第41話 リーダー対決

 光陵学園善戦の噂を聞きつけやって来る観客達の流れに逆らい、疾斗がそそくさと応援席から離れていった。無事に副将の役割を果たし終えた唐沢に労いの言葉をかけに行くのだろう。
 試合前は「どっちに転んだとしても、見て損はない」と弱気な発言をしていた兄が、それ以上の結果を見せてくれた。弟にとって、これほど誇らしい事はない。
 子犬のように無防備な走り方をする親友を、透は目を細めて見送った。口では「成田の試合のついで」と強がっていたが、疾斗が唐沢を応援する目的で来ている事は一目瞭然だった。そしてまた、「海斗」と呼び捨てにして対等な立場を主張しているが、本当は兄を心から尊敬し、認めている事も。
 一歳違いの兄弟とは、そんなものかもしれない。親友のような近しい存在でありながら、生まれつき上下関係が定められている。対等になれないからこそ、対等でいたいと願い、いさせてやりたいと思いやる関係。弟は誰よりも尊敬する気持ちを隠して。兄は誰よりも守ってやりたい気持ちを抑えて。解れ始めた兄弟の絆は、透に束の間、安らぎの時間を与えてくれた。

 疾斗と入れ替わりに、千葉がいつになく真剣な面持ちでフェンスの側まで寄ってきた。挨拶代わりの冗談もなく黙ってコートを見つめる先輩の態度が、緊迫した空気を呼び戻す。
 優勝候補の筆頭である明魁学園と、その他大勢であった光陵学園。両校の勝負はまだついていない。あの鮮やか過ぎる唐沢の勝利も光陵テニス部が同じ土俵で勝負する為の一過程に過ぎず、二勝二敗の引き分けで迎えた次の対戦こそが、本当の勝者を決める戦いとなるのである。
 「今日はどんな悔し泣きが見られるか。楽しみだ」
 今朝、京極が成田に向けて放った台詞が、透の脳裏に甦る。挑発の域を超え、勝利宣言に等しい強気な発言は、京極の性格そのものを表していた。百五十名からなる部員達の頂点に立つ者の自信の現れというのか。怯むとか、怖気づくとか、相手に一歩でも遅れを取るような感情を、彼は持ち合わせていない。
 これに対して、成田は「S1で待っている」と返しただけだった。部長の責務に忠実な彼の表情から真意を推し測ることは出来なかったが、いささか弱腰の観があるのは否めない。それは透が感じた場の雰囲気だけでなく、前日に幕間の話を聞かされた所為もあるのだろう。
 不器用なりに、精一杯、部長の役を演じようと努める成田。甘味処で彼が見せた素顔はいたって普通の中学生で、どちらかと言えば、戦いには不向きな心優しい少年の印象が強かった。
 コートを見やると、最終決戦を託された成田がラケットのガットをいじりながら静かにゲーム開始を待っていた。俯いているので表情までは分からないが、透には緊迫した空気に押し潰されないよう懸命に耐えている姿に見えてしまう。
 それに反して向こう側のベンチでは、京極が腕組みをしたまま悠然と腰を下ろしてその時を待っていた。三人掛けのスペースを存分に使い、どっかりと両脚を広げて座る様は王者の貫禄充分で、まるで決勝戦のコートごと自身の縄張りにしてしまいそうな迫力がある。
 そこにいるだけで大将の存在を皆に知らしめる京極と、副部長にすら気を遣い、リーダーの在り方を模索する成田と。あまりに対照的な二人の組み合わせは、山の主と恐れられたイノシシと野ウサギほどのギャップがあった。
 透の胸の中に不安が募る。本当に成田にS1の大役を任せて良いのだろうか。あの様子では、京極の気迫に圧されて実力を出せぬ間に終わるという悲惨な結末も考えられる。

