第49話 さらば光陵テニス部

 やはり、この日が来てしまった。
 夜寝る前にカレンダーと睨めっこしながら、秘かに来ないでくれと祈り続けた。毎朝起きる度に、夢落ちになりはしないかと拝みもした。それでも一日の狂いもなくやって来た。光陵学園最後の登校日。
 覚悟を決めたとは言え、出来る事なら“転校”そのものを無かった事にして欲しいというのが正直な気持ちである。
 布団の中で目を瞑り、透は最後の大ばくちに打って出た。
 「きっと、これは悪い夢だ。今度起きたら、俺ん家に戻っているはずだ。あとはリビングへ降りて、お袋に合宿の話をするところから、やり直せば良い」
 そう自分に強く暗示をかけて、意味もなく十秒数えてから目を開ける。だが、視界に入ってきたのは透の自宅の天井ではなく、遥希の家のものだった。
 「だよな……」
 自分でも愚かな事をしたと、恥ずかしくなった。どう考えても、こんなリアルな悪夢を二週間も見続ける訳がない。コートの中では評価される諦めの悪さも、今は恨めしく思うばかりである。
 「しっかりしろ! 今日はビシッと決めなきゃいけないのに……」

 重い足取りでダイニングまで降りていくと、先に朝食を済ませた遥希と目が合った。
 「遅せえぞ。今日が最後なんだから、遅刻すんなよな」
 挨拶代わりのライバルの毒舌も、さすがに今日は胸に応えた。
 「ハルキ、お前さ。もうちょっと、俺に気を遣おうとか、思わねえの?」
 「なんで居候のお前に、大家の俺が気を遣わなきゃならないんだ?」
 「だから、下宿の話じゃなくて」
 「なに?」
 「いや、もう良い」
 これ以上、無神経な相手と会話を続けても時間の無駄である。理由を説明していくうちに、うっかり涙腺が緩みでもしたら厄介だ。
 透は気を取り直して食事を済ませると、なるべく何も考えないようにして家を出た。
 学校へ向かう途中で、遥希が透の提げている紙袋に目を留めて、不思議そうに聞いてきた。
 「それ、返すのか?」
 「ああ。結局、一度も袖を通してねえからな」
 袋の中身はテニス部で支給された試合用のユニフォームであった。
 「律儀に返さなくたって、記念に貰っておけば?」
 「着てもいねえのに、記念にもならないって。新品だし、誰か代わりに使えるだろ?」
 透はわざと素っ気なく答えた。遥希もそれきり何も聞いてこなかった。
 互いに言葉を交わす事もなく、傍から見れば、いつもの仲の悪い二人であった。

 教室に着いてからも、遥希の態度は変わらなかった。当然のことながら、転校を知らされていない級友達も。
 どこまでも無邪気な彼等は相変わらずのバカ騒ぎを繰り返し、明日も同じ日が来ると信じて無駄に楽しく過ごしていた。
 お調子者の高木は女子更衣室への“自然な侵入方法”を真面目な顔で持ちかけてくるし、小心者の久保田は高木が起こす騒動に巻き込まれないよう透の背後に逃げ隠れ、学級委員の宮越は「君に二度とノートは見せないからね」と鼻息荒く宣言し、学年首位を目指して昼休みでも机にかじりついていた。
 女子の輪の中央を陣取り、噂話に花を咲かせる塔子。その隣でボケだかツッコミだか分からないトークで皆を笑わせる詩織。淡々と過ぎゆく日常。最後の学園生活。
 運命を変える術を持たない無力な人間は、ただ幸せな時間が通り過ぎるのを知らん顔して見送るしかない。幸せだったと思える時間が、少しでも長引くように。

