第6話 サラブレッドと野生馬
同じ日本国内、それも岐阜と東京では陸地で繋がっているはずなのに、どうしてこんなにも違いがあるのだろう。
父親の転勤で都会に連れて来られてまだ一日しか経っていないが、透には新しい生活の場が、馴染める云々の問題を飛び越え、何処か現実離れした架空の世界に見えていた。
太陽の光さえも鈍く見える空の色。コンクリートの隙間に窮屈そうに植えられている木々。上流で事故でも起きたのかと思う程どす黒く濁った河の水。どれを取っても不自然で、間違っているにもかかわらず、皆それらを平然と見過ごし暮らしている。
人工的に造られた街の色はくすんだ灰色一色で、硬くて冷たい感じがした。
同じ年頃の友達が通う学校ならば少しは打ち解けられるかと思ったが、そこでは級友同士が苗字で呼び合い、互いに一定の距離を置いていた。通学路は祭りのような賑わいを見せていると言うのに、自分をよく知る人間がいないのは、何とも寂しく、心細く、独りだけ理不尽な目に遭わされているような気がしてしまう。
ただ、冷たくくすんだ都会の中でも、嫌な事ばかりではなかった。新しい学校で隣の席になった西村奈緒という少女は自分のことを理解しようとしてくれていたし、初めて入ったテニス部では気前よくシューズをくれた先輩もいた。
知ろうとすれば分かり合える。転校初日に奈緒から言われた言葉が、透には灰色の街で呼吸する為の大事な手がかりに思えていた。
まずは自らの意思で飛び込んだテニスというスポーツを知ることから始めてみよう。新しいガットに張り替えられたラケットとテニスシューズを手に、透は放課後の部活動へと向かった。
「ダ〜ッと、真嶋! お前、俺の説明聞いてたか?」
今春から入部した一年生全員で素振りの練習をしていた時の事である。指導役の二年生の千葉が、慌てて透のもとへと駆け寄った。
光陵テニス部では基本的に一学年上の先輩が後輩の面倒を見る決まりになっており、三年生が二年生を、二年生が一年生を、それぞれコーチから教わったテニスの技術だけでなく、部活動における慣例や伝統も含め指導に当たっている。
今日は二年生の千葉と、昨日透とレースを繰り広げた双子の陽一朗が当番で、一年生の素振りのフォームをチェックしてくれていたのだが、どうやら透だけが違うやり方をしているらしく、名指しで注意を受けてしまったのだ。
「だいたいグリップの握り方からして、違うだろ? うちわで風を起こしてんじゃねえんだから、そこはもっと柔らかく握ってヘッドのほうを走らせるイメージで振ってみろ」
よほど大胆に違っていたのか。あるいは千葉が特別面倒見の良い先輩なのかは分からぬが、彼はわざわざ透のところへやって来て、しきりとラケットの柄の部分を指している。
知ろうとすれば、分かり合える。これはチャンスと思って良いのだろうか。
透は最初に素振りの説明を受けた時から不思議に思っていた、ある疑問を投げかけた。
「あのう、千葉先輩? ヘッドとかグリップって、何ですか?」
ラケット、コート、ネット、ボール。今現在、透が知っているテニス用語はこれだけであった。一昨日までテニスは外国人のやるスポーツだと思っていたのだから、無理もない。
「はあ? お前、マジで何にも知らねえのな?
