第40話 ドリルスピンショット

 ナンバー3の敗北という厳しい現実を突きつけられ、透は改めてコーチの言葉が脅しではない事を思い知らされた。
 「都大会へ行けば、うちも弱小」
 地区大会では並み居る強豪を押しのけ団体優勝を果たし、地元では押しも押されもせぬテニスの名門校であっても、同じ過程をくぐり抜けた者達が一堂に会するこの大会では参加校の一つでしかない。まして大会連覇を狙う明魁学園の前では、これまでのライバル達とは段違いの格の差を痛感させられる。
 すでに準備に入った唐沢を、透は祈るような気持ちで見つめた。次のシングルス戦に勝利しなければ、光陵学園には後がない。都大会優勝を目標に掲げたチームの夢は、ここで潰えてしまう。
 唐沢や成田が本気を出す試合が見てみたい。地区大会ではそう願っていた透だが、それはあくまでもチームの優勝が前提であって、一勝二敗に追い込まれた今となっては、個人の願望はすっかり鳴りを潜めていた。

 「なあ、トオル? あいつ、あの京極さんの『懐刀』って呼ばれているんだろ?」
 兄と良く似た切れ長の目をこれ以上ないぐらいに細めて、疾斗が対戦相手の越智をフェンスの外から睨み付けている。他校の試合とは言え、身内が出場するとなると特別な感情が湧くらしい。静観を保ち続けたこれまでとは打って変わって、元ヤンキーの習性を思わせる攻撃的な視線は子を守る野生動物の威嚇に近いものがある。
 「ああ。打ち合わせの時に、先輩達が話していた。越智さんは典型的なオールラウンドプレイヤーで、テクニックにかけては部長の京極さんと並んで定評のある選手だって。おまけに明魁のブレーン役を一人でこなす兵だ。今朝、少し話したけど、確かに切れ者って感じだった」
 「さっきの海斗、すっげえ殺気立っていたし、よっぽど厄介な相手なんだろうな」
 疾斗は、唐沢が控え室に入る前の話をしているのだろう。
 「勝算があると思った時点で負ける」
 そう言い残して、唐沢はいつもより早く控え室へと向かった。「軍師」の異名を持つ彼が、そこまで用心する程の相手である。次もシビアな戦いになるに違いない。
 敗北のちらつく嫌な緊張感が、応援席で成り行きを見守るしかない透の背中を何度も突く。追い込まれた側の人間が感じる特有の焦りと、共に戦うことの出来ない苛立ちが、傍観者である我が身を交互に攻め立てる。
 チームの命運を背負って戦う権利も技量も、今の自分にはない。コートの外に居ながらにして、こんなにも己の無力を歯痒く思うのは初めての事だった。

 第1ゲーム開始早々、唐沢は外側に大きく逸れるスライス・サーブを使って攻撃を仕掛けていった。じわじわと罠を張り巡らし自滅に追い込んだ対・季崎戦とは違い、序盤から積極的に攻めるつもりでいるようだ。対する越智も、鋭い回転球を巧みに捌きながら反撃の機会をうかがっているらしい。
 オールラウンドプレイヤー対カウンターパンチャーの戦いが始まった。
 唐沢のスライス・サーブは回転の鋭さに加え、その直後に放たれるトップスピンとのコンビネーションで、大抵のプレイヤーは前後左右に振り回される。しかも下手に前へ出ようものなら、素早いパッシングで抜かれてしまう。さすがの越智もこの強力なコンボを簡単には崩せないのか、第1ゲームは唐沢が先取した。
 だが、続く第2ゲームでは形勢が逆転した。越智は低く伸びるスライスで相手をベースラインに足止めしつつ、自分は徐々にネットまで詰めて攻撃し、順調にサービスゲームをキープしている。
 こうして見ると、越智のプレースタイルは前からも後からも攻撃手段があるだけ、試合を有利な方向へと変えられるチャンスが多い。透は、多くの選手がオールラウンダーを目指す気持ちが分かったような気がした。

