第50話 旅立ち
最高のテニス日和であった。爽やかに晴れ渡った青い空。この街で文句なく青空と呼べる日は、そう多くない。
透はテニスコートへ駆け込みたい衝動を抑え、窓から見える街の景色に注意を向けた。
本音を言えば、もう一度、遥希と試合がしたかった。一晩よく眠り、心身ともに活力を取り戻した今なら、それなりに納得のいく結果も残せると思うが、残念ながらその時間はなさそうだ。
今日から始まるテニス部の合宿に向けて、彼はすでに出発の準備を始めている。そして自分も――。
昨夜、テニススクールの空きコートで行なった遥希との最後の対戦は、何とも不本意な結果に終わった。
ゲームカウント「6−4」。
ラブゲームでの惨敗なら諦めもつく。タイブレークの末の惜敗ならば、少しは自信に繋ったかもしれない。惨敗以上、惜敗未満。いずれの枠にも属さない平凡な負け方は、今の透の半端な実力を見事に表していた。
四ヶ月前に掲げた目標は、結局、達成されぬまま。爪痕という程の戦績も残せず。「しょぼい」としか言いようのない結末に、相当不満げな顔をしていたのであろう。審判として試合を見届けた日高が、透に向かって諭すような口調でこう言った。
「このスコアがお前の四ヶ月間の成果だ。胸は張れんだろうが、決して恥じる事はない」
勝負に関しては誰よりも厳しい目を持つ彼が、あろうことか、敗北した透に笑顔を見せた。あれは彼なりの褒め言葉に違いない。
透は「6−4」のスコアを不本意な形のままアメリカまで持っていく事にした。
日高の言う通り、光陵テニス部で過ごした四ヶ月は決して無駄ではない。特別な形にならずとも、中途半端なところで途切れたとしても、必ず次のステップへと繋がっている。やり残した宿題として自分が覚えている限り、いつか納得のいく姿に仕上げるチャンスも来るだろう。
雲一つない夏の空を仰ぐと、いつもの街の匂いがした。河川の汚れまで混じった、くぐもった匂い。最近になって、これも風の一種だと分かるようになった。
「そろそろ行くか……」
めまぐるしい日々を過ごした部屋の窓を閉めると、透はラケットと麻の鞄を担ぎ上げ、忘れ物はないかと辺りを見回した。
未練と呼ぶようなものは何もない。昨日、唐沢の胸を借りて思い切り泣いたおかげで、自分でも驚くほど落ち着いている。
「思いっきり泣いたら、顔上げて行ってこい。そして、必ずここへ帰って来い」
目標と定めた先輩と交わした約束。無茶だろうが、無謀だろうが、今はこれを頼りに進むしかない。現地でアルバイトでもして地道に金を貯めていけば、いつかきっと日本に帰れるはずである。
そう心に決めた途端、勇気が湧いてきた。もう泣かなくて良い。泣く必要はない。自分には進むべき道がある。
出発当日になって、透はようやく晴れやかな気分で旅立てそうな気がしていた。
「トオル、本当に大丈夫か? やっぱり、俺が空港まで送ってやろうか?」
リビングへ降りていくと、何度も断り続けた話を日高がまた蒸し返してきた。
「心配すんな。独りで行けるから。
第一、合宿にコーチがいねえんじゃ、皆も困るだろ?」
「どうせ初日は移動だけで、大した事はしない。成田に任せておけば、適当にしごくだろうから……」
「適当にって、コーチがそんな事で良いのかよ?」
部活動ではポイントを押さえた指導法で部員達の信頼を得ている日高も、プライベートでは過保護な親バカに変身する。当然、親友から預かった息子もその保護区内に含まれており、彼は二、三日前から透にへばり付き、同じ質問を繰り返しているのである。
「車なら空港まで一時間もかからない。試しに行ってみるか?」
「おっさん、くどいぞ! 俺は誰にも頼らねえで、自分の力だけで出発したいんだ」
「そうは言ってもなぁ。チェックインのやり方とか、分かるのか?」
「んなもん、カウンターでチケット見せれば何とかなるって」
「国際空港は、新幹線の駅とは勝手が違う。迷子になって乗り遅れでもしたら……」
「そんなヘマするかよ! いつまでも田舎モン扱いすんな!」
放っておいては二人の会話がエンドレスになると確信したのだろう。傍らで聞いていた遥希が透の援護に加わった。
「父さん、こいつもガキじゃないんだから好きなようにさせてやれよ」
「俺から見れば、立派なガキだ。それに日本を出発するまでは、俺がトオルの保護者だから……」
「そうやって子離れ出来ない親が、『立派なガキ』を生み出しているんじゃないの? 大人として、必要な体験をさせてやるのも保護者の務めだと思うけど?」
ごもっともな意見を突きつけられて、さすがの日高も諦めざるを得なくなったと見えて、ようやく合宿用にまとめてあった荷物に手をかけた。
「じゃあ、トオル。困ったことがあったら、すぐに俺の携帯に電話するんだぞ?
