第45話 選べない選択肢
それは、いきなり深い落とし穴に突き落とされたような、一瞬にして目の前を真っ暗にする出来事であった。今朝、透がテニス部恒例の夏合宿に向けて具体的なスケジュールを母親に伝えようとした時だ。
「八月にテニス部の合宿があるんだけどさ……」
「あら、トオル? 八月は、もういないわよ」
初めは、両親が旅行に出かける話でもしているのかと思っていた。
「別にいなくても良いよ。俺だって合宿でいないんだし」
「あら、やだ! 龍ちゃんから聞いてない?」
「えっ……何を?」
自分で聞いておきながら、透は返事が返ってこなければ良いと願った。「龍ちゃんから聞いてない?」の問いかけで始まる会話は、百パーセントろくな展開にならない。
岐阜から東京に転校させられた時も、そうだった。地元の中学校の入学式が終わり、ようやくクラスメートの顔と名前が一致した頃、今の台詞に続き「東京へ行くのよ、私達!」と告げられた。
「アメリカへ行くのよ、私達!」
あの時と同じ話の流れ、同じ口調。
「アメリカ? 私達?」
「そうよ。龍ちゃんと、私と、トオル!」
ひたひたと迫りくる嫌な予感から目を背け、透はあくまでも“旅行”として話を進めた。
「俺は無理だって。合宿は全員参加が基本だし、レギュラーがサボる訳にはいかねえよ」
「あら、こっちも無理よぉ。龍ちゃんが『ガキ一人を日本に残しておくのは面倒だから、連れていく』って言ってたわ」
「残すっつったって、どうせ一週間かそこらだろ?」
「そんな事ないわよ。今度は大学教授のお仕事だもの。もっと長く住めるわよ」
聞き違いでなければ、今、母親は「住める」と言ったようだ。だが、日頃から物事を深く考えずに行動する彼女の事だ。失言の可能性も捨て切れない。
「いま、何て?」
「今度は長く住めるのよ」
心の中で「落ち着け、落ち着け」と自らを律し、再度、母親に問いただす。
「もしかして……アンタ等、旅行じゃなくて、アメリカに住もうとしているのか?」
思わず自分の親を「アンタ等」と呼んでいた。自身の都合だけで家族を振り回す父親と、その父に何の疑いもなく付いていく母親と。この最低な両親に対する適切な評価として、尊敬の念など欠片もない、むしろ若干侮蔑のこもった呼び名を選択したのである。
しかしながら能天気な母親は息子の精一杯の非難もそれとは気付かぬようで、茶目っ気たっぷりの笑顔で恐ろしい現実を口にした。
「『アンタ等』じゃなくて、『俺達』よ。トオルも一緒に住むのよ、アメリカに!」
スローモーションで気が遠くなるという珍しい現象を、この時、透は生まれて初めて体験した。ゆっくりと薄らいでいく意識は、驚きのあまり停止しかけた思考が健気にもこの無茶苦茶な話題をどこかへ葬り去ろうと、記憶中枢に働きかけているからに違いない。
自己防衛というヤツか。要するに、聞かなかった事にしようとしている。これからの運命を考えれば、当然の反応だ。
旅行でこそ海外と聞いて喜ぶ人間も多いだろうが、居住となると話は別だ。まして、ようやくこの街に自分の居場所を見つけた息子にとって、迷惑以外の何物でもない。
「今度はアメリカって……嘘だろ!?」
アメリカは外国。外国は遠い。中学一年生の透が持ちうる知識を総動員しても、アメリカについて考えつくのはこれだけだ。
悪い夢でも見ているようだ。自分が置かれた状況をどこから整理すれば良いのか、見当もつかない。
激しい混乱の中で唯一鮮明に浮かび上がってくるのは、龍之介に対する怒りである。これだけは現実のものとして、ハッキリと認識することが出来た。