 互いにサービスゲームをキープする中、試合を見ていた疾斗の表情が曇り始めた。
 「海斗、このままじゃヤバイな」
 「どう言うことだ?」
 「あいつのスライスのせいで、海斗の決め球が出せない」
 「唐沢先輩の決め球って、どんなショットなんだ?」
 これは、透の予てからの疑問であった。地区大会でも見せなかった唐沢のウィニングショット。明魁学園が優勝に王手をかけた今でも、それだけは見たいと思っていた。
 「何つうか、こう縦にグルグルって……ドリルっぽいんだよな」
 「グルグルで、ドリルっぽい?」
 疾斗の説明は、透の「すげえ」と同レベルであった。他人にも理解できるような具体的な描写はなく、自分がどう感じたかだけを伝えてくる。
 「こう……グッと来て、ドカンって感じ?」
 「お前さ、俺に説明する気はねえのかよ?」
 「あるけど、口で言うより見たほうが早いって。とにかくトップスピンの返し技だから、スライスで牽制されている限り無理だけど」
 疾斗は自分でも表現力の乏しさを悟ったと見えて、それ以上は何も語らず、視線をコートに戻した。

 ゲームカウント「2−2」で迎えた第5ゲーム。最初に試合の主導権を掴んだのは、越智だった。
 唐沢のスライス・サーブとトップスピンのコンボを、越智がショートクロスで破ったのだ。彼はトップスピン特有の高く弾む弾道の頂点を捕らえ、ネット近くにクロスで返球した。
 前方の、しかも外側を狙ったショートクロスは、後方から攻める相手に対して有効な反撃方法だ。コートを斜めに横切るようにして出て行くボールは、拾う側もコートの外へと追い出されてしまう。藤原並みの俊足でなければ鋭角に切り出されたコースに追い付くことは至難の業で、たとえ追い付いたとしても、コート中央をがら空きにした状態では返球と同時にオープンスペースへ決められる。
 スライスを上手く使って唐沢の決め球を封じ、ショートクロスでポイントを稼ぐ。明魁きってのデータマン・越智が、その情報の正しい使い方を見せつけた。

 「俺……海斗がブレイクされた試合、初めて見た」
 スコアボードの「2−3」の表示を目の当たりにして、疾斗の顔がさらに曇った。
 透にも、その表情が何を意味するかは理解できる。地区大会でエースの季崎をラブゲームで下した唐沢が、今回は自身のサービスゲームをブレイクされたのだ。都大会決勝のレベルの高さは、地区大会の比ではない。試合前に感じた不安が、ますます膨らみを増していく。
 「唐沢先輩……」
 目の前の仕切りとなる金網フェンスを握り締め、透は己の無力に耐えていた。チームの為に戦う先輩が苦境に立たされているというのに、自分に出来る事は何もない。
 フェンスの外から声援を送るチームメイトがひどく無責任に思えた。彼等に悪気がないのは分かっているが、下駄を預けたとばかりに選手の尻を叩くのは何処か違う気がした。「頑張れ」が共に戦う覚悟を持った者の言葉とは思えず、さりとて無言でコートを見つめる自分があるべき姿とも思えず、それが却って自責の念に拍車を掛けている。
 コート上の唐沢は「勝負事は、どんな時でも冷静でいられる者が勝つ」の持論通り、淡々とした様子で、特に焦った素振りも見せないが、厳しい状況である事は言うまでもない。現に彼は前髪に息を吹きかけ、その揺れる様を目で追っている。唐沢がこの仕草をする時は、決まって真剣に考え事をしている時だ。
 決め球が出せない現状では、あの鋭角に切り込まれるショートクロスをどうにかしなければ勝機はない。こんな時こそベンチコーチの出番のはずだが、日高はこの局面で、事もあろうに大口を開けて退屈そうに欠伸をふかしていた。
 「おっさん、仕事しろよ」
 隣にいるなら蹴飛ばす事も可能だが、フェンスの中では我慢するしかない。透はどやしつけたい衝動をかろうじて独り言に押し止めると、金網を握る手に力を込めた。