 しかし試合が始まると同時に、その不安は跡形もなく消し飛んだ。
 成田から放たれたフラット・サーブは、京極のそれに勝るとも劣らぬ程の威力があった。スピードだけで言えば、それ以上かもしれない。あの京極が成田のサーブの前では一歩も動けず、サービス・エースを許している。
 「なぁんだ、大口叩いたわりには大した事ないじゃん。俺もアンタとやれるの、楽しみにしてたのに」
 一瞬、透は耳を疑った。耳だけでなく、目も疑った。目の前のコートから聞こえてきた台詞の出所が信じられず、最初に自分の知覚を疑ったのだ。
 この状況で、こんな台詞が吐けるのはただ一人。京極からエースを奪った対戦相手だけである。
 それでも、俄かには信じがたい。誰よりも規律に厳しく秩序を重んじる彼が「大した事ない」などと、相手選手を見下すような言葉で挑発するのだろうか。
 だがしかし、どこからどう見ても点を取られた京極から発せられたとは思えない。部長が壊れた ―― そう捉えるのが妥当だろう。
 落ち着いてコートの中を見てみると、成田が不敵な笑みを浮かべて立っている。極上の獲物を見つけた時の野獣によく似た鋭い目をして、嬉しそうに山の主の反応をうかがっている。それは紛れもない、真剣勝負を前に愉悦に浸る男の顔だった。

 もしかして、と透は思った。光陵テニス部の悪ガキ集団を預かる部長は自分にも他人にも厳しい生真面目な人間で、そうでなければ束ねられないと勝手に解釈していたが、一番の悪ガキは部長を務める成田本人ではなかろうか。いつも部員達の先手を取って騒ぎを未然に防げるのも、羽目を外す者の痛い所を突いて容赦なく締め上げられるのも、彼自身も経験があるからこそ成し得る業だとしたら――。
 「トオルは成田部長の試合を見るのは初めてだよな?
 うちの部長は対外試合なんかでリミッターを外すと人格が変わるんだ。幼児化するっつうか、テニスを始めた頃の八歳児に戻っちまう」
 顔面に仰天の二文字をしかと掲げる後輩に気付いた千葉が、遅ればせながら教えてくれた。
 「そうなんですか。けど、こっちの方が身近っていうか。嫌いじゃないかも……」
 これは透の素直な感想だった。
 喧嘩相手が強ければ強いほど熱くなるのは、悪ガキの性である。その点において京極は最高の相手であり、成田が極上の笑みを浮かべる気持ちも理解できる。
 「ああ。うちの連中もあの姿を知っているから、どんなに厳しくされても付いていくんだ。夢だの、理想だの、面倒臭せえこと語られるよりも、よっぽど『付いていきます!』って思っちまう」
 千葉の意見に透も頷いた。
 最初は百八十度豹変した人格に戸惑いはしたものの、強敵を前に笑みを浮かべる成田は透の知る中で最も自然な姿に見えていた。まったく融通の利かない四角四面の部長よりも、自分は不器用だと思い悩む心優しい少年よりも。最終決戦でライバル校の部長からエースを奪い、満面の笑みで挑発する強気なヤンチャ坊主の方がしっくりくるのである。光陵テニス部のリーダーたるもの、こうでなくちゃと思うのだ。
 「ケンタ先輩? 俺、この試合メチャメチャ楽しみになってきました」
 「ああ、俺は今朝からずっと楽しみだったぜ。この勝負を見たくて、決勝まで頑張ったようなもんだから」
 成田に締め上げられた数では最多を誇る千葉が、目を輝かせてコートに熱い視線を送っていた。

 透はこれまでいくつもの試合を見てきたが、この試合ほど「シーソーゲーム」と呼ぶに相応しいゲームはないと感じた。成田が1ポイントを取れば、すぐさま京極が1ポインを取り返す。どちらかが大きくリードする事なく試合が進んでいる。
 第4ゲームが終了し、カウントが「2−2」になるまで、デュースが行われずに閉じたゲームはない。それでも互いに自身のサービスゲームを落さず、デュースの末にキープしている。
 今のところ、戦況は五分五分といったところか。ほんの僅かな隙も見せられない接戦が続いていた。

 序盤でサーブの返球に手こずっていた京極が、第5ゲームでは徐々にタイミングを掴み始めていた。それを敏感に察知した成田が、攻撃の主軸にしていたフラット・サーブをスライス・サーブに変更し、相手をコート脇へと押しやる策に出た。
 対する京極も、一旦は外に押し出されても即座にセンターへ戻り、フットワークの良さを見せている。
 京極がセンターへ戻るや否や、すかさず成田からベースラインぎりぎりの深いボールが打ち込まれる。ボレーの達人と呼ばれる京極が、成田のサービスゲームではネットにつく事すら至難の業だ。これを破るには、深い球を返球したと同時にアプローチをかけて前へ出るしかない。
 透の下した判断を正論と裏付けるかのように、京極がアプローチショットから前方へダッシュしようと踏み込んだ。その直後であった。逆サイドのネット際に成田のドロップショットが落とされた。
 唖然とする京極の様子から、どちらが主導権を握ったかは明らかだった。ボレーを警戒して後ろへ追いやられるとばかり思っていた京極は、成田がネット際に落ちるドロップショットで仕掛けてくるとは予想だにしなかった。そこをまんまと突かれたに違いない。
 畳み掛けるようにして、成田はドロップショットとロブのコンビネーション技で前後に揺さぶりをかけてきた。ネット際のドロップショットを拾わせた後で、トップスピンのかかったロブを放って、ベースラインまで追いかけさせる。
 いくらフットワークの軽快な選手でも、ネット前から後方まで勢いよくダッシュさせられては辛いものがある。しかもそれを繰り返しやられるのだから、必然的に返球は甘くなる。
 矢継ぎ早の攻撃で、第5ゲームはデュースに持ち込まれることなく、成田がキープした。