部長の言っていた通りだな」
千葉は呆れ顔でそう言うと、もう一人の指導役の陽一朗としばらく話をしてから、今度は意気揚々とした顔で透のところに戻ってきた。
「よっしゃ! 真嶋、これからお前はプライベート・レッスンだ。
他の一年生の指導は陽一に任せたから、俺と一緒にちょっと来いや」
言われるがままにコートの外へ出ると、千葉は透を男女六面ずつ分かれている間に設けられた壁打ち用のスペースのところまで連れてきて、重大な任務を告げるかのように真面目な顔でこう言った。
「まずは、一番大事な先輩の呼び方からだ。俺の名前は千葉健太だから、ケンタで良い」
「へ?」
「だから千葉先輩じゃなくて、ケンタと呼べって言ってんだ」
「えと、あの……」
透の頭の中に、昨日の女子との会話が甦る。
確かマネージャーの塔子の話では、都会の人間が名前で呼び合うのはもっと親しくなってからと教わった。それにもかかわらず、千葉は初対面で自身を名前で呼べと言っている。一体、どっちが正しいのだろうか。
「あのう、千葉先輩? 都会の人って、最初から名前で呼ばないってマネージャーから聞いたんですけど?」
「ブハハ! お前、ほんと面白い奴だな。なんか外国人と話しているみてえ」
透の疑問に千葉はひとしきり笑った後で、呼び名を告げた時と同じ言い方で物々しく続けた。
「良いか? 俺の名前を続けて言うと、千葉健太だ。小学校の頃、チバケン。つまり東京都の隣の千葉県って、からかわれてな。
だから俺は苗字で呼ばれると、トラウマってヤツを感じる訳だ」
真剣な面持ちで話してはいるが、どうしてもトラウマを背負っているようには見えなかった。
どちらかと言えば千葉は人好きのするタイプで、浅黒く日焼けした肌も、口元から覗く白い歯も、健康優良児の印象こそあれ、心に傷を持つ人間とは思えない。
「ここだけの話、俺の野望は後輩から『ケンタ先輩』と親しげに呼ばれることだ。何か、皆から慕われている先輩って感じで、格好良いだろ?
だからお前も、これからは俺の事を『ケンタ』と呼ぶように。分かったな?」
とてつもなくささやかな野望だと思ったが、透は「はい」とだけ答えた。体育会系の部活動ではよほどの事がない限り、先輩に対しての返事は「はい」が基本であると、同じクラスの高木から伝授されていたのである。
「よっしゃ、良い返事だ。俺もお前のこと、トオルって呼ぶからな。
マネージャーから聞いたよ。お前の住んでたとこは、皆、名前で呼ぶらしいな」
「気楽にやれ」と言いたげに、千葉が透の肩をポンと叩いた。
もしかして千葉は、塔子から昨日の教室での出来事を聞いて、わざと名前で呼ぶように仕向けてくれたのではないだろうか。クラスメートの奈緒がそうしてくれたように。
「ケンタ先輩!」
灰色の冷たい街の印象が、また一つ変わった。
「俺、これからケンタ先輩にずっとついて行きますね!」
「俺のしごきは半端じゃねえぞ? ついて来れるか?」
「はい!」
「そんじゃ、素振りから始めるか」
ラケットを生活の道具として使用していた透には、素振りは生まれて初めての体験で、想像していたよりも難しいものだった。
ボールも的もないのにラケットを振るという作業が無駄に思えて、どうにも力が入らない。実際のテニスを見慣れていない事もあり、正しくボールを打つイメージが浮かんでこないのだ。
「ケンタ先輩? 素振りって、テニスするのに必要なんスか?」
「あったりまえだ。基本中の基本だろうが」
「だけど、ボールもないのにラケットだけ空振りさせても、練習になっていないような気がするんですけど」
「確かに、空振りじゃあ意味ねえな」
後輩の疑問が何処から来るのか察した千葉は、一旦素振りを中断すると、三年生のレギュラー陣が練習しているコートの側へ透を連れていった。
「あそこのAコートでプレーしている滝澤先輩のフォーム、よく見てみろよ」
千葉が指差した方向を見てみると、何人かの先輩達が打ち合っている中で一際流れるようなフォームでプレーしている人物がいた。どうやら彼が滝澤先輩というらしい。
彼はボールがどの位置でバウンドしてもフォームを崩すことなく、同じ姿勢で打ち返している。その動きには無駄がなく、余計な力みも見られない。まさしく流れるようなフォームであった。
「良いか、トオル? テニスってのは、タイミングのスポーツだ。
ベストなタイミング、つまり最も効率よくボールに力を伝えられる瞬間があって、そこを捕らえて打つ事が出来れば、最高のショットとなる」
