第43話 勲章

 ゲームカウント「3−3」で引き分けたと同時に、中西の両手首からパワーリストが外された。全力を出しているかに見えた先輩は、自らにハンデを課して戦っていたのである。
 通常なら“互角の勝負”と自信を得るはずの場面で格の違いを見せ付けられた透は、レギュラーへの道のりの遠さに愕然とした。
 試合途中でパワーアップした先輩を相手に、この上、講じる策があるのだろうか。予想を超える事態に広がる不安。その不安を打ち消す間もなく、中西のサーブが透の足元に突っ込んできた。
 スピードも重さも増したサーブは、独特の打球感がある。手枷となっていた重量分がただでさえ重たいボールに上乗せされて、強い衝撃と共に襲い来る。抗おうにも強引に捻じ伏せられてしまう、力の塊のような球である。
 ようやく並んだカウントが、またも「3−4」と開いていく。今まで自分の力を信じて踏ん張ってきたが、そろそろ限界かもしれない。
 頼る者のいないコートの中で、透は自らに問いかけた。
 次のゲームをキープ出来なければ、ますます点差は開き、二度と追い付けなくなるだろう。どうにかして同点に持ち込みたいところだが、攻撃の要のジャンピング・サーブはいとも簡単に攻略された。フラット・サーブからスピードで押し切る作戦も、重みの増したリターンの前ではまともに機能するとは思えない。
 自身のサービスゲームだというのに、攻撃の手立てが浮かばない。いくら状況を冷静に分析できたとしても、打開策を見出せなければ無意味である。
 やはり、ここまでなのか。もう何も打つ手がないのか。空を切るような虚しい問いかけに、押し潰されそうになった時だった。

 「だいじょうぶ。トオルならできるよ」
 レギュラー争いを繰り広げる最中、舞台となるコートにはおよそ似合わぬ柔らかな声が、透の耳元を掠めていった。胸に刻んだ言葉というのは、こうして必要な時に浮かび上がる不思議な力があるのかもしれない。しばらくの間、透は自身の胸に手を当てて、その言葉の持つ温かな響きを噛み締めた。
 テニス部員でもないのに休日を返上して応援に駆けつけてくれた奈緒。彼女はいつも何かしらの方法で透の側にいてくれた。
 初めてのバリュエーションの時も、遥希との対戦を前に不安な気持ちを抱えた時も、屈辱的な負け方をして周囲に八つ当たりをした時も――。いや、もっと前からだ。転校初日に騒ぎを起こし、クラスに馴染めず落ち込んだ時も。今朝だって、試合前で神経が昂る透を気遣いながら、後ろで見守っていてくれた。
 押し付けの親切ではなく、気まぐれな同情心でもなく。倒れそうな時だけ支えてくれる。その心地良い距離感は、自分よりも相手の事を大切に考えるからこそ生まれるものだった。
 「あいつには、今度こそ……」
 胸の鼓動が速くなる。彼女に来て欲しいと願ったのは、無様な敗北を見せる為ではない。今度こそ勝利を報告したいと思ったからである。
 先程までの虚しい問いかけに、抗う力が戻ってきた。まだ諦めない。まだ出来ることがあるはずだ。自分の限界はここではない。
 気持ちを立て直した透は、大きく深呼吸をするとサーブの構えに入った。
 「イチバチだけど……」
 手元のボールをゆっくりとバウンドさせながら、もう一度、胸に刻んだ言葉を繰り返す。
 「大丈夫だ、出来る。大丈夫だ、出来る。俺なら、絶対やれる」
 虚しさに色濃く支配されていたコートが、見慣れた景色に変わる。ネットの向こうの中西も、そこに引かれた白いラインも、鮮明に見えてくる。
 明るくなった視界の中で、透はサービスエリアの外側のライン、ネットよりのコースに狙いを定めた。