 帰りのホームルームの時間になって、担任の大塚が透を教壇の前へ呼び寄せた。
 普段は透の顔を見るたびに眉間に皺を寄せる彼だが、今日に限っては眉毛も目尻も下がっている。「手のかかる生徒ほど可愛い」といったところか。やけに名残り惜しそうな顔である。
 転校の話がなければ、情をかける事もなく進級させたであろうに、別れというのは人を柔和な方へと追いやる作用があるようだ。
 「突然ですが、今日で真嶋君はアメリカへ転校することになりました」
 教室のいたる所から驚きの声が上がる。
 「マジ!? 嘘だろ?」
 「真嶋、なんで黙ってたんだよ?」
 「信じらんな〜い」
 男女問わず発せられるブーイングは、どれも親しさの現れだ。友達だからこそ文句が出るのだ。転入当初の冷ややかな反応と比べれば、奇跡に近い変わり様である。
 口々から漏れ聞こえる抗議の声を担任が静めると、透から皆へ別れの挨拶をする為の時間を設けてくれた。
 クラスメートの視線が集まる中、透は普段通りの口調で切り出した。
 「皆、今までありがとな。一緒に過ごせて楽しかった。
 けど、俺、こういうの苦手だから、もう行くわ。じゃあな!」
 せっかくの担任の好意を台無しにして、透は教室を飛び出した。時間にして十秒もかからなかった。
 今頃は呆気ない別れに級友達が再び文句を言い始め、担任の大塚が最後まで無礼な生徒だったと激怒して、学級委員の宮越が事態を収拾しようと張り切っているに違いない。
 罪悪感がない訳ではないが、これが明るく振舞っていられる限界だった。

 挨拶を短く終わらせた理由はもう一つある。
 教壇に立つ前から、ずっと透に張り付いていた奈緒の視線。思い過ごしでなければ、転校が決まった頃からこちらを見やる機会が増えたように思う。
 授業中でも休み時間でも、様子を探るような視線を隣席から幾度も感じた。横を向いている時とか、彼女に背を向けている時は特に。
 彼女の視線に気付いているくせに、この二週間ずっと避けていた。自分でも情けないと思いつつ、言葉を交わせば全てを打ち明けてしまいそうで怖かった。
 彼女にも薄情な奴だと呆れられたかもしれない。十把一絡げの挨拶で済ます程度の仲なのかと、腹を立てていたとしたら ―― そうあって欲しいような、欲しくないような。複雑な想いが交錯する。
 廊下を全速力で走っているのに、教室から部室までの距離がいつもより長く感じた。視界の端から通り過ぎていく見慣れた景色。掃除当番をさぼって美化委員に追い回された廊下も、級友達とふざけ合った下駄箱も。
 幸せな日常が視界から消えると同時に思い出に変わっていく。遠ざかる教室。遠ざかる仲間。遠ざかる想い。それらの残像を振り切るようにして、透は部室を目指して走っていった。

 関東大会に出場するレギュラー陣の為に特別に用意された練習メニューは、感傷に浸りたくない者にとっては非常に都合が良かった。涙を堪えるどころか、考える暇すら与えてくれない。先輩達の中に混じって厳しい練習をこなしていくうちに、一時的でも嫌なことを忘れられる。
 しつこい痛みも異なる痛みを与えられる事によって一時的に忘れられるように、矢継ぎ早に渡されるハードな練習メニューが、不安定になりがちな感情を遠くへ押しやってくれる。精神的な苦痛より肉体的な苦痛を味わう方が、何倍も楽だと痛感する。
 だが、その新たな痛みの効果は思いのほか早く切れてしまった。高等部のテニス部員と入れ替わりに、中等部も明日から合宿に入る為、通常よりも早目に練習時間が切り上げられたからである。
 まだ身も心も完全燃焼しきれていないが、仕方がない。余力を残した状態で透が部室に入ると、部長を始めとするテニス部全員が顔を揃えていた。
 緊急の伝達事項でもない限り、狭い部室に全部員が集まることはない。状況を察した透は、覚悟を決めて退部の挨拶を始めた。
 さすがに自分のクラスと同じ挨拶で済ます訳にはいかない。体育会系に所属する部員らしく、はきはきとした礼儀正しい態度で有終の美を飾らなければならない。
 「皆さん、お世話になりました。俺、今日でテニス部を退部することになりました。短い間でしたが、本当にありがとうございました!」
 頭の中で何度もシミュレーションした甲斐あって、自分でも二重丸をあげたくなるような堂々たる挨拶であった。
 だがもう一つ、最後の難関が待っていた。今から試合用のユニフォームを返さなければならない。