 先のゲームで主導権を握った成田だが、彼にはまだ京極のサーブを返すという課題が残っていた。スピードでは成田の方が勝っていても、京極のサーブには重さがある。その為、仮に返球したとしても思い通りに伸びていかない。リターンが浅くなるのである。
 しかも、京極のサーブは回を重ねるごとに威力が増していく。区営コートで何度も京極のサーブを受けている透にはよく分かる。普通ならゲームを重ねるたびに疲労で乱れるはずのサーブが、京極の場合は逆に神経が研ぎ澄まされ、鋭くなっていく。
 徐々に鋭さを増す厄介なサーブを成田が攻略しない限り、手元にある主導権はすぐに奪われてしまう。
 京極から高いトスが上がる。しなやかなフォームから、今までで最も体重が乗ったと思われるサーブが放たれた。成田も瞬時にその威力を察知したのだろう。すぐさまラケット面を合わせてブロック・リターンに切り替えたが、スピードと同様、重さも加わったボールは、両者を分断するネットに弾かれ成田の足元に戻ってきた。
 相手に主導権を握られ、逆風の中で見せた京極渾身のサービス・エース。引くことを知らない彼らしい一撃だった。
 「さっきの借りは、きっちり返させてもらったぜ?」
 試合開始早々、京極は成田にサービス・エースを決められている。今のサーブはその返礼のつもりらしい。
 手痛い一打を浴びたにもかかわらず、成田は「そう来なくちゃ」と笑みを返す。その自信に満ちた姿を認めた京極も、満足げに微笑んだ。
 相手が強ければ強いほど闘争心を掻き立てられるのは、両者ともに共通するのだろう。それぞれ似たような笑みを浮かべている。
 「成田? お前の悔し泣きを本気で見たくなった」
 「へえ、奇遇だな。俺も今朝からそう思っていた」

 目の前で繰り広げられる熾烈な戦いに、透の意識はすっかりコートの中に引き込まれていた。試合前に感じた不安も、これが決勝戦である事も、何処かへ吹き飛び、ひたすらボールの行方を目で追った。この勝負だけは、光陵テニス部の部員としてよりも、一人のプレイヤーとして見るほうが遥かに面白い。またそう思わせるほど、両者のレベルは高かった。
 サービス・エースを決めて勢いづいた京極が、サーブを軸に得意のボレーで攻撃を開始した。ボレーの達人が繰り出すネットからの攻撃は、受ける側に付け入る隙を与えない。相手の足元近くの深いコースを突いて、容易くロブを上げられないようにしてから、次は逆サイドを狙うといった二段構えで攻めてくる。
 強気な性格とは裏腹に、慎重、且つ確実に決めるやり方は、京極が力押しだけのプレイヤーではない事を物語っている。確かな技術と、緻密な戦術。何より真剣勝負において、油断が最も警戒すべき落とし穴だと心得ている。
 「ケンタ先輩? 俺、何だかクラクラしてきました。最後まで持たないかも」
 再びゲームカウントが「3−3」の引き分けに戻された。透はそのサーブ権が移る僅かな静寂を利用して、ここぞとばかりに呼吸を整えた。息もつかせぬ真剣勝負の迫力に圧され、ゲームの合間にしか緊張を緩める時間がないのである。
 「酸欠で倒れるのは構わねえけど、アレ見てからにしねえと後悔するぞ?」
 「アレって、何ッスか?」
 「アレはアレだ。まあ、見てなって」
 千葉の話し方からして、まだ透の知らない何かがあるらしい。唐沢の時と同様、決め球の類だろうが、細かい事は教えてもらえなかった。

