第37話 幕間

 都大会の団体戦が行われる日の朝、透は伊東家の玄関前に立っていた。双子の弟・陽一朗に兄のお目付け役を頼まれたからというのが、第一の理由である。
 伊東兄弟の兄・太一朗は、行った道を戻れない程の方向音痴でありながら、本人にはその自覚がまるでない。前回の地区大会でもそれが原因で遅刻をしたにもかかわらず、彼は今回も独りで行くと言い出し、この身の程知らずの暴挙を誰も傷つかない方法で阻止すべく、弟が透に“地理に不慣れな後輩”の振りをして会場まで同行してくれないかと頼んできたのである。
 透にとっても都合が良かった。是非とも、そうして欲しかった。
 何故なら、もしも太一朗が遅刻で欠場した場合、自分が陽一朗とダブルスを組まされる可能性が高いのだ。これは過去にも経験済みで、前回の地区大会では遥希もしくは透の二者択一であったが、遥希がレギュラー入りしてシングルスの出場選手に選ばれた今となっては、もれなく自分に指名が来てしまう。いまだダブルスに苦手意識のある透としては、それだけはどうしても避けたいと思っていた。

 「おはよう、真嶋。早かったな?」
 先に玄関から顔を出したのは太一朗であった。
 彼のスポーツ刈りの長さに近付いた頭髪を見て、透は時の流れを実感した。地区大会では遅刻の処罰として五ミリ以下の丸坊主を命ぜられた太一朗。青々とした地肌から黒へと変化した頭は、あれから都大会優勝を目標に練習を重ねてきた時間の長さを表している。
 コーチの日高は「都大会へ行けば、うちも弱小」と話していた。つまり、今大会での光陵テニス部は「強豪の名をぶん取る」立場にある。今までの練習の成果がどこまで通用するかは見当もつかないが、昨日の打ち合わせで楽観視している部員は一人もいなかった。
 「おっはよ、『ウ吉』!」
 太一朗に続き、弟の陽一朗が元気よく飛び出してきた。相変わらず陽気な口調であったが、背中のラケットバッグはいつにない膨らみを見せている。中にはスポーツドリンクや着替え、栄養補助食品なども入っているのだろう。大らかな性格の陽一朗も、今回は炎天下での連戦に備え、慎重に準備をしてきたようである。
 方向感覚のない太一朗が最初に歩き出し、陽一朗がさり気なくその脇を固め、透が二人の後ろを付いていく。ふと前を見やると、梅雨明け間近の陽光が陽一朗の背中のバッグにまで余りある活力を投げつけていた。
 もうすぐ夏が来る。いびつな陰影の付いたテニスバッグを目で追いながら、透は地区大会ではしゃいでいた春頃の自分を懐かしく思った。

 都大会の会場となるスポーツセンターは、地区大会とは比べ物にならないほど広かった。会場に隣接する駐車場だけでも、どこかのテーマパーク並みの広さがある。
 やはり三人で来て正解だった。でなければ、今頃は迷子の太一朗の代わりとして、透がダブルスに指名されているところである。
 プロの国際試合にも使われるという会場の中の、集合場所となる管理棟を目指して歩いていると、低いエンジン音を響かせ、二台の大型バスが連なって入ってくるのが見えた。車体の横にペイントされた「MEIKAI」の文字から察するに、京極の率いる明魁学園の専用バスだろう。この明魁学園こそが今大会での強豪校であり、優勝を狙う光陵学園にとって最後の壁となるに相違ない相手であった。
 各校の選手達の視線が集まる中、先頭のバスから京極が部員を引き連れ降りてきた。彼は透を見つけるや否や、いつもの調子で話しかけた。
 「おう、トオル! なんだお前、今日は出場しねえのか?」
 明魁学園の部長ともなると、場慣れしているのだろう。京極からは緊張感の欠片も見られない。
 「『しねえ』じゃなくて、出来ないんです! だから、毎日、区営コートで練習してんじゃないッスか!」
 「へえ、そうか?」
 「次こそレギュラーになって、出場しますから。京極さん、首洗って待っていてくださいよ?」
 「ハハッ! ほんと懲りない奴。あれだけボロ負けしてんのに、まだ足りねえか?」
 「何度負けても勝つまでやるのが、俺の信条なんで!」
 負けず嫌いの性格を知りながら敢えてからかう京極と、それを真に受けて言い返す透。二人にとっては区営コートで繰り返される日常会話であったが、後ろに控える明魁テニス部の部員達には、そうは映らない。
 総勢百五十名からなる部員の頂点に立つ部長に対して、弱小校の一年生が偉そうに「首を洗って待っていろ」と息巻いているのだ。二人の関係を知らない者には、透が非常識な輩に見えている。
 だがその中で一人だけ、特に驚きもせず透を注視する人物がいた。

