある。それは表現こそ違うが、「超えられるものなら超えてみろ」との意味で、簡単には超えさせないという自信に裏づけされた台詞でもある。
 あの時初めて透はプレイヤーとして、また男として、父親を超えたいと意識した。その切っ掛けとなる言葉であった。
 超えたくても超えられない相手が側にいる。幸か不幸か、透の父親はコートから遠ざかっているが、もしこれが遥希の父親のように幼い頃から自分の前にプレイヤーとして立ちはだかっていたら。唐沢の兄・北斗のように、同じテニス部の部長として君臨していたら。恐らく透も彼等のようにコンプレックスを抱いていたに違いない。
 今になって、透にも「コンプレックスは厄介な代物」と話した唐沢の気持ちが分かってきた。
 「そんな二人を見ているとさ、一生懸命やっても苦しいだけだって。テニスが楽しいとは思えなくて。
 それに俺は兄貴達よりも出来が悪いから、努力したって上手くいかないんだろうなって、諦め癖がついちまって」
 確執を抱える二人の兄の間に挟まれ、弟なりに息苦しさを感じていたのだろう。胸の内を明かす疾斗の声音は、弱々しい中にも束縛を解かれた時と同様の軽やかな響きを持っていた。
 「他に何か面白れえ事ねえかなって探すんだけど、気付いてみたら喧嘩三昧の毎日でさ。そこらの悪と遣り合う分には、どっちが傷付こうが構わないと思っていた。
 でも、お前のあの一言が効いたんだ。『こんな事して、お前自身も痛いんじゃねえか?』って、区営コートで言っただろ?
 本当は、ずっと痛かった。自分が殴られている時よりも、相手を殴っている時の方が痛かった」
 本音を吐露した事に対する照れがあるのか、疾斗がばつの悪そうに笑いかけた。シャープな印象を与える切れ長の目は目尻にかけて極端に下がり、三日月形になっている。氷のような冷ややかな光は、跡形もなく消えていた。

 「けど、良かった」
 疾斗の笑顔に応えるように、透も笑みを返した。
 「俺はてっきり、唐沢先輩と兄貴との間でもっと深刻な問題が絡んでいるのかと思っていた。確かにコンプレックスは厄介かもしれないけど、解決つかない訳じゃない。唐沢先輩もきっと、いつか……」
 見る見るうちに、疾斗の笑顔が薄れていった。穏やかに和らいでいた笑顔が、警戒心で塗り固められている。その様子を目の当たりにし、ようやく透も気が付いた。まだ解決つかない問題が残っている。しかも安易に他人に踏み込まれたくない問題が。
 「どうして、それを……?」
 「えっと……」
 伊達から聞いたとは言えなかった。どんなに折り合いが悪くても、家族の噂話が皆の知るところとなるのは身内として気分の良いはずがない。
 だが疾斗は口ごもる透の態度から真実を察したらしく、
 「仕方ないか。あの二人は良くも悪くも有名だから」と諦めたように呟いた。
 「余計なこと喋っちまった。ごめんな」
 「お前が謝ることないって。それに何かあったのは事実だし」
 「そうなのか?」
 「正直、よく分からないんだ。
 俺が小学生で、兄貴と海斗は中学の時だった。ある日突然、二人とも口を利かなくなった。今まで仲の良かった二人が他人みたいになっちまって。たぶん、学校で何かあったんだと思う。
 何度か確かめてみたけど、親父も、お袋も、兄貴も、海斗も、誰も話してくれなくて。皆、その時の話に触れないようにして暮らしている。家の中ではタブーなんだ。
 だから俺も気付かない振りしてんだけど、時々、すげえ息苦しくなっちまう」
 疾斗の話を聞きながら、透は地区大会での不思議な光景を思い返していた。
 確か、コンプレックスの話をしていた時だ。唐沢は遠くを見つめたまま、しばらく動かなかった。その光景は軍師と称される切れ者にしては不釣合いな間でありながら、決して立ち入る事の許されぬ領域にも思えて、透はただ黙って見ているしかなかった記憶がある。あの時の唐沢は、やはり過去の出来事を思い出していたのだろうか。

