第42話 本気になったレギュラー
朝の五時には床を離れていたというのに、奈緒は学校までの道のりを全速力で走らなければならなかった。
「今日に限って、遅刻なんて……」
知らぬ間に約束の時刻が過ぎている事態を不思議に思いながらも、起床してからの自身の行動を一つひとつ振り返る。
起きてすぐに朝食を済ませ、二人分の弁当を作って、身支度を整え、八時には学校に到着するつもりで家を出た。別段、想定外の出来事に出くわした記憶もないが、どういう訳か携帯電話は九時半を示している。
やはり料理の腕前も考えず、弁当のおかずを普段よりもグレードアップさせたことが原因か。あるいは、男子の腹を満たす適量がいかほどか分からず、おにぎり十個を律儀に具材も違えて握っていた。あの時点で約束の時刻は過ぎていたかもしれない。おまけに、登校途中に河原で立ち葵の咲き具合を確認しがてら記念撮影を行った。そこでもアングルが気に入らずに何度も撮り直しをしていたので、かなりの時間を浪費したに違いない。
つらつらと予定外の行動を挙げているうちに、もう一つ、身支度の最中に『メロリン』に延々と願掛けをしていた事実が浮上する。
誕生日プレゼントに透からもらったネコ型キューピットの『メロリン』。本来は携帯機用のストラップであるにもかかわらず、奈緒はそれを汚しては勿体ないからと自室の机の上に飾っていた。
「どうか、トオルがレギュラーに入れますように。あと、出来ればもう一度二人きりになれるチャンスをください。デートじゃなくて良いです。学校の帰りとかで良いので、たくさん話せる時間をください。
あ、でも、今日はトオルのお願いの方を先に叶えて下さい。私のお願いは、また後で……」
あくまでも『メロリン』は恋の願いを叶えてくれるという触れ込みのマスコット人形で、恋愛に関して威力を発揮するかどうかも疑わしいところだが、机の上に鎮座する姿が神々しく見えて、つい想い人の願いを聞き届けてくれるよう拝んでみたのである。
時間がない中でマスコット人形に願掛けしたのも、二人分の弁当をせっせと作ったのも、立ち葵の咲き具合をチェックしたのも、理由はただ一つ。今日がテニス部のバリュエーションの開催日だからであった。
光陵テニス部では、各大会の出場選手を選出する為の校内試合を「バリュエーション」と呼んでいる。通常のランキング戦とは違い、午前の試合でレギュラー、つまり大会の出場候補者を絞り込み、午後には候補者同士で査定試合をさせてから正式な出場選手を決める。この二部構成の校内試合を総称して「バリュエーション」と呼ぶのである。
先日、念願の都大会優勝を果たしたテニス部が次に目標とするのは関東大会制覇で、今日のバリュエーションはその代表選手を選出する為の試合だと聞いている。
「今度のバリュエーション、見に来てくれないか? 俺、絶対レギュラー取るから」
忘れもしない、奈緒の十三歳の誕生日。透と二人でプレゼントを買いに行った帰りに交わした約束は、その時のヤンチャ坊主らしからぬ真摯な態度と共に奈緒の心にしっかりと刻まれている。
テニスに対して何処までも直向な彼の願いが叶って欲しい。その為に出来る事があるのなら、どんな事でもしようと思っていた。それなのに、何故、約束の時間が過ぎているのか。
奈緒は通い慣れた学校の正門を慌しく駆け抜けると、野球部が整備し始めたグラウンドを突っ切り、バリュエーションが行われているテニスコートまで近年稀に見るスピードで走っていった。
テニス部の敷地内に足を踏み入れたと同時に、奈緒は全力疾走のスピードを忍び足になるまで一気に落とした。壁打ちボードの前で座り込む透の姿が見えたのだ。木製のラケットを両腕で抱きかかえ俯く様は、次の試合に備えて策を練っているようにも、負けて落ち込んでいるようにも受け取れる。
万が一、敗退していたとしたら、奈緒の出る幕はない。不用意に声も掛けられず、様子をうかがっていると、親友の塔子がファイルの束を抱えながら近付いてきた。
「遅いよ、奈緒! 来ないかと思って心配したんだよ?」
快活な塔子の声で奈緒の存在に気付いたと見えて、透がつと顔を上げた。