 「彼が例の『唐沢の秘蔵っ子』かい? 京極を相手に物怖じしないなんて、さすがに良い度胸をしているね」
 透が見知らぬ人物の正体を確かめようと思った矢先、いつの間に合流したのか、唐沢が会話に割って入った。
 「残念だけど、こいつは単なるカモだよ、越智」
 「さっそく邪魔が入ったか。もう少し秘蔵っ子君と話をしたかったのに。例のウィニングショットについて……とか?」
 他愛ない日常会話が、唐沢の出現によって、腹の探り合いに変わっていく。しかも互いにその腹は黒く見える。
 「カモから聞き出せるのは、借金返済の相談ぐらいだぜ?」
 「その手には乗らないよ。単なるカモを、ここまでガードしたりしないだろ?」
 「ガード? カモにちょっかいをかけている奴がいたから、俺も交ぜてもらおうと思っただけなんだけど?」
 「俺には大事な秘蔵っ子を慌ててガードしに来たように見えたけど?」
 「疑り深い奴だな。だいたい、俺が後輩の指導に関わるなんて、そんな善人に見えるのか?」
 「俺の調査によれば、君がそうやって饒舌になる時は、たいてい裏のある時だ。どう、違う?」
 確かに、その通りであった。地区大会で季崎と対戦した時もそうだった。珍しく上機嫌で話していると思ったら、後でとんでもない罠が仕掛けられていた。
 この越智という男、唐沢に負けず劣らずの切れ者のようだ。
 「ま、データってのは常に変化するものだから。こまめに更新しておけよ」
 越智の鋭い指摘を受けて、さすがの唐沢もそう言い返すのがやっとであった。

 唐沢と越智との間には不穏な空気が漂い、ますます他者が介入し辛くなっていた。だがそれを事も無げに打ち破ったのが、集合時間のちょうど五分前に現れた成田であった。
 部長の責務に忠実な彼は、参謀同士の腹の探り合いにも、まして透と京極の関係についても興味は無いらしく、自校の部員が揃った事を確認すると、さっさと全員集合の合図をかけて受付へと向かった。何処にいようと、どんな状況であっても、平常心を崩さずに部長の仕事をやり遂げる。それが成田である。
 ところが、そのペースを好んで乱す者がいた。
 「成田、今日はお前とやれるのを楽しみに来たんだぜ? 光陵が決勝まで生き残っていられれば、の話だが……」
 わざと挑発めいた言葉を選んだと見えて、受付へ向かいかけた成田が立ち止まり、その様子を捉えた京極が満足げな笑みを浮かべて言った。
 「今日はどんな悔し泣きが見られるか。楽しみだ」
 よほど成田を意識しているのだろう。区営コートで悔し泣きする透をからかい、ゲラゲラ笑い転げる京極とは別人だった。互いに個人で出場する大会などで面識はあるものの、いまだ対戦経験はないのかもしれない。成田が対戦相手として相応しいか、品定めしているような口振りだ。
 京極からの挑発を受けて、成田はどう返すのか。皆が固唾を呑んで見守っていたが、歩みを止めた彼が残したのは実にシンプルな一言だった。
 「京極、S1で待っている」

