第44話 暗雲

 昼間の暑さが嘘のように、夕暮れ時の河原はひんやりとした風が吹き抜け、夏の制服では寒いぐらいの気温であった。しかし、その寒さを気にする事なく、透はひたすら喋り続けている。レギュラー決定戦で勝利を掴んだ時の興奮が、まだ体内に熱となって残っているのだろう。
 「中西先輩がパワーリストを外した時は、マジで焦った。けど、奈緒の『だいじょうぶ』ってヤツを思い出したら、急に気合が入ったんだよな」
 無論、試合の経緯は奈緒もその場にいたので分かっているのだが、透は自身の言葉で伝えたい事があるらしく、中西との一戦を熱心に語っている。
 校門を出てから二人の通学路の分岐点となる河原の大橋までは、ゆっくり歩いて二十分。その間ずっと、かなりのハイペースで飛ばしたにもかかわらず、10ゲームにも及ぶ熱戦は前半の見せ場で終了を余儀なくされ、ゲームセットまで再現する気でいた彼はとうとう通学ルートを外れて、橋のたもとで続きを話しているのである。
 「そんで、もう限界だと思った時に、こいつが見えたんだ。俺が最後の最後で踏ん張れたのは、奈緒とこいつ等のおかげなんだ」
 土手に沿って群をなす立ち葵の花々を指差して、透が屈託のない笑顔を向ける。感謝に満ちた純粋な笑みに応じなければと思いつつ、奈緒はつと視線を逸らした。
 透はよく平気な顔で話せるものだ、と感心する。試合後の“あの騒ぎ”を、彼は何とも思っていないのか。

 それはバリュエーションの終了後、親友の塔子のちょっとした親切心から始まった。
 休日返上で応援しに来た奈緒の為に、塔子が気を利かせて ――表向きはレギュラー昇格の記念という事で―― ユニフォームを羽織った透とのツーショットを写真に収めようとカメラを構えたまでは良かったが、その現場を嗅覚鋭い先輩達に嗅ぎつけられて、せっかくの記念撮影が悪ガキ供の悪ふざけの場と化したのだ。
 女子同士のじゃれ合いとは異なり、男子の冷やかし方は露骨でいやらしい。試合後の興奮も手伝って、いつも以上に暴走する部員達をかわしながら、奈緒はやっとの事で奇跡の一枚を手に入れた。
 だが、それが不本意な出来である事は、現物を見る前から察しはついていた。恥ずかしさのあまり奈緒は赤い顔で俯き、透はムッとした顔でそっぽを向いていた。
 ツーショットと呼ぶにはあまりに他人行儀な記念写真。二人とも笑顔でいる訳でもなく、同じ方向を向くでもなく。せめて友達程度には並んで写りたいと思っていたのに、皆に冷やかされたせいで不自然なほど離れている。
 親友の好意を無駄にしてしまった罪悪感と、距離のあるツーショットの後悔と、何より冷やかされた後の恥ずかしさで、奈緒は透の顔をいまだ直視できずにいる。

 「ホントありがとな。俺、奈緒が見ていてくれると、何か勝てる気がするんだよなぁ。
 ほら、あれだ。勝利の女神ってヤツ? 今日の試合も、奈緒のおかげで勝てたようなもんだから!」
 心の動きまでもが見て取れるストレートな台詞に、奈緒の頬が過敏に反応する。河原を吹き抜ける風がやけに冷たく感じるのも、その所為だ。きっと頬だけでなく、首筋の辺りまで赤くなっているに違いない。
 顔面の高潮を悟られまいと俯く奈緒の傍らで、透が更に赤面するようなことを言い出した。
 「奈緒がマネージャーだったら、連戦連勝間違いないんだけどな。お前さ、テニス部のマネージャーやってくんねえか?」
 「でも、塔子がいるし……」
 「いや、あいつは俺に対して、何か敵意を持っている気がする。シンゴ先輩と比べると、露骨に扱いが違うんだぜ」
 こういう発言を聞くたびに、奈緒は自身の恋が望み薄であることを痛感する。
 塔子が藤原を特別扱いするのは、好意を持っているからに他ならない。部外者の奈緒でさえピンと来るのだ。テニス部内で気付かぬ者はいないだろう。こっそり撮ろうとしたツーショット写真にも目敏く群がる彼等が、こんな分かり易い事実を見逃すはずはない。
 それでも透は「自分に敵意を向けている」と取るのだから、鈍感としか言いようがない。