チケットとパスポート、持ったよな? それから向こうに着いたら、龍之介とちゃんと話し合えよ。良いな?」
この期に及んで、まだ日高は真嶋家の親子関係まで気にかけている。二十年以上も彼が龍之介と親友でいられるのは、この限りなくお節介に近いお人好しが最大の理由である事は間違いない。
「そんな余計な心配ばっかしていると、おっさん禿げるぞ?」
「そう仕向けているのは、どこの親子だ?」
「ちゃんと言われた通り、親父と話し合うから安心しろ。一発ぶん殴ってからだけどな!」
「おい、トオル……」
まだ何か言いたげな日高を先に玄関から追い出すと、透も自分の荷物を担ぎ直して外へ出た。
「随分、少ないな?」
一週間の合宿用より少ない荷物を見て、遥希が訝しげな顔を向けた。
「他のは先に送ってあるし、俺にはこのラケットさえあれば充分だ」
「それもそうか」
「だろ?」
この二週間ずっと行動を共にしていた所為か、二人は何の疑いもなく一緒に出かけようとした。同じ目的地に向かうつもりでいたのである。
家の玄関を出て、テニススクールの裏門まで来て、初めて行き先の違う事にお互いが気が付いた。
何故か申し訳なさそうな顔をして押し黙る遥希を前にして、透もどうして良いのか分からない。散々、好き勝手に言い合ってきた仲なのに、こういう時に限って何も言葉が浮かばない。
「悪かったな」
最初に口を開いたのは遥希であった。
「何が?」
「父さん、しつこくて……」
「ああ、気にすんな。うちの親父より、よっぽど良いって。
それより、俺の方こそ悪かった」
「何?」
「実は、風呂場にあったハルキのシャンプー、勝手に使ってた」
「良いよ、別に」
「ボディソープも」
「だから、良いって……あ、歯磨き粉は使ってないよな?」
「ああ……」
どうでも良い話題に反して、会話のリズムがたどたどしい。戸惑いを多分に含んだ妙な間が二人の間を右往左往する。
「えっと……そろそろ行くわ」
これ以上、遥希との距離を感じる前に、透は自分から背を向けた。
「あのさ、トオル?」
引き止められても構わず行くつもりであった。しかし「トオル」と言われた一言で、あっさり振り返ってしまった。「田舎者」でも「バカ」でもなく。強気なライバルが、おずおずと躊躇いがちに自分の名前を呼びかけてきた。
「あのさ……結局、最後まで俺のこと、倒せなかったよな?」
しおらしい別れの言葉を期待して立ち止まったのに。場合よっては「お前と出会えて良かった」と、本音を教えてやっても良いと思ったのに。涙ぐむ姿を想像して振り返った先には、挑発的な態度の似合う憎らしいライバルが立っていた。
それがやけに嬉しくて、透も負けずにやり返した。
「てめえは最後まで性格悪かったよな?」
「頭とセットで悪い奴に、言われたくないんだけど?」
「セットにしたって、お前には敵わねえって。思いやりとか、気遣いとか、コーチの親父から教わらなかったか?」
「無駄な動きをすると、怒られるから」
「俺に思いやりをかけるのが、なんで無駄なんだよッ!?」
「そんなに同情して欲しいなら、今度また、勝負してやっても良いぜ。昨日より悲惨なスコアだったら、ちょっとぐらい可哀想って思うかも」
「バ〜カ! 今度は、俺が……。えっ? 今度って、いつ?」
「俺に聞くな。それは、お前次第だろ?」
言いたい事だけを言って、すたすたと去っていく遥希。最後まで可愛げのないライバルに向かって、透もいつもと変わらぬ口調で怒鳴りつけた。