 一瞬、中西の表情に焦りの色が見て取れた。それもそのはず。透の放ったサーブは、唐沢が大会で使用するものと同じ、外側に大きく逸れるスライス・サーブであった。しかも前方に落下させる事によって更に大きくカーブする。単なる唐沢の模倣ではなく、対戦相手の中西用に透なりのアレンジを加えたのだ。
 案の定、コートの外側を狙ったサーブは、中西がボールの軌道に追い付くより先にラインの外へと逃げていった。本気のレギュラーから奪い取ったサービス・エース。それは勝利の希望に繋がる貴重なポイントとなった。
 ノンレギュラーの一年生から唐沢並みの鋭いサーブを打たれ、動揺しているのだろう。中西が戸惑い気味にこちらを見つめている。その僅かな焦りを見逃さず、透は反撃に打って出た。
 今までのプレー内容から推測するに、中西はパワーがあるが変化に弱い。特に回転球に対する反応が、いま一つ鈍い気がする。そこを中心に攻めていけば、少なくともこの第8ゲームは死守できる。そう結論づけた透は、積極的にボールに回転をかける策を取った。
 スライス・サーブで相手の体勢を崩してから、トップスピンとスライスを織り交ぜ攻撃を仕掛けていく。コースの打ち分けに加え、ボールの軌道にも高低差を付ける事で、相手に得意なショットを出させるチャンスを与えなかった。
 ゲームが再び振り出しに戻った。ゲームカウントは「4−4」。
 問題はここからだ。
 中西の威力の増したフラット・サーブを、透はまだまともに返球出来ていなかった。だが、ここでブレイクしなければ今後の展開が苦しくなる。
 このレギュラー決定戦は他と比べて競り合っている分だけ試合時間が長く、中身も濃い。おまけに中西のパワーボールを受け続けたせいで、疲労の度合いが尋常ではなかった。
 いっそリターンは両手打ちで対抗しようかとも思ったが、それでは前回の荒木との対戦と同様、透の唯一の武器であるスピードが活かせず、逆に相手にチャンスを与える事になりかねない。

 まずは冷静になって考える。
 第7ゲームから威力の増した中西のサーブ。あれを返しながら、彼のサービスゲームをブレイクする方法はないものか。
 煮詰まった思考に新鮮な空気を送り込もうと、透はコートの外に視線を移した。スコアボードには、自分と中西がそれぞれ獲得したゲーム数が記されている。
 ゲームカウント「4−4」。ずっと不利な立場に立たされていると思っていたが、数字の上では引き分けている。
 もしかして、自分は中西を相手に互角の勝負をしているのか。試合の途中でパワーリストを外され動揺したが、裏を返せば、それは彼をそうせざるを得ない状況にまで追い込んだという事だ。
 フェンスの向こう側では、唐沢が何やら忙しそうに走り回っている。その様子を見ながら、透は「五分と五分の勝負を制するセオリー」を思い返していた。
 「五分と五分の勝負に勝つには……えっと、何だっけ……?」
 都大会の決勝戦で、成田と京極の試合の最中に、唐沢が説いていた。落ち着いて、あの時の話の続きを思い出してみる。
 「自分の持っている能力をより多く引き出した者が勝つ」
 確か、唐沢はそう話していた。
 「俺が持っている能力……足りないパワーを補う為に、俺が出来ること……」
 いつの間にか、透の視界からはスコアボードの数字も唐沢の姿も消えていた。頭の中に必要とする映像が次々と映し出され、アルバムをめくるように流れていく。それは集中力が高まった時に現れる特有の現象であった。
 「あの方法なら……」
 数ある映像の中から一つの記憶を取り出すと、透はベースラインより少し後ろへポジションを取った。


