第46話 日高の告白

 千葉のおかげで落ち着きを取り戻したとは言え、部長と話をするには覚悟が要った。気心知れた先輩と違って、透の気持ちを汲んで代弁してくれるほど部長の成田は甘くない。父親の気まぐれな行動を順序だてて説明しながら、不本意なあの二文字を口にしなければならなかった。
 「部長……」
 三年生の教室の前で成田を見つけて呼び止めると、透は意を決してそれを告げた。
 「俺、親父の仕事の都合でアメリカへ転校する事になりました」
 一瞬、間が空いたものの、成田は硬い表情を崩さず、普段通りの事務的な口調で応じた。
 「退部、ということか?」
 「いや……あの……」
 腹をくくったつもりであったが、面と向かって退部の意思を問われると、すぐに「イエス」とは答えられなかった。
 通う学校が変わるのだから、そこのテニス部員でいられる訳がない。だが、出来ることなら続けたいと願う気持ちが返事を遅らせる。

 無言で佇む後輩の様子から、すぐに成田は事情を察した。数日前のコーチの不可解な行動は、この話が関係していたに違いない。
 新入部員が早々とレギュラー入りしたにもかかわらず、何故か日高は表情を曇らせた。あの時すでに、彼は転校の事実を聞かされていたのだろう。
 真嶋透のレギュラー入りはたった数日で終わりを告げる。選手として一度も大会に出場する事なく退部しなければならない。その座を掴むまでの苦労を知るだけに、日高は手放しで喜ぶことが出来なかったのだ。
 口ごもる後輩を前に、成田は質問を変えた。
 「いつ、日本を発つ?」
 「えっと……渡航の手続きがあるので、たぶん二週間後ぐらいだと思います」
 「練習はどうする?」
 「なるべくギリギリまで参加したいと思っています」
 「分かった」
 出来るだけ手短に終わらせてやろうと思った。相手がコーチであろうが、先輩であろうが、物怖じせずに意見を述べる後輩が、成田の一言一句にビクつくように話している。
 無理もない。第三者の成田でさえ、思わず出そうになる溜め息を何度も堪えているのだから、本人の失望の度合いは計り知れない。今は自分が突き落とされた絶望の底がどれほど深いのか。状況を把握するのに精一杯のはずである。
 ところが成田が立ち去ろうとしたところを、意外な形で呼び止められた。
 「部長? 出来れば転校のこと、他の人達には内緒にしてもらえませんか?」
 「お前は、それで良いのか?」
 「はい。その方が……普通に接してもらった方が、楽なんで……」
 彼の言わんとしている事は、成田にも伝わった。ただでさえ受け入れがたい事実に押し潰されそうだというのに、その上、周囲の人間に気を遣われては、自分を冷静に保っていられる自信がないのだろう。
 「残念だ」と言われたり、惜しまれたりする事が、本人にとって苦痛に感じることもある。「可哀そうだから」の気遣いは、もっと辛い。
 「分かった。但し、事情を知っているからと言って、俺が真嶋を特別扱いする事はない。退部するまではレギュラーとして鍛える。
 部活に出てくるなら、そのつもりで覚悟して来い」
 「ありがとうございます……部……長」
 顔が見えない程に深々と頭を下げる後輩をその場に残し、成田は振り向きもせずに立ち去った。突然、返事がたどたどしくなった理由など、一切関心のない振りをして。

 成田が去った後も、透はしばらく顔を上げることが出来なかった。自分の足元が波打ち際のように歪んで見える。
 厳しい口調とは裏腹に、成田のかけてくれた優しさがずしりと胸に応えた。
 「退部するまではレギュラーとして鍛える」
 それは、少しでも長く光陵テニス部員として過ごしたいと願う透の気持ちを汲んだからこその言葉であった。
 兄貴のように温かく包み込んでくれる千葉と、厳しさの中にも本物の優しさをかけてくれる成田と。自分はこんなにも恵まれた環境にいたのだと、今頃になって気付く。
 楽しい時間に限って早く過ぎてしまうのは、子供の頃だけだと思っていた。しかし、大人になる過程でも、きっと大人になってからも、幸せとはこの手をすり抜けて初めて気が付くものかもしれない。
 外に放り出されるまで、そこが温かな場所だと気付かぬように。何処かで失くしてしまうまで、大切な物だと分からぬように。当たり前に過ぎていく日常は、過去形になって初めて幸せだったと思い知らされる。
 堅物の部長が残した優しさに、視界が歪められてよく見えない。闇雲に突っ走ってきた光陵学園での日々が、少しずつ過去形になり始めていた。