 「夏休みに長野で合宿があってさ。先輩の話だと結構きついって。怪談より怖い滝澤先輩の『地獄の特訓メニュー』ってのがあるみたいで……。奈緒がマネージャーだったら、頑張れると思うんだけどなあ」
 透の表情は忙しい。今の今まで「扱いが違う」と口を尖らせ拗ねていたかと思えば、今度は弟のように甘えた声でこちらの反応をうかがっている。試合中に見せた鋭い視線も、コートの中での限定仕様なのか。隣にいる彼はいつものヤンチャ坊主であった。
 その変化につられて、つい奈緒も赤みの残る頬を上げてしまう。
 「ハワイだったら、付いていくのに」
 「ハワイ? 長野じゃ駄目か?」
 「長野は、ちょっと違うかな」
 「なんで?」
 気のせいか、透がムッとしたように見えた。
 「だって……」
 「だって、何? なんでハワイは良くて、長野じゃ駄目なんだ?」
 冗談で済ますつもりが、彼の真剣な眼差しがそれを許さなかった。自分は何か彼を怒らせるような物言いをしたのだろうか。琥珀色の瞳が、機嫌を損ねた時にだけ見せる陰りを映している。
 「本場のハワイアンジュエリーを見てみたいなって、思ったの。ごめんね。冗談のつもりで言ったんだけど」
 「ハワイアン……何だって?」
 おずおずと返した答えに、彼の瞳から陰りが消える。
 「ハワイアンジュエリー。ハイビスカスとか、プルメリアとか、南国の花をモチーフにしたアクセサリーの事だよ。デザインがすごく凝っていて、アクセっていうより彫刻品みたいなの」
 手芸部で簡易ながらも彫金を手がける奈緒は、世界各国のジュエリーとその歴史にも興味を持っていた。特にハワイアンジュエリーは彼女の感性を刺激するデザインが多く、機会があれば本物を見てみたいと前々から思っていた。
 「そうか、良かった」
 「良かった?」
 奈緒の問いかけに、今度は透が視線を逸らす。
 「さっき、塔子が『あんな山奥に行きたくない』って、文句言ってたから。お前もそうなのかなって……」
 透がこだわっていたのは、「何故、ハワイに行きたいか」ではなく、「何故、長野に行きたくないか」だったのだ。テニス部の合宿場所となる長野も、彼の育った岐阜の山奥とよく似た環境で、それを塔子に頭から否定されてショックを受けたに違いない。