「奈緒、来てくれたのか? 休みなのに悪かったな」
「ううん。私こそ、遅くなってゴメンね」
「いや、ちょうど良かった。本番、これからなんだ」
塔子の説明によると、透はノンレギュラーのブロックを短時間で勝ち進み、すでにレギュラー決定戦の参加権を手にしているのだが、レギュラー陣のブロックが混戦状態で決着がつかない為に、対戦相手が決まるまで待たされているとの事だった。
「良かった。まだ負けてないんだね?」
最悪の事態を免れた安堵から、奈緒は余計な一言を口走ってしまった。言った後から「まずい」と思ったが、時すでに遅く、透が片眉だけをピクリと持ち上げた。
「お前、俺のこと信用してねえだろ? 今日はレギュラーを取りに来たんだ。こんなところで負けて堪るかよ」
「あ、ごめん。そ、そうだよね……」
今日の透は、いつもの教室でバカ騒ぎする彼とは別人だった。授業中、いや試験中でも、ここまで真剣な顔は見たことがない。今の失言に関しても「一応、注意をしておく」といった程度に止め、他に集中すべき事柄に意識が向いているようだ。
するとそこへ、もう一人のマネージャーがレギュラー陣の結果を持ってやって来た。
「真嶋、決まったわよ。レギュラーからは中西と陽一が降りてくるわ」
「中西先輩と、陽一先輩……」
ラケットを握る透の指先がギュッと赤くなった。伝えられたメンバーの中に、ライバル・遥希の名前がない。
遥希が参戦しないという事は、彼は以前からレギュラーであった二年生の中西や陽一朗よりも力をつけたという事だ。同級生の透としては、部内で確固たる地位を築きつつあるライバルの活躍に複雑な思いを抱いているのだろう。片方で済んでいた眉根の皺が両方に刻まれ、より一層、険しい顔つきになっている。
これも普段とは違う現象だ。いつもの彼なら「ムカつく」でも「あの野郎」でも、悔しさを表す言葉を一言ぐらいは発している。特に遥希に関しては、大げさなぐらい感情を露にする。それが今日は、感情を出すどころか、心乱れぬように自制している節がある。
「追いかけるしかねえよな」
抑え気味の声で呟いてから、透はコートに向かって歩き出した。まるで雰囲気の違う彼の言動に戸惑いながらも、奈緒も後に続く。だが部外者が付いて行けるのはコートの入口までで、そこから中へは選手とバリュエーションの関係者以外入れない。
今から始まるレギュラー決定戦を前に何か声をかけて送り出そうと、口を開きかけた奈緒だが、険しい表情を見せる彼にかける言葉が浮かばない。黙って見送るしかないのかと思った矢先、透が入口で歩を止めた。
「奈緒? アレ、言ってくんねえか?」
「アレって?」
「あの……紅茶の缶に貼ってあった『だいじょうぶ』って、ヤツ……」
初めてのバリュエーションで透が全敗した時、奈緒は彼を励まそうと紅茶の缶にメッセージを貼って渡したことがある。透はあの時と同じ言葉を待っているらしかった。
熾烈なレギュラー争いに踏み出す前に、支えとなるものが要るのだろう。奈緒はそのフレーズを思い出すと、出来るだけ明るく聞こえるように声を張った。
「だいじょうぶ。トオルならできるよ!」
前を向いたまま首だけで振り返った透の横顔は、意外にも落ち着いて見えた。眉間の皺もなければ、不安の色もなく、口元にほんの少しの笑みを浮かべ
「ありがとう。行ってくる」と言い残し、彼は中へと入っていった。
フェンスの中へ入ると同時に、透は違和感を覚えた。見慣れたはずのテニスコートが初めて訪れた場所のように余所余所しく感じる。これも緊張の一種だろう。あれだけ練習してきたのだから大丈夫だと声高に言い聞かせる自分と、格上の選手を相手に勝機はあるのかと不安を煽る自分がいる。
レギュラー決定戦の組み合わせは公平を期する為、くじ引きで決められ、その結果、透の対戦相手は中西に決定した。レギュラーから二人、ノンレギュラーから二人。合計四名の中から上位二名を選出するトーナメント方式を取っているので、ここで一勝を挙げれば念願のレギュラー入りが確定する。