 光陵サイドが苦しい状況であるという事は、明魁にとっては点差を開かせる絶好のチャンスである。第6ゲームでサーバーとなった越智は、ネット前から攻撃を仕掛ける為に再び唐沢のリターンをスライスで返球した。
 越智がしつこくスライスを連打する理由は二つある。一つは決め球を牽制する為で、もう一つは自分が前へ出る際の足がかりとなるからだ。スライス回転の掛けられたボールはバウンドしてから遠くへ伸びる為に、相手が返球するまでに時間を要する。つまりスライスを放つ側にとっては、ネットにつくまでの時間稼ぎとなるのである。
 ところが、前へ出ようとした越智の目の前を唐沢のライジングショットが駆け抜けていった。
 ライジングショットとはボールの跳ね際を叩くショットで、通常はバウンドしてから放物線を描いて落ちる途中の一点を捕らえて打つところを、このショットは放物線が始まる上昇中の一点を捕らえて返す為に、深いコースを狙われたとしてもコートの奥まで追いやられずに済むという利点がある。
 本来はベースラインで踏み止まってラリーを継続させる場合、あるいは打点が前になるメリットを活かしてネット前まで距離を詰める際に使われるショットだが、唐沢は越智の攻撃を封じる策として使った。そうする事で、バウンド後のスライス特有の“伸びの間”を大幅にカットできる。越智の時間稼ぎは無効となる。
 ただでさえ低くバウンドするスライスを、更にライジングで返球するという発想は、唐沢ほどのテクニックを有する者でなければ、まず出てこない。これでネット前からの越智の攻撃を封じられるはずだった。
 「甘いね。それで俺の攻撃を阻止したつもりなの?」
 意表を突くライジングに驚く様子もなく、越智は余裕の笑みを崩さない。何故なら唐沢が放ったライジングの落下地点は、まだ越智の射程内にあったのだ。
 サービスライン付近に落とされた浅めのライジングショット ―― それは浮き球にならぬよう返球できれば、絶好のアプローチショットとなり得るボールであった。すかさず前方へダッシュした越智が、その浅い打球をコーナー目がけて力一杯叩き込んだ。

 「しまった!」と後悔したのは、越智の方だった。唐沢は、この瞬間を待っていた。
 勢いのついた越智のトップスピンを、唐沢のラケットが吸い寄せた。実際はボールに回転が加えられただけだが、そのスィングのしなやかさから透にはボールがラケットに吸い寄せられたように見えたのだ。
 一瞬で離れるはずのボールが、いつまでも唐沢のラケットに吸着している。まるで必要な回転数を自ら吸い付き取り込んでいるかのように、ボールは一向にガットから離れない。そして充分な回転を吸い尽くした後で放たれたボールは、ドリルの刃先の如く空間を切り裂きながら相手コートで急降下したかと思えば、するすると不規則な蛇行曲線を描いて出ていった。
 「あれが海斗の決め球、『ドリルスピンショット』だ」
 疾斗の説明を聞かずとも、透も一目で理解した。唐沢の放った『ドリルスピンショット』は、言葉通り手元でグッと吸収され、ドカンと放たれる、まさに「グッと来て、ドカン」であった。確かにあのショットは、口で説明されるよりも見る方が早い。それほど複雑な回転のかけられたショットである。
 透の視力をもってしても細かい技法までは分からなかったが、あのスィングから生まれたスピンは、最初に相手のトップスピンの回転を殺さぬよう捕らえた後で、更に自分でも回転を加えつつ、ボールの角度を九十度に転換してから押し出したに違いない。それによってボールは回転したまま横向きとなり、ドリルと同じ性質のスピンに生まれ変わる。トップスピンでもスライスでもない、空間を切り裂くドリルスピンに変わるのだ。
 こうして繰り出されたショットはどの回転球よりも速いスピードでコートの中を突き進み、ネットを越えた辺りから急激に落下するが、その回転の性質上、バウンド後は地面を滑るように駆け抜けていく。ちょうど回転中のドリルが地面に落とされた際に、蛇行しながら逃げていくように。
 あのショットを一度出されれば、返すことなど不可能だ。各校のトップクラスの選手達が意識するのも無理はない。

 唐沢はトップスピンを誘うべく、第1ゲームから越智を左右に揺さぶり、彼が喰い付くギリギリの距離を測っていた。その距離を割り出した上で、ネット付近に浅いボールを落とせば、相手は前へ出るチャンスとばかりにトップスピンを強打する。最初から決め球を牽制される事など計算済みだったのだ。日高が余裕で欠伸をしていたのも、これを見越しての事だろう。
 明らかにゲームの主導権は唐沢に移っていた。下手にスライスを出せば、ライジングとドリルスピンショットのコンボが待っている。前に出る為の手段を封じられた越智が、このゲームで再びネットにつく事はなかった。
 右に、左にコースを変えながら、相手が拾えるギリギリのラインを狙って、唐沢が揺さぶりをかけている。このまま振られ続ければ、さすがの越智も体力が持たない。だからと言って、無理に前へ出ようとすれば素早いパッシングの餌食となる。
 第6ゲームを唐沢がブレイクすると、越智の顔から笑顔が消えた。