 最近になって気付いた事だが、透には思わぬところに急所とも言うべき脆さがある。育ってきた環境のせいで都会の人間より逞しく見えるし、実際、「少しは用心しろ」と言いたくなるほど物怖じしない性格だ。だが、彼の大切にしている人や物や場所 ―― 麻の鞄であるとか、小学校時代の仲間であるとか、思い出の類に関しては、人より繊細な一面を持っている。
 彼がそうなる理由は分からない。父親の転勤で、突然、仲間と引き離された事がトラウマと化しているのか。あるいは、岐阜での思い出が今の彼を支える基層となっているからなのか。
 ただ一つだけハッキリしている事は、彼は望めば手に入るものと、そうでないものとがある事を知っている。楽しかった岐阜での生活は、気心知れた仲間達との触れ合いは、彼の手の届かないところへ追いやられてしまった。もう触れることの出来ないものだから、せめて心の中では思い出のままに留めておきたいと願っているのだろう。
 試合の話をしていた時とは打って変わって、透が抑揚のない声で呟いた。
 「俺さ、本当はこの街が嫌いだった。風の匂いがしないから」
 「風の匂い?」
 「上手く言えないけど、変わる時に匂いがするんだ。季節とか、時間とか、天気とか。
 岐阜ではいつも感じていたのに、この街には匂いがない。
 河は大きいけど汚くて、人も大勢いるのに無関心で。空も緑も、偽物の色しか見えない。そんな街が嫌だった」
 奈緒が心癒される通学途中の自然達も、透にとっては汚れた都会の片鱗としか映らない。風の匂いが想像できない自分に、胸が痛む。
 「だけど、奈緒のおかげで好きになれた」
 透が納得したように微笑んでから、遠くの空に目を向けた。
 河原に横たわるオレンジ色の空には薄い雲が張り付く以外、障害物は何もない。このまま目を凝らしていると空の続きが見えそうで、奈緒はまた胸が痛くなった。
 彼は時々こうして遠くの空を眺め、思いを馳せているのかもしれない。今度いつ会えるとも分からない人達に。懐かしい山々に。
 「あの時、奈緒が言ってくれたから。あの一言がなかったら、俺は誰にも心を開かないで、ずっと独りのままだった」
 透の言う「あの時」とは、転校初日を指しているのだろう。クラスメートから田舎者の常識が都会では通用しないと指摘され、すっかり落ち込んでいる透を見兼ねて、咄嗟に奈緒が声をかけたのだ。
 「お互い知ろうとすれば、必ず分かり合える時がくる」と。
 あの時の事は、よく覚えている。何故なら、奈緒も透のおかげで勇気が持てたのだ。
 大した手間もかけなかった弁当の肉だんごを「美味い」と頬張り、何の躊躇いもなく「もう友達じゃねえか」と笑いかけてきた。内向的な性格のせいで友達もろくに作れないと悩んでいた奈緒は、ありのままの自分を受け入れてもらえた喜びに胸を躍らせた。但し、その時の胸の鼓動は恋愛感情によるところが大きいと、後から気付いたが。

 「私もね、本当は自分のことが好きじゃなかった。要領悪いし、鈍臭いし、臆病だし。
 だけどトオルといると、このままの私でも良いのかなって、思えてくるの」
 「お前、そんなこと気にしていたのか? バカだなあ。
 短所は長所って、言うだろ? 要領が悪いのは真面目な証拠だし、鈍臭いのは丁寧、臆病は慎重。全部、長所になるんだぜ」
 「そうかな……?」
 「それに自覚がないだけで、お前は大した奴だ。弁当は美味いし、俺の鞄も甦らせてくれたし。居心地良いんだよな、お前といると」
 「良く分からないけど、トオルにそう言ってもらえると、自信が持てるよ」
 「あったりまえだ。でなきゃ、俺だって……」

 自身が言いかけた言葉に、透は絶句した。今、自分は何を言おうとしたのだろう。
 ここは、のんびりと空を眺めている場合ではない。遠くの空へと投げかけていた視線を隣に座る彼女に移し、もう一度考える。
 コートの上では冷静に状況判断が出来たはずなのに、なぜか答えを出すのに時間を要した。基本的に透は頭に浮かんだ内容が舌と直結するタイプだが、今回に限っては簡単に口にしてはいけないと、何処かで何かが訴えた。
 動揺を抱えながらも、消えかかった記憶を呼び戻してみる。
 「でなきゃ、俺だって」の後に続くのは、こんなに好きになっていない、と言おうとしたのではないか。
 今更ながら、「好き」の意味を考える。つまりは好意を寄せているという事だ。
 もしかして、これが噂に聞く“恋”なのか。クラスメートや先輩達がよく騒ぎ立てている「惚れた、腫れた」の恋なのか。
 自分で導き出した答えが衝撃的で、透は絶句したままだった。この期に及んで、しつこく確認を入れてみる。
 「俺は奈緒が好きなのか?」
 試合中とはまったく違う原因不明の動揺が心を揺さぶり、混乱状態に陥った頭の中に、これまでうやむやにしてきた数々の疑問が浮かび上がる。
 奈緒の作る肉団子がやたらと美味いと感じるのは、彼女に試合を応援してもらえると実力以上の成果が出せるのは、季崎が彼女にちょっかいを出した時、理性を失うほど腹が立ったのは――。
 今まで心に引っかかっていた小さな疑問が、たった一つの公式を当てはめる事で見事に解けていく。
 「俺、こいつに惚れてんだ!」