 「ケンタ? 俺が話していたのは、あの目だ」
 フェンスの外で試合の成り行きを見守っていた藤原が、そこから視線を外すことなく千葉に語りかけた。
 「真嶋が、あの目になった時。この試合が面白くなるのは、それからだ」
 勝負師と名高い藤原が、先のゲームでそう言ったきり口を閉ざしていた。彼はその時に言いそびれた“あの目”の意味を伝えているのだろう。
 「今の真嶋に、余計なものは見えていない。その代わり、試合に必要なものだけを見通せる。そういう感覚になっているはずだ。
 やべぇ。俺も真嶋と遣りたくなってきた」
 選手の闘志はコートの外にも感染するのか。藤原が珍しく他人の試合で感情を昂らせている。
 千葉は先輩の指し示す通りに、コートで接戦を繰り広げる後輩に視線を置いた。
 「あれが……確かに本気というか、ヤバイっすね」
 ベースラインでただ一点を見つめる透の眼差しは、今回レギュラーの座を難なくキープした千葉でさえ威圧感を覚える程に、鋭く研ぎ澄まされたものだった。
 すっかり落ち着きを失くした藤原が、大声で唐沢を呼びつける。
 「海斗! 俺も真嶋に千円、いや、一万賭ける!」
 「悪いな、シンゴ。たった今、締めたところだ」
 それまでコートの周辺を忙しく走り回っていた唐沢が、上機嫌で答えた。
 「マジかよ!? いつもより締めんの、早くねえか?」
 藤原は、千葉と共に都大会で唐沢から多額の借金を背負わされている。部内の誰よりも勝負勘の働く彼は"あの目"で戦局を判断し、借金返済のチャンスと踏んだに違いない。
 がっくりと肩を落とす藤原に、唐沢が「ここがディーラーの腕の見せどころ」と言って、慰めにもならない言葉をかける。
 「お前、いつからディーラーになったんだよ?」
 「俺は常にディーラーだ。それ以外、何がある?」
 悲しいことに、これが光陵テニス部の副部長の本心だ。
 「……ってことは、海斗もこの試合、真嶋が勝つと思うのか?」
 「さあね」
 藤原の問いかけに、唐沢がわざとらしいまでに爽やかな笑顔を作って見せた。


 コート上では、透が中西のトスアップのタイミングを慎重に見定めていた。
 「今だ!」
 相手のトスに合わせて、ベースラインの後ろから前方へダッシュをかける。頭の中に映し出される映像は、対・京極戦で見せた成田のリターンのフォームであった。
 低い姿勢を保ちながら、ボールのバウンドと同時にラケットと上半身を素早く回転させる。頭に描いたフォームを体現する為に必要な能力が、向かってくる一球に集結した。
 次の瞬間、ラケットがふっと軽くなるのを感じた。
 「これなら、いける!」
 最適な打点でサーブを捕らえたことを確信した透は、力の波をボールに乗せるようにして狙ったコースへと叩き返した。前方へダッシュする勢いと、体の回転を使って打ち返したリターンは、予想を上回るスピードを携え相手コートを突き抜けていく。
 予期せぬ反撃に中西は必死で追いかけ返球したが、ダッシュの勢いを借りて前へ躍り出た透がその打球をボレーで沈め、ポイントを決めた。
 一段と重みの増した中西のサーブを返したことで、透はようやくトレーニングの成果を実感した。
 滝澤から与えられたトレーニングメニューは実行してからすぐに効果の得られるものではなくて、螺旋階段のごとき遠回りを強いられた。筋力強化を図る為に土台となる体力を鍛え、急激な負荷は故障の元だと言われ、ひたすら地味な反復練習を繰り返した。確かな技術を習得するには相応の筋力が必要で、その筋力をつけるには体力が必要で。連鎖的に必要となる各所の能力を、手を抜かずに磨き続けた結果、それぞれが最適なレベルに達していた為に、今のサーブを返すことが出来たに違いない。
 遠回りをしたからこそ、確固たる実力となって現れた一つの成果。それを透は肌で感じ取っていた

