第7話 健康オタク

 ドラッグ・ストアという場所は、心身共に未発達な中学生にとって実に誘惑の多い魔法の館である。スポーツ飲料に「トップアスリートの君へ」と書いてあれば自分専用のドリンクだと勘違いしてしまうし、ヘアワックスに「スタイル、完ペキ!」と書いてあれば、つい手を伸ばしてしまうものである。
 しかもそれら魔法のアイテムは、お手頃価格で手に入る。買った時点で気分はトップアスリートであり、スタイル完ペキなトップモデルに変身する。
 だが、遥希には一つ気に入らないことがあった。彼が足しげく通う館には、目当てのサプリメントがダイエット・コーナーに配置されている事が多いのだ。
 年頃の男子中学生が若い女性をターゲットにしたダイエット・コーナーで長居をするのは、かなりの勇気が要る。本当はあらゆる効能を吟味して最も希望に近い商品を購入したいのに、隣の棚に人の気配がしただけで、そそくさとレジへ向かう羽目になる。
 更に遥希が何よりも重要視するカルシウムを主成分としたサプリメント。この表示が「イライラ防止」、「骨粗しょう症予防に」としか書かれていないのも、納得できない事象の一つであった。新商品が出るたびに「発育促進」や「背が伸びる」等といった表示が出ていないか、確認するのだが、未だかつてそのような夢の逸品に出会った例はない。
 ダイエットに関する商品はあらゆるニーズに応えて品数が豊富なのに対し、男子学生の大半の悩みである「身長を伸ばす」といったサプリメントは一つもない。これは背の低さを気に病む遥希には大きな疑問であり、世の中の理不尽さを感じる瞬間でもあった。

 学校の帰りに立ち寄ったドラッグ・ストアで、遥希はいつものサプリメント『骨ほね・カルシウム』と『カロリーマイト』をレジまで持っていった。これといった根拠はないが、この組み合わせが身長を伸ばすのに最も効果的に思えるのだ。
 レジ前で会計の順番待ちをしていると、入店した時からずっと同じ場所、同じ姿勢で商品と睨めっこしている女子中学生が目に入った。サプリメントを買う前にテーピングなどのケア用品も物色していたので、少なくとも三十分以上は経過しているはずだ。
 何となく見覚えがあるような気がして、改めて注視してみると、その女子中学生は同じクラスの西村奈緒だった。彼女は三十分を費やして、女性用の整髪料の中から気に入った品を選び出そうとしているらしかった。
 女性という生き物は、たかが整髪料一つを買うにしても、こんなにも長い時間を費やすものなのだろうか。それとも彼女が特別なのか。
 確かに彼女は、クラスの中でも要領の良いタイプとは言い難い。大抵、快活な女友達の後ろに隠れるようにして行動しており、最前列の席にいるわりには目立たない大人しい部類の女子である。
 ところが最近、遥希は奈緒を注意して見るようになった。理由は単純で、級友達が一歩も二歩も距離を取りたがる風変わりな転校生・真嶋透と臆せず接しているからであった。
 人には外見からは判断つかない意外な一面があるものだ。転校初日からクラス担任と学級委員の二人を怒らせ、テニス部でも騒ぎを起こした問題児と言葉を交わすこと自体、非常に勇気の要る事だと思うが、彼女はごく自然に話をして、当たり前のように打ち解けている。
 面白くない事に、その関係は徐々に広がりを見せており、彼女の親友・清水塔子を始めとする女子グループと、テニス部繋がりで男子の高木と久保田も加わり、ちょっとした仲間の輪が出来つつある。