「今度会った時は、ぜってえ倒してやるからな! 首洗って待っていろよ!」
たとえどんな暴言を吐こうとも、彼の性格なら振り返らないと分かっていた。腹立たしいほど平然と聞き流し、困った顔など少しも見せず、いつでも余裕ですましている。最悪にして、最強だと認めたライバルが、小さくなっていく。
「絶対だかんな、ハルキ! 忘れんなよ!」
最後に一言、捨て台詞のような約束を投げつけると、透も背を向けた。
透と遥希。育った環境も性格もまるで異なる二人が、再び別々の道を歩き始めた。今度いつ会えるとも分からない約束を握り締めて。
国際空港に到着した透は、日高の提案を素直に受ければ良かったと、後悔した。電車の駅が少し広くなった程度だと想像していた空港は、航空会社ごとに分かれたターミナル間を連絡バスで行き来しなければならないほど広大な敷地で、案内板を見ようにも何が何処にあるのか見当もつかず、まるで巨大迷路のようだった。
何回も人に道を尋ねながら、やっとの事で出発ロビーまで辿り着いたものの、今度は肝心のチェックインカウンターが見つからない。それらしき場所はあるのだが、数が多すぎて、全部同じに見えるのだ。せめて電車の駅のように行き先別に分けてくれれば良いものを、空港というところは田舎者には不親切な構造になっているらしい。
不安な気持ちで透が辺りを見回していると、遠くのカウンターからこちらに向かって手を振る集団が目に入った。
「トオル! こっち、こっち!」
見覚えがあると思ったら、海南中の部員達だった。伊達を中心に、村主、石丸など、いつものメンバーが顔を揃えている。
「どうして、ここへ?」
彼等には区営コートでしょっちゅう練習に参加させてもらった義理もあり、事前に渡米を伝えてあった。その時、ラーメン屋『がんこ』で店主を含めて送別会をしてもらったばかりである。
驚きを露にする透と目を合わせた村主が、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すまない、トオル。お前の事だから仰々しい別れは嫌がるかと思ったんだが、他の連中がどうしても見送りたいと言って、聞かなくてな」
「いえ、わざわざ空港まで来てもらって。俺の方こそ、何だか申し訳ないッスね」
渡米を伝えたのは三日前だと言うのに、全部員が顔を揃えているところが彼等の団結力の強さを物語っている。
「チェックイン、まだなんだろ? 一緒に行こうぜ」
前に一度ハワイに行った経験があるという伊達に手伝ってもらい、透はどうにか人生初のチェックインを済ませる事ができた。日高に「自分の力だけで出発する」と啖呵を切った手前、ばつの悪さを感じなくもないが、空港で迷子になって乗り遅れるよりはマシである。
自分に都合良く言い訳をしていると、村主が改まった口調で話しかけてきた。
「困った事があったら、いつでも連絡してこいよ? 俺達で良ければ力になるからな」
親分肌の彼らしい別れの言葉であった。最初はこっ酷く怒られもしたが、今となっては懐かしい思い出だ。
続いて石丸が「分かっていると思うけど」と前置きしてから、渡米に際してのアドバイスをくれた。
「向こうは日本と違って水質が悪いから、生水は飲まないようにね。それと食事も高カロリーなものが多いって聞くから、何でもバランスよく食べるよう心がけて」
石丸の口振りからしてその助言は一般常識のようだが、情けないことに、透はこれから渡ろうとしている国の知識が皆無であった。彼から助言を受けて初めて、食文化や生活習慣の異なる外国へ旅立つことを自覚したのだ。海南中の皆がこうして顔を揃えて見送ってくれるのも、決して親しさだけが理由ではないのだろう。