 京極が主導権を握っていた第6ゲームとは打って変わって、第7ゲームは成田の優位に進められた。成田は前のサービスゲームと同様、スライス・サーブとドロップショット、そしてロブのコンビネーションを駆使して、京極をネット前に張り付かせないよう振り回している。
 それぞれにサーブから得意の攻撃態勢へ持ち込み、着実にポイントに繋げているかに見えるが、ここへきて透には一つの疑問が湧いてきた。
 確か成田もオールラウンドプレイヤーのはずである。隙あらばネットについてボレーで攻める京極に対し、成田は一向に前から攻めようとしない。これは例の決め球と関係があるのだろうか。
 透の疑問が解決つかぬ間に、京極が反撃を開始した。第5ゲームでは拾うのがやっとの成田のドロップショットを、彼はネット際からドロップボレーで返球したのである。
 さすがは優勝候補のリーダーを務めるだけの事はある。たった1ゲームの間にドロップショットに追い付くばかりか、それを逆手に取って、ネット際からドロップボレーで反撃している。身体能力の優位性だけでは考えられない展開だ。
 しかも、京極のドロップボレーはネットの側面を吸い付くように落ちていく。透も区営コートで何度か経験したが、いまだに拾えた例がない。ドロップボレーが落とされると分かっていても、追い付けないほど素早く落下する。鉛のようなボレーであった。

 成田のドロップショットとロブのコンビネーションを崩した京極が、第7ゲームを物にした。
 自身のサービスゲームをブレイクされて、初めて成田の顔から笑みが消えた。コートに上がった成田は幼児化すると聞いたが、その表情の変化も幼児並みで、唇をつんと尖らせ、眉間に皺を寄せ、瞬きもせずにコートを見据えている。それはまるで大事なおもちゃを取り上げられて機嫌を損ねた子供のようであったが、ただ一点、見開かれた瞳の中には負けず嫌い特有の一途な光が宿っていた。
 いよいよ成田が本気を出そうとしている。直感的に、いや、直感を超えた確かな兆候を、透はその目に感じていた。
 「真嶋。お前なら、次の京極のサーブをどう返す?」
 突然の声かけに驚いて振り返ると、透の真後ろにクールダウンを終えた唐沢が立っていた。
 京極のサーブはゲームを重ねるごとに鋭くなっている。試合開始直後なら何とか返す自信はあるが、今のサーブとなると当てるだけで精一杯だ。あの重量感のあるサーブは、そうそう容易く返せるものではない。加速の仕方から見て、いつもの倍のパワーが加わっている。上手くタイミングを合わせたとしても、思い通りのコースに返すには京極と同等の筋力が必要だ。
 透は唐沢からの問いかけに答えられずにいた。
 「他人の試合を頭に叩き込むだけなら、バカでも出来る。本気でレギュラーを目指すなら、試合を見ながら自分の頭で次の一手を考えろ」
 地区大会よりレベルアップしたのは、対戦相手だけではなかった。唐沢から透に対する要求も厳しくなっていた。

 唐沢に言われて、透もプレイヤーの立場に立って考えた。
 この決勝戦の場で自分が京極と対戦しているとして、サーブをラケットに当てる事まではどうにか出来るだろう。問題は、その後だ。浅くなりがちなリターンを思い通りに押し返すだけの力が足りない。この不足分のパワーをどう補うか。
 透の頭の中にぼんやりとだが策が浮かぶ。自分のパワーが足りないのなら、相手の球威を下げる手はないだろうか。
 「後ろに……サーブの威力が落ちるギリギリのポジションまで下がって返す、とか?」
 「正解だ。但し、相手が単なるビックサーバーならな」
 確かに、唐沢の言う通りであった。いま透が相手と想定するのはサーブだけが突出して優れている選手ではない。オールラウンドに何処からでも攻められる京極が相手だ。中途半端に返しては、逆にチャンスを与える事になる。特にボレーを得意とする彼は、こちらが後ろにポジションを取った段階でドロップボレーの準備をしてくるに違いない。
 透はまたも答えに窮した。一体どうすれば、京極にボレーの機会を与えずに、あの高速サーブを返すことが出来るのか――。