 今頃になって、透は金網フェンスに掛けていた自身の指が痺れて動かない事に気が付いた。その原因は、自責の念からでもコーチに対する怒りからでもない。次々と目の前で繰り出される唐沢の鮮やかな返し技と、高度なテクニック。これに見入っていた為に、フェンスに絡ませた指が力の入れ過ぎで痺れていたのである。
 どこからでも攻められるオールラウンドプレイヤーを相手に、あくまでも自分のスタイルを崩さずカウンターパンチャーとして戦う唐沢。たとえ普段は頭の中がギャンブル一色で、後輩をカモにして金を巻き上げていたとしても、それを全て帳消しにして余る程、彼のプレーは透を熱くさせた。しかも日高の話では、彼のプレーは透の父・龍之介にそっくりだという。
 じりじりと痛みにも似た熱が腹の底から沸き上がり、それにあてられた体が打ち震えているのが分かる。唐沢のプレーの先に自身の追い求めるものがあるような気がしてならなかった。何があるかは分からないし、確たる道標が見えた訳ではない。ただそこにあるものの為に走りたい。有無を言わせぬ欲求が身の内を駆け巡り、体を組織する細胞一つひとつを震わせていた。

 第6ゲームのブレイクにより「3−3」と引き分けた後、次のゲームもまだ唐沢が主導権を握っているかに思われた。だが、そのまま点差を開かせるほど、明魁のナンバー2は甘くない。
 前のゲームでドリルスピンショットの洗礼を受けた越智が、トップスピンを連打してきた。あたかも攻略法を掴みつつあるかのように、決め球を誘っている。
 対する唐沢も「返せるものなら、返してみろ」と言いたげに、ドリルスピンショットの連打でポイントを重ねていった。カウント「40−0」まで追い詰め、最後のポイントを取ろうとした時だ。
 越智がサービスエリア付近からノーバウンドでドリルスピンショットを捕らえた。ドリルの刃先の中心に狙いを定め、ピンポイントでラケットに合わせて返球したのである。
 咄嗟に唐沢がロブで抜いてゲームをキープしたものの、恐らく越智は今のショットで確信したに違いない。ドリルスピンショットの唯一の攻略法を。
 技術面で京極と並んで定評があるというのは、単なる噂だけではなかった。あの鋭いドリルのような回転球に対して、その刃先となる箇所をピンポイントで合わせてくること自体、神業と言える。
 越智は、バウンド後の厄介な蛇行を追うよりも、バウンド前にボレーとして処理した方が返し易いと判断したのだろう。トップスピンを連打して誘ったのも、そのタイミングを調整する為である。
 カウント上は「4−3」と光陵がリードしているが、決め球を破られつつある唐沢がまたしても窮地に立たされた。
 越智の顔から、再び笑みが零れる。
 「予想通りの伏せカードだったよ。唐沢、ひとつ君に良いことを教えてあげる。
 切り札は最後まで取っておかないと、こうやって途中で破られちゃうんだよ。どれだけ強力なカードでもね」
 その口振りからして、越智は事前にある程度のデータを集めた上で、試合中に攻略できると踏んでいたようだ。スライスで牽制していると見せかけたのも、唐沢に決め球を出させる為のパフォーマンスに違いない。
 余裕の笑みを浮かべる越智とは対照的に、唐沢の表情は硬かった。決め球を破られた今となっては、心の内は苦しいのだろうが、それをまともに出してはますます相手を勢いづかせる事になる。表情のない先輩の顔が、却って戦況の悪さを表していた。

 たった一撃で、試合の流れが大きく変わることがある。
 続く第8ゲームでもトップスピンを連打する越智に対し、唐沢はその誘いには乗らず、自らもトップスピンで返球している。先程の「返せるものなら返してみろ」と言いたげな強気の対応は見られない。
 やはりドリルスピンショトは破られたという事か。しかも動揺しているのか、唐沢のトップスピンは浅めの返球だった。これでは越智に得意なショートクロスを打ってくれと頼んでいるようなものである。
 対照的な二人のラリーを見守る疾斗が、何かに気付いたという風に顔色を変えた。
 「まさか、海斗。こんな時まで……」
 「どうした?」
 視線をコートに置いたまま、透が聞き返した時だった。
 越智の強烈なショートクロスが、唐沢の左サイドへ打ち込まれた。だが次の瞬間、唐沢はその跳ね際を狙って、中ロブで返球した。
 通常の高いロブとは違い、中ロブは軌道が低い分だけベースラインでアウトになりにくく、しかもプレイヤーがセンターへ戻る為の時間を作れる球である。しかし、何処からでも攻撃できる越智にとってはチャンスボールであった。
 中途半端な軌道をコート中央で正確に捕えると、越智はドライブ系のボレーを使い、捻じ込むようにして叩き落とした。