彼の説明は、初心者の透にもよく理解できた。
「素振りは、いつでもそのベストな瞬間に合わせて全身を持っていけるように、体の各部に動きを覚えこませる為の訓練なんだ。分かるか?」
「はい」
「滝澤先輩は、うちの部の中でも一番基本に忠実なフォームで打つ。
最初はイメージが湧かねえだろうから、あのフォームを手本にするところからやってみな」
「ケンタ先輩?」
素振りの重要性が分かったところで、透にはもう一つ、確かめておきたい疑問があった。
「男子部員のところで練習しているって事は、滝澤先輩って男ですよね?」
これは今朝の朝練から、ずっと気になっていた事だった。どうも他の先輩と比べて滝澤は物腰が柔らかいと言うのか、性別不明な点があり、この手の人種と出くわしたのが初めての透は、どう接して良いのか分からなくなったのだ。
「えっと、それはその、何て言うか……触れちゃいけないグレー・ゾーンって言うか……」
もごもごと返事を濁す千葉の態度から、透はまたやってしまったと後悔した。都会にはまだまだ自分の知らないルールがあって、初対面の相手には苗字で呼ばなければならない決まり事のように、たとえ性別不明であっても、それを確認するのはもっと深く付き合ってからにした方が良いのだと直感した。
「すみません、ケンタ先輩。この話は、また今度にします」
「いや、俺のほうこそ、ごめんな。ちゃんと答えてやれなくて」
知ろうとすれば分かり合える。だが、何でもかんでも聞けば良いというものではない。動揺を露にする先輩の姿を目の当たりにし、透はまた一つ、都会のルールを学んだ気になっていた。
「何だよ、チバケン! サボってるじゃん!」
声のするほうを振り向くと、陽一朗が不満そうな顔で立っていた。
「『ウ吉』の個別指導だって言うから、当番引き受けたのにさ!」
「違げえよ。今は素振りの重要性について、こいつに教えていたんだよ。お前こそ、なんでここにいるんだよ?」
「俺ッチは、休憩タイム。チバケンと違って、『ウ吉』一人を教えている訳じゃないからさ。結構、疲れるんだって」
「てめえ、さっきから聞いてりゃ、チバケンって連呼してねえか?」
「チバケンはチバケンなんだから、チバケンって呼ばないとね。千葉県!
『ウ吉』もさ、こいつの事はチバケン先輩って呼ぶんだぞ」
透は新たなルールに直面した気分であった。
先程から陽一朗は、「ウ吉」と言って自分に話しかけてくる。初対面の相手を名前で呼ぶのはタブーだが、勝手にあだ名をつけるのは問題がないのだろうか。
「あの、陽一先輩? もしかして『ウ吉』って俺の事ですか?」
「当たり前っしょ! 他に誰がいるっての?」
「なんで、『ウ吉』なんですか?」
「うちで飼っている猿の名前。『ウ吉』っての。
本当はさ、俺ッチは『ウッチー』にしたかったんだけど、太一が『もん吉』にしたいって言い出してさ。『もん吉』はちょっとダサいから、間を取って『ウ吉』にしたってわけ」
どちらもダサい事に変わりはないが、透の疑問点は別のところにあった。それを側にいた千葉が代弁してくれた。
「そうじゃなくて、なんでトオルが『ウ吉』なのかを聞いてんだ!」
「それは、俺ッチの追撃から逃れられたのが『ウ吉』とこいつだけだから。真嶋には名誉ある『ウ吉』の称号を与えようかと思って」
「そんな称号いらないです」
透は、こんな事なら大人しく陽一朗に捕まっておけば良かったと後悔したが、時すでに遅しである。
「だけどよ、それならうちの部一番の俊足、シンゴ先輩がいるだろうが?」
千葉も可愛い後輩が『ウ吉』と呼ばれるのは不満らしく、援護射撃を送ってくれている。
「だって、シンゴ先輩は先輩だから。『ウ吉』に先輩つけるのなんか、可笑しいっしょ? とにかく、こいつは『ウ吉』に決定したの!」
「俺、『ウ吉』は勘弁して欲しいッス」
半分涙目になりながら透が訴えると、千葉は
「元気出せよ、トオル。たとえ他の全ての先輩達がお前のことを『ウ吉』と呼んでも、俺だけはトオルって呼んでやるからよ」
と言って、やけに爽やかな笑みを返した。彼は励ましているつもりだろうが、「他の全ての先輩」というフレーズが透を更に追い込んだ。
しょげ返る後輩を不憫に思ったのか。千葉が突然「そうだ、良いことを教えてやる!」と叫び、彼にしては意地の悪い笑みを浮かべて陽一朗に向き直った。
「陽一と太一は、小学校まで『ター坊』、『ヨー坊』って呼び合っていたんだぜ。だっせえだろ?
