第48話 Fコートの対決
慣れた手つきで金網フェンスの鍵を開けると、唐沢はAから順に六面並ぶコート中の一番奥へと進んでいった。その背中を追うようにして、透も後に続く。
高等部のテニスコートは表面がハードと呼ばれるコンクリートによく似た硬い材質で出来ており、色も赤地に緑と華やかだ。その所為か、同じ学園内の同じテニス部の活動場所でありながら、泥臭さがまるでない。
そもそもハードコートは、中等部の土で出来たクレーコートと違って、土埃が舞うこともなければ、ブラシをかける手間もなく、雨が降った後でもぬかるむ心配がないので、水さえ捌ければ練習が可能という、テニス部員には良いこと尽くめのコートである。
六面ずつで分けられたコートの両端には屋根付きの休憩所があり、そこには椅子とテーブル、自動販売機まで設置されている。野晒しのベンチしかない中等部から比べれば、エコノミーとファーストクラスほどの格差がある。
コート脇に無造作に置かれたボールを入れるカートも、新しく発売されたキャスター付きのセパレートタイプだ。軽くて持ち運びに便利との理由だったか、マネージャーが欲しいと騒いでいた記憶がある。
透はふと三年後の高等部へ通う自分の姿を思い描いた。今回の転校がなければ、この設備の整ったハードコートで思う存分汗を流し、皆と一緒にインターハイでも夢見ていたに違いない。
どうして自分だけが、こんな形で足を踏み入れなければならないのか。この一週間で少しずつ受け入れようと努力してきた運命を、すぐにでも破り捨てたい衝動に駆られた。
「時間がないから、ハーフマッチで良いな?」
淡々とウォーミング・アップを進める唐沢に気付き、透は慌てて意識を現実に戻した。今は運命がどうのと、愚痴をこぼしている場合ではない。光陵テニス部で一、ニ位を争う先輩と勝負をして、勝利しなければならない。大事な要素を含んでいるに違いないドリルスピンショットを見る為に。そして、たった一本しかないラケットを死守する為に。
ハーフマッチの試合では、3ゲームを先取した側が勝者となる。この少ないゲーム数で勝利する為には、先制攻撃を仕掛けて相手より先に主導権を握った方が断然有利である。
透は今まで習得したいくつかの選択肢の中から、最も威力のあるジャンピング・サーブを使う事にした。前回のバリュエーションでの教訓を基に、コースコントロールも確実に出来るよう練習済みである。これなら充分先手を取れる、はずだった。
「前より安定してきたな、このサーブ?」
勝負に出たつもりのジャンピング・サーブを、唐沢は難なく返してくる。しかも客観的な立場から評価を下す余裕もあるようだ。
このしれっと見せられる実力差に悔しさがこみ上げてくるが、透は努めて冷静に振舞った。ここで腹を立てては、先輩のペースに巻き込まれてしまう。
落ち着いて、相手のフォームを観察しながらラリーを続ける。ジャンピング・サーブが通用しないとなると、ラリーの中から攻撃の糸口を見出すしかない。
そう結論づけた直後に、正確に狙ったはずのボールがネットにかかった。
緊張していたのか。まだ集中し切れていなかったのか。いずれにしても自分のミスである。
気を取り直して、意識をラリーに集中させる。だが、再びボールがネットにかかる。もう一度、今度は細心の注意を払ったが、やはり結果は同じであった。
さすがに三回も連続して同じミスが起これば、何か人為的な原因を疑わざるを得ない。しかも、この光景はどこかで見覚えがある。
手繰り寄せた記憶の中から浮かび上がったのは、地区大会の決勝で苦戦する季崎の姿であった。あの時の、唐沢がしいたチェンジペース作戦。透はそれに引っ掛かっていたのである。
あらゆる球種とコースを織り交ぜながら、ラリーの中で生まれるリズムを突然変える。そうする事で相手のミスショットを誘う作戦だ。
自分のミスが原因でポイントを失う屈辱。地区大会での季崎の苦痛が、我が物となって押し寄せてきた。
「落ち着け。落ち着いて思い出すんだ……」