 透は大きく息を吸い込むと、後ろ手に持っていた紙袋を部長の成田に差し出した。
 「部長。これ、お返しします」
 気持ちとは正反対の言葉を口にするのが、こんなに苦しいとは知らなかった。レギュラーの証である試合用のユニフォーム。大会に出場したい一心でトレーニングを重ねてきた努力の勲章。それを一度も袖を通す事なく返却しなければならない。正確には、一度も袖を通さなかったからこその返却だ。
 「それは、もうお前のものだ。返す必要はない」
 差し出された紙袋を受け取ろうとしない成田に対し、透も腕を伸ばしたまま動かなかった。
 規律に厳しい成田が珍しく融通を利かせてくれている。光陵テニス部の思い出の品として取っておけとの含みがあるのだろうが、透にも拒否する理由があった。ただそれを話して聞かせる余裕がない。
 部室の中に、別れとは違う種類の重い沈黙が流れた。
 「せっかくだから貰っておけよ。どうせ部費から出てるんだから、遠慮するなって」
 二人の様子を見兼ねた副部長の唐沢がフォローに入った。
 「いえ、違うんです」
 紙袋を両手で差し出し、頭を下げたままの格好で、透はあらん限りの声を振り絞った。
 「今、このユニフォームを貰ったら……」
 少しずつしか言葉が出てこない。
 「思い出になってしまうから」
 ここも練習したはずなのに、声が掠れてしまう。
 「思い出にしたくないんです。いつか自分で……取りに戻るから……決めたから……」
 いつか自分の力で日本に戻る。これが透の出した結論だった。光陵学園での生活を、思い出として終わらせない為に。

 袋を前に伸ばし続けていた両腕が、ふと軽くなった。
 「分かった。これは俺が預かっておこう」
 まるで現実味のない返却だというのに、成田は「預かる」と言って受け取ってくれた。これも別れがなせる業なのか。
 「真嶋、サイズが合わなくなる前に帰って来いよ? 他のウエアならともかく、うちのユニフォームじゃ金になりそうにないからさ」
 湿っぽくなった場を和まそうとしたのだろう。唐沢が飛ばした冗談のおかげで、部内の重たい空気が解れ、部員達からも笑い声が漏れてきた。そしてそれを切っ掛けにして、皆が透にはなむけの言葉をかけてきた。
 いまだ顔を上げられる状態ではなかったが、透は一人ひとり、誰からの言葉か理解して聞いていた。
 「向こうへ行っても、困った事があれば相談してちょうだい。坊やなら、いつでも歓迎よ」
 これは滝澤だ。最後まで独特の雰囲気に馴染めなかったが、透がレギュラーの座を勝ち取る為に快く力を貸してくれた。
 「真嶋、アメリカ人なんかに負けんじゃねえぞ! 大和魂、見せ付けてやれよ!」
 元気良く渇を入れてくるのは、藤原だ。彼の突拍子もない口上には驚かされたが、最初に「お前は強くなる」と言って初心者の透を励ましてくれた。
 荒木と中西は何も言わなかったが、握手を求めた際の力強さで判別できた。
 無言の別れが続けてなされた後、千葉が「テニス部の皆からの餞別だ」と言って、見覚えのある店のロゴの入った包みを透の懐へ押し込んだ。
 中を開けてみると、透が前々から欲しいと思っていたテニスシューズが入っていた。駅前のスポーツショップで、値段が高くて手が届かないと思いつつ、諦め切れずにいた一品だ。部活動の帰りによくショップに付き合わせた千葉が選んでくれたに違いない。
 彼は最後まで透の良き理解者であり、最高の兄貴分であった。
 「トオル! これ履いて、向こうでもテニス続けろよな! それから……って、何すんだよッ!? 陽一!」
 待ちきれない様子で割り込んできたのは、双子の弟・陽一朗だった。
 「俺ッチが、アメリカへ行くことがあったら泊めてくれよな? あと通訳もよろしく!」
 別れの言葉とは思えない軽い口調で話しかける弟を、兄の太一朗が諭している。
 「自分の事ばかり話さないで、もっと真嶋を元気づけるようなことを言わないと……」

 他にも多くの部員達が透に声をかけてきてくれた。岐阜から転校してきた時は一人も知り合いなどいなかったのに、テニスを始めたことで多くの出会いがあり、こうして仲間ができた。
 部員達の別れの挨拶を一人ずつ聞きながら、透は部室の床の一点を睨み付けていた。こうでもしないと、一番見せたくない顔を皆に見られてしまう。
 泥で汚れた部室の床がすでに歪み始めている。歯を食い縛り、唇を固く結び、涙が溢れてこないように瞼をしっかり見開いた。
 絶対に泣かない。運命を変えようとしている男が、こんなところで泣いてはいけない。
 必死で塞き止めた涙が重力に負けそうになったところで、長く続いた別れの挨拶も最後の一人となった。どうやら泣き顔を見られずに済みそうだ。
 いつもと変わらない硬い口調で、部長の成田が別れの儀式を締めくくった。
 「何処へ行こうが、真嶋がうちのレギュラーだった事実に変わりはない。その誇りを忘れるな」
 幸せな時間は、こうして幕を閉じた。