前回、パワー重視の荒木に完敗した透は、正直なところ、同じタイプの中西が苦手であった。どうにか苦手分野を克服しようと滝澤に頼んでトレーニングメニューの見直しから始め、それなりに筋力もつけたが、あれ以来、パワー系の選手とは対戦する機会もなく、自分の力が何処まで通用するのか分からない。
せめて陽一朗が対戦相手であれば、瞬発力に自信のある透にも多少の勝算はあるのだが、くじ引きで選ばれている以上は仕方がない。当たった相手と戦う他ないのである。それに今日こそはレギュラーの座を勝ち取ると、心に決めてきたのだ。苦手なタイプと臆してなどいられない。
不安に傾く気持ちを落ち着かせようと、透は中西のプレースタイルを思い返した。
同じパワー系でも、彼の場合、荒木ほど力強いショットを連続して打つ事はない。どちらかと言えば、パワーショットの使い方が巧みと言うべきか。ここぞのタイミングで打ってくる。まずは、ショットの威力を確かめた上でプランを立てた方が実践に即した策が浮かぶだろう。
余計な不安は抱えず、出来るだけ意識をニュートラルな位置に置いてから、透は中西との試合に臨んだ。
レギュラーの座が懸かっているだけに、対戦相手の中西もいつも以上に硬い表情でサーブの構えに入っている。重いボールを想定して、透はやや後方にポジションを置いた。
予想通り、最初に打ち込まれたサーブはフラット・サーブであった。京極や荒木のサーブに比べて返せない球ではないが、狙ったコースに飛んでいかない。タイミングを合わせて返しているつもりでも、ラケットに当たった瞬間に急激な圧力が掛かり、手首がぐらついてしまうのだ。その甘くなった返球を逃さず、中西が即座にベースラインからパワーショットを叩き込む。
大会で使用するのと同じ速さのショットが飛んでくるという事は、彼は相手が一年生であっても、手加減する気はないようだ。先輩、後輩に関係なく、最初から本気で戦うつもりである。
結局、重いサーブに翻弄された形で第1ゲームを落とした透は、肝心のパワーショットに触れる間もなく、次のゲームの展開を考えなければならなかった。
透のサーブから始まる第2ゲーム。ここを確実にキープしておかなければ、この後の展開が苦しくなる。いつもより高めのトスを上げると、透はその場で飛び上がり、サービスライン深くにジャンピング・サーブを繰り出した。
京極の剛速球を返球する目的で編み出したサーブとあって、さすがの中西も返すのがやっとのようである。透はすかさずリターンを逆方向へ叩き込むと、まずは先輩から1ポイントを奪った。
これで自信をつけた透は、もう一度ジャンピング・サーブで勝負した。しかしながら相手は地区大会、都大会と、大きな舞台で活躍してきた元レギュラーだ。何度も同じ手が通用する訳がない。中西が最初のサーブの時より後ろに構えた時点で気付くべきだった。このジャンピング・サーブには、二つの弱点があることを。
サーブのポジションから飛び上がり、高い打点から打ち下ろすジャンピング・サーブ。確かにボールの威力は格段にアップするが、これには二つの弱点があったのだ。
一つは地上で放つサーブに比べて動作が大きい分、ボールを打ち終えてから次のアクションに移るまでに時間がかかる。そしてもう一つは、空中での不安定な体勢ではコースコントロールが難しい。特に透の場合、体得してから日が浅い為に、まだ完璧に使いこなせていなかった。
そこを鋭く見抜いた中西は、後方に距離を取ることで確実な返球を行い、更にそのコースをストレートに絞ることで、透から甘いボールを誘い出そうとしたのである。
案の定、サーブの着地後に一歩出遅れた透は、中西のサイドに抜けるリターンに追い付けず、かろうじてラケット面を合わせて返すことしか出来なかった。
全身を使ってゆっくりとテイクバックしながら狙いを定める独特のフォームが、余裕をなくした透の目にもハッキリと映る。その直後、逆サイドに弾丸のようなショットが駆け抜けた。
体勢を崩された後で追う間もなく、またも透はパワーショットを見送るだけだった。
「何とか返さなきゃ……」
じりじりと迫り来る焦りの中で、努めて冷静になるよう自分に言い聞かせた。勝負事は、どんな時でも冷静でいられる者が勝つ。初めてのバリュエーションで唐沢から授けられた教訓だ。