 遥希は今日初めて、自身が透に対して不快な感情を抱いていると自覚した。
 「ハルキ、お前、友達いねえんだろ?」
 その通りであった。
 元プロのテニスプレイヤーを父に持ち、実家が地元でも有名なテニススクールを営む環境では、一人息子の行く末など決められているのも同然であった。
 物心がついた時にはすでにラケットを握らされており、キッズクラスに入れる歳にはジュニアクラス、ジュニアクラスに入れる歳には選抜クラスと、常に人より一段上のレベルでプレーすることを求められ、同じ年頃の友人達と遊ぶ事も、話題のテレビ番組を見る事も許されず、ただひたすらボールを追うことのみ専心させられた。中学校へ入ってからも、部活動はもちろん、登校前と下校後も自宅でテニスの練習を課せられる毎日だ。
 透は、そんな遥希とは正反対の生き方をしてきた人種に見えた。
 彼は恵まれた体を持っていた。取り立てて長身でも筋肉質でもないが、あらゆる箇所の筋肉がバランスよく付いており、何処にもコンプレックスを持つ必要のない肉体であった。
 偏りのない肉体。そして、そこに宿る精神も、屈折したところなど無いのだろう。
 クラスの皆より先んじて透と接した遥希は、初めて彼を紹介された時、父親からスポーツ科学の第一人者・真嶋龍之介の息子だと聞かされた。そして初対面にもかかわらず警戒心の欠片もない笑顔で語りかけてくる彼を見て、一目で自分が最も苦手とするタイプだと悟ったのだ。
 透は遥希が決して手に入れる事の出来ないものを持っている。自然豊かな野山で伸び伸びと育てられ、何に対しても境界線を張ろうとしない。そんな彼が羨ましくもあり、脅威でもあった。透と相対していると、日差しの向こう側に影が出来るように、自分の行く先がくすんで見えてしまう。
 父親から強制的に与えられたテニス漬けの生活は、遥希が自ら好んで選択した道ではない。だが、今さら反発する勇気もない。
 いっそテニスが嫌いなら、それが原動力にもなるのだろうが、遥希はテニスが嫌ではなかった。何故なら、それが無力な自分に許される唯一の居場所だから。
 プロのコーチ職に就く父親の指導のおかげで、小学校の頃からジュニアの選抜クラスに入れるほどに強くなれた。中学校の部活動でも、地区大会連覇を目指す先輩達が一目置いている事は知っている。
 父には不満もあるが、やはり感謝をしなければならない。そう思う一方で、底知れぬ不安もあった。
 本当に自分は正しい道を歩いているのか。父から与えられた道の先々で、何処かに落とし穴があるのではないか。太陽の光を当てられるたびに、その不安が影を落とすのであった。

 化粧品の陳列棚の前にいた奈緒がようやく候補を三つに絞れたらしく、両手に整髪料のボトルを持って見比べている。その合間にしきりと前髪を撫でたり、引っ張ったりしているところを見ると、自身の髪型で気に入らない箇所でもあるのだろう。店内に誰も彼女の前髪なんぞに注目している客はいないと思うが、本人にとってみれば重大なことらしい。
 他人には理解できないが当人には重大な事柄というのは、日常生活の中でわりと存在する。遥希にとっては、このカルシウム入りのサプリメントがそうである。
 現在、身長145センチ。中学一年男子の平均身長152センチを七センチも下回る体は、コンプレックス以外の何ものでもない。
 テニスは他のスポーツと比べて身長差がプレーに大きく影響する事はないが、やはり大柄な選手に高い打点からフラット・サーブを打たれたり、頭上を抜くつもりで上げたロブを難なくスマッシュで決められたりすると、やはり長身を羨ましく思ってしまう。
 どうして体格の良い父親の遺伝子を引き継がなかったのか。それとも、まだ遺伝子が目覚めてくれないだけなのか。
 いずれにせよ、遥希には小柄な体が目下の悩みであり、それが悩みだと他人に知られてしまうのも断じて許しがたい事だった。