 泣きそうになった事が周囲に悟られないほど時間が経ってから、透は自分のクラスに戻った。途中で職員室に立ち寄り、担任にも転校の事実を伏せるよう頼んでいたので、周りの友達からは寝坊で遅刻したと思われていた。
 だが隣の席の奈緒だけは心配そうな顔を向けている。
 「トオル、大丈夫? 具合悪いの?」
 「バ〜カ! ガキじゃねえんだから、いちいち心配すんな。お前は俺の母ちゃんか?」
 他意はないと分かっているのに、彼女の温かな視線を警戒する自分がいる。冷たく跳ね返しておかなければ、全てを打ち明けてしまいそうで怖かった。
 身勝手な理由から邪険にしたにもかかわらず、彼女は安堵の笑みを浮かべている。この笑顔にもじきに会えなくなるかと思うと、今更ながら、あの時告白すれば良かったと、後悔が押し寄せる。
 バリュエーションの後の何も知らなかったあの時なら、自分の気持ちを伝えることに躊躇いはなかったはずである。しかし今となっては告白自体が罪に思えて、つい口を閉ざしてしまう。
 気持ちを打ち明けてスッキリするのは自分だけで、相手は困惑するに決まっている。二週間後に渡米する人間から告白されても、「いってらっしゃい」としか言いようがない。
 第一、ただでさえ落ち込んでいるこの状況で、彼女の気持ちを確かめる勇気はなかった。奈緒のことだから嫌いな相手でも露骨に嫌な顔はしないだろうが、それだけに彼女の本心が分からない。
 まだ始まってもいない恋愛を冷凍保存する術はないものか。好意を寄せる相手の側にいる事も叶わず、想いを告げる勇気もなく。ないない尽くしの自分に出来る事はただ一つ。
 「奈緒? 肉だんご、また作ってきてくれよ」
 昼休みに彼女の弁当を覗く振りをして、他愛のない会話を続ける。これが透にできる精一杯の愛情表現であった。


 父親の横暴さも並外れているが、それに輪を掛けて母親の行動力には目を見張るものがある。夕方、透が自宅に戻ってみると、家の中の荷物はすでに運び去られた後だった。空っぽになったリビングを見回しながら、今朝「私も、今日から行くから」と言われた事を思い出す。
 「本当に行っちまいやがった……」
 灯りも家具もないリビングは、嫌でも透に転校の現実を突きつけてくる。心の片隅で、このまま黙っていれば嘘になるかもしれないと、密かに抱いていた期待が容赦なく打ち砕かれていく。
 「俺は、今朝、知らされたばかりなんだけど……」
 暗がりの中、相手もいないのにぼやいていると、庭先から車のクラクションが鳴り響いてきた。
 「よう、少年! 思い出に浸るのは、まだ早くないか?」
 玄関前に停車させた車の窓から顔を出したのは、コーチの日高であった。
 「一応、この二週間は俺がお前の保護者になるからな。迎えに来たぞ」
 実の息子よりも両親との付き合いの長い彼は、こうなることを見越していたのだろう。すでに真嶋家の表札が外された門を一瞥してから、彼は「やっぱり」という風に同情を多分に含んだ笑みを透に投げかけた。
 流線型の低い車体の助手席に乗り込むなり、早速、透は日高に質問を浴びせた。
 「おっさん、いつから知っていたんだ? なんで、黙っていたんだ?
 全部知っていて、俺をバリュエーションに参加させたんだよな?」
 今朝のような怒りを露にした言い方ではないが、どうしても非難めいた口調になってしまう。彼に謝罪を求めるつもりはない。ただ大人の代表として、この理不尽な現実がどうして起こったのか。早く解き明かして欲しかった。
 「少し、遠回りして帰るか?」
 妙に優しげな笑みを口の端に残したまま、日高が車を発進させた。

