第5話 龍之介からの挑戦状
帰りのホームルームが終了すると同時に、透が猛スピードで教室から出ていった。昼休みの一件から察するに、恐らく彼はテニス部へ直行したに違いない。
奈緒の胸に不安がよぎる。
テニスシューズの問題が解決していないというのに、一体、彼はどうやって入部するつもりなのか。しかもシューズのみならず、麻袋の口から見えていた木製のラケットも相当古いものだった。
運動部の先輩達は皆、一様に厳しいと聞いている。事情を知らない彼等がろくな準備もなしに入部しようとする素人部員を歓迎するとは思えないし、最悪の場合、ふざけていると勘違いして問答無用で追い返すかもしれない。
小さな不安は次第に膨らみを増し、現実味のある想像へと繋がっていく。
外部から専任コーチを雇い本格的な練習に打ち込むテニス部員の中に、昨日までラケットを武器代わりにして山奥を駆け回っていた少年が飛び込んだら、どうなるか。今朝の教室と同じような騒ぎが再び起こらないとも限らない。
机の脇でしょげ返る透の姿を思い出すにつけ、不安が現実になるような気がして、自然と奈緒の足は彼の後を追ってグラウンドへ向かうのであった。
テニス部が練習しているテニスコートは、野球部、サッカー部、陸上部の三つの部がそれぞれ都合をつけながら活動するグラウンドを通り抜けた外れにあった。校舎から最も遠いとは言え、敷地面積は広く、コート数も男女合わせて十二面と公立中学にしては突出して恵まれた環境にある。つまりそれは学校側から期待されている証拠であり、その分、そこでの活動内容はどの部よりも厳しいという事だ。
気分はまるでそそっかしい弟を持つ姉と同じであった。透は弟ではないが、昼休みに見せた幼さの残る笑顔や仕草から、奈緒は似たような感情を抱いていた。テニス部の先輩達は彼が転校生である事も、テレビの電波も届かない山奥で暮らしていた事も知るはずはなく、万が一の場合には自分が出て行かなくてはいけないと、密かに覚悟を決めていた。
ところが、奈緒の不安や心配はテニスコートの周りを囲む金網フェンスの側まで来た時、驚きに変わった。
「だ・か・ら、おっさんのスクールでバイトさせてくれれば全部解決するじゃねえか!」
テニスコートの中から、威勢の良い怒鳴り声が聞こえてきた。一瞬、テニス部の先輩が透を叱り飛ばしているのかと思ったが、実際に視界に飛び込んできたのは奈緒の予想だにしない光景であった。
透が入部希望者の分際で、あろう事か、テニス部コーチの日高を相手に怒鳴りつけているのである。しかも彼は、テニス部の活動とは無関係のアルバイトの交渉をしているらしかった。
無論、アルバイトを交渉する理由は容易に推測できた。だが、そもそも中学生がテニスシューズを買う為に日銭を稼ごうとしている事や、それをテニス部のコーチに依頼する事も、更にはとても頼みごとをしているとは思えない横柄な態度も、全てにおいてその光景は異様であり、結果としてテニスコートの周辺はまたしても人だかりが出来ていた。
「学校ではコーチと呼べ、コーチと!」
奈緒の記憶では、確かコーチの日高は寡黙で渋い大人の男であったはずなのに、透の「おっさん」発言が癇に障ったのか、彼は柄にもなく語気を荒らげていた。
遥希の父親であり、テニススクールのオーナーでもある日高コーチは、色白で小柄な息子とは対照的に、胸板の厚いいかつい男であった。元プロというのは伊達ではない。ジャージの上からでも鍛えられた筋肉が隆として見える体躯は、隣にいる透が小学生に見えるほどである。
そんな日高との体格差をものともせずに、透は
「ボール拾いでも、掃除でも、何でもやるからさ」と言いながら、堂々たる態度で交渉を続けている。
異様に映る原因は、他にもあった。
まだ春先で皆がジャージを着て活動しているというのに、透は半そで短パンの寒々しい体操服姿で、古い木製のラケットの入った麻袋を肩に担ぎ、自分より何歳も年上の大柄なコーチを下から上へ睨みつけている。その足元は、全体の異様さを一段と際立たせる素足であった。
思うに、彼が猛スピードでテニス部に直行したのは、マネージャーの塔子よりも先にテニスコートに入ろうとしたからだろう。彼女よりも先に入れば、とりあえずは門前払いを受ける事はない。
「良いか、トオル? 仮にも、俺はコーチだぞ?