「落ち着け、落ち着け」
今、自分の置かれている状況を一つずつ整理してみる。
中西のタイミングよく打ち込まれるパワーショット。つまりそれは、透にとって最も打たれたくないところを狙ったショットである。
「それなら……」
透はもう一度、ジャンピング・サーブで勝負に出た。
今度もリターンは後方からサイドを抜くパターンであった。それを見越した透はストレートで当てて返すに止め、センターへ素早く戻って次のショットに備えた。
テイクバックの構えから見て、ここでパワーショットが来るに違いない。
「クロスだ!」
自らの最も打たれたくないコースを想定し、先手を打って回り込む。そして予想通りの斜めに突き抜けるパワーショットを捕らえると、その重いボールに全身の力を集中させた。
前に押し返そうとしているのに、力がまったく伝わらない。相手のパワーに圧されて、最適の打点で捕らえることが出来ない。ガットの上で生じたわずかな誤差が更なる誤差を生み、透の返球はネットに阻まれ落ちていた。
予想を上回る重圧に、透はただ呆然とするしかなかった。今まで筋力アップに重点を置いて、トレーニングを積んできたにもかかわらず、中西が繰り出すショットの前では相手コートに返す事さえ叶わない。二度、三度と挑戦するものの、透の力では最後のひと押しが足りなかった。
「くそっ!」
言い知れぬ苛立ちと悔しさが、全身を突き抜ける。先輩達の助けを借りて、試行錯誤を繰り返し、練習を積んできたというのに。レギュラーの座を勝ち取る為に、考えられる努力は全てしてきたつもりなのに。前回のバリュエーションから何の進歩も見られない自分に腹が立つ。心の乱れがポイントに比例して、失点が増えていく。
ずるずると開いていく点差になす術なく、透は第2ゲームも失った。
レギュラーの壁は、ここまで厚いものなのか。いくらトレーニング内容を見直し、区営コートで経験を積んだところで、自分にはまだ遠い存在だったのかもしれない。
しかも対戦相手は二年生だ。一年分の練習時間の差、努力の差に加え、大会などで踏んできた場数も違うはず。
次第に弱気になる透に対し、容赦のない攻撃が続く。いま対峙している先輩はチームメイトではなく、レギュラーの座を巡って争う敵であることを、嫌でも思い知らされる。
第3ゲームも取られたところで、透の頭の中では過去のバリュエーションでの敗北が生々しく再現されていた。今回も駄目かもしれない。そう考えると、自身よりも滝澤に対して申し訳なく思った。貴重な時間を割いてトレーニングメニューの見直しに付き合ってくれたのに、何の成果も見せられぬままに試合が終わってしまう。
滝沢が説いて聞かせてくれた螺旋階段の道のりが、とてつもなく遠くに思えた。もしかしたら、自分は手の届きそうにない場所を目指していたのではないだろうか。叶えられぬ願いを、叶うと勘違いしていただけかもしれない。
フェンスの外へ目をやると、滝澤と並んで試合を観戦する唐沢の姿があった。
テクニックがパワーに勝る時もある ―― ふいに都大会で、成田の試合を見ながら唐沢が口にした一言が頭をよぎる。
「テクニックがパワーに勝る。パワーよりテクニックで……」
すうっと霧が晴れた気がした。何か大きなヒントを掴んだ時の感覚だ。
今まで透はパワー系の選手が苦手だと思って、筋力をつけることに重点を置いてきた。そして中西を相手に、パワーショットを同じように打ち返す事に捕らわれていた。
「パワーで勝てなくても、この勝負に勝つ方法は他にもある」
透はラケットを握り直すと、全神経を次のサーブに集中させた。外側のコーナーを狙って、今度はコントロールの利くフラット・サーブで勝負した。
後方で構えていた中西がサイドに沿ったリターンを返したが、それを透は低く伸びていくスライスで返球し、逆方向に揺さぶりをかける。右左と、コートの中をサイドに振られる中西から、序盤のようなショットが出る事はなかった。