 この難題を、コート上の成田が解決して見せた。
 京極のサーブから始まる第8ゲームで成田が取ったポジションは、ベースラインから更に後ろに下がった箇所だった。しかし、あれではサーブを返せたとしても次のボレーで決められてしまう。成田は何をしようというのか。
 京極から高いトスが上がる。透が固唾を呑んで見守っていると、サーブと同時に成田が前方へダッシュした。そして低い姿勢を保ちながらラケットごと上半身を素早く回転させて、ダッシュとスィング、その両方の勢いをぶつけるようにしてストレートで叩き返した。
 「そうか! 後ろから前へ出ていく勢いと上半身の回転を利用して、不足分のパワーを補ったのか」
 ようやく透にも、成田が後ろへポジションを取った理由が理解できた。
 彼が後ろへ下がったのは、前へ飛び出す際の距離を稼ぐ為だった。そして前方へダッシュしつつ体の回転に合わせて体重移動を行えば、あの重いサーブを押し返すだけの力が加わる。前へ移動しながらリターンの打点を見極めるのはかなりの技術を要するだろうが、それも成田のレベルなら実現させられる。
 「テクニックが、パワーに勝る時もある」
 透の出した答えに唐沢が相槌を入れてから、言い足した。
 「自分の持っている能力をより多く引き出した者が勝つ。これが五分と五分の勝負を制するセオリーだ」
 「五分と五分の勝負を制するセオリー」
 今さっき副部長同士の戦いを制した唐沢から言われると、説得力がある。そして現在目の前で進行している試合も、まさしく「五分と五分の勝負」であった。
 身の内に沸き立つ興奮を抑えて、透はもう一度コート上の成田に意識を集中させた。唐沢の言うように、自分で次に打つべき一手を考えてみる。
 あの高速サーブが破られた今、京極はサーブの球種を変えてくるに違いない。
 コートに視線を向けただけなのに、意識が成田と入れ替わる。スライスで来るか。あるいはスピン・サーブでバックサイドを狙ってくるか。

 「京極? 今のリターン・エースも、何処かできっちり返してもらえるの?」
 コート上では、リターン・エースを決めた成田がまたも京極を挑発していた。しかも次の球種もまだ特定できずに思い悩む透と違い、成田はすでにポジションを後方に置いている。今更ながら、その精神力の強さと判断力の早さには驚かされる。
 京極が次に繰り出したのはバックサイドを狙ったスピン・サーブであった。
 「あのポジションでは間に合わない」と思った瞬間、成田は先程と同じく前方へダッシュして、サーブが大きく弾む手前で返球した。ライジング・リターンである。
 サーブの軌道が曲がる手前でボールを捕らえる事により、バウンド後に後方へ追いやられる距離を省略できる。察するに、成田はスライスであっても、スピンであっても、ライジングを使うつもりでいたのだろう。
 だが、その返球を待ち構えていたように京極が素早く前方に移動してドロップボレーを放った。スピン・サーブはフラット・サーブ程の球速がない分、反動を利用した成田のリターンもスピードが落ちる。それを見越して、京極は自分がネットにつく時間を作り出したのだ。
 ネットに沿うようにして落ちる京極のドロップボレーは、反対側のコートに落ちて得点となるはずだった。
 ところが、リターンと同時に前方へダッシュしていた成田が、その勢いを落とさずネット前へ躍り出た。そして次に繰り出したのは、京極と同じドロップボレーであった。つまり成田はドロップボレーをドロップボレーで返したのだ。
 成田の前進しながらのリターンは、高速サーブの対抗策だけでなく、自身がネットに出る為の移動手段でもあったのだ。
 ついに、成田がネット前から攻撃を開始した。予想はしていたが、彼の前方からの攻撃はボレーの達人と呼ばれる京極に決して引けを取らなかった。広範囲でボールを捕らえる柔軟性、それを繋ぎとせずに攻撃に変える技術の高さと俊敏さ。しかも成田には、京極のドロップボレーを破る策もある。前に出た彼に怖いものはなかった。
 第8ゲームをブレイクした成田が、これまでのふて顔をくしゃっと崩し、京極に笑いかけた。
 「そろそろ体も温まった頃だし、お互いエンジン全開といこうか?」
 まるで遊び友達を誘うような無邪気な笑顔を見つめ、唐沢がぽつりと呟いた。
 「たまには思う存分暴れてこい」

