第47話 原点

 透が日高家に下宿し始めてから一週間が過ぎていた。他人の家で暮らすのは初めての経験だが、想像していたよりも遥かに居心地が良く、また新鮮でもあった。
 もともと子供に対して過保護気味の日高夫妻は「我が子が二人になった」と大はしゃぎし、息子の遥希と同様に可愛がってくれた。
 夜、帰宅してからの日高はほとんど家にいて、龍之介のように気まぐれに出て行く事もなければ、日常会話に木刀を持ち込む事もない。遥希の母親は家族の予定に合わせて家事をこなし、細やかに世話を焼いてくれる。息子一人を置き去りにして出国してしまう透の母親と比べれば、同じ主婦のくくりに入れては申し訳ないほど、“驚き”ではなく“安らぎ”を与えてくれる女性であった。
 必要なものは全て買い与えられ、働かなくても小遣いがもらえる生活。「てめえの事は、てめえで何とかしろ」と育てられ、欲しいものは自力で購入するしかなかった透には、まさに夢のような家庭環境だ。
 中でもラッキーだと思ったのは、オーナーである日高の口利きで、テニススクールのコートもトレーニングマシンも好きなだけ使わせてもらえる点である。一度は大喧嘩した遥希とも、次の日には何事もなかったかのように一緒に登校し、部活動を終えて帰った後は、毎晩スクールの空コートで打ち合い、練習試合も行なった。いまだ連敗記録を更新中だが、一番調子の良い時でゲームカウント「6−3」まで喰らいついた事もある。
 「このまま高校卒業まで、うちで下宿したらどうだ?」
 時折、日高から真顔で誘われると、つい本気で考え込むほど毎日が楽しく過ぎていた。

 ここまで恵まれた環境にいながらも、透は時々、区営コートにも顔を出していた。
 日高の家にいると、ひどく不安になる時がある。テニスをする為の設備は全て揃っているはずなのに、どこか物足りなさを感じてしまう。そして区営コートへ行く事で、その不安が僅かながらに解消される。
 不思議な現象ではあるが、今の生活に慣れてしまうことで、何か大切なものを見失いそうな気がした。
 大切なものが何なのか。具体的に言い当てることは出来ないが、答えはアメリカへ行くことで解決するかもしれない。もう一度、龍之介と向き合うことで――。
 この漠然とした勘のようなものが、常に頭から離れなかった。根拠のない道標。直感とでも言うのか。
 日高のありがたい誘いを断り続けたのも、漠然とするわりには頑固な直感が透に「現状に満足するな」としつこく警告していたからだった。

 そんなある日、遥希と学校へ行く道すがら、互いの目標とするテニスプレイヤーの話になった。
 「特にいないけど、強いて言えば、成田部長かな」
 遥希に目標とするプレイヤーがいないのは意外であった。
 「せっかく親父が元プロなのに、目標にしないのか?」
 「俺は技術やスタイルを参考にする事はあっても、誰かを目標に置く事はしない。
 それに、父さんが現役だった頃の事はほとんど覚えてないし。話が大きくなっている部分もあるからさ」
 父親だけでなく、スクールのコーチなど、遥希の周りには手本となる選手が山ほどいる。その中で目標を絞り込む方が、却って難しいのかもしれない。
 「そう言うお前は、どうなんだ?」
 「確かに、俺も成田部長のプレーは格好良いと思った。だけど、何か唐沢先輩の方が気になるんだよなぁ。
 上手く言えないけど、熱くなるっていうか……」
 「熱くなる?」
 透は、唐沢が都大会で見せたドリルスピンショットが忘れられなかった。
 それだけではない。計算し尽くされた試合運びと、それを可能にするテクニックの数々。敵も味方も同時に欺く鮮やかな戦術と、大事な局面で見せる勝負強さ。彼の試合を思い出すたびに、体中が熱い興奮に包まれる。
 「一言で言えば、魂ごと全身を揺さぶられるような、熱いって感じだよ!」
 「またお前、右脳しか使ってないし。それに一言じゃないし」
 「何だよ、ハルキ! 人がせっかく理論的に説明してやってんのに!」
 「どこがだよッ!?」
 アメリカへ旅立つ日も近いと言うのに、遥希の態度は普段と変わらなかった。痛いところばかり突く毒舌も、人を小馬鹿にした態度も、「少しは気を遣え」と言いたくなるほど全てがいつも通りであった。
 あまりに変わらなさ過ぎて、転校の話が嘘ではないかと錯覚する程に。あの夜の彼の透き通った涙も、見間違いかもしれないと。
 だが、これは現実逃避から来る幻覚だと、すぐに気付かされる。こうして彼と一緒に登校していること自体、普通ではあり得ないのだから。