 ドライブボレーとは、順回転のかかったボレーである。高い打点から送り込まれたボレーを受けて、再び唐沢がドリルスピンショットの構えを取った。第6ゲームまでは決め球であったはずのショットが、この第8ゲームでは自殺行為に見えてくる。
 「ほんと、懲りない奴……」
 コート中央からネット前に詰めていた越智が、薄笑いと共にドリルスピンショットを捕らえた。前のゲームで攻略したボレーと同じやり方で、ドリルの刃先をピンポイントで合わせた ―― と同時に、以前とまったく異なる現象が起きた。
 唐沢から放たれた打球が越智のガットに触れた瞬間、ラケットに弾かれるようにして、ボールが外へ飛び出していったのだ。
 「な、何ッ!?」
 あまりの反動の強さに、ネット前の越智が後ろへよろけている。先程の返球法では、まだ攻略し切れていないのか。それとも単なるミスショットか。

 「まさか、越智さんがミスるはずねえよな?」
 今ひとつ状況を把握できない透が隣に確認を入れたが、疾斗は無言のままだった。
 二度、三度と越智は攻略したはずのドリルスピンショットを捕らえようと試みるが、結果は全て同じであった。ラケットに当たった瞬間にボールは弾け、コートの外へ飛び出していく。
 「俺さ、身内を褒めるのって、あんま好きじゃねえんだけど……」
 そう前置きしてから、疾斗が向き直った。
 「海斗って、兄貴の事がなければ成田さんより強えのかなって、思う時がある」
 遠慮がちに話しているが、頬を高潮させた疾斗からは、兄のプレーを賞賛したくて堪らない様子が伝わってくる。つまりは、目の前で起きている不可思議な現象も、唐沢が故意に起こしたという事だ。
 疾斗の言葉を理解するのに、それほど時間はかからなかった。
 第8ゲームを「3−5」で唐沢が制し、光陵の勝利まであと1ゲームを残すのみとなった、その時。これまで硬い表情を崩さずにいた唐沢が満面の笑みと共に告げた一言が、全てを物語っていた。
 「だから言っただろ? 『データはちゃんと更新しておけ』って。少しは俺の話、信用して欲しかったなぁ」
 あの笑顔は、どう見ても悪人とは思えない柔らかな笑みは、標的とするカモが自分の手中に落ちた瞬間にする顔で、不本意ながら透は幾度となく拝まされている。但し、今回は笑顔を見せた場所が人気の少ない部室ではなく、都大会の決勝戦が行われているコートの上で、たったそれだけの違いで、試合を見守る透には何とも心強く映っていた。

 データの更新とは、進化を指すのだろう。唐沢はドリルスピンショットを試合中に進化させたのだ。
 一見、同じに見える第6ゲームと第8ゲームのドリルスピンショット。だが第8ゲームで放ったショットには、最初に攻略された時の倍の回転がかけられていたのである。透自身、何度か観察してようやく判明したのだが、唐沢は前の決め球よりも打点を後ろに取る事で更なる回転を施していた。
 打点を後ろにずらす事で、ボールに回転をかける時間が増えるだけでなく、回転の方向も操作し易くなる利点がある。いくらボレーで捕らえようとしても弾かれてしまうのは、進化後のドリルスピンショットの回転数が増えた上に、その方向もミリ単位で変えられていたからだ。
 「データを更新しておけ」とは、「進化したドルリスピンショットに気をつけろ」との忠告が含まれていた。察するに、最初に出した“進化前”のショットは何処かの大会で披露したものだろう。だから越智にも2ゲームという短時間で攻略できたのだ。
 唐沢は試合中に攻略される事態も計算に入れて、わざと公開済みのショットを切り札であるかのように使ってみせた。そしてゲーム終盤で“進化後”のショットを繰り出すことで、相手に攻略の隙を与えなかったのだ。
 地区大会で最後まで決め球を見せなかった理由も、ここにある。ドリルスピンショットが進化している事を京極に知られては元も子もない。そして、あの時から唐沢の中では都大会に向けての地ならしが始まっていたのである。
 敵の過去のデータを集め、試合中に決め球を攻略するという越智の戦術も、全てお見通しの上でのゲーム展開だ。疾斗の言う通り、唐沢が本気を出したら成田より上かもしれないと思うのも頷ける。