透は冷静になるよう自身に言い聞かせると、地区大会で記憶に刻みつけた一つ一つの場面を思い返した。同じリズム、同じフォームを見せてはいるが、どこかに兆しがあるはずだ。ペースを崩す直前に現れる僅かな相違点が。
「そうだ、ステップだ!」
あの時、唐沢はゆったりと見せるフォームに反して、足元のステップだけは小刻みに動かし、ボールをコントロールしていた。
透は相手のフォームに惑わされず、足元のみに注意を向けながらラリーを続けた。
案の定、唐沢はペースを崩す直前で歩幅や足の向きを巧みに変えている。
「今度はいける!」
チェンジペース作戦のからくりを見抜いた透は、この機を逃さずトップスピンを狙って打った。トップスピンを連打する事で、あわよくばドリルスピンショットを誘えないかと期待しての返球だ。
ところが続いて唐沢から放たれたボールは、透の期待とは裏腹に、ネットを越えると同時に急降下し始めた。
「しまった!」
唐沢は透が足元に注目し始めたのを察知して、通常のスライスと同じフォーム、同じステップで、ドロップショットを放ったのだ。彼ほどのレベルになれば、グリップの操作と力加減を調節することでインパクト時の一瞬でスライスからドロップショットへと変更可能である。
ステップの動きで唐沢のショットを見切ったつもりでいた透は、てっきり遠くへ伸びるスライスが来ると思い込んでいた。だが、実際に返ってきたのはネット際でストンと落ちるドロップショットであった。
唐沢の得意とするトリック・プレーに引っ掛かったのだ。これではまるで対・季崎戦の再現だ。
「あれ? もう1ゲーム終わっちゃったけど、大丈夫?」
唐沢の対戦相手をおちょくっているとしか思えない白々しい台詞は、味方だからこそ頼もしく感じるのであって、ネットを隔てて聞かされると、腹の立つ事この上ない。実に陰険な挑発だ。
「勝負事は、どんな時でも冷静でいられる者が勝つ」
皮肉にもそう教わった先輩の前で、透は冷静さを保つ為に必死で悔しさに耐えていた。
試合が進むにつれて、透は自身の集中力が徐々に高まるのを感じていた。だがそれを有効活用する間もなく、唐沢からスライス・サーブが放たれる。
いつにも増して回転数の多いサーブは、自分と同じように相手も集中してきた証拠である。回転数が多いという事は、それだけ軌道も変化するということだ。右側に逸れていくスライス・サーブに続いて、後ろへ押しやられるトップスピンとのコンビネーションで、受ける側はコートの中を引きずり回される。
まだ2ゲーム目だというのに、透はすでに汗だくだった。
ひょっとして高等部のコートは特注サイズではないかと思うほど、唐沢を相手にすると、やたらと自陣のスペースが広く感じられる。ドリルスピンショットどころか、返球するだけで精一杯だ。
今度は都大会で唐沢に苦戦を強いられた明魁学園の越智と入れ替わった気分であった。
「越智さんと同じ……?」
一瞬、何かが閃いた気がしたが、それを突き止める前に厄介な問題が起きていた。
「授業中に何をしている!? すぐに教室に戻りなさい!」
フェンス越しに高等部の教師達が数人、コートの中を睨み付けている。休憩所の時計を見やると、昼休みはとっくに過ぎており、グラウンドにいた生徒達は全員、午後の授業の為に校舎の中へ引き上げていた。
部員同士の試合がバレないよう高等部まで来たものの、授業をそっちのけで試合をしていれば、咎められるのは同じであった。
「やっべえ!」
透が慌てた理由は、高等部の教師に見つかったからではない。明らかに不機嫌な唐沢を目の当たりにしたからだ。
集中している時の唐沢に近寄ってはならない。この掟を知るのは中等部のテニス部員とその仲間ぐらいで、高等部の教師達が知る由もない。
「今、試合中なんだけど?」
抑揚のない返事と共に、唐沢がラケットの上でテニスボールを信じられない速さでバウンドさせている。ラケットの両面で秒速十回はボールを突いているのではないかと思うほどの早業だ。くるくると素早く回るラケットに反して、バウンドしているはずのボールが空中で静止して見える。