 明魁学園の約半分ほどの集団を引き連れ、黙々と歩く成田。その背中を列の最後尾から見つめながら、透は昨日の出来事を思い返していた。
 昨日の夕方、母親の使いで駅前の甘味処『佐倉』まで黒豆を買いに出かけた時のことである。偶然にも、その店先で成田から声をかけられた。
 「真嶋、こんな所で会うなんて奇遇だな。買物か?」
 「あ、はい。あいつ……じゃなかった。母に『丹波の黒豆』を買って来いって言われて……」
 咄嗟に透は普段「あいつ」と呼ぶところを「母」と言い直した。成田の前では正しい日本語を話さなければ、怒られそうな気がしたからだ。
 それはパトカーを見ると思わず姿勢を正したり、生活指導の先生に出くわすと身だしなみを整えたりするのと同じで、厳格な部長の前では、無意識のうちに自分を正しい方向へ修正しようとする心理が働いてしまうのだ。
 「ああ、ここの黒豆は確かに美味い。俺も好物だ」
 笑顔で答える成田に対し、透は違和感を覚えた。あの成田が笑っている。ごく普通の少年のように。部活動を離れている所為だとは思うが、それは人違いではないかと何度も見直す程に受け入れがたい光景であった。
 しかも次の言葉が、透を更に驚愕させた。
 「真嶋? 時間があるなら、俺と一緒に餡蜜を食べないか?」
 「部長、ここに入るつもりだったんですか?」

 成田に言われるがまま店に入ったが、どうにも居心地が悪かった。ファーストフードやファミリーレストランなど、腹に溜まりそうなメニューを基準に立ち寄る店を選ぶ透には、この甘味処は最下位に位置する存在だ。独りの時はもちろん、誰かと入店した事もない。
 甘味処『佐倉』は京都を意識した落ち着いた雰囲気の店で、客のほとんどが女子高生のグループと遥か昔に女学生だったと思われる年寄りで占められていた。その中でジーンズ姿の野郎が二人。一人は顔色一つ変えずに部員達を締め上げる鬼のような部長で、もう一人はかなりの確率で締め上げられる立場にいる不出来な部員である。さらに居心地の悪いことに、その鬼の部長は何故だか機嫌が良い。
 こんな状態でメニューを見せられても、頭に入らない。仕方なく透は、成田と同じ物を頼むことにした。
 「じゃあ、抹茶フルーツ餡蜜練乳がけ、二つね」
 メニューも見ずにオーダーしているところを見ると、成田はしょっちゅう来店しているのだろうか。頭脳労働の後には糖分を摂りたくなると聞いた事があるが、彼もその口かもしれない。

 徐々に店の雰囲気に慣れてはきたものの、正面にいる成田にはどうも馴染めない。厳格な部長の顔しか知らない透は、普通の少年の如き振る舞いに戸惑ってしまう。
 成田は決して変わり者ではない。むしろ個性の強すぎるテニス部において、唯一、目立った奇行も癖もない常識人である。但し、笑みを見せただけで後輩に変だと思わせるほど、部長としての彼は厳しかった。厳格を絵に描いて、さらにワックスで磨きをかけた男。それが彼を言い表すのに最も適した表現だ。
 よほど透が困惑した顔を見せていたのか、成田が苦笑した。
 「そんなに、俺が餡蜜を食べるのが可笑しいか?」
 「いえ……餡蜜よりも笑顔の方が。何だか普通の人みたいで……」
 言った後から、失敗したと思った。これでは、成田が普通ではないと断言したのと同じである。
 しかし当の成田は責める風でもなく、笑みを残したまま頷いている。
 「正直な奴だな、真嶋は。たぶん他の部員もそう思っているんだろうけど、面と向かって言われたのは初めてだ」
 「すみません」
 「いや、謝らなくて良い。むしろ俺は、その正直さを羨ましく思う」
 「は、はあ……」
 こうして成田が誰かを褒めるのも、珍しい事だった。部長として苦言を呈する事はあっても、褒めたり慰めたり宥めたりは、専ら副部長に任せている。
 戸惑う後輩の気持ちを察してか、成田が先の発言に補足を入れた。
 「真嶋には人の心を開かせる、不思議な力があるのかもしれないな。お前の物事を真っ直ぐに見る目が、そうさせるのだろうけど。それは俺には無いものだから、余計に大切にして欲しいと思う」
 「俺、そんな風に言われたの、初めてです。意固地とか、意地っ張りとかは、よくありますけど……」
 「それは、あくまで表向きの顔だろう? 俺にも表向きの顔があるが、決してそれが自分の本質とイコールだとは思っていない」
 誰しも表向きの顔がある。確かに、そうかもしれない。
 立場上、成田は厳しい部長を演じているだけで、ここにいる柔和な笑みを浮かべた少年が彼の本来の姿かもしれない。そう考えると、成田が普通に見えるのも納得がいく。