 頭に描いた事をすぐに口にしないと気の済まない透だが、さすがに今回は思い止まった。せっかくの大発見だと言うのに、何故か口に出すのが躊躇われる。こんな風に感じること自体、初めての経験だ。
 言いたいのに、言えない。もどかしい気持ち。苛立ちなのか、焦りなのかは分からないが、心の揺れがますます激しくなる。謎が解けたにもかかわらず、頭の中が混乱していて、どうにも落ち着かない。
 これまで出会ったことのない感情を、透は完全に持て余していた。自分のことなのに、自分自身が分からない。
 いっそのこと、彼女に気持ちを打ち明けてしまった方がスッキリするかもしれない。心に時限爆弾を抱えたような動揺も、告白と共に吐き出せそうな気がする。
 この手の悩みに慣れていない透は、早速、実行に移すことにした。
 「なあ、奈緒? 俺さ……」
 彼女に向き直って気持ちを伝えようとした、その時。河原の向こう岸でランニングをする見知った顔が目に入った。今日のレギュラー決定戦で透に敗れ、レギュラーから外れた中西だ。
 己の体に鞭打つように黙々と走り続ける姿に、前回のバリュエーションで敗北した後の自分の姿が重なった。今日の敗因を探り、欠点を見つめ直し、彼はすでに次の試合に向けての準備を始めている。今回はたまたま勝つことが出来たが、次は自分が彼の立場になるかもしれない。
 「トオル……?」
 話の途中で口を閉ざした透を、奈緒が不思議そうに見つめている。
 「あのさ、次のバリュエーションも見に来てくれないか? 今度こそ、ハルキを倒すから」
 透は自覚したばかりの恋心を、一旦、記憶の奥深くに封印した。一時的にレギュラーになれたからと言って、浮かれている場合ではない。自分にはまだ遥希を倒すという大きな目標が残っている。
 自ら定めた目標を達成してからでないと、男として彼女に告白する資格がないように思えた。頭を渦巻く原因不明の動揺が、固い決意に変わる。次回のバリュエーションで遥希を倒す事が出来たら、その時は必ず気持ちを伝えよう。彼女に相応しい男になってから、好きだと伝えよう。
 ありきたりな日常がこの先もずっと続くと信じていた透にとっては、それはごく自然な選択だった。


 バリュエーションの報告をまとめ終えた成田は、部員達がたむろしているテニス部の部室へ立ち寄った。
 試合後の興奮冷めやらぬ部員の中から、ある一人の人物に声をかける。彼が父親絡みの理由でそうされる事を毛嫌いするのは分かっていたが、昼間の出来事が気になって、確かめずにはいられなかった。
 朝にめっぽう弱いコーチの日高がテニス部に顔を出したのは、いつもと変わらず、バリュエーションの中休みが終わる直前だった。
 「今回は陽一が残留、中西が敗退、真嶋がノンレギュラーから入りました」
 成田から午前中の報告を受けた途端、日高のいかつい顔が更にいかつくなった。
 「トオルがレギュラー入りしたのか? 思ったよりも早かったな」
 「何か、問題でも?」
 部を預かる部長としては、当然の質問であった。新入部員の快挙に部内は祭りのような盛り上がりを見せている。それなのに、なぜ日高は険しい顔をしているのか。
 「いや、何でもない。ここからは、俺等の問題だ」
 「俺等……?」
 成田の問いには答えず、そそくさと査定に向かったところ見ると、彼はこれ以上、腹を探られたくないのだろう。ふてぶてしさと威厳が紙一重の男にしては、珍しい行動だ。
 いつもの日高なら、予想以上の成果を見せた部員に対して「頼もしい」と目を細める事はあっても、「早かった」と眉をひそめる事はない。しかも質問を避けるようにして出て行ったとなると、ますます怪しい。