暴れるとか、怒鳴るなどの安易な脅しよりも、透にはこの苛立ちを前面に出したボール突きの方が怖かった。あと一言でも反論しようものなら、ラケットの上で待機中のテニスボールが瞬時に打ち込まれるに違いない。
「すっげぇ……唐沢先輩がキレると、こうなるのか」
予期せぬ展開に戸惑いながらも、透は少し得した気分であった。噂ばかりが先行して、実際に唐沢がキレるとどうなるのか、誰も説明できる者はいなかった。それを間近で見られたのだから、不謹慎と知りつつも、笑いを禁じ得ない。
誰も知らない先輩の姿を見たという幸運は、ささやかな優越感まで連れてくる。だが、その幸運はたった五秒で悪夢に姿を変えた。
「君は、唐沢北斗君の弟、海斗君だね? 確か、中等部の生徒だと記憶しているが……」
高等部の教師達が兄・北斗の存在をちらつかせ、震える声で威嚇し始めた。
「優秀な北斗君の弟なら分かっていると思うが、学生の本分は勉強だ。文武両道も良いけどね。テニスの試合なら、然るべき管理者の下で、然るべき時に、然るべき場所でやりなさい。
その点、君のお兄さんは……」
状況が最悪の方向に向かっている。普段、機嫌の良い時でさえ、唐沢の前で兄の話をするのは自殺行為と言われている。それを不機嫌な彼に浴びせかければ、どうなるか。火に油を注ぐどころの話ではない。火薬倉庫の前で花火大会をするほど、危険極まりない行為である。
突然「ガツン」という鈍い金属音と共に、コートを囲む金網フェンスが波打った。あまりに激しい衝撃のせいでフェンスが揺れの連鎖を起こし、透の立つコートの後ろまで波に飲まれたようになっていた。
無論、波の原因は唐沢だ。どう見ても狭くて入りそうにないフェンスの網目の一つに、しっかりとテニスボールが食い込んでいる。しかも教師達の目線のすぐ前に。
「試合中だと言ったはずだ。次は、記憶が吹っ飛ぶぞ?」
「な、何ですか、その……た、た、態度は!?」
後ずさりしながらも、かろうじて威厳を保とうとする教師達に対し、唐沢の凄みは更に増していく。
「だったら、アンタ等の中でこいつにテニスを教えられる奴がいるのかよ? 寝言なら教壇で垂れとけ。このカスが!」
平然と教師を無能扱いした上に、テニス部以外に通用しない道理で啖呵を切る唐沢。これ以上騒ぎが大きくなる前に中断しなければ、とんでもない事になる。
「唐沢先輩、教室に戻りましょう。無理を言って、すみませんでした」
唐沢に事実を隠して、勝負を挑んだことが悔やまれた。彼は、純粋に後輩の指導の為に試合を引き受けたに違いない。来週には後輩でなくなるとも知らないで。
「真嶋、コートに戻れ。続けるぞ」
「いえ、でも……」
「ゲームカウント2−0からだったよな?」
「唐沢先輩、すみません!」
ついに罪悪感に耐え切れなくなって、透は事実を打ち明ける事にした。
「実は俺、来週にはこの学校からいなくなるんです。親父の転勤で。だから、このまま試合を続けても、先輩に迷惑をかけるだけで意味がないんです。
騙すような真似をして、本当にすみませんでした」
この時だけは、大事な要素を見失っても仕方がないと思った。中途半端な形で試合を終わらせるのは辛いが、先輩に迷惑をかけるのはもっと辛い。
もうすぐ居なくなる後輩の為に、教師とトラブルまで起こして試合を続けても、唐沢には何の得にもならない。それどころか、後で部員でもない者の為に処分を受ける事になりかねない。これだけは何としても避けたかった。
ところが唐沢から戻ってきた返事は、透の意表を突くものだった。
「真嶋、まさかアメリカへ行ったら、テニスを止める気か?」
咄嗟に首を横に振ったが、今、唐沢は確かに「アメリカ」と言った。転校の事実は伝えたが、行き先まで漏らした覚えはない。
ひょっとして彼は、いや、間違いなく事情を知っている。透が来週には光陵学園を離れ、アメリカに旅立たなければならない事を。
混乱の最中にいる透に向かって、唐沢が淡々とした口調で告げる。
「俺は、真嶋がもっと上を目指すと思ったから試合を引き受けたんだ。テニス部の先輩としてではなく、一人のプレイヤーとして」
「唐沢先輩、最初から転校のことを知って……?」
「当然だ。俺に隠し事しようなんて、二万年早いんだよ」