 しかし店員が運んで来た器を見て、やはり彼は普通じゃないと思い直した。
 「部長が頼んだのって、これですか?」
 「ああ。『抹茶フルーツ餡蜜練乳がけ』だ」
 「抹茶、フルーツ、餡蜜、練乳がけ……」
 透はその長い名前の由来を器の中に認めた。
 成田が注文している時は餡蜜に色々トッピングされたものだと、その程度にしか思っていなかった。だがテーブルの上に置かれた餡蜜は、トッピングの常識をはるかに越えていた。
 丼サイズの器の底に敷かれた蜜豆はお飾り程度の存在でしかなく、上から盛りだくさんのフルーツと、スクープ二杯分の黒餡と、同じくスクープ二杯分の抹茶アイスが表面を覆い、更にその頂上から黒蜜と練乳がたっぷりとかけられている。ちなみにフルーツは生ではなく、缶詰のシロップ漬けがほとんどだ。
 抹茶フルーツ餡蜜練乳がけ。つまりは甘い食材てんこ盛りの激甘メニューである。
 栄養士の母親の影響で大抵のものは残さず平らげられる透だが、ここまでの激甘メニューは見た瞬間に胸焼けがした。実際に口に放り込んだら、頭痛がするに違いない。
 正面に座る成田をチラリと見やると、彼はスプーンで黒蜜と練乳を黒餡とアイスに捻じ込み、セットで付いてきた番茶には目もくれず、嬉しそうに頬張っている。並の人間には出来ない芸当だ。

 目の前にそびえ立つ甘味の山をどう処理するか。スプーンを握り締めたまま躊躇する透に、成田が笑顔で話しかける。
 「どうした? 遠慮するなよ。今日は俺の奢りだ。
 真嶋とは、海斗の件で一度じっくり話をしたいと思っていたし」
 「えっ……唐沢先輩の件って、何ですか?」
 唐突に唐沢の名前を出されて、透は内心うろたえた。
 神聖なる校内試合が競馬の如く賭け事の道具に使われている事実が、とうとう成田の耳にも入ったのか。いや、それにしては口調は穏やかで小言が始まる気配はない。ここはひとまず話を聞いてから判断した方が良さそうだ。
 隠し事をしている後ろめたさから、透は思わずスプーンを動かし、激甘メニューの一角に手をつけた。黒蜜と練乳のしつこい甘さが口の中に広がり、こめかみの辺りが痛くなったが、場を持たせる為には仕方がない。平常心を装い、目の前の先輩と同じ作業を黙って続けた。
 「海斗の弟が松林のテニス部に入部したと聞いた。真嶋が色々世話をしたんだって?」
 どうやら成田の話は、同じ唐沢絡みでも悪事の方ではないらしい。
 「いえ……俺は別に何もしてないッスよ」
 「海斗はさ、皆の前では平気な顔をしているけど、弟の事では随分悩んでいた。たぶん、疾斗君を非行に走らせた原因は自分にあると思っていたんじゃないかな」
 「そうだったんですか」
 唐沢も彼なりに弟が荒れる理由を察して、心を痛めていたようである。美しい兄弟愛と言いたいところだが、彼の場合、もう少し違う部分で己を責めても良いのではないかとも思った。
 「俺はいつも海斗に迷惑をかけているから、少しでもあいつの負担が減ったのなら一緒に喜びたいし、その手助けをしてくれた人に感謝をしたいと思っている」
 部長の目を盗んで悪さばかりする唐沢を、成田がそんな風に捉えているとは意外であった。どちらかと言えば、迷惑を掛けているのは唐沢のような気もするが、真面目な成田は彼に対して疑念の欠片もないらしい。
 「たぶん俺は不器用な人間だと思う」
 伏せ目がちに話し続ける成田の仕草は、多くの人間が己の内面を語る際にするもので、その等身大の悩みや葛藤を抱える姿も、同じ年頃の友人達と何ら変わりがなかった。
 「部長でいる時は私情を挟まず、なるべく公平に接するように心がけている。だけど部員は皆、均等に成長する訳じゃないし、同じ受け取り方をするとも限らない。だから、その歪(ひず)みが海斗の負担となってしまう。
 もっと俺が器用に立ち回れたらと、いつも思う」
 「でも、部長はそのままで良いと思います。部長が部長で居てくれないと、うちの部は締まりませんよ」
 「少し堅物すぎやしないだろうか、俺は?」
 「それは、えっと、あの……」
 確かに“厳格イコール成田”のイメージは、常についてまわる。本音を言えば、海南中の村主のようにもう少しフレンドリーに接してくれたらと思う事もある。しかし、決して弱音を吐かない成田がこうして心の内を見せている状況で、「もうちょっと融通利かせて下さいよ」とは言えなかった。
 「えっと、あの……そうだ、灯台! 灯台みたいなもんですから、部長は。
 灯台があちこち器用に動き回ったら、俺達が困るじゃないですか。高いところからドカンと照らしてもらわないと……」
 かなり強引なフォローだが、それでも何も言わないよりはマシだと思った。第一、現実的に考えて、光陵テニス部を仕切るには彼ぐらい厳格なリーダーが必要不可欠だと、誰もが認めている。
 「灯台か……」
 そう呟いたまま、成田はしばらく黙っていた。透もその後、どう声をかけて良いか分からず、目の前の『抹茶フルーツ餡蜜練乳がけ』を少しでも減らすことに専念した。