 ふと逃避に意識が向いた透を、遥希が呼び戻した。
 「でも、その感性は大事にした方が良いと思う」
 「だろ? こう見えて俺は理論派だと思うんだ。唐沢先輩から指摘されて、『すげえ』を使わなくなったからな」
 「バ〜カ! お前の意味不明な説明を大事にしてどうする。熱くなった感覚の方だって」
 「何だと、てめえ……えっ? 熱くなった感覚?」
 痴話喧嘩をふっかける時と同じ口調で言われた為に、もう少しで透は重要な部分を聞き逃すところであった。
 「たぶん唐沢先輩のプレーには、お前にとって大事な要素があるんだと思う。現に、俺は熱くならなかった」
 「マジで? あの越智さんとの対決も?」
 「うん、上手いとは思ったけど。どちらかと言えば、部長の試合の方が熱くなったかな」
 自然な形で会話を進めているが、これは紛れもない、遥希からのアドバイスである。
 「熱くなる観点って、人によって違うのか……」
 「だからこそ、余計にその感覚を大事にしないと。これだけは人から教わるものじゃなくて、自分でアンテナを張って察知しないと掴めないものだから」
 「そうか。勉強になった。サンキューな!」
 「別に思ったことを口にしただけで、お前の為とかじゃないから」
 「その素直じゃない性格、何とかなんねえのかよ?」
 「お互い様だ。気にすんな」
 毒気のある会話で誤魔化そうとするライバルを、この時だけは笑って許せた。
 遥希も彼なりに、普段と変わらぬ日常を過ごそうとしてくれている。残り少ない日本での日々を透が心置きなく味わえるように。
 その気持ちを知るだけに、嫌味を含んだ言葉も笑って聞き流せた。そして笑っているくせに、少し胸が痛かった。

 遥希のアドバイスを基に、透は改めて自身の感覚についての分析を試みた。何故、唐沢のプレーに惹かれるのか。他の選手と比べて、何処に魅力を感じるのか。
 まず頭に浮かんだのは、彼のプレースタイルが父・龍之介と似ていると言われた事だった。父と同期の日高の話では、龍之介もテクニックを駆使したトリッキーなプレーが得意だったという。
 今はもう目にする事の出来ない父のプレーが気になっているのだろうか。あるいは、いつか父を越えたいと思う密かな願望からくるものなのか。
 どちらも当たっているようで、違う気もした。
 唐沢のプレーには、もっと強烈な磁力を感じる。暗闇の中に差し込んできた光に無条件で反応するように、気が付けば彼のプレーに見入っている。死角のないオールラウンドプレイヤーを相手にしても怯む事なく、鮮やかに返し技を決めていく。その代表格とも言えるドリルスピンショットを見せられた時、透は目の前に道が開けたような感動を覚えた。
 たぶん、この辺りに遥希の言うところの「大事な要素」があるはずだ。
 あれこれと考えを巡らせていくうちに、透の中でもう一度ドリルスピンショットを見たいという欲求が膨らんできた。日本国内ならまだしも、アメリカへ旅立ってしまっては拝める機会もないだろう。せめて出発する前にもう一度だけ、「大事な要素」となるものをこの目に焼き付けておきたい。どこにいても、すぐに記憶のアルバムから取り出せるように。

 昼休みになるのを待って、透はラケット持参で三年生の教室へと向かった。
 入口まで来ると、唐沢と同じクラスの滝澤が
 「あら、坊や。貴方の方から来てくれるなんて、今日は何のお誘いかしら?」
 と、艶めかしいオーラを振りまきながら出迎えた。
 「あ、いや……」
 彼も、唐沢とは違った意味で透に刺激を与えた存在だ。但しこの独特のオーラは、どんなに機会を与えられたとしても自ら好んで見たいとは思わない。遠い異国の地でホームシックにかかったとしても、断じて懐かしむ事はないだろう。
 「あの……唐沢先輩は?」
 「屋上にいるはずよ」
 「屋上ですね。ありがとうございます」
 上手く間合いが取れたと思った。直接、体が触れるような事さえなければ、滝澤の危険性は限りなくゼロに近い。
 ところが礼だけ述べて走り去ろうとした、その一瞬の安堵を突かれ、透は背後から腕を捕まれ、あっさり引き戻された。やはり滝澤に背中を見せるべきではなかったと後悔するも、すでに体は力強い両腕に抱きすくめられた後で、身動き出来なくなっている。
 「相変わらず、慌てん坊さんね。まだ話は終わっていないのよ」
 囁かれたと同時に地区大会での恐怖が甦り、耳元に生温かい吐息の感触が復活した。さわさわと頬や髪を撫で回す指の動きが、悪寒となって神経を刺激する。急いで振り払わなければならないと分かっているのに、恐怖で体が動かない。
 「た、た、滝澤先輩……俺、行かないと……」
 どうにか沈黙だけは避けようと、透は張り付く喉から声を絞り出した。
 「屋上に行くなら、気をつけなさい」
 「な、なに……を?」
 「海斗に話しかける時よ。とっても集中しているはずだから……ね?」
 「集中?」
 「ええ、集中している時の彼は危険よ。うかつに話しかけると、血を見るわ」
 毎度の事ではあるが、もう少しマシな助言の仕方はないのだろうか。屋上への階段を登りながら、透はつくづく自分は可笑しなチームに所属していたのだと自覚した。だが、同時にいつもは解放されて安堵するはずの胸に、今朝と同じ痛みを覚えたのも事実であった。