「でも、それじゃあ、先輩に迷惑かけるだけで……」
「タ〜コ! 俺の心配をするのも、二万年早いんだよッ! 続けるぞ」
この先輩にはいつも驚かされる事ばかりだが、今回最も驚かされたのは、彼が一人のプレイヤーとして接してくれた事だった。
ギャンブル好きのふざけた副部長の姿も、彼なりのパフォーマンスなのかもしれない。誰にも見せようとしないだけで、本当は彼の中にも存在する。テニスプレイヤーとしての情熱が。
もうすぐ日本を発つという段になって、最後の最後で彼は素顔を見せてくれたのだ。
「海斗は、本当は懐が深い」と、弟の疾斗が話していた。それも今なら納得できる。
今まで窮地に立たされると、不思議と思い出す唐沢のアドバイス。あれもレースの為ではない。彼なりのやり方で、透を育ててくれていたからこそ出てきた言葉だ。同じ情熱を持つ者として。同じ道を歩もうとするプレイヤーとして。
この先輩に対して、自分がしなければならない事はただ一つ。
透は目を閉じてから、ゆっくりと深呼吸をした。教師達の雑音はもう耳に入らなかった。頭の中に描かれたのは、Fコートに引かれた白いラインと「2−0」のゲームカウント。巻き返しのチャンスは、あと1ゲームしかない。
そう言えば、今の騒ぎになる前に大事なことを思い出しかけていた。「越智さんと同じになる」と、思った記憶がある。
今までの試合の流れを振り返るに、透は季崎と同じ手に引っかかり、続いて越智と同じ戦法で振り回されていた。ドリルスピンショットを意識するあまり、攻撃が甘くなっていたからだ。
唐沢を追い詰めるには、裏の裏の裏まで読まなければならない。
透はボールを握り直すと、その感触を確かめるようにバウンドさせた。いつの間にかサーブ前のバウンドが、思考をまとめる為の儀式となっていた。
「先輩の裏をかいた一瞬が勝負だ」
呼吸を整えた透が放ったのは、外側に大きく逸れるスライス・サーブであった。このサーブを使って唐沢をコートの外へ追い出すと、自分は素早くネット中央を目がけてダッシュした。そして相手がボールを捕らえた瞬間、すぐさま左サイドに寄って、次の返球に備えた。
予想通りであった。透のネット前からの攻撃を牽制しようとした唐沢は、左サイドに抜けるパッシングショットを打ってきた。
あらかじめ、この流れを読んでいた透はネット前でパッシングショットを拾うと、逆サイドを狙って角度のきついボレーを繰り出した。普通なら、これで決まるはずのポイントも、唐沢が相手ではそうはいかない。浅くなった返球を見逃すことなく、彼は中ロブで応戦してきた。
「よし、ここだ!」
都大会の対・越智戦で見せられたものとまったく同じ展開に、透は確信を強めた。
持ち前の脚力で素早くベースラインまで移動すると、緩やかな弧を描くロブの後ろに回りこむ。唐沢からポイントを奪うには、この一瞬しかない。
全身の筋力をただ一点に集結させるべく、充分に力を溜めて中ロブの落下地点を見定める。オールラウンダーの越智はドライブ系のハイボレーを使ってノーバウンドで処理したが、透はそれを一旦バウンドさせてからパワーショットで返球しようというのである。
筋力の乏しい体で力を込めたとしも、パワー重視の先輩達のような強力な武器とはなり得ない。しかしタイミングを図って打つことで、決め球となる場合もある。少なくとも華奢な唐沢に対しては相応の役割を果たすと踏んだのだ。
「今度こそ!」
透は全身の力を込めて、決め球となる一打を相手コートへ叩き込んだ。
越智と同じくハイボレーで対処すると思っていたのだろう。予想に反しベースライン後方でストロークの構えを取る後輩の姿に、唐沢がつと眉を寄せた。
クレーコートと違って、ハードコートは球脚が速い。透の渾身の一打は、予想以上のスピードと回転を携え相手コートへ突っ込んでいった。
唐沢の体の真ん中でセットされていたラケットが後ろへ引かれた。それに吸い寄せられるように、決め球となるはずのボールが浮き上がる。
まだ勢いの衰えぬボールは唐沢の手元で更なる回転を施され、徐々に角度が変えられていく。見覚えのある瞬間が、再現されようとしていた。