 レジの順番が遥希に回ってきたところで、三本のボトルから一本を選び終えた奈緒と目が合った。
 すると彼女は、何故かせっかく選んだ一本も棚に戻し、決まり悪そうに店の出口へと向かった。
 彼女の行動は意味不明だが、このまま出ていってくれるのなら、それに越した事はない。余計な詮索をされずに済むからだ。
 レジの店員がサプリメントを半分中身の透けて見える袋に入れた。遥希はそれを支払いと同時にもぎ取るようにして掴むと、急いで鞄に押し込み外へ出た。
 「ハルキ君、今、帰り?」
 「ああ」と返事をしながらも、遥希はしまったと後悔した。商品を鞄の中に入れる動作は素早くする必要があったかもしれないが、足まで速めて店を出る必要はなかったのだ。出口のところで、ばったり奈緒と鉢合わせの格好になってしまった。
 互いに見られたくない姿を見られたと思っているのだろう。何となく気まずい雰囲気が漂っている。
 「ハルキ君、すごいよね。トレーニングだけじゃなくて、こういう所にも気を使っているんだね」
 奈緒が沈黙を避けようとして話しかけるが、遥希は別の事に気を取られていた。
 鈍臭そうな彼女が気付くはずがないと思いつつ、もしかしたら真剣にサプリメントを吟味している姿を見られたかもしれないとの疑惑も浮上する。「こういう所」とは、どこまでを指しているのか。『骨ほね・カルシウム』を手にした現場まで見られてしまったのか。
 クラスでほとんど接点のない奈緒に悩みがばれたとしても別段どうという事はないが、彼女を介して透に知られることだけは避けたかった。負けられないと思っている相手に、自身の弱点をさらけ出すような真似はしたくない。
 遥希は会話が購入したものに及ぶ前に、強引に話題を変えた。
 「そう言えば、西村。お前、真嶋と仲良いよな?」
 「えっ、そ、そう?」
 もともと彼女は少しおどおどしたところがあるが、今の質問がまずかったのか。いつにも増して怯えた様子で、聞きもしない事までつらつらと話をし始めた。
 「あのね、それはね、真嶋君は肉だんごが好きでね。たまたま私のお弁当に入っていた肉だんごをあげたら喜んでくれて、それから喋るようになったの。
 自然の中で育つとあんな風になるのかな。一緒にいると私も自然体になれるっていうか……」
 途中で余計な話をしていると、気が付いたのだろう。奈緒が不自然な箇所で口をつぐみ、俯いた。
 しばらく沈黙が続き、後はもう立ち去るしかないと思えたところで、奈緒が今迄で一番おどおどとした口調で尋ねてきた。
 「ハルキ君は、真嶋君のこと嫌いなの?」
 「さあ。別に、どっちでもないんじゃないの」
 「でも、真嶋君の前だと別人みたいだよ」
 咄嗟に化学反応という言葉が、遥希の頭の中を通り過ぎた。何事もなければ無味無臭の液体なのに、異なる液体を入れられた事で激しい反応を示すことがある。
 この場合、どちらが異分子となるのだろうか。
 「不自然だから……俺」
 半分は嫌味で、半分は素直な気持ちであった。透を自然だと評する奈緒の前で自分が不自然だと言えば、どんな反応を示すのか興味もあったが、それ以上に、今は誰かに打ち明けてみたかった。確たるものが何もない、周囲に無味無臭の印象を植え付け過ごしてきた自分の声を。
 「物心ついた頃からテニスの練習ばかりで、普通の子供がするような遊びをやった事がないんだ。友達と遊んだ記憶もない。
 毎日、毎日、父さんが作ったトレーニングメニューをこなして、今日だって、これから帰ってから練習だ」
 「テニス、嫌いなの?」
 「いや、テニスは好きだと思う。今よりもっと強くなりたいとも思っているし、その為には、練習も苦にならない。父さんのメニューは完璧だし、何の問題もない。だけど……」
 何を言おうとしているのか、自分でも良く分からなかった。ただ心の中から声が漏れてくる。
 透に「友達がいない」と指摘された事も影響しているのかもしれない。誰かに聞いて欲しくて、遥希は喋り続けた。
 「自然環境でのトレーニングは、運動能力や精神力だけでなく、免疫力も高められるというのが真嶋の父親の理論なんだ。あいつはその理論どおりに育っている。あいつといると、テニスしか知らない自分がバカみたいに見えてくる」
 「そんな事ないよ。真嶋君は育った環境が、ちょっと特殊だし」
 「無菌培養で育てられた野菜と同じなんだよ、俺。だから……」
 続きを言おうとして、遥希は口ごもってしまった。「だから」どうだと言うのだ。何を言いたかったのか。
 誰かに聞いてもらいたかった言葉が心の中に浮かんだ気がしたが、それは唇から零れる前にまた奥底のほうに沈んでいった。