 見慣れたはずの街の景色が違って見える。徒歩と車では進む速度が違うからなのか。あるいは、歩道と車道では目線が違う所為なのか。
 巧みに愛車を操る日高も、いつもとは異なる印象を受ける。テニスコートで部員達の尻を蹴り上げる荒っぽいコーチとは、まるで別人だ。
 二十分ほど走り続けただろうか。透が連れて来られた場所は、日高の自宅とは反対方向の小高い丘の上だった。車を数台停めれば満杯になる程の狭いスペースで、壊れかけたベンチが一つと自動販売機しかない寂しい場所だが、そこからの景色は絶景と呼ぶに相応しく、透の住む街が一望できる。
 「ここが、俺の秘密基地だ」
 満足げに微笑む日高の視線は、遠くに見える日高テニススクールに向けられていた。ナイターの照明の中で白く浮かび上がる建物は、観光地によくあるライトアップされた天守閣のようで、それを真正面に見据えられるこの場所を彼が「秘密基地」と呼ぶのも理解できる。あのテニススクールは、日高にとって自身で築き上げた城であり、彼はその城主である。

 透が一つしかないベンチをぎしぎし言わせながら腰を下ろすと、日高も同様にしてから切り出した。
 「龍のアメリカ行きは、四月から決まっていた事だった」
 「親父は、なんで俺に黙っていたんだ?」
 「先に話をしていたら、お前はどうしていた? それでも必死になってレギュラーを取りにいったか?」
 どうやら話が伏せられていた理由は、そこにあるようだ。確かに数ヵ月後に渡米すると分かっていれば、誰もあんな苦しい練習を続けてレギュラーの座を狙ったりはしない。だが、それが父の暴挙を肯定する理由にはならない。
 「だったら、岐阜から直接アメリカへ行けば良いじゃんか。わざわざ東京経由で、二回も引っ越さなくたって……」
 「龍にとっても特別なんだよ、光陵学園は」
 その気持ちが分かるだろうと言いたげに、日高が透の顔を覗き込みながら話を続けた。
 それによると、前々から渡米の話が持ち上がっていたのを、龍之介は透を育てる理想的な環境にこだわり、海外での仕事を拒否して岐阜に住み続けていた。あの不自由極まりない山奥での生活は、息子の運動能力を伸ばす為の教材の役割を果たしていたらしい。
 そしてまた、光陵学園での生活も。優れたプレイヤー達と接することにより、数多くの知識や技術を学ばせてもらった。
 「確かにやり方は無茶苦茶だが、あいつなりにベストな選択をした結果なんだ。息子の成長と、家族を養う義務と、たぶん学者として譲れない一線もあったんだと思う」
 透から見れば最悪の父親だが、龍之介はスポーツ科学の第一人者として世界的にもその名が通っている。いまだ未知数の多い分野だけに、大学のみならず、海外の大手企業からもオファーがくるほど父の出す論文は各界から注目を集めており、特にアメリカの大学からは熱心に誘われていたようだ。
 学者である以上、研究室付きの教授の椅子に魅力を感じぬ者はいない。そこで透が中学生になるのを待って、父は渡米の決意を固めたとの話であった。

 「『四ヶ月程しかないが、面倒見てくれ』と言われた時は、あいつの思い通りにいくはずがないと、高をくくっていた。昔と違って、光陵学園の編入試験はレベルも高いし、テニスの存在すら知らないお前が都合よくテニス部に入るとも思えなかった」
 「編入試験は意外と簡単だったぜ。親父の仕事の手伝いをさせられていたからな。社会はからっきしだったけど、国数理は楽勝だった」
 「それも龍の計算の内だろう。お前とハルキを事前に会わせた事もな」
 「じゃあ、俺は親父の手の中で躍らされていたって事かよ?」
 「それは俺も同じだ。最初はあいつの考えに否定的だったが、お前が編入試験にパスして、テニス部にも入部すると聞いた途端、龍の息子がどんな風に育っているのか、興味が湧いてきた。俺にもハルキという作品がいるからな」
 「作品かよ?」
 「父親にとって息子は作品だ。一生かけて、自分を超える最高傑作に仕上げたいと願う」
 「うちの親父は違うと思うけど?」
 「龍だって同じさ。でなきゃ、ど素人のお前がこんな短期間にレギュラーになれる訳がない」
 「それは俺の努力だ。親父は関係ねえ!」
 「まあ、今はそう思うのも仕方がないが、いずれ分かるさ……」
 日高の話から、龍之介が単なる気まぐれではなく少しは息子の為を考えていたらしい事は理解した。たとえそれが非常識なやり方だったとしても、透の心の中では殺意が芽生えるほどの怒りは消えていた。「殺したい」から「殴りたい」へ軽減したに過ぎないが。