またしても父は勝手に住処を変えようとしている。やっとの思いでレギュラーの座を掴んだというのに。試合に出る間もなく引っ越すなど、理不尽にも程がある。しかも今回は、どのくらい遠いかも分からない異国の地・アメリカだ。
「あのクソ親父、どこ行った?」
今日という今日は、どんな手を使ってでも息の根を止めてやる。本気の殺意が芽生えるほど、透の父親に対する怒りは抑えられなくなっていた。
家族に何の相談もなく、唐突な転勤を繰り返す父。妻や息子は自分の付属品とでも思っているのか。父が意思決定する基準の中に家族に対する配慮を感じた事など一度もない。
今まで積み重なった恨みつらみが、どす黒い塊となって両方の拳に流れ込んでくる。ところが次の母親の一言で、その拳は行き場を失くした。
「龍ちゃんなら、もう日本にいないわよ」
「な、何だって!?」
「大学の準備があるから、先に出発しちゃったのよ。それで、私も今日から行こうかと思うんだけど……」
相変わらず母親は肝が据わっている。息子の殺意も、旦那の暴挙も、許容範囲ということか。全身をワナワナと震わせる息子に対し、彼女は日常会話と変わらぬ態度で話を進めている。
「今日からって、俺はどうなるんだよ!? パスポートも持ってねえし、学校だって手続きがあるだろう?」
「トオルは渡航準備が出来るまで、玄ちゃんの所で預かってもらえるようにお願いしてあるわ」
母親の言う『玄ちゃん』とは、テニス部コーチの日高のことである。
「なら、あのおっさんも知っていたって事だよな? 俺より先に!」
日高の家に下宿すると聞いて、透は先日の龍之介とのやり取りを思い出した。
数日前のオヤジ二人の口論は、これが原因だ。日高が声を荒らげていたのも、あの気まずい空気も、全てはこのアメリカ行きが絡んでいたのだ。
「あのおっさん! なんで、こんな大事な話、俺に黙っていたんだよ!」
新たな怒りにせっつかれるようにして、透は家を飛び出した。走りながら、岐阜でもこんな風に走らされた記憶が甦ってきた。
あの時も、突然「三日後に東京へ引っ越す」と言われ、大慌てで入学したばかりの中学校に連絡を入れて、唖然とする教職員達を説得し、転校の手続きを取ったのだ。そして短い準備期間で荷物をまとめる合間に小学校時代の友達と連絡を取り、時間がないからと一方的に別れを伝えて回った。何十件にも及ぶ挨拶のせいで、最後のほうに回った友達とは台詞の棒読みのような「さよなら」になった記憶がある。
それでも勘太を始めとする親しい仲間達は透の為に鞄を作り、餞別代りに持たせてくれた。「また会えるよね」と、涙を堪えながら。ほんの三ヶ月前の出来事だ。
学校へ向かう途中の河原で、子供達が上まで咲きそろった立ち葵の花を夢中で摘み取る姿が見えた。無邪気な彼等の遊びは、今の透にはひどく残酷な行為に映る。
やっと頂上まで花を咲かせたというのに、小さな手によって引きちぎられた花片が河原のあちらこちらに散乱している。すぐにでも止めさせたかったが、今は悪意のない子供達よりも汚い大人をぶん殴る方が先だった。
アメリカ行きを事前に聞かされていたにもかかわらず、知らん顔を通したコーチの日高。思えば、彼には不審な行動がいくつかあった。
透が全国大会など、先を見据えて話をするたびに、上手い具合にはぐらかされた。先日のバリュエーションで先輩達が「快挙」と喜んでくれたレギュラー入りも、彼だけは何のコメントもなく、目を合わせようともしなかった。
テニス部に入部して日の浅い透は、日高の人となりを良く知らない。不審に思える点も彼の人柄だと流していたが、これで全てが繋がった。彼も共犯だったのだ。