遅ればせながら事の重大さに気付き、神妙な面持ちで助言に聞き入る透に対し、伊達が意味ありげな笑みを浮かべて言い寄った。
「そうだぞ、トオル。向こうでジャンクフードばっか食っていると、目が青くなっちまうんだぜ。アメリカじゃ、犬だって青い目してんだから」
「そ、そうなんッスか?」
「当たり前だろ。アメリカじゃ、犬も英語で鳴くんだぜ。『バウワウ』ってな!」
アメリカでは青い目の犬が英語を喋るのか。次々と明かされる驚愕の事実に透が目を白黒させていると、海南中の集団とは違う方向から聞き覚えのある声がした。
「こいつ、本当に独りで行かせて大丈夫なのか?」
声の主は唐沢の弟・疾斗であった。彼とは電話で連絡を取り合ってはいたが、互い忙しく、透の転校が決まってからも会えずにいた。
「疾斗、来てくれたのか?」
「親友の旅立ちを見送らない訳にはいかねえだろう?
それより、トオル? 今のは全部冗談だって、分かってるか?」
「えっ、そうなのか? じゃあ、アメリカの犬は何て鳴くんだ?」
「何か、マジで心配になってきた。お前さ、向こうへ行っても知らない奴の口車に乗せられて、ホイホイ付いていくんじゃねえぞ?」
「お前までガキ扱いすんな」
「ハハッ、悪りぃ。そうだ、これ……餞別って程じゃないんだけど、忘れないうちに」
そう言って疾斗から手渡された箱には、ハーモニカが入っていた。小学校で習うものよりサイズが小ぶりで、表面には細かい模様の細工が施されている。ジャズバンドの演奏などで使っているのを見かけた事はあるが、実際に手にするのは初めてだった。
「ハーモニカなら持ち運びも便利だし、簡単な曲なら吹けるだろ? 言葉が通じなくても、知らない奴と友達になれるんじゃねえかと思ってさ」
疾斗なりに異国の地で一から人間関係を築かなければならない親友の苦労を考え、役立つものを選んでくれたらしい。
「サンキュー、疾斗。大事にするよ」
透は親友からの贈り物を、そこに込められた想いと共に大切に仕舞った。
「トオル、絶対テニス続けろよ? 『どこに行ってもテニスは出来る』って言ったの、お前だからな!」
疾斗は、芙蓉学園の不良達と揉めた時の話をしているに違いない。乱闘騒ぎを収める条件として、唐沢から二人の内のどちらかが芙蓉学園のテニス部へ転入しなければならないと聞かされ、咄嗟に透が今の台詞と共に名乗り出た。これも今となっては懐かしい思い出だ。
「それから、あのさ……余計な事かもしれないんだけど……」
透と同じく歯に衣を着せぬ疾斗が、珍しく口ごもりながら後ろを見やった。不思議に思ってハーモニカから視線を外すと、長身の彼の背後から予期せぬ人物がもう一人、申し訳なさそうにして立っていた。
「奈緒……」
予想外のことに動揺はしたが、余計だとは少しも思わなかった。むしろ、きちんと話をせずに教室を出てきた事を悔いていた。
転校の話を隠していたこと。わざと彼女の視線を避けていたこと。謝らなければいけない事が、いくつもあった。
休日返上でバリュエーションの応援に来てくれたこと。好物の肉だんごを作ってきてくれたこと。麻の鞄を修理してくれたこと。いつも心の支えになっていたこと。礼を言わなければならない事も、たくさんあった。
「奈緒、ごめんな。急に親父の仕事の都合で、こんな事になって……」
謝るポイントが微妙にずれた。
「トオルの所為じゃないから」