やはり思った通りである。透のジャンピング・サーブに弱点があるように、中西のパワーショットにも弱点があった。それは渾身の力を込めて放つショットであるが故に、ボールを打つ前に “力の溜め”が必要となる事だ。従って、その溜めの時間を与えないよう低いボールで左右に揺さぶれば、パワーショットで攻撃される機会は激減する。
パワーで勝てなければ、ショットそのものを封じれば良い。封じるだけのテクニックなら、すでに身につけている。日々の部活動の後に通い続けた区営コート、季崎との対戦、そして散々馬鹿にされながらも京極とも試合を重ね、相手を振り回すぐらいの制球力はついている。
中西を相手に何処まで通じるか分からないが、今はこの方法でポイントを稼いでいくしか道はない。左右にコースを散らして相手を振り回し、ボールが浮いてきたところを最後はトップスピンのかかったショットで逆方向へと仕留める。追い詰められた状況で、ようやく一つの打開策が見つかった。
第4ゲームで透が自身のサービスをキープしたのを見届けてから、滝澤が唐沢に微笑みかけた。
「坊やったら、ようやくお目覚めのようね?」
「大器晩成なのか、追い詰められないと力の発揮できないタイプなのか。まったく、ヒヤヒヤさせられる」
きつい口調とは裏腹に、唐沢の口元もすぐには悟られない程度に緩んでいる。
「へえ……真嶋の奴、ひと皮むけたって感じだな?」
陽一朗の試合を観戦してきた藤原が、二人の会話に加わった。今回は陽一朗がレギュラーに踏み止まったと伝えると、滝澤が
「あら、そう? こっちは、ひょっとしたら、ひょっとするかもよ。ね、海斗?」と意味ありげな含み笑いをし、唐沢も
「ああ、真嶋に賭けるなら今がチャンスだぞ?」と満面の笑みを傾けた。
藤原は迷う事なく「いや」と拒絶の意を示した。何故なら、彼は都大会の控え室ですでに唐沢から借金を背負わされていたからだ。伊東兄弟の集中力アップの為と言いくるめられ、気が付けば一万円もの大金を奪われていた。
「俺のお勧めの穴馬なんだけど?」
コートから片時も目を離さずに語りかける唐沢は、ぞっとするほど機嫌が良い。この笑顔が最も危険である事は、長い付き合いから熟知している。藤原はなるべくレースの話にならないよう気を配りながら、後輩の試合を見守ることにした。
透の相手を左右に揺さぶりパワーショットを封じる作戦は、第5ゲームでも続けられた。
中西のサーブは相変わらず重量感のあるフラット・サーブのようだが、透も徐々にボールの癖を掴みかけているらしく、後方のポジションから球威が落ちたところを捕らえて確実に返している。まだリターンのコースに甘さはあるが、どちらかのサイドに返球するだけでもパワーショットを牽制する役割は充分に果たしている。
加えて透には、元陸上部の藤原も一目置く程の脚力がある。左右にボールを振り分けながらネット前を陣取ると、きつい角度でのボレーで攻めている。
あれは藤原が得意とするネットダッシュを模したものだろう。以前、透と対戦したのは春頃だった。彼はあの時から多くのものを吸収し、己の糧としてきたに違いない。
「あいつ、俺とやった時よりスピードついたんじゃねえか?」
かつて対戦した後輩の成長ぶりに、藤原は驚きを隠せなかった。
「スピードだけじゃないわよ。成長したのは、ね」
選手のデータを管理する滝澤には他にも進歩のあとが見えるのか。物腰の柔らかい彼にしては珍しく、口調が明確だった。
中西のサービスゲームをブレイクした透はスピード重視の戦法で第6ゲームをキープし、ゲームカウントを「3−3」と引き分けにするまで追い上げた。これでようやく先輩と同じ土俵に立てた。
「このままスピードで押し切れば、勝機はある!」
そう確信した矢先であった。中西がおもむろに両手首のリストバンドを外し始めた。いや、あれはリストバンドではない。
「パワーリスト?」
パワーリストとは、腕の筋力を上げる為にサポーターのようにして手首に巻きつける錘(おもり)の事である。
今まで透は中西が本気で戦っていると思っていたが、それはとんでもない誤解であった。ベンチに放り出されたパワーリストの重量感ある鈍い音が、透には暗雲垂れ込める雷鳴の響きに聞こえていた。