 続く第9ゲームで成田はサーブと同時にダッシュをかけると、素早くネット前を陣取った。対する京極も、ハーフボレーでラリーを繋げながら前方を目指す。
 徐々に距離を詰める京極と、迎え撃つ構えの成田との間で、凄まじいボレー合戦が繰り広げられるかと思った矢先。京極の目の前を矢のようなボレーが駆け抜けた。
 初め透は、その正体をなかなか特定出来ずにいた。ネット前の右サイドにいる成田の手元から逆方向へ斜めに突き刺さったとなると、ボレー以外にあり得ないのだが、何か特別なショットではないかと錯覚を起こさせるほど、着弾時に独特の振動があった。
 「今のは、一体……?」
 「あれが成田の決め球、アングルボレーだ」
 唐沢がコートに視線を向けたままで呟いた。
 「アングルボレー?」
 以前、透もマニュアル本で読んだことがある。ボールにサイドスピンをかけながら角度をつけて斜めに返球するボレーの事を、そう呼んでいた。あの振動を伴う重量感のあるボレーは、回転の鋭さから生まれるものである。
 「成田のアングルボレーは角度の鋭さも勿論だが、スピンのかかり方が半端じゃない。仮にあの鋭角に送り出されるボールに追い付いたところで、まともに返せる奴はまずいない」
 唐沢ほどのプレイヤーが言うのだから、返せる選手は本当にいないのだろう。実際、アングルボレーを打たれた京極は一歩も動く事なく見送っている。
 「だから、見なきゃ後悔するって言っただろ?」
 散々待ちわびた「アレ」の出現に、千葉がにやりと白い歯を見せた。

 「成田部長の決め球。アングルボレー……」
 透は、今度は誰に指図されずとも、京極の立場に回っていた。「返せる奴のいないアングルボレー」を返す策を無意識のうちに探っていたのである。
 しかしどんなに頭を捻っても、上手い策は見つけられなかった。ネットに対して鋭角に切り込まれるアングルボレーは一瞬で目の前を通り過ぎ、更にその回転数の多さ故にバウンド後も遠くへ逃げていく。たとえどうにか追い付き拾えたとしても、コート中央を大きく空けた状態では、次のボレーを叩き込まれて失点する。
 コート上でも、まったく同じ現象が起きていた。ボレーの達人と呼ばれる京極が、すっかりアングルボレーに翻弄されている。
 「成田部長って、すっげえ人だったんですね?」
 唐沢の前にもかかわらず、思わず透は禁句の「すげえ」を使っていた。だが今回は注意を受けなかった。
 「ああ、あいつは『すげえ奴』さ。だから俺達のリーダーなんだ」
 唐沢が誇らしげな笑みを浮かべたと同時に、リーダー対決の幕が閉じた。ゲームカウント「6−4」で、勝利を手にしたのは光陵テニス部の部長、成田であった。

 試合終了後、再び透は驚きを露にコートを見つめた。ネットを挟んで京極の前に立つ成田が、試合終了と同時にいつもの堅物に戻っている。観客席は未だ興奮冷めやらぬというのに、当事者である成田は電池が切れたように大人しい。敗北した側の京極の方が、よほど晴れやかな顔をしている。
 「さすがだ、成田。今回は俺の完敗だ」
 「ああ」
 愛想のない答え方も、普段通りである。
 「おい、成田! この俺が潔く負けを認めてんだから、普通は『良い試合だった』とか、フォローを入れるだろ?」
 「いいや、試合内容が良いか悪いかは各々の選手が決める事だから」
 「まったく、一瞬でもお前が同類だと思ったのは間違いだった。俺はここまで性格悪くねえからな」
 「そうか? お前の悔し泣きに備えて胸を貸してやろうかと、さっきから待っているんだが?」
 しばらく二人の間に妙な沈黙があった。顔色一つ変えずに平然と言ってのける成田を前にして、京極は冗談なのか、嫌みなのか分からず、困惑しているようだ。
 「成田? それ、冗談のつもりか?」
 「いや、本気でそう思っている」
 そこまで言ってから、成田はほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
 「やっぱりお前、性格悪いな?」
 悪態をつきながらも、京極の口元も敗者に似合わぬ緩み方をしている。真剣勝負に挑んだ者だけが得られる充実感があるのだろう。爽やかとは言えないまでも、二人共が曇りのない顔を見せている。
 ネットを挟んで自然と交わされた選手同士の握手が、敵味方問わず、コートを囲む観客達の間に拍手を呼び起こす。明魁学園と光陵学園の頂上決戦は、透の胸に大きな感動と激しい熱を残して終結した。
 「次は、俺の番だ」
 関東大会のレギュラーを選出する為のバリュエーションが一週間後に迫っていた。






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