「そうだけど……。えっと、それから見送りに来てくれて、ありがとな」
「疾斗君が声かけてくれたの」
「ああ」
これも違う。何故、彼女を前にすると本音が隠れてしまうのか。このままでは遥希とのたどたどしい別れと同じになってしまう。しかも相手が毒舌とは無縁の彼女だけに、悪態をついて終わらせる訳にもいかない。
改めて心の底に隠れた本音を掘り起こしてみる。今、彼女に伝えたいのはこんな薄っぺらな挨拶ではないはずだ。
「奈緒、俺さ……」と言いかけたところで、今度は彼女に先を越されてしまった。
「トオル? 良かったら、これ使って」
目の前に差し出された包みを開けると、中にはリストバンドが入っていた。真っ白の無地のバンドに、紫の糸で「トオルなら」と「できるよ」の文字が二列に渡って刺繍されていた。
「あのね、紫って射手座のラッキーカラーなんだよ。お守りの代わりになるかと思って……」
「だいじょうぶ。トオルなら、できるよ」
何度この言葉に助けられたことか。リストバンドに縫いつけられた丸い文字は、ノートを借りた時に並んでいたものと同じである。奈緒が自らデザインし、作ってくれたのだ。徹夜の作業だったのか、目が赤い。
転入当初、教室内の冷ややかな反応の中、初めて心を通わそうとしてくれたのが奈緒だった。落ち込んだ時も、試合で追い込まれた時も、壁に突き当たった時も。彼女の存在があったからこそ切り抜けられた。
嬉しい事はもちろん、辛い事も、嫌な事も、彼女には何でも話せたし、真っ先に話したいと思う相手であった。
本当はもう少し一緒にいたかった。出来れば、ずっといたかった。ずっと、もっと、いつまでも――。
透は急いで全身のポケットというポケットの中を調べていった。ジーンズのポケットも、ジャケットの内側のポケットも、果ては鞄のサイドポケットに至るまで。
自分も何か彼女の為に残せる物はないかと必死になって探してみたのだが、唯一ジーンズのポケットから出てきたのは、街中で通りすがりに貰った消費者金融の広告入りのポケット・ティッシュだけだった。しかもガチガチに固まっている。
この固まり具合から判断して、何度か洗濯と乾燥の試練をくぐり抜けた後だろう。すでに原型はなく、軽石と化している。
泣きたくなるほど情けない現実。今、自分が彼女にしてあげられる事は一つもない。手の中の役に立たないティッシュと自分の姿が重なって見えた。
映画やドラマの舞台となる空港で思い出に残るような別れを演じられるのは、主役級の俳優と成熟した大人の男だけなのか。華やかな舞台に反して、貧乏くさい別れ方しか出来ない自分が情けない。
石化したティッシュを握り締め呆然とする透と、崩れかけた男のプライドを上手くフォローし切れずに困惑顔で佇む奈緒。そんな二人を見兼ねて、疾斗が後ろから奈緒に小声で突っついた。
「お返しにアメリカから指輪でも送れって、トオルに言ってみな」
「そ、そんな高価なもの……」
躊躇する奈緒に構わず、伊達も脇から焚きつける。
「男としては、こういう時に遠慮される方が辛いんだぜ。最後なんだし、好きなもの頼んじゃえよ」
彼等は小声で話しているつもりでも、目の前の会話は透にも筒抜けだった。
この際、高くついても良い。日本へ帰る為の資金を融通してでも、彼女の気持に応えたい。透は彼女からの返事を待った。
「じゃあエアメール、送ってくれる?」
「えっ……そんなんで良いのか?」
「うん。私ね、海外から手紙を貰った事も、送った事もなくて。だからエアメールに憧れていたの。