 成田に呼び止められて、遥希が振り返った。
 「なんッスか、部長?」
 「お前、コーチから……」
 途中まで言いかけて、成田は思い直した。
 「いや、なんでもない。忘れてくれ」
 つまらないことを聞こうとしたと、自身を恥じた。三年間の部活動を通して、日高の性格は熟知している。彼は大抵においてルーズに見えるが、軽々しく部の内情を明かすような人間ではない。特にテニスに関しては、シビアなポリシーを持っている。たとえ自分の息子であっても、部長にも出来ない話を漏らす事はしないだろう。
 息子の遥希を呼び止めた事を後悔しながら、何故か成田は胸騒ぎを覚えた。
 光陵学園周辺は都心に程近い住宅街とあってフィットネスクラブを始めとするスポーツ施設業の激戦区で、中でもテニススクールの軒数は大小合わせて二桁に上る。おかげで現在在籍しているテニス部員は、入部前からテニスの基礎を身につけた者がほとんどだ。
 そんなレベルの高い部内で、入部して初めてテニスを覚えた一年生が、他の部員を押しのけ短期間でレギュラーの座を勝ち取った。これからの光陵テニス部を担う逸材として成田自身も期待を寄せているだけに、日高の発言が気にかかる。
 「思ったよりも早かったな」
 確かにそうだが、憂うことではないはずだ。
 「俺等」が誰を指すのか。何が問題なのか。
 自分の思い過ごしであってくれれば良いが――。
 嫌な予感を胸にしまうと、成田は部室を後にした。


 奈緒を家まで送り届けた後、透は区営コートで汗を流してから自宅へ戻った。
 家の門の前には、見たことのある車が一台停まっていた。派手な赤の流線型の平たいボディは、一目でコーチの日高の車だと分かる。
 父・龍之介の親友でもある日高は、しょっちゅう透の家に転がり込んでくる。しかし大抵は父親共々酔っ払って正体が分からなくなる頃で、それは深夜から明け方が多かった。
 車を運転してきたという事は、今日は素面らしい。時間的に考えて、バリュエーション後の残務処理を終えてから、ふらりと立ち寄ったといったところか。
 こんな時間に珍しいと思いつつ透が玄関に入ると、凄みある怒鳴り声が聞こえてきた。
 「本当にどうにもならんのか!? お前、後ろから刺されても文句は言えんぞ」
 穏やかならぬ日高の怒声に、龍之介が気の抜けたような低い声で答えている。
 「自分の息子に刺されて死ねりゃ、本望だ」
 「本気で言っているのか?」
 「半端な覚悟で、あいつを光陵に入れた訳じゃない」
 「玄ちゃん、龍ちゃん……」
 何事かと慌ててリビングに入ってきた透に気付き、母親が二人を制した。怒りで強張った日高の顔が、透を認めるなり情けなく歪んだように見えた。それに反して龍之介は、普段と変わらぬ様子である。

 「トオル、すまん!」
 透が事情を聞こうと口を開きかけたのと、まるで心当たりのない謝罪は同時であった。二人が揉めていた事と何か関係があるのかと思い、声のするほうを振り返ったが、唐突な謝罪を残したまま日高は家から出ていった。
 親父連中が酔っ払って声を荒らげるのは毎度の事で、とりたてて驚きはしなかった。それは透と遥希の痴話喧嘩と同じで、コミュニケーションの一種だと解釈している。だが今の会話から、一つだけハッキリさせておきたい事があった。
 「親父? 何か、俺に刺されるような事でもしたのかよ?」
 龍之介ならやりかねないと確信した上での質問であったが、当の本人は何処吹く風で、さっさと自分用の焼酎のボトルとグラスを用意している。
 「ものの例えだ。あいつは昔から大げさだから」
 「本当に、俺に隠し事してねえだろうな?」
 「てめえに隠し事したって、何の得にもならんだろうが?」
 「それなら良いけど。親父もさ、いくら学生時代からの付き合いだからって、良い歳こいてガキみたいな喧嘩するなよな?」
 息子なりに父親の子供染みた言動を諭しているつもりであった。無論、この時の喧嘩の火種が数日後の自分に大きく関わってくるとは、夢にも思わない。
 かくして透は運命の朝を迎える事となる。






 BACK  NEXT