「なんでだよ、ちくしょう!」
今では見慣れてしまった光陵学園の校門をくぐると、透はテニス部の部室へ直行した。
部室に入るなり、透はその場にいたテニス部員に日高の所在を確認した。
日高は通常、バリュエーションと大会以外は高等部の指導の為に、中等部とは別棟の体育教官準備室に待機していることが多い。その話を聞いて、再び透が高等部の校舎に向かって駆け出そうした時だ。背後から、誰かに腕を掴まれた。
「ちょっと、待った!」
「何だよ、放せよ! あのクソ爺も共犯なんだ!」
怒りに任せて振り払おうとしたが、逆に逞しい腕によって後ろへ引き戻される。
「落ち着け、トオル! 一体どうした?」
「ケガしたくなかったら、手を放せ! あの野郎を一発ぶん殴らなきゃ、俺の気持ちが収まらない」
「それじゃあ、尚更、放す訳にはいかねえな」
「だったら、力ずくで行かせてもらう!」
透は強行突破が叶わぬと分かると、振り向きざまに捕まれたのとは反対の腕で行く手を阻む相手に殴りかかった。
「お前がコーチをぶん殴って解決する問題なのか?」
声の主は、先輩の千葉であった。透の様子がおかしいと気付き、部室から後を追ってきたのだろう。
家から握り続けた拳が、千葉の目の前まで来てようやく解かれた。
「ケンタ先輩……」
我に返った透は、素直に自分の非礼を詫びた。
「すみません。俺、頭ん中グチャグチャで、ケンタ先輩だとは思わなくて……」
「そんなの、見りゃ分かる。それより何があった?」
「俺、あの……俺……」
拳の理由を代弁してくれる上手い言葉が浮かばない。浮かばないと言うよりも、言葉にしたくはなかった。
「今度はアメリカへ転校することになりました」
これを口にした途端、「転校」の二文字が現実となるようで、透は話が出来なかった。まだ認めたくない。こんな理不尽な現実を受け入れられる訳がない。
口ごもる後輩の気持ちを察して、千葉が穏やかに語りかけた。
「ゆっくりで良いから、話せるところから話してみろ」
心開ける先輩の前で冷静さを取り戻した透は、思いつくままに事の次第を話し始めた。
「親父がアメリカに……ガキを残すのは面倒だから、連れていくって。俺だけが知らなくて。岐阜の時と同じで……それで、俺……」
どうにかそこまでは話せたが、肝心の「転校」の二文字は口に出来なかった。
「お前も行くのか? アメリカに?」
千葉の問いかけにも、すぐには答えられない。
選択の余地がないのは分かっている。あの横暴な龍之介の息子である限り、付いていくしかないのだろう。
しかし、どうしようもない怒りの残骸がまだ体の中で燻り続けている。これが正当な手段で処理されないうちは、断じて受け入れる訳にはいかない。「転校」という間近に迫った自分の運命を。
透の告白を受けて、千葉も動揺したのか。日焼けした肌に白い歯が特徴的な先輩が、その表情を俄かに曇らせた。
入部当初から、誰よりも透を可愛がってくれた兄貴分。ようやく彼ともチームを組んで、共に戦うことが出来ると思っていた。それなのに、一度も同じ舞台を踏む事なくテニス部を去らなければならない。
せめて一度で良い。次の大会まで日本に残る術はないのだろうか。ただ言われた通りに付いていく。これ以外の選択肢はないものか。
考えれば考えるほど、親から与えられた環境を受け入れるしかない己の幼さを思い知らされる。自分では何でも出来ると思っていたが、中学生は単なる図体のでかいガキなのだ。
「なあ、トオル? お前だけ日本に残る事は出来ねえか?