 「ハルキ君、ちょっと待っててね」
 奈緒は踵を返してドラッグ・ストアへ駆け込むと、先ほど吟味していた整髪料のボトルを手にして戻ってきた。
 「あのね、私おでこの所につむじがあってね。前髪がなかなか思い通りにならなくて、困っていたんだ。良さそうでしょ、これ?」
 そう言って彼女は「髪、思い通りに決まる!」とベタなうたい文句のついたピンクのボトルを遥希にかざして見せた。
 「お前、言動が真嶋に似てきたぞ」
 仏頂面で応じながらも、遥希には彼女の突飛な行動の意味が何となくだが分かっていた。彼女にとって整髪料のボトルを見せるというのは、自分が『骨ほね・カルシウム』を見せるのと同じぐらい勇気の要ることで、程度の差はあるにせよ、皆、悩みを抱えていると言いたかったに違いない。
 ほとんど身長差のない彼女のおでこを見やると、確かに生え際につむじのようなものがあり、前髪がぱっくりと二つに割れている。別段、人生を左右する程の問題でもなければ、プレーのやり方を考え直さなければならない程の重要事項でもない。だが、当人には深刻な悩みなのだ。
 遥希の無愛想な反応を見て、想いが通じなかったと勘違いしたのだろう。奈緒がばつの悪そうにかざした手を引っ込めて、ピンクのボトルを鞄に入れている。
 こんな時、何と声をかければ良いのか。友達との遊びはおろか、正面切って喧嘩をした事もなければ仲直りの経験もない遥希には、上手い言葉が見つからない。
 どうしたものかと思案して、結局、慰めにもならない一言を言い置き、その場を後にした。
 「前髪、そんなにおかしくないよ」

 遥希の自宅がある日高テニススクールは、駅を挟んで学校と反対側の小高い丘の上に建っていた。
 学校からの帰り道、丘の上から薄紫の夜景を見るのが忙しい遥希にとって数少ない楽しみであり、唯一の自由時間であった。
 遠くの灯りに目をやりながら、あの家ではそろそろ楽しい夕食が始まるのだろうか、あの公園ではまだ遊んでいる子供がいるのか、と想像を巡らしていく。そうする事で、自分も同じ体験をした気分になれる。このわずかな時間だけが、普通の子供と同化出来るのだ。
 時間は十五分と決めていた。父親から気分転換は十分までと言われている。これが遥希のささやかな抵抗だ。
 十五分が過ぎ、家路へと向かう。分刻みで組まれているトレーニングをこなす為に、遥希は普通の子供と別れを告げた。

 自宅の門をくぐると、今最も会いたくない人物、真嶋透が妙なプラカードを掲げて立っていた。
 「お帰り、ハルキ! 遅かったじゃねえか? 買い食いでもしてたのか?」
 「なんでお前がここにいるんだよ?」
 「へへっ! 俺、バイト。ほれ、これ見てみ」
 透は得意げに手作り感満載のプラカードを指差し、「ここのコーチ達、優しいな」と言って、もう片方の手をポケットの中に突っ込み、小銭の音をジャラジャラと鳴らした。
 厚紙に棒切れを貼り付けただけの貧相な看板には
 「コート整備、後片付け、ボール拾い、ジュースの買出し。なんでも100円で引き受けます。by日高オーナーの甥」と書かれている。
 初めは突飛な行動にただ唖然としているだけの遥希であったが、話をするうちに驚かされた分だけ別の激しい感情が沸々と湧き上がってくるのを自覚した。
 「お前、いつから俺と従兄弟になったんだよ? だいたい、父さんは知ってんのか?」
 「いいや、内緒だ。これはあくまで、ここのコーチ達と俺との契約だから」
 「そうじゃなくて、俺が言いたいのは、誰かに許可を……」
 「大丈夫だって。あとニ百円で目標金額に到達するから、そしたら帰るって」
 「だから、そうじゃなくて……」
 「ハルキ、あんまりカリカリするなよ。お前、カルシウム足りないんじゃねえか?」
 カルシウムという言葉を聞いて、遥希の怒りは爆発寸前のところで焦りに転じた。鞄の中にはまだ『骨ほね・カルシウム』が入っている。万が一、何かの拍子に鞄の中身を見られでもしたら、これまでの苦労が無駄になる。
 いま現在、自分の手中にある鞄が必ずしも安全圏にあるとは限らない。奇想天外、予測不能な行動に出るのが、真嶋透の厄介なところである。ここはあっさり引き下がる方が懸命だ。
 「良いか? 俺の家で余計な騒ぎは起こすなよ?」
 一言念を押してテニススクールの建物の裏手に回ると、遥希は自宅の玄関に駆け込んだ。