 たった一球で試合の流れが変わる事がある。この理論を越えた不可思議な現象を、透は今のリターンで経験した。先輩達の試合で何度か目にした事はあるが、実際に自分の手で変えて、その手応えまでも実感したのは初めてだ。
 まるで部屋の空気が入れ替わるように、コートに居座っていた重苦しい重圧が外へと逃げていく。そして新たに吹き込まれた軽やかな風は、追い風となって透の背中を押していた。
 ここで中西は、フラット・サーブをスピン・サーブに変えてきた。勢いのあるフラット・サーブで際どい勝負を仕掛けるよりも、いくらか急速の落ちるスピン・サーブで状況を見ながらパワーショットを繰り出す方が、手堅く得点できると判断したのだろう。
 さすがレギュラーとして、数々の大会を潜り抜けてきただけの事はある。攻撃パターンを切り替えるタイミングが絶妙だ。
 対する透は回転の激しいスピン・サーブに一旦は左右に振られるものの、そこは持ち前の脚力ですぐさまセンターへと立ち戻り、不要な隙を作らないよう心掛けた。
 だが、パワーリストを外した中西の打球は、サーブだけでなく通常のショットも威力が増している。しかも彼はインパクトを前に取ることで、予測不能なコースを打ってくる。
 中西の得意とする“見せないコース”を使ったラリーが始まった。これ以上、点差が開かぬように、向こうも必死である。

 試合の終盤で強いられる長いラリーは、透にテニスは瞬発力だけで勝てるスポーツではない事を、明確に伝えてくる。持久力も、忍耐力も、精神力も、それぞれ必要となる。
 疲労が蓄積された状態で、何か一つでも力の出し方を間違えた側が即座に失点する。じわじわと削り取られる体力に思考の大半を奪われながらも、透は相手のフォームから"見せないコース"を見切る為の情報を必死になって探った。
 打点を前に取ることで、打つコースを予測させないフォーム。しかし、必ずどこかに鍵があるはずだ。あの安定したフォームの中に、ボールを打つ方向を示す重要な鍵が。
 肩か、視線か、テイクバックのラケットの角度か。じっくりと観察していく過程で、中西の両足が並行に開く。しかも、その爪先を結んだ延長線は――。
 「そうか!」
 “見せないコース”の攻略法が見えてきた。
 中西はパワーショットを打つ際に、通常よりも広めに足を開いて構えている。右足から左足へ、あるいは左足から右足へ。出来るだけスムーズに体重移動を行う為に、両足は打とうとする方向に沿って開いている。つまりその開いた両足の延長線こそが、彼の狙いを定めたコースに違いない。
 打球のコースを見抜いた透は、素早く後方へと移動した。それと同時に、中西がショットを繰り出した。
 見るからに体重の乗った剛速球が、ネットを越えて突っ込んでくる。透はそのショットの先端を目がけて後方から前へダッシュすると、先程のリターンと同じ要領で上半身を回転させながらボールを押し出した。中西のパワーショットを返す為に、成田のリターンのフォームを応用したのである。
 “見せないコース”を洗い出し、足りないパワーを技術と工夫でカバーした結果、透の返球は逆転の奇跡を生み出した。
 ゲームカウント「4−5」。ついに中西のサービスゲームをブレイクしたのである。

 「あと1ゲーム……」
 透は自分自身に言い聞かせるように呟いた。今までどうにかやり過ごしてきたが、透の肉体はすでに限界に達していた。手足が重い。思うように動かない。戦う意思はあるのに、体が言うことを聞かなくなっている。
 「もう少し……あと1ゲームだけ……」
 疲労を見抜かれぬよう努めて平静を装いながら、第10ゲームのサーブに全身の力を込めてみた。しかし勢いよく伸びていくはずのサーブは球威を失い、サーバーの疲労は誰の目にも明らかとなった。
 「頼むから、動け。動いてくれ……」
 透の願いも空しく、鉛のように重くなった体は反応が鈍かった。
 試合経験豊富な中西がペース配分をしながらゲームを進めていたのに対し、未熟な透は後先を考えずに全力で応戦し続けた。無我夢中で突っ走った結果、ガソリンが切れてしまったのだ。
 スコア上は劣勢とは言え、まだ余力を残す中西がネットを挟んで大きく見える。またしてもレギュラーへの分厚い壁が、透の目の前に立ちはだかった。