 透にはもう一つ、疾斗に確認しておきたい事があった。
 「疾斗、さっき『こんな時まで』って言っただろう? あれって、もしかして……?」
 「ああ、トオルには話したよな? 海斗は職人みたいな試合をするって。
 本当だったら第8ゲームの相手がトップスピンを連打した時点で、進化したドリルスピンショットを出せば良かった。それなのに海斗は自分も浅めのトップスピンで返球して、ショートクロスを誘っていた」
 言われてみれば、確かにそうだ。
 第8ゲームでは、越智がドリルスピンショットを攻略できると思って、最初からトップスピンを連打していた。唐沢にとっても、進化したショットを披露するには絶好のチャンスだったはず。それを、わざわざトップスピンで返球して、ショートクロスを誘っていた。
 あの局面でさえ、彼は勝利よりも返せない一球にこだわっていたのだ。そして中ロブという方法で攻略したと同時に、越智との勝負に決着をつけるべく、進化したドリルスピンショットを繰り出した。
 第5ゲームの後、唐沢が真剣に考えていたのはショートクロスの攻略法であって、試合自体は最初から彼の作戦通りに進んでいたのである。
 勝つ気があるのか、ないのか。いずれにせよ、唐沢に底知れぬ実力があるのは事実で、日頃の悪質な生活態度にもかかわらず、コーチや部長が無条件で彼に信頼を寄せるのも、コートに立ったギャンブラーが最強の策士である事を知っているからに相違ない。

 コートに視線を戻すと、越智が最後の反撃に出ようと、ポジションを前方からベースラインへ移していた。ボレーで弾かれるのであれば、バウンド後の返球を試みるしか策はない。
 しかし進化後のドリルスピンショットは地面に触れるや否や更に厄介な蛇行曲線を描き、ボレーで捕らえるよりも扱いにくい打球に変わっていた。いくらテクニックに長けた越智が返球を試みようと、威力の上がったショットの前では全てが徒労に終わる。
 必死の抵抗をあざ笑うかのように、唐沢から放たれたショットが越智の足元をすり抜けていく。互いの罠と策とが絡み合う中、ゲームカウント「6−3」で四戦目を制したのは光陵学園の副部長・唐沢であった。
 唇を噛み締めコートに佇む越智に向かって、唐沢が右手を差し出した。汗一つ流れていない色白の顔には、憎らしいほどの余裕が見える。それは、全て唐沢の計算通りの展開で試合が進んだという証拠でもあった。
 「最初から全て作戦通りという事か。朝の会話から、ずっと……!」
 越智は、今朝、会場入りした時の話をしているのだろう。透を挟んで「秘蔵っ子」か「カモ」かで越智と唐沢が腹の探り合いをしていた。あの短い会話の中に、すでにヒントはあったのだ。
 一見、越智の鋭い指摘に圧されているかに見えた会話の中で、確かに唐沢は宣言していた。「データは常に変化するものだから、こまめに更新しておけよ」と。あの時すでに、唐沢はこの決勝戦での流れを読んでいた。
 試合前、あれほど楽しそうに薄笑いを浮かべていた越智が、忌々しげに唇を噛み締め、唐沢を睨みつけている。相手の情報を把握して、完璧に攻略したつもりでいた彼にとって、これほど屈辱的な敗北はない。
 対する唐沢は、憎悪さえ垣間見える視線を気に留める様子もなく、いたって無邪気な顔をして見せた。
 「いやあ、ラッキーだったよ。途中で親切な誰かが『切り札は最後まで取っておけ』って、俺にアドバイスしてくれたんだよね」
 自身が試合中に吐いた台詞に、越智の顔が凍りつく。
 「試合中は“自分の能力を過信しないように”必死だったから、誰の声だか分からなかったけど。親切な誰かさんに感謝だな」
 今朝からずっと我慢をしていたのか。唐沢の言葉はその涼しげな笑顔と共に、敗者となった越智に嫌みなまでに絡み付く。居た堪れなくなった越智が差し出された右手を払いのけ、コートを後にした。
 残された唐沢は、最終戦に向けてコートに入ってきた成田と片手で軽くタッチを交わすと、試合前と変わらぬ足取りで去っていった。






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