テニス部のコーチが、部員にアルバイトの斡旋をするような真似はできんだろう?」
「それじゃあ、おっさんはコーチのくせに、入部希望者にテニスをするなと言うんだな?」
「誰も、そんな事は言っていない。シューズがないなら、龍に頼めば良いだろう?」
「おっさんも分かってんだろ? うちの親父が俺なんかの為に、すんなり金を出すと思うのか?」
二人のやり取りを聞きつけて、初めは小数だった人だかりは徐々に厚みを増し、テニスコートを囲むフェンスの周りには内側からも外側からも多くの野次馬が詰め掛けていた。
やはり透は騒ぎを呼び寄せる特異体質なのかもしれない。このままでは今朝の二の舞になってしまうと思った、その時だった。
「君、サイズはいくつ? 俺のシューズで良かったら、使うかい?」
フェンスの内側で集まっていた人だかりの中から、テニス部の先輩と思しき一人が透に声をかけた。
それを聞いた途端、透はけんか腰の態度を和らげて声のするほうへ振り向き、
「マジっスか? 24なんスけど」と調子の良い笑みをこしらえた。
「それなら、ちょうど良かった。
うちの母親が弟のサイズと間違って、小さいサイズで買ってきちゃってさ。確かまだ俺の部屋にあったから、明日には持ってこられると思うけど」
「ありがとうございます!
けど、俺、金ないんス。分割払いで良いッスか?」
「良いよ、お金は別に。母親がフリマで買ってきちゃったヤツだから。
ああいうとこで買ったのは、返品できないだろ?
俺も誰かに使ってもらえるなら、その方が助かるし」
無一文の入部希望者と心優しい先輩の交渉が上手くまとまりかけたと思われた矢先、人だかりの中からもう一人、その先輩と同じ顔の人物が現れた。
「ええっ、太一!? それ、俺ッチが使おうと思ってたのに!」
見た目と話し方から察するに、どうやら双子のようだが、何故かこの二人は瓜二つと言い切るには違和感があった。
「良いじゃないか、陽一。気にいらないからって、俺の部屋に置きっ放しにしていたくせに」
奈緒と同じことを感じたのか。驚いた様子で双子を見比べる透に向かって、太一と呼ばれた先輩が自己紹介をし始めた。
「ああ、ビックリさせちゃってゴメンね。俺は二年の伊東太一朗で、こっちは双子の弟の陽一朗」
兄の太一朗の紹介を受けて、弟の陽一朗が茶目っ気たっぷりの笑顔で「二人合わせて太陽になるんだよ」と応じた。
顔の作りは同じであるが、黒髪を体育会系にありがちなスポーツ刈りにしている太一朗に対し、陽一朗は襟足まで伸ばした髪を金色に染めていた。双子と言われて違和感があったのも、その所為だ。
「苗字が同じ伊東だから俺の事は太一で良いし、こっちは陽一って呼んでくれ。
それで、君は?」
「俺、真嶋透です。
今日からテニス部に入部します。宜しくお願いします!」
ペコリと頭を下げた透の背後から、コーチの日高が浅く蹴りを入れた。
「まだ入部を許可したつもりはないんだがな?」
「おっさん」呼ばわりされた事を、まだ根に持っているのだろうか。ただでさえ渋面に見える日高の顔が、さらに険しくなっていた。
「何だと、このクソ爺! シューズも揃ったんだし、良いじゃねえかよ!