 今度こそ限界なのか。再び視界が暗闇に落ちかけた時である。コートの外からフェンス越しに、携帯電話を振りかざす奈緒の姿が目に入った。
 初めは疲労で朦朧とする透には薄いピンクの影しか見えなかった。ところが、いつになく真剣な眼差しにつられて目を凝らして見てみると、そこにはピンクの花が写し出されていた。
 「立ち葵……?」
 ぼんやりとした意識の中に飛び込んできたのは、一番上まで花を咲かせた河原の立ち葵であった。
 長い梅雨の間にひたすら努力をし続け、夏の到来と共に頂上の花が開花する。頭上に栄冠を掲げたようなその姿は、夏の日差しの祝福を受けて、何とも誇らしげに輝いて見える。
 「あいつ等、てっぺんまで咲いたのか……」
 毎日の練習の行き帰りに河原へ立ち寄り、咲き具合を確認していた立ち葵。そこに自らの姿を重ね、闘志を奮い立たせていた。
 目標と定めた場所で花を咲かせる為に、これまで自分は苦しい思いをして螺旋階段を登ってきたのではなかったか。一歩ずつ乗り越えて、もうすぐゴールが見えるはず。もしも辿り着く前に障害があるとすれば、それは自身で己の限界を作る心の弱さである。目の前に立ちはだかる中西は、その限界を超える為のハードルに過ぎない。
 「バカは高いとこが好きなんだよな」
 鉛のように重く感じた腕が、脚が、自然と動き出す。
 体が軽い。意識も軽い。この感覚は、例えて言うなら無重力空間でプレーしているような、ランナーズハイの陶酔感と良く似ている。
 誰にも何にも邪魔されず、向かってくるボールを思いのままに打ち返す。一つひとつポイントを重ねていく中で、透は確かに自覚した。
 「やっぱ、テニスって面白れえじゃん!」

 「ゲームセット……ウォン・バイ……」
 不覚にも透は肝心の「ウォン・バイ」に続く勝者の名前を聞き逃してしまった。最後はボールを追いかけるのに夢中で、どちらが得点したかまでは気にしていなかった。
 しかし目の前で息を切らして項垂れる中西と、その足元に転がるボールから察するに、どうやら自分が勝利したらしい。
 前々からレギュラー決定戦に勝利した暁にはガッツポーズで決めてやろうと、己の晴れ姿を思い描いていたにもかかわらず、実際は自分が勝ったかどうかも定かでなく、ただ周りをキョロキョロと見回している。何とも情けない勝者である。
 「トオル、やったじゃねえか!」
 喜びを露にする千葉の様子から、透は少しずつ自身の勝利に確信を持ち始めた。
 「あの、俺……勝ったんですよね?」
 「ああ、そうだ。お前は本気の中西を相手に、勝っちまったんだぜ!」
 千葉から勝利を告げられた途端、透は全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。
 「俺、勝ったんだ。やっと、やっと、勝てたぁ……」
 体の疲労とは裏腹に、腹の底からじんわりとした喜びが満ちてきた。それは想像していたような心震えるものではなく、とても静かな達成感に近い感覚だった。