 「話は分かった。つまり、おっさんも共犯って事だよな?」
 大人の事情は理解したが、やはり日高には一言文句を言いたかった。
 「ああ、すまない」
 「そんな素直に謝られると、何も言えねえじゃん」
 「本当にお前には気の毒な事をしたと思っている。まさか、こんなに早くレギュラー入りするとは、正直、驚いた」
 日高から謝罪の言葉を聞くのは二度目であった。これで、ようやく合点がいった。あの時、なぜ日高が透に謝ってきたのか。
 口には出さないが、彼は龍之介に渡米を考え直すよう説得してくれたに違いない。それを父が頑として聞き入れなかった為に、喧嘩になったのだ。
 あの「すまない」は、説得が及ばなかった事に対する罪の意識から来るものだ。そう考えると、日高に対して文句を言うどころか、申し訳なく思えてきた。
 冷静に考えて、彼も龍之介に振り回された被害者だ。職場ではいきなり四ヶ月だけ息子の面倒を見ろと押し付けられ、プライベートでは下宿の世話まで頼まれた上に、もう少しでその息子から殴られそうになったのだ。しかも全てが明るみに出た頃には、騒がせた本人は日本にいない。
 「いや、俺の方こそ親父とダブルで迷惑かけて悪かった」
 「気にすんな。いつもの事だ」
 これだけ振り回されたと言うのに平然としている日高の様子から、父親の横暴ぶりは「いつもの事」らしい。
 「うちの親父、昔からこんな感じなのか?」
 「まあな。あいつは、昔から変わっていないな」
 「おっさん、なんでうちの親父と親友なんだ? これだけ迷惑かけられたら、普通は縁を切りたいって思うだろ?」
 「いいや、迷惑だと思った事は一度もない」
 「変だぞ、おっさん」
 「トオルにも、いずれ分かるさ。それより、いい加減『おっさん』は止めないか?」
 日高に言われて、透ははたと考えた。テニス部員であるにもかかわらず、父親の親友という気安さから日高を「おっさん」と呼び続けている。これだけ世話になった相手に、最後ぐらいは「コーチ」と呼んでも良いのではないか。
 「いや、止めない。最後にしたくないからさ」
 「ほう……? まさか、戻ってくるなんて言うんじゃないだろうな?」
 「まだよく分からないけど、自分の居場所は自分で決められるぐらいに強くなりたい。あのクソ親父に振り回されても踏ん張っていられるぐらい、もっと強く」
 これは透の本心であった。まだ何も具体策は浮かんでいないが、少なくとも自分の力で歩いていけるようになりたいと強く思い始めていた。
 今朝、千葉に「諦めるな」と言われて握り締めていた希望の欠片。それが少しだけ形になった。

 「お前はやっぱり龍の息子だな」
 「どういう意味だ?」
 恥ずべき存在の父と同類と言われたような気がして、透は気分が悪かった。自分も傍迷惑な大人になるかと想像しただけで身の毛がよだつ。
 「龍は、お前が思っている以上にずっと器の大きな男だ。考えていることも桁が外れている」
 「確かに、常識からは外れているけどな」
 「真面目な話だ。茶化すんじゃない。
 良いか、トオル? 本気で強くなりたいなら、龍と向き合え。反発しているうちは、あいつの偉大さも見えてこない」
 「あのクソ親父の何処が大きいんだよ? 全然、分かんねえよ」
 「いずれ分かるさ」
 「さっきから、そればっかだ」
 今の透には、龍之介の尻拭いをする日高の方が何倍も器の大きな男に見える。しかし、その日高が言うのだから、いずれ分かる日が来るのかもしれない。息子に対して無関心な態度も、自分の都合しか考えない横暴さも。父の大きさを知れば、理解する日が。
 誇らしげな笑みを浮かべて夜景を眺める日高の傍らで、透は「いずれ」の距離とアメリカまでの距離が等しく遠くに感じていた。