 試合前でもないのに、唐沢は何に集中しているのだろうか。その疑問は、屋上に着いてすぐに解明された。
 晴れ渡った青空の下、彼は数人のギャンブル仲間と思しき級友達と輪になって、カードゲームに興じていた。五枚の手札と、不規則に捨てられているカードの山から、それがポーカーである事は察しがついた。そしてまた部活動では決して見られない真面目な表情から、真剣勝負の最中であることも。
 きっと滝澤は、「ポーカーに夢中になっているから気をつけろ」と言いたかったに違いない。この状態の唐沢は、試合前と同様、下手に声をかければ拳が飛んでくる。
 透は慎重に近付くと、彼の背後で勝負がつくのを大人しく待つことにした。
 ところが気配を察知したのか、集中しているはずの唐沢が声をかけてきた。
 「真嶋、少しだけ待っていてくれるか? 今、おいしいところだから、これだけ稼がせてくれ」
 一瞬、透は転校の事実が唐沢に漏れているのではないかと疑った。でなければ、部活動より大事な賭け事を中断するはずがない。それも満面の笑みで。
 しかし、その疑惑もすぐに解消された。
 「マジかよ? 俺、フォルド!」
 「やべえ、俺も!」
 彼の強気な発言を聞いて、他の仲間が次々と勝負から降りていったのだ。
 「サンキュー、いただき!」
 したり顔で唐沢が見せた手札は、ごくごく平凡なツーペアであった。仲間の方が遥かに有利な手札だったにもかかわらず、唐沢の「稼がせてくれ」のハッタリにまんまと騙され、せっかくの勝利を譲り渡す格好となったのだ。

 鼻歌交じりで清算を始める唐沢。さすがに名残惜しくはなかったが、上機嫌で札束を数える先輩の姿を、透はいつになく微笑ましく眺めていた。
 「どうした、真嶋? 借金の返済か?」
 不意を突く質問に、透の笑顔が引きつった。本音を言えば、転校に乗じて残りの借金を踏み倒そうかと企んでいた。要するに、国外逃亡だ。
 これは転校の話が持ち上がって、唯一、透が喜ばしいと思えた事だった。
 「なんだ、違うのか。じゃ、どうした?」
 「えと、実はお願いがあって来ました」
 「俺に?」
 怪訝な顔を向ける先輩の前で、透は思い切って頭を下げた。
 「唐沢先輩。俺に、もう一度ドリルスピンショットを見せてください」
 「無理」
 即答だった。
 「どうしても駄目ですか?」
 「ああ、駄目だ」
 「どうしてですか?」
 「あれは、俺が本気にならないと出せない技だから。関東大会まで待つんだな」
 カードと札束を制服のポケットにしまうと、唐沢はさっと背を向けた。事情を知らない彼は、後輩の最初にして最後の願いを聞き入れるつもりはないらしい。