 兄貴分の千葉に加えて、もう一人、その勝利を大喜びしている人物がいた。
 「真嶋、ありがとう! 最高のレース展開だ」
 振り返ると、とびっきりの笑みを湛える唐沢が立っていた。
 「唐沢先輩、ありがとうございました。俺、試合中に何度も先輩の教えに助けられて……」
 途中まで言いかけて、透は唐沢の発言に違和感を覚えた。
 「えっ? なんで、『ありがとう』? 『レース展開』って……?」
 心の底から感謝したのは事実である。この勝利は、唐沢が今まで与えてくれたアドバイスの集大成と言っても良い。しかし、この感謝の気持ちが急速に冷まされる冷却感は何だろう。
 「いやぁ、四月からコツコツ仕掛けた甲斐があったよ。今までのレースで味を占めた連中が、全員、中西に賭けてきたからさ。特に、あのパワーリストを外した後の第7ゲームが効いたよな? シンゴと滝澤以外、全員、中西が勝つと思ったんじゃないか?
 おかげで、ほら! 俺と真嶋の二人勝ち! 倍率八十の大勝利。もう、お前、最高の穴馬だ!」
 「唐沢先輩? もしかして、先輩が喜んでくれているのって?」
 またしても、透は唐沢の頭の中がギャンブル一色である事実を見落としていた。しかも間抜けなことに、感謝の言葉まで述べてしまった。
 「レースの話に決まってんだろ。お前の借金も九千五百円になったんだ。もっと喜べよ」
 疲労で思考力が著しく低下していたが、それでも何か違うような気がした。テニス部ほぼ全員をカモにして倍率八十で勝利したのに、借金が二万円しか返済出来ないとは、どういう事なのか。
 「唐沢先輩? その計算、間違っていませんか?」
 「いいや」
 「じゃあ、なんで俺の借金がまだ残っているんですか?」
 「あのな、今までの俺の手間賃ってものがあるんだよ。この大一番で儲ける為に、どれだけの労力を注ぎ込んだと思ってんだ」
 「どれだけと言われても……」
 当然このレース自体、透が望んだことではない。勝手に陥れられた罠だった。しかしそんな異論も、札束を手にした唐沢の前では牽制球にもなりはしない。
 「やっぱり、ストーリー性のあるレースは感動するな。
 そうだ! 今日の働きに免じて、これからお前のこと『真嶋』って呼んでやる。『ウ吉』返上な」
 透は聞かなければ良かったと、後悔した。嬉々として後輩の勝利を称える唐沢の姿が、逆に勝利の喜びを虚しさへと変えていく。この状態を世間では「興醒め」という。
 やはり唐沢に先輩のあるべき姿を一瞬でも期待した自分が愚かであった。彼の頭の中にあるのはギャンブルだけだという事を、しっかりと肝に銘じておかなければならない。

 「真嶋、休んでいる暇はない」
 疲労とショックの両方で座り込んだままの透の前に、成田が紙袋を差し出した。
 「午後にはレギュラー同士の査定試合がある。今のうちにしっかりコンディションを整えておけ。
 それから、これを渡しておく」
 「これ……俺の……?」
 成田から渡された袋の中には、光陵テニス部のレギュラーだけが着用を許される試合用のユニフォームが入っていた。ジャージの上下とゲームシャツとパンツがそれぞれ二組。これを手にする為に、今まで辛いトレーニングを重ねてきた。
 胸の奥から一度は冷めたはずの歓喜が湧き起こる。ようやく自分にも先輩達と同じ舞台で戦う権利が与えられたのだ。もう見ているだけのテニス部員ではない。
 「部長、ありがとうございました。今の試合に勝てたのは、部長のプレーも参考にさせてもらったおかげです」
 深々と頭を下げる透に対し、成田が事務的な口調で応じた。
 「いや、真嶋が対戦相手よりも努力した。勝因はそれだけだ」
 愛想とは無縁の成田らしい答えだが、トレーニングの成果が出せなくて長くもがき続けてきた透には、とても重みのある言葉であった。今の強さを身につける為に、努力を怠らなかった成田だからこそ断言できる。努力なくして、レギュラーの座を掴んだ者はいない。
 改めて尊敬の念を持って見つめる透に向かって、硬い表情を崩すことなく成田が続けた。
 「このレギュラージャージは、真嶋の努力の勲章だ。そのことを忘れるな」






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