そんな底意地の悪りぃ事ばっか言ってると、すぐに禿げちまうぞ?」
奈緒の知る限りでは、日高コーチは分別ある大人の男のはずだった。
「おっさん」発言に続き、「クソ爺」と呼ばれたことが気に入らなかったのか。あるいは、もともと短気な性格なのかは分からないが、日高はネットポストに立てかけてあったラケットを手にすると、ポケットからボールを取り出し、その場で数回バウンドさせた。
日頃からやんちゃ盛りの中学生を相手にしている彼は、口で言って分からない部員のしつけ方を決めているのだろう。無言で狙いを定めると、透の尻の辺りを目がけてサーブと同じスタイルでボールを打ち込んだ。
元プロのテニスプレイヤーが狙いを外す事などあろうはずはない。恐らくそれが外れてしまったのは彼のコントロールが衰えたからではなく、山育ちの透が球のスピードよりも素早かっただけの話である。
狙いを定めたサーブは、透が反射的に盾にした陽一朗に直撃した。
「痛って〜! 何すんですか、日高コーチ!」
「うるさい! 文句があるなら、トオルに言え!」
やんちゃ坊主を黙らせるつもりの一打が、逆に野生児の悪戯心に火をつけたようである。日高の一撃をかわして気を良くした透は、
「そんな遅せえ球じゃ、亀だって倒せねえぜ!」と笑いながら素足のままで練習中のテニスコートを横切り、ボールが届かないと思われる距離まで行くと、そこから憎々しげに舌を出して見せた。
「陽一、コーチ命令だ。あの猿をとっ捕まえて、俺の代わりに二、三発ぶん殴って来い」
「ラジャー!」
男子部員が活動する六面のテニスコートは、練習どころではなくなっていた。
水を得た魚のように素足で縦横無尽に走り回る透と、それを追いかける陽一朗。クレーコートは滑りやすいと聞いていたが、素足の透には何ら問題がないと見えて、後を追う陽一朗のほうが苦戦しているようである。
「コーチ、この騒ぎは?」
人だかりを掻き分け日高のところへやって来たのは、部長の成田であった。
地区大会止まりの弱小校から都大会制覇を狙う強豪校へと、光陵テニス部が躍進を続けられるのも彼の功績があっての事で、その実力たるや、都内の個人戦では中学一年生の頃から常に上位入賞の成績を収めているという兵だ。
一見して成田は卓越した実力とは対照的にごくごく平凡な中学生の風貌で、体つきは中肉中背、肌の色も白からず、黒からず。唯一個性の出しやすい髪型も、金髪の部員がいる中で黒髪を染めることなく、プレーに支障が出ない程度に整えているに過ぎなかった。しかし、兵ならではのオーラと言うのか。姿勢も視線も真っ直ぐに映る凛とした佇まいが、秘めたる強さを物語っている。
成田の力強い黒い瞳がコート内の二人を不愉快そうに捕らえた後で、疑問を多分に含んだ視線となって日高に向けられた。「何故こんな騒ぎを放置しているのか」と、言いたげである。
ところが当の日高は部長からの無言の抗議をふてぶてしい笑みでかわすと、先程の大人気ない態度とは打って変わって、真剣な面持ちで騒ぎの渦中いる二人の姿を見つめて言った。
「スピード、瞬発力、柔軟性はいずれも合格だ。持久力はもう少しで分かるだろう。
なあ、成田? 陽一とあの新入生、どっちが先にへばると思う?」
「体力的に二年生の陽一のほうに分があると言いたいところですけど、あの新入生はまだ走りのフォームが崩れていません。恐らく陽一が先にダウンするんじゃないですか」
「まあ、そうだな」
「俊足では部内一、二を争う陽一が追いつけないなんて。
コーチ、あの一年生は一体?」
「ありゃ、龍之介からの挑戦状だ」