素早い動きを追いかける視覚が、コマ送りとなって記憶に流れ込む。現実と記憶の二重の映像が映し出される中で、ドリル回転に生まれ変わったボールが透の足元へ迫り来る。
それは空間を突き破るようにして向かってきたかと思えば、ネットを越えると同時に急激な下降線を描き、足元でバウンドした直後に蛇行しながらコートの外へと逃げていった。
「これが……」
ボールが足元を通過したというのに、透は身じろぎもしなかった。濃厚な一瞬を視覚に収めるのに精一杯で、ラケットを出す間もなかった。
相手の球威を利用して返し技とするドリルスピンショット。カウンターパンチャーならではの必殺技を、ついに見た。
このテクニックを自分のものにしたい。この先輩を目標にしたい。
コートの外に出てからも、尚、回転の解けないボールを見つめながら、透は遥希から教えられた大事な要素を確信した。パワーではなく、テクニック。オールラウンドではなく、カウンターパンチャー。それは唐沢だけでなく、父が歩んだ道でもあった。
もっともっと強くなって、追いかけて、追い付いて、そしていずれは追い越したい。
ドリルスピンショットの足跡をいつまでも見つめる透のところへ、唐沢が歩み寄ってきた。
「お前の勝ちだ」
「えっ? でも、俺まだ1ポイントも取っていないって言うか、このままだと負けに……」
「誰が試合に勝て、なんて言った? 条件は俺を本気にさせる。そうだろ?」
「そうだったんですかぁ?」
またしても彼に嵌められたような気もするが、今回ばかりは悪い気はしなかった。こうしたトリッキーな言動も全て彼のパフォーマンスだと思うと、落胆どころか尊敬すらしてしまう。
「ひょっとして、俺に試合で勝つつもりでいたのか?」
「あ、いや、その……」
遅ればせながら、冷や汗が噴出した。自分はなんと無謀な勝負に出ようとしたのか。たった1ポイントを奪うにも、これだけ苦労したのに。結果的に取れなかったのに。試合に勝とうなどと、それこそ「二万年早い」と怒鳴られるに決まっている。
「たった一球だが、俺を本気にさせた。だから今回は真嶋の勝ちだ」
「あ、でも、これで借金までチャラになるのは、何だか申し訳ないッスね」
ついさっきまで踏み倒すつもりであった人間の言う台詞ではないが、先輩の素顔を知った今となっては、やはり申し訳ない気がする。
「遠慮するな。疾斗の借りもあるし、餞別代わりに取っておけ」
その口ぶりから察するに、最初から彼は借金などどうでも良かったに違いない。透にエンジンをかけさせる為の小道具だったと、今なら分かる。
「ついでにもう一つ。餞別になるかどうかは、分からないけど……
運命と宿命。この違いが分かるか?」
「運命と宿命ですか?」
「宿命というのは人が生まれた時と死ぬ時の巡り合わせで、これは逆立ちしたって変えられない。人が生れ落ちる時の環境を選ぶことは出来ないし、たぶん俺達の寿命も、神様とやらに決められている。
だけど、その宿命と宿命の間に挟まれている運命ってヤツは……」
晴れやかな空を見上げながら、唐沢が目を細めた。
「運命は変えられる。但し、自分で変えなきゃ意味がない……と、俺は思う」
彼が目を細めているのは、日差しの所為ではないだろう。透はようやく先輩が何処を見つめているのか気が付いた。遠くに向けられていた眼差しは、過去を振り返っていたのではない。上を見ていたのだ。どこまでも突き抜けていく高い高い空を。唐沢自身が目指す頂点を。
「真嶋なら大丈夫だ。俺の見込んだ穴馬は、最後には必ず勝つからさ」
「先輩……あ、ありが……と……」
透は先が続けられなかった。緊張がふと緩んだ直後にかけられた優しい言葉ほど涙腺を緩ませるものはない。
決して泣かないと決めていたのに。無理やり引っ込めた涙に代わって、不規則なリズムが体を揺らし始めた。
「そのラケット、大事にしろよ?」
みっともなく上下する頭を、唐沢が軽く小突いた。
遠目で見た山に近付いてみて、初めてその高さを知ることがある。思いのほか大きな目標を見つけた透に、もう迷いはなかった。