今度からトオルも、陽一のことを『ヨー坊先輩』って呼んでやれよ」
要するに千葉は陽一朗に交換条件を出して、小学校の呼び名を広めない代わりに『ウ吉』の称号を撤回するよう脅しているらしい。
「ター坊、ヨー坊じゃ、天気予報みたいだろ?」
「へ? 天気予報?」
千葉から唐突に投げかけられた問いかけに、またしても透の疑問が浮上した。
『ター坊』と『ヨー坊』が、天気予報とどういう関係があるのだろうか。テレビ番組のキャラクターか何かなのだろうか。
返事に窮していると、嫌なタイミングで嫌な奴が通りかかった。
「千葉先輩、通じていないですよ。こいつの家、テレビないんだから」
日高遥希である。
恐らく彼は水飲み場から事の顛末を聞いていたのだろう。ごく自然に、透達の会話に入ってきた。
「えっ? お前ん家、テレビねえのかよ?」
それを聞いた千葉が、唖然としてこっちを見ている。
「違いますよ。テレビはあったけど、電波が届かなかっただけですよ」
「いやいや、変わんねえって。そんじゃ、夜とか、どうやって過ごしてたんだ?」
興味津々で顔を覗き込む先輩の反応は、昨日のクラスメートと同じであった。相手に悪気はないのだろうが、毎回驚かれる立場の透には、「お前は異物だ」と言われているようで気持ちが滅入るのだ。
「えと、夜は親父の手伝いでファイルの整理とか、仕事で使う道具の手入れをさせられたり、あと、ゲームをやったり、ピアノも時々……」
「えっ、お前、ピアノ弾けんの?」
「親父がめんたいこでトレーニングするとか、どうとかって言ってましたけど、よく分からなかったです」
ぼそぼそと事情を話す透に追い討ちをかけるかのように、遥希が冷たく訂正を入れた。
「それさ、明太子じゃなくて、メンタル・トレーニングじゃないの?
お前の親父さんの論文に書いてあるぜ。メンタル・トレーニングの重要性。
こう言うのを、『宝の持ち腐れ』っていうんだよな。自分の父親の価値も知らないなんてさ」
「ハルキ? さっきから、なんでトオルに絡むんだ?」
執拗に嫌味を投げつける遥希を不審に思ったのか、千葉が口を挟んだ。
これは予てからの透の疑問でもあった。こちらは何もした覚えはないのだが、出会った時から何故か遥希はけんか腰で、事あるごとに突っかかってくる。特に父親の話題になると、彼の不満はヒートアップするようだ。
「別に、何でもないです」
遥希がつと顔を横に背け、千葉から視線を外した。そのばつの悪そうな横顔を見た途端、透の疑問は閃きに変わった。
「分かった! ハルキ、お前、友達いねえんだろ?
そんで、俺と友達になって欲しいから、真逆の行動を取るんだろ?」
子供の頃からテニス漬けの生活を強いられていた所為で、遥希には友達と呼べる人間が一人もいないのだ。無言になった彼の表情から、透は自身の出した答えが真実に思えてならなかった。
「お前さ、俺と友達になりたきゃ、素直にそう言えば良いじゃんか」
遥希の色白の頬が一瞬のうちに赤く発色し、少し吊り目気味の目尻が更に上がった。
「バッカじゃないの! お前、俺を倒すんじゃなかったのかよ?」
「ああ、そうだ。けど、ライバルが友達だって別に良いじゃねえか?」
「はあ? 訳わかんないよ。
お前と話していると、バカが移ってきそうだ」
吐き捨てるようにそう言うと、遥希はそそくさとその場から去っていった
「ふ〜ん。予想通りの面白いキャラだね、『ウ吉』君。あの気位の高いハルキを相手に、堂々とあんな質問をぶつけるなんて」
満面の笑みで近づいてきたのは、昨日、副部長との紹介を受けた三年生の唐沢だった。
一瞬、千葉の顔色が変わったように見えたが、『ウ吉』と呼びかけられた透はそれどころではなかった。
「『ウ吉』って、もう三年生の間でも広まっているんですか?」
ところが透が質問を投げかけたと同時に、千葉が素っ頓狂な声を上げた。
「あれえ、唐沢先輩? いつから、そこにいたんですか?」
「う〜んとね、滝澤の性別がどうとかって、とこらへん? 因みに、あいつに話しかける時は覚悟していったほうが良いよ」