 「なんで、あいつがここにいるんだよ!?」
 自宅に戻るや否や、遥希は抑えていた怒りを父親に投げつけた。
 「あいつ?」
 「とぼけんな。知っているんだろう?
 あいつ、自分が怪しまれないよう父さんの甥だって言っているぜ」
 「ああ、トオルのことか。たかだか百円のバイトだろ。放っておけ」
 父からの寛容な返事を聞いた瞬間、遥希の溜めていた怒りが最高潮に達した。
 「なんで、あいつは良くて、俺は駄目なんだ?」
 「何のことだ、ハルキ?」
 「あいつばっかり自由で、気楽で、好き勝手できて。俺には一度もそんな風に接してくれた事なんか無かったくせに!」
 学校でのコーチとしての日高が透を野放しにしておくのなら、ここまで腹立たしく思う事はなかったであろう。だが在宅している父親としての日高が「放っておけ」と言ったのには、どうにも我慢がならなかった。
 子供の頃から父親の徹底した管理の下で育てられてきた遥希にとって、日高の「放っておけ」は即ち、「トオルは大丈夫」であり、実の息子よりも信頼しているかのように聞こえたのだ。
 ドラッグ・ストアで、奈緒に言おうとした言葉が蘇る。
 「無菌培養で育てられた野菜と同じなんだよ、俺。だから……」
 続きはこうだった。
 「だから、弱いんだ。あいつのように強くなりたい」と。
 普段はふてぶてしいまでに冷静な父親が、珍しく狼狽を露に自分を見つめている。その姿に苛立ちと罪悪感の両方を覚え、遥希は逃げるようにして玄関から飛び出した。



 日高テニススクールは、山奥で育った透にとってはまったく未知の場所だった。
 テニス部のクレーコートとは異なる、「ハード」と呼ばれるテニスコート。カートに入った数え切れないテニスボールや、見た事のないトレーニング・マシーンも完備されている。また屋外のテニスコートの他にも、体育館らしき屋内にもカーペット敷きのコートがあり、夜間でもプレーできるよう照明まで設置されている。
 未知なる場所への好奇心と敵情視察の名目もあって館内を覗くと、そこでは学校から帰ったばかりの遥希が独りで壁打ちの練習を行っていた。軽やかにボールを操るフォームは、今日の部活動で参考にしろと言われた滝澤のフォームに勝るとも劣らない。
 無意識のうちに、自身のラケットに手が伸びる。建物入口の小さなスペースを借りて、透は遥希のフォームを見ながら素振りの練習を開始した。
 千葉から受けた指導では、まず体の中心 ――体幹と言うのだそうだが―― を動かさずに、両腕両脚は極力力を抜きつつ、楽に打つのがコツだと教えられた。遥希の軽やかなフォームはまさしくそのイメージ通りだったが、実際にそれに倣ってラケットを振ってみても、同じようにはならなかった。
 体幹を真っ直ぐに保ちつつ、両腕両脚の力を抜く。この力の入れ具合と抜き具合が、どうにも掴めない。今までスポーツを教わるという意識のなかった透には、フォームを覚えることさえ困難に思えてきた。
 「好きなように打っちゃ、いけねえのかなぁ」
 思わず愚痴をこぼした時である。背後から野太い声がかけられた。
 「ラケットを振ろうと思うな。道具を意識し過ぎると動きが硬くなる。
 グリップは支える程度に握っておけば充分だ」
 驚いて振り返ると、声の主はコーチの日高であった。彼はうろたえる透に構うことなく、素振りの助言を続けている。
 「テニスも他の球技と同じだ。例えば、バスケットの動きをイメージしてみろ。
 重心がぶれないように上体は極力真っ直ぐ立てておくが、両手足はセンサーと同じで柔らかく動かすほうがボールに素早く反応できるだろ?
 テニスはそのセンサーとなる手にラケットを握らせて打ち合う競技だと思えば良い」
 コーチの習性で初心者にも理解できるよう教えてくれているのだろうが、透には有難い助言よりもポケットの中の百円玉のほうが大事であった。これだけは没収される訳にはいかない。
 今日稼いだ金額二千円のうち、ひとまず死守しなければならないのは副部長の唐沢に預けると約束した自己投資の千円だ。小学生の頃からアルバイト人生を送っていた透は、常にいざという時の為の金を多めに稼ぐようにしている。つまりは、へそくりというヤツだ。
 ひと通り説明を終えてから、日高が透のポケットの辺りに視線を落とし
 「安心しろ。今日のところは目を瞑ってやる」と言って、ふてぶてしい笑みを向けた。
 「おっさん、知ってたのか?」
 「どうせ、唐沢にでも集られたんだろう?
 すまんな、トオル。あいつも悪い奴じゃないんだが」
 どうやらテニス部内で起こった出来事は、彼には全てお見通しのようである。
 「おっさんが謝る必要ねえよ。俺が自分で決めたことだから」
 唐沢をかばうつもりは無かったが、日高の謝罪を受け入れてしまうのは道理に外れる気がして、透は自身の中では精一杯背伸びした台詞で突っぱねた。
 「俺だって、自分のケツぐらい自分で拭ける」
 日高が苦笑のような失笑のような、気の抜けた笑みを浮かべたかに見えたが、すぐに愛想のないいかつい形相に戻って、息子の遥希に目をやった。