 透は後輩の立場から、そして疾斗は弟の立場から、直感でしか探ることの出来ない過去の事実に思いを巡らし、自然と無口になっていた。するとそこへ、唐沢本人が現れた。
 「黒鉄と話をつけてきた。今回の事は水に流すし、表沙汰にしないと約束させた。
 但し、うちのテニス部員を一人よこせと言ってきて……」
 そこまで話してから唐沢は透の方へ視線を向けた。こちらの要求を飲む代わりに、黒鉄は自校のレベルアップを図る為、光陵学園からテニス部員を一人転入させろと条件を出したのだ。
 透は投げかけられた視線を受け止めるようにして頷いた。もとはと言えば、自分の軽率な行動から始まったのだ。テニス部が都大会に出られるだけでもありがたい。
 「分かりました。俺で良ければ芙蓉に……」
 途中まで言いかけたところへ、疾斗が割って入った。
 「待ってくれ。俺が行く!
 今度のことは全部、俺の責任だ。トオルには何の罪もない」
 「疾斗、心配すんな。何処へ行ってもテニスは出来るから」
 「違う! お前は光陵にいなくちゃ意味がない。倒したい奴がいるんだろ?
 それに俺も、お前を倒したくなった。区営コートじゃなくて、もっと大きな大会で。
 だから俺が芙蓉のテニス部へ行って、トオルともう一度、勝負する。海斗、それで良いだろ?」
 唐沢は、弟から本音が出るのを待っていたのかもしれない。彼はほんの一瞬、小さく頬を緩ませてから、再び口を開いた。
 「二人とも俺の話を最後まで聞け。黒鉄が部員をよこせと言ってきたから、一発ぶん殴って話はついた」
 「えっ……?」
 やはり唐沢が過去に荒れていた時期があったという話は事実のようである。そうでなければ、地元で一、ニを争う不良校へ独りで乗り込み、そこの親玉をぶん殴って話をつけたりはしない。しかも相手に「刀を納めてくれ」と、頼みにいった立場でだ。
 呆気に取られる透に向かって、唐沢は真面目な口調で語りかけた。
 「真嶋、疾斗を助けてくれた事は兄として礼を言う。だが先輩として、これだけは言っておく。今後、お前が光陵テニスの部員でいたいのなら、一切乱闘には関わるな」
 「はい、本当にすみませんでした。都大会前なのに、もう少しでテニス部の皆にも迷惑をかけるところでした」
 「タ〜コ! 何を大きく勘違いしてんだ?
 真嶋にケガでもされたら、今までの負け越し分が徒労に終わるだろ。テニス部全員がお前を駄馬だと確信している次のレースが好機。ここで金星を上げれば、倍率八十の大逆転も夢じゃない」
 「もしかして……話をつけに行った理由って、都大会の為じゃなくて、バリュエーションの為ですか?」
 「当たり前だ。他にどんな理由がある?
 次のレースで絶対勝てよ。でなきゃ、テニス部クビだから」
 「マ、マジっすか!?」
 唐沢の裏の顔を知る透は、その言葉が決して冗談として聞き流す事の出来ない、本気のお達しだと直感した。どうやら今度の校内試合が借金返済の最後のチャンスであるらしい。
 「勝てなきゃクビって、そんなぁ……」
 「それから疾斗? 真嶋との勝負を望むなら、芙蓉より松林のテニス部に入った方が見込みはある。あそこは近々、コーチ陣を入れ替えて本格的にてこ入れを行うと聞いている。即戦力となり得る部員であれば、途中入部でも認めてもらえる可能性はあるはずだ」
 唐沢は早口で弟に朗報を告げると、涙目の後輩の視線は無視して、さっさと部屋から出て行った。

 「なあ、疾斗? 唐沢先輩が優しいのって、お前に対してだけじゃねえか?」
 「だから俺にも読めないって、さっき言っただろうが……」
 己の金儲けの為に後輩の尻を容赦なく叩く兄の素顔を目の当たりにし、さすがに疾斗もかばい切れなくなったようである。彼を特徴づける切れ長の目が完全に泳いでいる。
 やはり唐沢という男を安易に信じたり、まして懐が深いなどと、買い被ってはいけない。
 透の口から特大の溜め息が漏れる。その大部分が尊敬しかけた唐沢に対する落胆だったが、一件落着の安堵も少しは混じっていた。一度は本気で芙蓉学園への転入を覚悟したとは言え、光陵テニス部に未練がなかった訳ではない。
 ふいに訪れた安堵から、透が体の緊張を緩めたついでに辺りを見回すと、テニスのマニュアル本が数冊、部屋の片隅から視界に飛び込んできた。それらは本棚の端に隠れるようにして差し込まれていたにもかかわらず、透自身も幾度となく読み返していた所為か、ひときわ目立って見えた。
 その背表紙を更に覆い隠すようにして、木枠の写真立てが置かれている。そこには兄弟三人が揃って写る幼い頃の写真が入っていた。三人ともテニスウェアを着て賞状を抱えているところを見ると、何かの大会に出た時だろうか。
 やはり疾斗はテニスが好きなのだ。そして兄二人の仲がもとに戻ることも祈っているに違いない。
 ラーメン屋での伊達の言葉が蘇る。
 「アイツの最初の絆になってやれ」
 透は立ち上がると、疾斗に向かって右手を差し出した。
 「疾斗? 逃げるよりは負けた方がマシだと言ったけど、戦う以上は負けたくねえよな?」
 それが何を意味するのか、悟ったらしく、疾斗も差し出された右手に応えた。
 「当ったり前だ。来年の地区大会で絶対倒してやるから、俺が勝ったら『疾斗先輩』って呼べよ?」
 「上等だ。だけど俺が勝ったら、一生『疾斗』のままだ。ダチは呼び捨てが基本だから」
 頂上へ登り詰める過程で、倒さなければならない人間がもう一人増えた。固く握られた二人の手には、新たな絆が結ばれようとしていた。






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