 部員が全員帰るのを見届けてから、透は再びテニス部の活動場所まで戻ってきた。
 十二面のコートを六面ずつ二分した中央にある壁打ちボード。本来そこはウォーミング・アップやフォームチェックをする為の場所にもかかわらず、部員達の間では部長の目を盗んで練習をさぼる為のデッドスペースとして認識されている。また透にとっては最初に千葉から素振りの基礎を教わり、初めて唐沢のカモとして捕まった思い出深い場所でもある。
 個性的な面々に囲まれて過ごした所為か、四ヶ月しか在籍していないのに、立っているだけで在りし日の皆の姿が次々と甦ってくる。
 今なら、日高が父・龍之介にとって光陵学園は特別だと話していた、その言葉の意味も良く分かる。父と同様、息子にとっても、ここはもう特別な場所になっていた。
 「たった四ヶ月で退部かよ……」
 ずっと触れないようにしていた数々の想いが透の胸を貫いた。
 この二週間、自分なりに転校の事実を受け入れようと必死だった。それだけに、全ての課題が片付いた今、本音だけが消化されずに残っている。
 テニス部へ返してしまった試合用のユニフォーム。せめて一度で良いから、あれを着て大会に出場したかった。合宿にも参加して、「地獄の特訓メニュー」とやらを体験してみたかった。次のバリュエーションで、もう一度、今度は同じレギュラーとして遥希と対戦したかった。
 ライバルの遥希を倒すという最初に掲げた目標も達成できず、ここで得た教訓も形に出来ないまま。未練だけが置き去りにされた空間に、もう透の居場所はない。
 「ちくしょう、なんで俺だけ……こんな……」
 透はラケットを取り出すと、壁打ちボードにボールを叩きつけた。それは思い出を記憶に刻む為の感傷的な行為ではなく、どちらかと言えば八つ当たりに近かった。
 怒りに任せて打ちつけたボールが、同じ勢いで戻って来る。「ちくしょう」と、叫んだ分だけの悔しさが。「バカ野郎」と、怒鳴った分だけの怒りが。ムカつくほど同じ強さ、同じスピードで、持ち主のところへ返ってくる。
 何度もボールを打ち付けているうちに、またも視界が歪み始めた。時々くっきり見えては波間に沈み、壁打ちボードに引かれた白いラインが直線と曲線と交互になって現れる。
 「何だよ……四ヶ月って? バカみてえ……」
 今、自分の視界を歪めているのは涙ではない。断じて泣いてなどいない。
 八つ当たりで始めた壁打ち練習が、次第に涙を誤魔化す為の演技になっていた。

 どれぐらいボードに向かっていただろうか。辺りが薄暗くなりかけた頃、背後に誰かの気配を感じた。
 振り返ると、帰ったと思っていた唐沢がジャージ姿で立っていた。
 「真嶋。せっかくだから、人間相手に打たないか?」
 透は慌てて涙を拭うと、言われるがままにコートへ入った。
 本格的な練習に入る前のウォーミング・アップのような、非常に単調なラリーが始まった。唐沢は特に自分から仕掛けるでもなく、ただひたすら透のレベルに合わせて返球してくれた。
 しかしこれが尊敬する先輩との最後のラリーかと思うと、透は上手く返す事が出来なかった。一週間前の高等部のFコートで対戦した時の方が、よほどまともなボールを打っていた。
 自分で判るくらいだから、相当ひどいプレーをしていたのだろう。唐沢が途中でラリーを中断した。
 「真嶋、力み過ぎ』
 「すみません」
 項垂れる透のもとへ、唐沢がいつもの飄々とした歩調で近付いてきた。
 「俺と同じカウンターパンチャーを目指すんだろ? だったら、相手の球威を利用することを考えろ」
 「すみません」
 これしか返す言葉はなかった。尊敬する先輩に不甲斐ない姿を見られたくなかったが、自分で気持ちを建て直す気力は残っていない。