 先程の壁打ちはウォーミング・アップだったのか、遥希がコーチらしき人物と打ち合いを始めた。カウントを取っているところを見ると、試合形式の練習のようである。
 透にとっては初めて生で見るテニスの試合であった。
 聞いた事もない用語が随所に出てきて、ルールも今一つ分からなかったが、それでも遥希の強さははっきりと認識できた。
 「なあ、おっさん? テニスって、どうなったら勝ちなんだ?」
 「簡単に言えば、1ゲーム中、相手よりも先に4ポイント取れば勝ちになる」
 「ふ〜ん、意外と単純だな」
 「ああ、単純なスポーツだ」
 二人の間で会話は続いているが、意識も視線もコートを向いていた。透は遥希のフォームを目に焼き付ける為に、そして日高は別の目的で試合を見ているようだった。
 コートに視線を置いたままで、日高が続けた。
 「ゲームの中で、いかにして相手よりも先にポイントを取るか。ショットの強弱、コントロール、回転、スピード。まあ、いま話をしても分からんだろうが、これらを組み合わせて相手の返せない球を計算して打つ。ここがプレイヤーの腕の見せ所だ」
 「面白そうだな」
 「ああ、面白いぞ」
 「けど、なんでハルキは辛そうなんだ?」
 コートの中で黙々と試合を行う遥希は、とてもプレーを楽しんでいるようには見えなかった。コーチを相手に試合が成り立つほどに上手いのだから、もっと喜んでプレーをしても良さそうなものだが、その表情は曇っていた。
 「お前は良い目を持っているな。血は争えんか」
 ふと頭に浮かんだ疑問を投げかけた透に対し、日高はゆっくりと頷き、いかつい顔の中でも一段と無愛想に見える目だけを細めて言った。
 「なあ、トオル? お前、ハルキと仲良くしてやってくれないか?
 今のあいつには、同じ目線に立って理解してやれる友達が必要だ」
 「なんで、おっさんがそんな事、頼むんだよ?」
 「なんでって、俺はハルキの父親だ」
 「だから言ってんだ。おっさんは父親だ。ハルキじゃない。
 ハルキだって、自分の友達くらい自分で決めんだろ?」
 日高が驚いたように透を見つめ、いかつい顔を情けなく崩して「過保護だろうか、俺は?」と聞いてきた。
 正直なところ、透にも良く分からなかった。限りなく育児放棄に近い放任主義の父親の下で育った透は、なぜ日高が息子の友達の面倒まで見ようとするのか。そしてまた過保護に関しても、何処までがそうで、何処までが違うのか、具体的な境界線までは浮かばない。ただ、辛そうにプレーをする遥希を放っておけなかった。それが一番の理由だろう。
 「おっさんは、うちの親父とは違うから分かんねえけどさ」
 透は前置きをしてから、こう言った。
 「父親に知らん顔されるよりは、良いんじゃねえか?
 それに、俺もう、あいつに『友達になってやる』って宣言しちゃったし」
 「そうなのか?」
 「ああ。ハルキは『ライバルが友達なんておかしい』って怒っていたけど、俺は決めたんだ。あいつを倒して、友達になる。
 だってライバルが友達になったら、お互い強くなれんだろ?」
 透の友達宣言を、日高がどう受け取ったのかは分からない。だが「そうだな」と相槌を入れた横顔は、光陵テニス部で指導している時のコーチの顔だった。






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