 秘密基地から街中を通り抜け、日高の自宅に戻ると、仏頂面の遥希が出迎えた。もともと彼は愛想とは縁遠いタイプだが、今夜は一段と機嫌が悪かった。
 「なんで、お前が父さんと一緒にいるんだよ? またインチキなバイトでもやってきたんじゃないだろうな?」
 怪訝な顔を向ける彼の態度から、日高が息子に何も伝えていない事はすぐに分かった。こういう息子の存在をないがしろにする行為は、父・龍之介と通じるものがある。
 「おっさん、ハルキに何も言ってねえのかよ?」
 「お前、成田に誰にも言うなと、口止めしたんだろ?」
 日高は、透が成田に口止めした事を指して反論しているようだが、物には限度がある。
 「だからって、息子のハルキには話しておくだろう、普通?」
 「息子だろうが、部員は部員だ。例外はない」
 平然と言ってのける日高は、あくまでも説明するつもりはないようだ。仕方なく、透が事情を説明することにした。
 「あのな、ハルキ? 実は俺、今度アメリカに転校することになって……」
 話の途中で、遥希がプッと噴出した。
 「もうちょっとマシな嘘つけよ。どうせ、またバイトだろ? 唐沢先輩の借金、残っているって言ってたし」
 「嘘じゃないって。親父達はもう行っちまって、俺はパスポートとビザが発行されるまでお前ん家に下宿する事になったんだ」
 「だったら、アメリカの何処に住むか言ってみろよ?」
 試すような口ぶりは、話を信じるどころか、逆に嘘を暴こうとする意図がはっきり見える。龍之介の外面しか知らない人間なら、そう思うのも無理はない。
 「えと、カリフォルニア州の、確かサンフランシスコの近くの……何カウンティーだったか……」
 こうなったら、一つ一つ真実を伝えていくしか方法はない。母親の書き残した住所を見ながら、透が説明しようとした時だ。

 「ふざけんなよ! レギュラーのくせに、そんな無責任なことして良いのかよ!?」
 アドレスを記した紙片から冗談ではないと悟った遙希が、いきなり透に掴みかかってきた。
 「俺と全国へ行くって、あれは口から出任せだったのか!?」
 滅多なことでは感情を表に出さない遙希が、珍しく怒りを露わにしている。
 「お前は、いっつもそうだよな? でかいのは態度と口だけで、何一つ実現できない。
 俺を倒すと言ったくせにレギュラーにもなれないで、やっとなれたと思ったら、今度はアメリカだって? ふざけんな!」
 初めは言われっ放しの透であったが、容赦なく浴びせられる罵倒に心の奥に燻っていた不満が息を吹き返した。
 「俺だって、今日知らされたばかりなんだよ!」
 「はあ? そんな訳あるか! アメリカだぞ? 国内とは違うんだぞ?」
 「そんな訳あるんだよ、うちのクソ親父は!」
 売り言葉に買い言葉で応戦しているうちに、今朝から静めようと努力していた怒りが再燃し、一度は収めたはずの拳が遥希の胸倉に伸びていた。
 「俺だって、好きでアメリカに行くんじゃねえんだよ!
 お優しいお父様を身内に持った温室育ちのエリートには、一生分かりっこねえけどな!」
 皮肉を込めて言い返したつもりが、その言葉を口にした途端、透はそれが己の本心だと気が付いた。自分は羨ましかったのだ。過保護なまでに父親から愛情を注いでもらえる遙希が。小さい頃から何不自由なくテニスを習える彼の環境が。
 口ではライバルだ、親友だ、と綺麗ごとを並べ立てていたが、心の奥底には嫉妬が張り付いていた。そのどす黒い感情を見て見ぬ振りをしていただけで、自分も遥希のような教育を受けられたらと、いつも思っていた。
 勢いで吐露した本音はあまりに無様で、幼稚で、愚かしくて。自分でも情けなくなったが、今更後へは引けなかった。
 透がぶつけた本音に対して、遙希もここぞとばかりにやり返す。
 「だったら、お前に分かるのか!? 子供の頃から遊び相手が壁打ちボードで、ラケットとテニスボールしか与えてもらえなかった俺の気持ちが?
 日高プロの一粒種だ、コーチの息子だと言われ続けて、『お前なら、もっと出来るはずだ』って、減点法でしか見られない俺の気持ちが分かるかよ!?」
 「おめでた過ぎて反吐が出るぜ。良い機会だから教えてやる。
 お前は恵まれ過ぎて、何にも見えちゃいない。どれだけ自分が幸せな立場にいるか、何にも分かっちゃいないんだよ!」
 「分かってないのは、そっちだ。
 お前、俺を倒すって言ったよな? 一緒に全国で大暴れするって、言ったよな!?」
 一瞬、遥希の瞳が揺らいで見えた。それは、今朝から姿を現わすたびに透が押し戻すのに苦労させられたものと同じであった。
 「ハルキ……?」
 「お前と一緒に全国行くつもりで、ずっと、ずっと、俺は……俺は、どうすれば良いんだよ!?」
 泣き声のような捨て台詞を残して、遙希は玄関から飛び出していった。いつもなら迷わず追いかける透だが、今回ばかりは気力が残っていなかった。遙希の言葉が胸の奥深くに突き刺さり、長かった一日の致命傷となった。
 遥希は透と全国大会に出場する事を夢見ていたのだ。ライバルを追い越す事ばかり考えていた透に対し、彼は一緒に全国へ行きたくて、レギュラー入りしてからも自らを鍛え続けた。その成果が、この間のバリュエーションにも現れていた。ライバルに差をつける為ではなく、同じ目標を持つチームメイトとして歩いていく為に。