 黙々と餡蜜を食べていた成田がふと顔を上げた。
 「真嶋、お前は芝居を見に行く事はあるか?」
 「いえ、俺はじっとしているのが苦手で……」
 「そうか。では、幕間という言葉は知っているか?」
 成田によると、幕間とは劇と劇の間の短い休憩時間を指す言葉で、通常はトイレ休憩などに利用する事が多く、芝居の長さによって十五分の時もあれば三十分近く取る時もあるそうだ。
 器の底に敷き詰められた蜜豆に甘ったるい蜜を絡ませながら、成田が話を続ける。
 「今のここでの時間が、俺にとっての幕間なんだ。いつも大会の前日には、この『佐倉』へ来て好きなものを食べる。これが俺の休憩時間だ。そして次の大会まで来ることはない。
 この後、店を出てから次の大会の前日まで、俺は部長の役を演じ続ける」
 「部長の表の顔ですね?」
 「ああ、そうだ。本来なら一人の部員だけを誘うのは、立場上、良くない事なんだろうが、今日は幕間のつもりで来たからかな。つい、真嶋に裏の顔を見せてしまった。
 演者が幕間を人に見せるなんて、失格だな」
 「そんな事ないッスよ。それだけ部長の役って、大変なんだと思います」
 これは、透の本心だった。
 光陵テニス部はとかく曲者が多い。透が知る限りでも、ギャンブル好きの副部長を筆頭に、性別不明の滝澤と、ほとんど話をしない無口な荒木と、それに憧れて同じく無口を通す後輩の中西。『寅さん』の口上を使って対戦相手を陥れる藤原、金髪の陽一朗に、方向音痴のくせに自覚のない太一朗。これら癖のある部員達を、一人で仕切るのは並大抵の度量では務まらない。
 「いや、俺が未熟だから大変に見えるだけだ。もっと器の大きいリーダーはいくらでもいる」
 自らを律するように透の言葉を否定すると、成田は席を立った。
 「真嶋、ありがとう。お前のおかげで、今日は良い幕間になった。灯台の話、肝に銘じておく」
 そう言って店を出た瞬間、成田からは笑みが消え、いつもの部長の顔に戻っていた。

 昨日の『佐倉』での会話を思い出したせいか、前を歩く成田の背中がいつもより小さく見えた。
 彼も普通の中学生で、後ろに続く部員達と少しも変わらない。ただ部長という立場にいるだけで、先頭に立って皆を引っ張って歩かなければならない。
 成田は今、精一杯、部長の役を演じている。そして、これからも演じていくのだろう。彼が全身全霊を傾けて率いたチームが敗れ去るその瞬間まで、ずっと――。