出来れば、トオルが住む街の絵葉書が良いな」
「分かった……」
彼女に気を遣わせてしまったと、透は思った。貰い物のティッシュしか残せぬ貧乏人に、高価な贈り物を頼める訳がないと。
空港内に旅客の搭乗を促すアナウンスが流れ出した。透が乗る予定のアメリカ行きの便である。抑揚のないアナウンスは、どんな言い訳も通用しないと言わんばかりに一方的に出発時刻を告げてくる。
もう行くしかない。仕方なく透は「じゃあ」と言いかけて、言葉に詰まった。
奈緒が泣いている。きらきらと光の粒のような滴が、彼女の頬をつたって落ちていく。
悔し泣きとは全く異なる類の涙に、透はどうして良いのか分からなかった。
男友達であれば、見てみぬ振りをしてやるか。「ドンマイ!」と励ますか。だがこの場合、どちらも当てはまらない。
さり気なくハンカチを差し出したいのは山々だが、今しがたポケットを調べた際に干からびたティッシュしか身につけていない愚か者だと、気付いたばかりである。さすがに軽石と化したティッシュをハンカチだと言い切る度胸はない。涙は拭けるかも知れないが、ダサいにも程がある。
激しく自責の念がこみ上げる最中、またも融通の利かないアナウンスが流れてきた。「最終案内」とほざいている。もう時間がない。
「ごめんな。俺、もう行くわ」
別れの挨拶もそこそこに、透は搭乗ゲートへと向かった。泣き顔の彼女が何か言いたそうにしたのが見えたが、立ち止まる事なく奥へ進んだ。
ここで振り返ってはいけない。それは未練を断ち切り、潔く立ち去ろうとしたからではない。自分の顔を見られたくなかったからである。
あんなに泣かないと固く誓ったのに、涙ぐむ彼女につられて不覚にも涙が零れてしまったのだ。
昨日、唐沢の胸を借りて号泣したが、あの時とは事情が違う。惚れた彼女の前で涙を見せるなど、しかもつられて泣くなど、断じてあってはならない。無力なガキにも男としてのプライドがまだ残っている。
皆が名残惜しそうに去り行く透の後姿を見送っている。このまま貰い泣きを悟られないよう出国するには、頬につたう涙を拭うことなく放っておかなければならない。垂れ流しというヤツだ。
涙と同時に鼻水も垂れてきているが、すすり上げるのも止めた方が良い。呼吸もなるべく抑えなければ、不規則な体の揺れで勘付かれてしまう。
涙と鼻水でべっとりと濡れた顔を上げ、苦しくても息を止め、前へ進むしかない。一歩でも、半歩でも、一ミリでも前へ。
昨日は、泣きながらでも顔を上げて歩いた方が自分らしいと思っていた。だが実際にやってみると、かなり恥ずかしかった。
せめて「待っていてくれ」と約束出来るほど、大人になっていれば良かったのに。心に秘めた想いの欠片も伝えられず、涙ぐむ彼女の為に何もしてやれず。まさか自分も貰い泣きしながら出国するとは、思いも寄らなかった。
空港の係員らしき人が、探るような目でこっちを見ている。あれは迷子として保護するか、泣きっぷりを冷静に観察している顔である。
顔を上げて、背筋を伸ばし、搭乗ゲートへ向かって颯爽と歩く。異国の地へ旅立つ姿は、想像していたよりも遥かに滑稽でみっともない。心残りはなかったはずなのに、未練だらけで後ろ髪をぐいぐい引かれた。
だが、もう帰る場所はない。べとべとの顔を上げて行くしかないのだ。
真嶋透、中学一年生。まだ十二年と半年しか人生経験のない少年には、掲げた理想と現実とのギャップを嫌というほど思い知らされる旅立ちとなった。
第一部・光陵学園中等部編 完