軽くなった手首を回しながら、中西がこっちを見据えている。睨み付けていると言っても良い。
ゲームカウント「3−3」で迎えた第7ゲーム。ここからがレギュラーの本気だったのだ。
「もうひと稼ぎしてくる」
それまで上機嫌で試合を観戦していた唐沢が突如としてコートから離れ、足早に去っていった。その表情に例の“悪魔の笑み”は見られない。
「坊やがピンチだって時に、応援するつもりはないのかしら? まったく、海斗が何を考えているのか、時々分からなくなるわ」
滝澤が不満げに眉をひそめているが、それが本心とイコールではない事を藤原は知っている。誰とでも適度な距離感を保って付き合う藤原とは異なり、滝澤は癖のある人間、特に唐沢のような心の内を明かさぬタイプが気になるらしく、時折、息子の行く末を案じる母親の如く、母性本能丸出しでチームメイトの奇行にやきもきしている事がある。
「あいつの頭の中を読むのは、凡人じゃ無理だって」
「そうだけど……。海斗って、あの坊やが来てから明るくなった気がしない?」
「へえ、そうか?」
「何だか、楽しそうにしている時が多いのよ。ギャンブル以外で海斗が笑顔を見せるなんて、今まで無かったわ」
「確かに、面白しれえ奴だよな? 真嶋って」
「そういう意味じゃなくて……もう、良いわ。こういうデリケートな話題は、シンゴには無理だったわね」
込み入った話になりそうな予感がして、あえて藤原は気付かぬ振りをした。助けを求めているなら応じるが、本人が求めてもいないのに、わざわざ他人の腹を探る趣味はない。
周囲から「割り切りが良すぎる」と言われる事も多々あるが、藤原自身、考えても仕方のない事はばっさり切り捨てる主義である。いずれその時が来るかもしれないし、永遠に来ないかもしれない。それが世に言う“縁”ではないかと、思っていた。
「シンゴ先輩、こっちの試合はどうッスか?」
先程まで藤原と共に陽一朗の試合を観戦していた千葉が、部長の成田と連れ立ってやって来た。彼等も陽一朗と同じ結果を予想していたのか、スコアボードの数字を見るや否や、少し驚いた表情を浮かべ、コート上の中西の姿を凝視してから、本格的に驚きの声を上げた。
「あいつ、パワーリスト外していますよ? これって、まさかの展開ですか?」
千葉が問いかけた「まさかの展開」とは、透が中西を本気にさせた驚きの事実を指している。
レギュラー陣は皆、中西に無言のポリシーがある事を知っている。彼はレギュラー決定戦でノンレギュラーが対戦相手の場合、パワーリストを外さずに戦うというハンデを自らに課している。己に厳しくありたいと願う中西の、ポリシーと言うより自戒である。
その中西がパワーリストを外している。予想を超える弟分の奮闘に、千葉は興奮せずにはいられない様子であった。
「いや、まだだ」
「まだって?」
「まだ、本気になっていない」
藤原の脳裏には透と対戦した時の、忘れられない光景が浮かんでいた。意外な反応だと言いたげに、千葉が聞き返す。
「でも、中西はパワーリスト外しているんですよ? 本気も、本気。マジっすよ、あれは!」
「いや、違う。真嶋の方だ」
初めて透と対戦した時、通常なら決着がついたと諦めムードが漂うはずの終盤に、彼はまったく違う表情を見せた。窮地に立たされているにもかかわらず、一発逆転の勝機を虎視眈々と狙う目をしていた。
アスリートが極限まで集中力を高めた際の怖さをよく知る藤原は、明らかなリードを保持していながら最後まで気が抜けなかった。厄介な奴と当たったものだと、一時、後悔もした。だからこそ初心者の一年生を相手に、咄嗟に口上まで使って気を逸らせたのだ。
あの時の、こちらが追い詰められるような感覚を、藤原はまだ覚えている。
「真嶋が、あの目になった時。この試合が面白くなるのは、それからだ」
パワーリストを外した中西を前に立ちすくむ透。果たして彼は自戒を解いた先輩に牙を剥けるのか。あるいは歴然たる力の差に屈服するのか。
藤原は、後輩を追いかける自身の視線が先ほどコートを離れていった唐沢のそれと同種と気付き、思わずその目を細めて微笑んだ。