 ひたすら謝罪を繰り返す透に向かって、唐沢が穏やかに語りかけた。
 「力押しの相手に対して、真っ向勝負が出来なければ、頭と技を使えば良い。相手の球威を上手く利用する事で、逆境も自分の力に変えられる。
 お前はそういう道を選んだ。違うのか?」
 いつになく温もりを感じる言葉は、未熟なプレーを責めているのではなかった。たとえ今は逆風が吹いているように見えたとしても、自分の持ちうる能力を駆使して進んでいけば、いつか追い風になるかもしれない。唐沢はそう説いている。
 「唐沢先輩? 俺……」
 「頑張ります」と言おうとした。励ましの言葉だと思ったからである。
 ところがそれを言う前に、上から頭を押さえ込まれた。
 「だから、あんまり頑張るな」
 「えっ……?」
 「辛い時は泣けば良いし、力が及ばない時はその場にうずくまっても構わない。あまり自分の力だけで頑張ろうとするな」
 予期せぬタイミングで予期せぬ言葉をかけられた為に、とうとう限界が来てしまった。今まで強くなろうと気を張っていたところへふわりと掛けられた「頑張るな」の言葉は、透のちっぽけなプライドをいとも簡単に押し流していった。

 物心ついた頃から、他人はもちろん親の前でも、意地っ張りな透は涙を見せたことがない。だが今だけは、どうしようもなかった。
 ずっと我慢してきた努力を無駄にして最後の最後で泣くのは不本意だったが、もう抑えが利くような状態ではない。自分の意に沿わず駄々をこねる子供のように、透は唐沢にしがみつき、声を上げて泣いていた。
 涙と鼻水の境はなくなり、喚き声と息継ぎはごちゃ混ぜになり、その合間を縫ってしゃっくりまで登場した。
 あらゆる症状が遠慮なく放出されている為に、自分がどこで呼吸をして良いのか分からない。ここまで豪快に泣くのは、小学生でも不可能だと断言できる程の号泣だ。
 この二週間、いや、もっと前からかもしれない。身勝手な父への不満、転校が重なる家庭環境と、それに対して何も出来ない無力感。手放さざるを得なかったレギュラーの座と、時間切れになってしまった遥希との対戦も含めて。ずっと我慢し続けた悔しさを洗い流すのに、かなりの時間を費やしたはずだ。泣きわめくのに疲れたら、すすり泣きに代わり、涙が補充できたらまた泣きじゃくり――。
 唐沢はそんな後輩を少しも非難せずに、黙って落ち着くまで待っていてくれた。まるで弟にするように、何度も頭を撫でながら。その穏やかな感触が、いつしか大切な宝物となった数々の思い出を甦らせる。
 穴馬として目を付けられたバリュエーションを始め、地区大会、都大会、Fコートでの対戦と。あらゆる場面で、唐沢からはその時々で必要なアドバイスを受けた。
 本人にそれと気付かせずに、必要とする時だけ必要なことを教えてくれた。面と向かって礼を言われるのが苦手なのか、決して懐の深さを見せない先輩。だからこそ目標にしたいと思ったのかもしれない。いつの日か越えてみたいと焦がれる程に。

 号泣の余韻はいつまでも透の体を揺らし、呼吸を乱した。それらが全て収まり、中学生としての自覚を取り戻した頃には、呆れて帰った夕日の代わりに、校舎から漏れる蛍光灯の明かりが四角い窓を青白く浮かび上がらせていた。
 視界の利かない暗がりの中で、深い海のような穏やかな声が響く。
 「どんなに勢いのある川でも、必ず流れを変えられるポイントがある。そう教えたよな? 覚えているか?」
 それは地区大会の時に、試合の流れの読み方を教えてくれた時の言葉である。だが、今はこれから透が向き合おうとする運命の話をしているに違いない。
 静かに頷く透を認めてから、唐沢がさらに続けた。
 「覚えているなら、もう何も心配する事はないな」
 優しく頭を撫でてくれた手が、ふっと離された。
 「真嶋。思いっきり泣いたら、顔を上げて行ってこい。そして必ずここへ帰って来い」
 透は涙と鼻水まみれの顔を上げると、今度はしっかりと頷いた。
 果たせるかどうか分からない約束。無謀な決意。それでも俯いたままでいるよりは、自分の決めた道を進む方がマシだった。泣くのを我慢する事しか出来ない自分でいるよりは、泣きながらでも顔を上げて歩く方が良い。一歩でも、半歩でも、一ミリでも前へ。
 出発は明日。透の運命を変える為の長い旅路は、ここから始まった。






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