唐沢の目を盗むようにして、千葉が透に向かって手のひらを振っている。一見、「逃げろ」の合図に思えるが、その意図が分からない。
困った透は、一旦千葉の合図は保留にして、目の前の疑問から解決していくことにした。
「覚悟って?」
「滝澤は『ウ吉』君みたいな個性豊かな“男子”が好みだから、気をつけないと食われるよ」
「食われるって、まさか? ホラー映画じゃあるまいし」
「いや、食われるって、そういう意味じゃ……」
唐沢は一瞬真顔に戻ったが、すぐにまた人当たりの良さそうな笑みを浮かべて言った。
「ま、滝澤の話は置いといて。俺はこう見えてかなりの情報通だから、困ったことがあったら何でも相談してくれよ」
「アンタが一番厄介だ」と、内心千葉は思っていた。
唐沢は、光陵テニス部内で部長の成田と一、二位を争う程の実力があり、副部長を任されるだけの事はあって、部員達からの信頼も厚い。
立場上、成田は部内の規律を守る為に苦言を呈する事の方が多いが、副部長の唐沢は人当たりの良さもあってか、部員からの相談を受けたり悩み事を聞いてやるなどして、厳しい部長のフォロー役に徹している。
周りから見れば、彼等は部長・副部長の理想形であった。
だが実際は、唐沢が相談役を買って出るのは部員の情報を得るためで、テニスよりも大好きな賭け事に勝利するのが目的だ。
唐沢はギャンブルをする為にテニス部に所属している、と言っても過言ではない。人当たりの良い副部長の仮面の裏側で、彼は校内試合をレースと称し、勝者を言い当てるギャンブルのディーラーを務めているのである。
その唐沢が、満面の笑みで透に近づいている。あたかもカモを見つけたと言いたげに。
危険を察知した千葉は唐沢に見つからないように「逃げろ」の合図を送ってみたが、どうやら透は『ウ吉』のあだ名が気になるらしく、この場を去ろうとする素振りも見られない。このままでは、純朴な後輩が唐沢の餌食になるのも時間の問題だ。
「ところで、『ウ吉』君。ハルキに宣戦布告したんだって?」
「唐沢先輩、『ウ吉』だけは止めてもらえませんか?」
透が再び涙目になって懇願しているが、唐沢はそれを完全に無視して話を進めている。
「男が宣戦布告した以上、当然、勝つもりなんだよね?」
「そりゃ、まあ」
「俺の予想では、今度のバリュエーションでハルキと対戦することになると思うけど、今月末までに彼より強くなれる自信はある?」
二人のやり取りを横目に、千葉は透を救う方法を必死で考えていた。
ギャンブルに手を出さなければ、唐沢は尊敬すべきプレイヤーであり、頼れる先輩だった。現に、彼の指導で大きく成長した部員は大勢いる。冷静沈着。頭脳明晰。地区大会連覇を狙う部内では知略に長けた戦い方から「軍師」と称され、コーチからも頼りにされる程の切れ者だ。神様のように慕う部員も多い。
それなのに唐沢は、テニスプレイヤーである前にギャンブラーであった。しかも連戦連勝、負け知らずの兵なのだ。
「難しい事はよく分からないですけど、俺は勝つもりでいます」
唐沢の毒牙が近づいているとも知らずに、透が無邪気に答えている。
「それを聞いて安心したよ。それじゃ、君、自己投資してみない?」
「ジコトウシ?」
「まず君は俺に千円を預ける。今度のバリュエーションで、ざっと見積もってハルキに賭ける奴が三十人。君に賭ける部員は、今のところ俺一人だけ。ここで君が勝てば、儲けはどうなる?」
これ以上話が進めば引き返せなくなってしまう。千葉は透が罠にかかる前に話の腰を折ろうと、会話に割って入った。
「唐沢先輩? こいつ、メチャメチャ貧乏なんッスよ。昨日だって、シューズが買えなくて、太一から恵んでもらったぐらいですから」
努めてさり気なく割り込んだつもりだったが、唐沢の方が一枚上手であった。
「そう言えば、ケンタ? 樹里が部室に来いって呼んでたぞ。
二人きりで大事な話があるような、無いような?」
「唐沢先輩、なんでそれ……」
「早く行った方が良いぞ。忙しいマネージャーを待たせちゃ悪いからな。
何なら、俺がこいつの素振りを指導してやっても良いからさ」