 「俺はこれから強くなる。お前ももっと強くなる。俺達は都大会でデビューして、全国大会で大暴れするんだ」
 三ヶ月前の記憶が甦る。初めてのバリュエーションで勝利を収めたにもかかわらず、部長とコーチから非難を浴びてミーティングの途中で飛び出した遙希。そんな彼に向かって、透は励ますつもりで、そう言ったのだ。
 発した本人が忘れていた台詞を、ずっと遙希は支えにして練習を続けていた。滅多に感情を表に出さないライバルの涙がやけに透き通って見えたのは、混じり気のない彼の気持ちを映し出していたからに違いない。
 遙希にとって、透は生まれて初めて出会えた“仲間”であった。単なる競争相手ではなく、互いに磨き合う存在であり、最も深く分かり合える同志であった。
 心開ける相手のいない彼には、たった一人の親友の役割も果たしていたのだろう。だからこそ、純粋に楽しみにしていたのだ。共に勝ち進むことを。
 彼の置かれた立場も、気持ちも、全部分かっていたはずなのに。

 今朝、転校すると伝えた成田と千葉も、もしかしたら遙希と同じ気持ちだったのかもしれない。ただ彼等はほんの少し大人で、自分達の感情よりも後輩の気持ちを優先してくれただけなのだ。
 「結局、俺は光陵で何も出来ないまま、皆に迷惑かけて……本当に、でかいのは口と態度ばかりだ」
 「それは違うぞ、トオル」
 今まで黙って息子達のやり取りを聞いていた日高が、初めて口を開いた。
 「ハルキはお前ほど強くない。強くなるよう育てたつもりだったが、肝心なところが抜けていた」
 「俺だって強くなんかねえよ。今だって……」
 そう言ったきり、透は先を続けられなかった。本当は「ハルキを追いかけなきゃいけないのに」と言おうとしたが、これ以上、自分の不甲斐なさを語る気にはなれなかった。
 透の視線で何をしたいか読み取った日高は、同じように視線を玄関に向けながら、厳しい口調で言い捨てた。
 「放っておけ。あいつにも、お前のように自力で這い上がる時間が必要だ」
 遙希が開け放した玄関の扉から夜風が吹き込んできた。それは、透がこの街へ来て初めて匂いを感じた、昼間の熱気がわずかに残る夏の風だった。






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