依然としてテニスコートの中では陽一朗と透による追いかけっこが続いていた。すでに息の上がりかけた陽一朗が最後の力を振り絞って猛ダッシュを仕掛けるが、体力的に余裕のある透がすんでの所でかわしている。
野生の勘で、俊足の陽一朗に対して直線走行だけでは捕まると判断したのか。透はコート内を蛇行気味に駆け回り、追いかけている側に不意打ちの方向転換を強いている為に、二人の差は縮まらないどころか、シューズをはいている陽一朗のほうが滑りの良い地面に足を取られて転倒する場面も多々あった。
「持久力、それから洞察力も合格のようですね」
冷静に分析する成田と日高のもとへ、一人二人と、テニス部員が集まってきた。服装から察するに、彼等はテニス部の中でも最高学年の三年生に違いない。皆、揃いのレギュラー・ジャージを着用している。
「体力が限界のところへ、走行コースを変えて相手を振り回す。予測できない分だけ、追いかけるほうが体力を消耗するわよね。
なかなか頭の良い坊やみたいだけど、一体何者?」
見るからに男子部員だが、女子よりも物腰の柔らかそうな先輩の一人が聞いてきた。
「日高コーチ?」
三年生を代表して再び成田が答えを促すと、日高はその問いかけには応じず、新たな質問をよこした。
「お前等、うちのOBの真嶋龍之介を知っているか?」
皆が正解を求めて互いの顔を見合わせた。部外者の奈緒はもちろん、現部員の先輩達もその名に聞き覚えはないらしい。
するとそこへ、茶髪の先輩が声を上げた。
「ああ、あのスポーツ科学者の?」
赤みがかったココア色の髪をした色白の先輩は、成田と並んで躍進する光陵テニス部を率いる副部長の唐沢で、自分にも他人にも厳しい部長とは対照的に人当たりの良い温厚な人柄だと聞いているが、実はかなりの切れ者だという噂もあった。
「おお、さすが副部長。よく知っていたな。
龍之介は、日本より海外での方が知名度も高いんだがな」
「兄貴が読んでいた雑誌で、偶然見た記憶があったから」
素っ気無く答える唐沢に何故か日高は苦笑してから、皆に「真嶋龍之介はトオルの父親だ」と告げた。
「コーチ、さっき仰っていた挑戦状というのは?」
成田が畳み掛けるように質問を重ねると、日高は分かっているという風に一つ頷いてから、透の父親について説明をし始めた。
「龍はうちのOBで、以前はスポーツ科学の第一人者として海外を中心に活躍の場を広げていたんだが、ちょっと気まぐれな所があってな。ある日突然、岐阜の山奥へ引っ込んだと思ったら、つい最近になって、ひょっこりこの街へ戻ってきた」
ここで日高は一旦話を区切ってから、懐かしそうに目を細め、先を続けた。
「あいつのスポーツ科学の基本理念は、基礎体力、運動能力、それに精神力の三つがアスリートの基軸となるという説だ。この三本柱が土台となって初めて専門のトレーニングの成果が出せると謳っている。
だが、今の日本でそれを実践するには環境的にも効率が悪い」
日高の説明に唐沢が
「必要な基礎体力をつけるにしても、全てが便利になり過ぎているということですよね」と言って合いの手を入れると、彼はそれに相槌を打ってから、更に続けた。
「だから俺も息子のハルキにはテニスの技術面での指導を優先的に施し、基礎体力は必要最低限のものを補う形を取ってきた。
だが龍之介は俺と正反対のやり方で、自分の理論を貫いた」
「正反対のやり方?」
その場にいた三年生の誰もが、首を傾げた。
「テニスというスポーツをするのに必要な三つの柱、基礎体力と運動能力と精神力。これらを同時に養える環境が、トオルが育った岐阜の山奥だ。龍はそこで息子にテニスがどういうものかを教えずに、 ラケットとボールだけを渡して自由に遊ばせた。