同時に、漠然としか見えなかった希望の欠片もはっきりとした形になった。
運命は変えられる。だから強くなるしかない。自分の手で変えられるぐらいに。
強くなって、追いかけて、追い付いて、そして――。
「いつか、きっと……」
透は設備の整った高等部のコートをその目に焼き付けた。いつでも、何処にいたとしても思い出せるように。
試合を終えた二人がコートから出ようとすると、高等部の教師達の代わりにコーチの日高が立っていた。どうやら彼が教師陣を取りなし、その場を収めてくれたらしい。お世辞にも愛想が良いとは言えない仏頂面に、更に拍車がかかっている。
「お前等、この借りはでかいぞ?」
日高は仁王立ちの姿勢でコートの出口に立ちはだかり、胸の前で組んだ両腕のうちの片方で拳を作り、ワナワナと震わせている。この様子では二、三発、ぶん殴られそうな勢いだ。
透はともかく、無理を言って試合に付き合わせた唐沢を巻き添えにする訳にはいかない。
「あれ、おっさん? 高等部の先輩達と一緒に合宿へ行かなかったのか?」
今朝、朝食を共にしたにもかかわらず、透は話題を変えたい一心で明るく日高に話しかけた。だが彼はそんな打算に引っ掛かるほど甘い相手ではない。
「負けた奴等と寝泊りするほど、俺は暇じゃない」
高等部は先のインターハイ予選で敗退したと聞いている。テニスに関してはシビアなポリシーを持つ日高は、大会に出場するチャンスのない高等部の部員達よりも、中等部の指導を優先したのだろう。
透の愚問を一掃すると、日高が改めて唐沢を睨み付けた。
「教師相手に『カス』はマズイんじゃねえか、副部長?」
確かに、唐沢は教師達に向かって「カス」の他にも暴言を吐いていた。小言を言われるのは、ある意味仕方のない事だ。授業中に試合をした行為よりも、唐沢の言動に問題があるようだ。
だからと言って、この状況を黙って見過ごす訳にはいかない。事の起こりは、透が唐沢のドリルスピンショットを見たいと言い出したことから始まったのだ。責任の所在は自分にある。
「おっさん、これは俺が……」
透が口を開きかけたところへ、唐沢がぽつりと呟いた。
「十日ぐらい前に、オヤジ二人で、あそこ……駅裏の、何て言ったかなぁ」
そう言った途端、日高の顔色が変わった。
「そうだ、ピンクパンサーのキョウコちゃん? メチャメチャ酒癖の悪いオヤジが二人で来て、えらい迷惑したって、零していたんだよね。
まさか光陵学園のテニス部のコーチともあろう人が、そんな店に出入りしていないよね?」
「な、なんで、お前がそれを!?」
顔色が変わったのは、日高だけではない。透もまた青ざめていた。
『ピンクパンサー』がどんな店かは知らないが、怪しげな風俗店の類であることは間違いない。そして日高とつるんでいたオヤジと言えば ―― 十日前なら、まだ龍之介は日本にいたはずだ。
「あのクソ親父! 俺に転校の話もしないで、何やってんだよッ!?」
透はこの時、怒りを堪えるのは涙を堪えるより辛いという事実を、身をもって体験した。
幸いにも、後輩の怒りには気付かぬ様子で、唐沢はじわじわと日高を追い詰めている。
「キョウコちゃんは、昔、俺がつるんでいた奴の彼女でさ。最低のオヤジだったって怒っていた。
夜のグランドスラムがどうのって、しつこく言い寄ってきたらしいんだけど。どういう意味かな、コーチ?」
「か、海斗君? ここは一つ大人になって、お互い譲歩しようじゃないか?」
「大人になれって言われても、俺、まだ中学生だし」
気の毒なほど狼狽する日高を相手に、唐沢の悪魔ぶりが加速する。
「ハルキに聞いても良いんだけどさ。あいつなら大人のコーチから色々と指導されているんじゃないの?」
「た、頼む! それだけは勘弁してくれッ!」
百戦錬磨の日高も、悪魔になった唐沢には打つ手がないらしい。「俺の心配をするのは二万年早い」と、豪語するだけの事はある。
再び慣れた手つきでフェンスの鍵を閉めると、唐沢が透のほうを振り返る。
「さあ、教室に戻るぞ。学生の本分は勉強だからな」
賭け事に勝利した時のみ見せる爽快感満載の笑みを残し、唐沢は飄々と去っていった。