 確かに、無理な話だと思った。唐沢が本気になる事は滅多にない。地区大会、都大会と、試合を見てきた透には、そうさせる事がいかに困難であるかを知っている。
 地区大会の決勝で対戦したエース格の季崎でさえ、最後まで肩透かしを食らったまま敗れ去った。都大会の優勝候補と目された明魁学園の副部長のレベルで、ようやく終盤になって本物のドリルスピンショットを出したのだ。それを簡単に見られると思った自分が甘かった。
 しかし諦めようとしたその時、再び遥希の言葉が頭をよぎった。
 「唐沢先輩のプレーには、お前にとって大事な要素があると思う」
 このチャンスを逃したら、大事な要素のヒントも掴めずに光陵学園を去らなくてはならなくなる。何か一つで良い。ここでの収穫が欲しかった。光陵テニス部にいた事が無駄ではなかったと思える証が。
 「俺で試してもらえませんか?」
 ここは無謀な賭けに出るしかない。
 「ご存知だと思いますけど、俺、格上の相手を本気にさせるの得意なんッスよ」
 透にとっては一世一代の賭けであった。この様子では天変地異でも起こらぬ限り、拝める可能性は皆無だろう。まずは彼をコートに連れ出す事が先決だ。
 「へえ、可愛いこと言ってくれるね? 俺に勝負を挑んでくるとは、それなりの覚悟は出来ているんだよな?」
 挑発的な後輩の言葉に、ギャンブラーの血が騒いだようだ。唐沢がカモを見つけた時の“悪魔の笑み”を浮かべ、透の手にするラケットに目をやった。
 「じゃあ、こうしよう。真嶋が勝負に勝ったら、望み通りにしてやるし、今までの借金も全額チャラにしてやる。但し俺が勝ったら、そのレア物のラケットを頂く。どうだ?」
 使い慣れたラケットを失うのは、現金を取られるより辛かった。父親に対する愛情はなくとも、品物に対する愛着はある。しかも、透はまだ一本しかラケットを所持していない。いくら日高から小遣いを与えられているとは言え、代替品が買える程の金額ではない。
 万一、この勝負に負ければ、大事なラケットを失う。テニス部を退部する前からテニスが出来なくなってしまう。
 だが、もう後には引けなかった。
 日高が龍之介のラケットは物が良いと話していたが、唐沢の意図は別のところにあるのだろう。品物の良し悪しではなく、試されているのかもしれない。「お前にラケットを賭ける程の覚悟があるのか」と。
 「分かりました。条件は、それでお願いします」

 覚悟を決めてテニス部のコートに向おうとする透を、唐沢が引き止めた。
 「そっちじゃない。高等部の方だ。バリュエーション以外で部員同士の試合は禁止されているからな」
 「そうなんですか? でも、どうして高等部へ?」
 「高等部の連中は、この時期、合宿へ行っていないから。コートは空いてるし、他の連中にバレる心配もない」
 兄が高等部に所属しているとあって、唐沢は学園内の事情に詳しかった。
 「でも、入口に鍵がかかっているんじゃないッスか?」
 返事の代わりに唐沢のポケットから出てきたのは、親指ほどの小さな鍵だった。形状からして、コートの入口を施錠する南京錠の合鍵のようだ。まるで手品である。
 唐沢の事だから、高等部の部長を務める兄から拝借したのだろうが、こういう先輩を“怪しい”と警戒したのが四ヶ月前。そして今は“頼もしい”と感じていた。

 高等部のテニスコートに向かう途中で、唐沢がいくつか質問をよこしてきた。
 「何故、俺のドリルスピンショットを見たいと思った?」
 「俺が一番熱くなったプレーだからです」
 「一番? 成田じゃなくて?」
 皆が目標とする部長の成田ではなく、副部長の自分に興味を持つ後輩が、唐沢は不思議で仕方がないようだ。
 「俺にとっては、唐沢先輩のプレーが一番気になるんです」
 「お前、変わっているな。普通、ナンバー1を目指すだろう?」
 「唐沢先輩が本気を出せば成田部長よりも強いって、疾斗が話していました。
 それに自分でも上手く言えないんですけど、唐沢先輩のプレーは同じプレイヤーとして惹かれたと言うか。魅力を感じると言うか……」
 「そういう台詞は滝澤に言ってやれ」
 「ち、違いますって! 『プレイヤーとして』って、言ったじゃないッスか!」
 「ああ、悪い。真嶋はからかい甲斐があるから、つい……」
 冗談なのか、本気なのか。最後まで、彼だけは本心の在り処が分からない。
 「だったら尚更、成田を目指した方が良い。お前なら、充分見込みがあると思う」
 冗談でも唐沢に「見込みがある」と言われたのは嬉しいが、それでも気持ちは変わらなかった。
 「成田部長じゃ駄目なんです。唐沢先輩のプレーの延長線に、俺の進むべき道があるような気がして」
 「延長線ねえ……」
 急に真顔になった唐沢を認め、慌てて透は訂正を入れた。
 「あ、すいません! 延長線って言うのは、俺が先輩を超えるとかじゃなくて……」
 「いや、悪くないと思う」
 いつかの視線が、透の目の前を横切った。
 「出来れば、俺も見てみたい。この先にあるものを」
 「唐沢先輩……?」
 地区大会の時に見せた、過去をさ迷うような淡い視線。軍師と恐れられる男にしては不釣合いな表情だけに、印象的だった。
 あの時と同じ目をした先輩が、透の目の前に立っている。ただ一つだけ違って見えるのは、彼の口元があの時よりも上向きに緩んでいる事だった。






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