何なら、俺ん家に住んでみるか? うちは兄弟多いから、一人ぐらい増えたって、バレやしねえよ」
千葉も同じ中学生なりに後輩の窮地を救おうとしてくれているのだろう。現実離れした提案が、却って彼の苦しい立場を物語っている。
「他の部員にも聞いてやるよ。最悪、部室から通うって手もあるし」
彼が知恵を絞り出そうとすればするほど、中学生の非力が露呈する。
「あとは……そうだ! 区営コートで一緒にホームレスしよう! それなら、出来るだろ?」
透は、無理を承知で必死に頭を捻る千葉が段々と気の毒に思えてきた。
どう足掻こうが、今の自分に選択肢などあろうはずがない。身勝手な親に付いていくしか道はないのだ。その現実を早く受け入れなければ、ますます彼を困らせる事になる。
「ありがとうございます、ケンタ先輩。けど、もう良いッスよ」
諸悪の根源は別のところにあるというのに、千葉が申し訳なさそうな顔でこちらを見つめている。そんな彼の優しさを、透はすでに名残惜しく感じていた。
名残惜しいなどと、思いたくはない。別れを前提にしなければ生まれてこない感情が、心のどこかで芽生えている。
もうすぐ自分は、この兄貴のような先輩とも別れなくてはならないのか。そう考えると、胸が痛かった。
唐突に訪れた胸の痛みは喉の奥をざらつかせ、更には涙腺をも刺激する。このお決まりの過程は岐阜を離れる際にも経験済みであったが、透はわざと気付かぬ振りをした。
「これが俺の運命ってヤツですから。仕方ないッスよ」
努めて明るく振舞おうと作った笑顔が、痛みの所為でぎこちない。
「そんなこと言うなよ」
「俺なら大丈夫ですから。あのクソ親父の息子をやっていると、慣れてくるっつうか」
「そうじゃない」
「嘘じゃないッスよ」
「そうじゃない。『仕方ない』って、言うなよ。お前だけには言って欲しくない」
「ケンタ先輩……?」
千葉から向けられた力強い視線は、無理して作った笑顔を責めている訳ではないようだ。信ずる相手と向き合う時にかけられる、祈るような眼差しが、透を捕らえて離さない。
「お前がテニス部に入部してきた時、正直、俺は驚いた。
テニス用語もろくに知らない。何の為に素振りをするかも理解していない。そんな奴がハルキに挑戦状を叩きつけたと聞いて、身の程知らずも良いとこだと思っていた」
「俺も、今ならそう思います」
「だけどお前と一緒に過ごしているうちに、『こいつなら出来るんじゃねえか』って思えてきた。何度負けても諦めないで、喰らいついて行くお前なら。
中西との試合も。あれを見ていた奴等は全員、他人の試合なのに熱くなっていた。シンゴ先輩も、俺も、皆……」
透の喉を詰まらせているものと同じ痛みが、千葉にも絡み始めている。こんな時だけ他人の痛みに気付いてしまう自分が腹立たしく、その痛みを忘れて過ごしていた昨日までの自分が羨ましくもあった。
「先輩のくせに何も出来ない俺が、こんなこと言える義理じゃないけど。トオル? お前だけは『仕方ない』って……言わないでくれよ。諦めて欲しくない……」
入部当初、透のテニスに関する知識はラケット、ネット、ボールの三つであった。ラケットのガットを「網」と呼び、サービスラインをコートの飾りだと思っていた。そんな知識も何もない後輩に、根気よく一からテニスを教えてくれたのが千葉だった。
誰よりも頼れて、誰よりも自分のことを分かってくれた。その先輩が、声を震わせて訴えている。「諦めるな」と。
日高を殴ったとしても、父に対する怒りをぶちまけたとしても、透が光陵学園を去る運命にあるのは変えようのない事実である。しかし「仕方がない」と言う前に、どこかに残されているのかもしれない。自分にも出来ることが。
「ケンタ先輩? 今すぐは無理だと思いますけど、諦めない方法、考えてみます」
「ごめんな、トオル……」
「なんで先輩が……謝らな……」
互いに会話が続けられそうになかった。千葉は途切れた言葉の代わりに何度も肩を叩き、透は返事の代わりに同じ回数だけ頷いた。
まだ泣かない。泣いてはいけない。涙を流すのは諦めた人間のする事だから。
「ケンタ先輩、ありがとうございます」
笑顔にはまだぎこちなさが残っているが、気分はいくらか穏やかになっていた。
具体的な手立てはない。恐らく、この運命は受け入れざるを得ないだろう。龍之介の息子である以上、付属品になるしかない。
今の自分では変えることの出来ない運命。それでも落ち着いていられるのは、一粒の小さな希望を見つけたからである。
「ケンタ先輩? 成田部長のクラスって、三年一組ですよね?」
まだ誰にも見せることが出来ない程の小さな欠片。非力な自分に残された最後の望み。透はそれを握り締め、成田のクラスへと向かった。