 コーチの日高から「都大会では弱小」だと脅かされてきたが、今大会でも光陵テニス部は順当に勝ち進んでいた。
 バリュエーションを軸とする独自のシステムが、ここで威力を発揮した。事前に調べ上げた相手校の選手に対し、校内試合で査定した自校の選手を効率よく投入する。この先手必勝の戦略が、チームを決勝戦まで難なく導いた。
 普段はいい加減な言動が目立つコーチだが、こういう時の彼の采配はさすがプロの指導者と認めざるを得ない。
 加えて、決勝戦に進むにつれ「都大会では弱小」と言われた本当の意味も分かってきた。それは都大会に出場する全ての学校を視野に入れた言葉ではなく、優勝候補の明魁学園だけに焦点を絞ったものだった。
 その証拠に、日高は明魁と当たる決勝戦のシングルスにこれまで温存してきた主力メンバーを投入していた。S3に藤原、S2に唐沢、そして大将格となるS1は部長の成田である。
 ダブルス、シングルス共に選手層の厚い明魁テニス部を破るには、シングルス三戦に勝負を賭けるしかないと踏んだのだ。百戦錬磨の日高にここまで入念な策を取らせるほど、明魁は油断のならない相手という事だ。

 透が両校の試合のオーダーを確認していると、背後から聞き覚えのある声がした。
 「やっぱ、決勝まで残ったか。午後から来て正解だったな」
 振り返ると、背の高い少年がこっちを見て笑っている。見た事があるような、無いような。しかし、声は確かに何処かで聞いている。
 不思議に思っていると、唐沢がその少年に声をかけた。
 「なんだ疾斗、さっそく偵察か?」
 「げっ、疾斗なのか!?」
 透はまじまじと少年の顔を見た。オレンジ髪が茶髪に変わっているが、その顔は間違いなく疾斗であった。
 「何だよ、トオル! ダチの顔、忘れたんじゃねえだろうな?」
 「いや、あまりに普通なんで、分からなかった」
 昨日の成田と言い、今日の疾斗と言い、透の周りには変わり者が多すぎて、普通に戻った時の方が違和感を覚えてしまう。
 「ま、無理もねえか。親父ですら『お前、誰だ?』って、聞いてきたぐらいだからな」
 松林のテニス部に入り、真面目に部活動に取り組んでいるとは聞いたが、互いに忙しく、芙蓉の一件以来、会う機会もなかった。
 見事な更生ぶりに驚きはしたものの、今の疾斗の方が自然に思え、透は心の底から安堵した。

 「それはそうと……ほら、海斗」
 おもむろに疾斗が鞄から新聞を取り出し、唐沢に手渡した。見たところ、経済新聞のようである。
 試合前の唐沢は、新聞を広げて斜め読みする事で集中力を高めるという妙な習慣があった。
 「新聞なら持ってきた」
 「海斗が持っていったのは、兄貴のスポーツ新聞だろ? うちの先輩達が笑っていたぜ。海斗が試合前にエロ新聞広げて読んでいたって。
 俺も一応、松林のテニス部員になったんだしさ。頼むから、俺が恥ずかしくなるような事すんなよな」
 ついこの間までオレンジ髪で暴れまわっていた弟に、「恥ずかしくなるような事をするな」と言われても納得がいかないと思うのだが、そこは兄としての懐の深さが上回っていたようである。唐沢は大人しく弟からの新聞を受け取っている。
 「サンキュー、疾斗。決勝、見ていくんだろ?」
 「ああ、成田さんのついでに、海斗の試合も見学していってやるよ」
 「俺のは、ついでか?」
 「海斗が本気を出すなら、真面目に見てやるぜ?」
 「いつでも俺は本気だって」
 「嘘つけ。一度も本気なんか出した事ないくせに」
 透が尊敬して止まないプレーの数々も、弟の目には本気とは映っていないらしい。
 「勝負事は何が起こるか分からない」
 もらったばかりの新聞を広げると、唐沢はさっそく字数の最も多い紙面を探し始めた。
 「だから?」
 「だから、どっちに転んだとしても、見て損はないはずだ」
 「まさか、勝算が立たないような相手なのか? 明魁って、そんなに強いのか?」
 「都大会の優勝候補だぞ?」
 「だけど『どっちに転んだとしても』って、珍しく弱気じゃないか?」
 疾斗の問いかけに顔を上げた唐沢は、すでに弟想いの兄から軍師の顔つきに変わっていた。あの時の、甘味処を出た瞬間の成田のように。
 「勝算があると思った時点で負ける。少なくとも、今回はそういう相手だ」
 地区大会で透が学んだ事の一つに、「唐沢が笑っているうちは、光陵テニス部が負ける事はない」とのセオリーがあった。だが今の彼に笑みはない。
 表情を硬くしたまま、唐沢は準備の為に控え室へと消えていった。いつもよりかなり早い入室だった。






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