やんちゃなトオルはそれを野生動物から身を守る武器として用い、時には果物を採る為の道具として使ってきた。テニスのルールは知らないが、奴はラケットとボールを自分の手足のように自由に使いこなせるはずだ」
日高コーチの説明から、透の父親の教育方針が少しずつ 明らかになっていった。
「山の中ならテニスのフォームにとらわれずに、遊びながら必要な運動能力を身につける事が出来るという訳ですね?」
成田の一言に、皆が納得した風にコートを駆け回る透を見やった。
これで挑戦状の謎も解けた。テニスならではの体の使い方を教えず、ラケットとボールだけを与えて野放しにする。この特殊な環境のおかげで、透は無意識のうちにアスリートに必要な三本柱を確立していった。そして次のステップへ行かせる為に、透の父親は息子をこの学園に送り込んだのだ。
都会の中で生徒達を指導する立場にある日高にとってみれば、 まさしく透は 「龍之介からの挑戦状」 という事になる。
「俺の見立て通りであれば、トオルの運動能力はうちのレギュラーの平均値に達しているはずだ」
コート内の二人を追いかけていた日高の視線が、今度は部長の成田に向けられた。
「成田? 陽一が恥かく前に、そろそろ終らせてやるか?」
「分かりました」
成田が二人に声をかけると同時に、陽一朗は電池が切れたようにコートの上で大の字になって倒れこみ、透は軽やかな足取りで戻ってくると、物足りない様子で部長に挨拶をし始めた。
「問題は」と、日高が副部長の唐沢に向かって呟いた。
「トオルはテニスの実戦経験がゼロだということだ」
「テニスに特化して英才教育を受けてきたハルキと、大自然に囲まれた山奥でテニスの存在を知らずに育った真嶋。まさにサラブレッドと野生馬と言ったところですね。
ふ〜ん、面白くなってきた」
唐沢が、長い前髪を掻きあげながら柔和な笑みを作った。
「どっちが勝つか賭けてみようか、滝澤?」
「いいえ、結構よ。海斗がその顔をする時は、要注意だもの」
唐沢の誘いに対し、滝澤と呼ばれた物腰の柔らかい先輩は体をよじらせながら断りを入れていた。
「せっかく楽しそうなレースなのに、残念だな。じゃ、他の連中に聞いてこようっと」
鼻歌まじりに部室へと足を向けた唐沢を、滝澤が呼び止めた。
「それで海斗は、どっちに賭けるつもり?」
「それを教えたら、レースの醍醐味が失せるだろ?」
「もう、ケチ!」
「ただ今度のバリュエーション、必ず入ってくるよ。あの二人」
唐沢の柔和な笑みが、一瞬だけ冷たい笑みに変化したように見えた。
どうやら自分の取り越し苦労だったと、奈緒は思った。決して穏便にとは言えないが、どうにか透はテニス部に入部できた。
もう少し彼の様子を見ていたかったが、今日は奈緒も手芸部の入部手続きを済ませなければならなかった。これ以上の騒ぎはないと踏んで、下駄箱へ戻ろうとした時である。
「だからさ、黙っていれば分かんねえから、おっさんのテニススクールでバイトさせてくれって!」
無事にテニスシューズを獲得したにもかかわらず、透はまだアルバイトを諦めていなかったようで、コートを去りかけた日高の背中を引っ張り、先程と同じ交渉をし始めた。
「シューズは太一から貰うことにしたんだろ? だったら、アルバイトなんかしなくても良いじゃないか」
さすがに日高もこの頃になると「おっさん」発言に慣れたらしく、前ほど不機嫌な顔にはなっていなかった。
「いや、ラケットがさ。ここの網、切れちまった。
こんなんじゃボールは打てないし、修理するにも金がかかるだろ?」