得意のスマイルで手を振っているところ見ると、明らかにこれは唐沢の策略だ。
樹里というのは、千葉が密かに好意を抱いている二年生のマネージャー、柏木樹里のことだった。恐らく今のは作り話で、千葉をこの場から遠ざける為の口実として持ち出したに違いない。つまりは脅しである。
これ以上妨害すれば秘めたる恋を暴露するという、卑怯で陰湿な脅迫だ。
ことギャンブルの話になると、手段を選ばないのが唐沢の怖いところである。そんな先輩を相手に、カモを取り上げようとした自分がバカだった。
「トオル、悪りぃな。ほんと、ごめんな」
千葉の心からの謝罪に対し、
「気にしないでください、ケンタ先輩。俺なら唐沢先輩にしごかれていますから」
と言って、屈託のない笑顔を向ける後輩が眩しく見えた。
「さてと……」
千葉が部室へ引き揚げるのを最後まで見届けてから、唐沢が透に話しかけた。
「ここで一つ質問。場慣れしているけど騎手のいないサラブレッドと、騎手はいるけどレースは初めての野生馬を競争させたら、どっちが勝つと思う?」
「唐沢先輩、俺、競馬の事はよく分からないです」
「そうか。お前には、まだこの質問は早かったか」
唐沢は軽く自嘲気味の笑みを浮かべてから、おもむろに両ポケットからテニスボールを四つ取り出し、透に手渡した。
「これ、お前にやる」
「やるって、これテニス部のボールじゃないッスか?」
渡されたボールにはどれも「真嶋」と大きく苗字が書かれているが、それらがテニス部から拝借してきたものだという事は一目瞭然だった。しっかり者のマネージャーが性質の悪い部員に持っていかれないように、ボールの表面に光陵学園の「光」の一字をステンシルで印字しているのである。
「ああ、そうだ。だけど、誰もパクったのが俺だとは思わない。そこにお前の名前が書いてあるだろ?」
「か、唐沢先輩?」
「テニスボール四つで、ちょうど千円。買ったと思って、俺によこせ」
「そんな無茶な。俺、ほんとに金ないッス! 鞄も買えって言われているし、シューズも地区大会までには自分の足に合うものを買っとけって、部長が……」
まったく訳が分からなかった。テニス部からボールを盗んだ罪を擦り付けられた上に、どうして自分が千円も唐沢に払わなければならないのか。そもそも副部長が、こんな真似をして良いのか。透には理解できない事ばかりであった。
「自己投資だと、言っただろう?」
千円を出し渋る後輩にしびれを切らしたように、唐沢の態度が急変した。
「良いか、よく聞けよ。
ここで千円、自分に投資する事で、お前は俺と一緒にリスクを背負うことになる。リスクというのは自分を追い詰め、高め、そして強さを磨く糧となる。
たった千円だ。千円でお前は強くなれるんだ。誰よりも、ハルキよりも。
安い自己投資だとは思わないか?」
確かに一文無しの中学生にとって千円は貴重だが、それが自分を高め、遥希を倒す為の糧となるのなら、安い投資かもしれない。
饒舌になった唐沢の説得は尚も続いた。
「俺の計算では、月末には間違いなくハルキに勝てる力を身につけるはずだ。そうなれば、お前の取り分は二万になる。
二万だぞ、二万! バッグもシューズも買い放題だ」
透の頭の中で、一万円札二枚がひらひらと宙を舞っていた。万札など正月に親戚から貰うお年玉ぐらいで、自力で稼いだことは一度もない。それが月末には二枚も入るというのだ。千円を唐沢に託すだけで。
唐沢が柔和な笑みをたたえて、透に問いかけた。
「もう一度、質問するぞ? お前はハルキとの勝負に勝つ為に、自分に投資する覚悟があるか?」
「はい、唐沢先輩。俺、千円払います!」
「そうか。それでこそ、俺の見込んだ後輩だ。健闘を祈るよ、『ウ吉』君!」
「俺、頑張ります! だけど、その『ウ吉』って呼び方だけは止めてもらえませんか?」
それを聞いた唐沢が、ますます笑みを深くした。
「良いよ、『ウ吉』君。但し、ハルキに勝ったらね」
これで本当に後がなくなった。遥希に勝つまでは『ウ吉』と呼ばれる事になる。
ライバル打倒と千円と『ウ吉』の返上を賭けて。透の苦闘の日々がここから始まった。