「これは網じゃなくて、ガットと言うんだ。
どれ、見せてみろ」
ひとしきり日高は透のラケットを調べた後で、驚きと同時に感慨深げな声を漏らした。
「R.MAJIMAって、お前これ、龍のラケットじゃないか」
「ああ」
「こんな古いラケットまだ使っていたのか。
確かに物は良いんだが、今どき木製のラケットを使っている奴も珍しいぞ」
「けど、ずっとこれ使っていたから、俺の手に馴染んでいるっつうか、思い出もあるっつうか」
よほど大切な思い出でもあるのだろう。透はうっとりとした眼差しでラケットを見つめ、そんな彼を日高も我が子を見るような目付きで眺めていた。
「分かった。俺がガットを張り替えてやる。貸してみろ」
「だから俺、金ないんだってば!」
「心配するな。生徒から金を巻き上げるつもりはない」
「うちのクソ親父は巻き上げるぜ」
「まったく、龍の奴も相変わらずだな」
呆れ顔で言いながらも、日高の頬は綻んでいた。
部室からストリングマシンを出してくると、日高は慣れた手つきで問題のラケットのガットを張替える作業を開始した。その傍らで、透が嬉しそうに思い出を語り出す。
「初めてイノシシを倒せたのが、このラケットなんだよね。俺にとっては勲章みたいなもんでさ」
さすが山奥で育った彼の大切な思い出は、都会の人間とひと味違う。そして風変わりな親子をよく知る日高の反応もまた、一般人とは違っていた。
「イノシシは何歳の時、どうやって倒したんだ?」
日高は驚きもせずに黙々とガットを張りながら、透の武勇伝を聞いていた。
「えっと、確か十歳の時かな? 最初はイノシシの腹を狙ってボールを打ち込んだんだけど、球の勢いが足りなかったみたいで逆に襲われちまった」
話の合間に左眼の上を擦っているところを見ると、あの傷はイノシシと格闘した時についたらしい。
「何回も挑戦して、結局、高い所から打ち込めばボールの勢いが増すだけ衝撃も強くなるって分かってさ。そんで、イノシシの眉間を狙って木の上から撃破したんだ。
山の主だったんだぜ、そいつ!」
そこまで言い終えてから、ふと透がばつの悪そうな顔で日高に質問を投げかけた。
「なあ、おっさん? さっき親父のことを『相変わらず』って言ったよな?
昔から金にセコかったのか?」
「いや、そうじゃない。俺が『相変わらず』と言ったのは、昔と変わらず不器用だという意味だ」
「不器用? 嘘だろ? 結構細かいっつうか、抜け目ないぜ、あのクソ親父」
透は父親の話題になると、頑なになるところがあるらしい。テニスを一般的なスポーツとして知らされなかった腹立たしさもあるのかもしれないが、それ以上に、積もり積もった恨みのようなものを感じてしまう。
口先を尖らして抗議する透を宥めるように、日高がいかつく見える太い眉を半分ほど下げて言った。
「それは、龍の中ではどうでも良い事だからだ」
「どういう事だ?」
「あいつは本当に大切なものに対しては、愛情のかけ方が特殊というか、変わっているというか……。まあ、その、何だ。お前にも、そのうち分かる」
日高がガットを張り替えたばかりのラケットを透に手渡し、ぽんと頭を撫でた。
「このガットは俺からの入学祝いだ。今日からラケットはテニスをする為だけに使えよ?」
「分かってるって。サンキュー、おっさん!」
新しくガットの張り替えられたテニスラケットを高々と掲げ、透は意気揚々とテニスコートへ戻っていた。
「龍の息子か。あいつも酷な事しやがる」
ほんの一瞬聞こえた呟きは、奈緒の空耳だろうか。いかつい顔に戻った日高の足元で、春の風が軽く渦を巻いて、校庭に散らばる桜の花びらを吹き飛ばしていった。