第8話 勘太の麻袋

 久しぶりに岐阜の小学校時代の夢を見た。
 父・龍之介がいきなり東京へ転居すると言い出してから怒涛のごとく過ぎた一週間。三日で引越しの荷造りを終えて、一日で入学準備を整え、その翌日には光陵学園に通っていた。
 あまりに忙しくて友達と別れを惜しむ間もなければ、住み慣れた野山を胸に刻む暇もなく、東京に着いてからも思い出を振り返って懐かしむという発想すら浮かばなかった。だが、心の何処かでそれを欲していたのだろう。目覚める直前の意識が薄っすらと戻りかけた束の間、夢と現の狭間で自身が笑っていたような気がしてならない。
 枕に顔を埋めながら、再び目を閉じてみる。
 同じ夢は見られないと分かっているが、もう少し余韻に浸っていたかった。気心知れた仲間と過ごしたあの懐かしい風景に。

 透が通っていた小学校には熊のような大柄な用務員がいた。
 体のわりに生真面目な彼は、いつも校内の何処かしらの修理に精を出していた。昔ながらの木造校舎は歴史があり過ぎて、穴やら、ひびやら、軋みも多く、修理をするには事欠かない。加えて自然の中で逞しく育った悪ガキどもが日々修繕箇所を広げていくので、必然的に彼の仕事も増えるのであった。
 名前は熊田なのか、熊野なのか忘れたが、彼は皆から『熊のおっさん』と呼ばれていた。もしかしたら体格だけで判断して、そう呼んでいたのかもしれない。
 透はその『熊のおっさん』の道具箱を見るのが好きだった。色々な大工道具が次々と出てきて、子供の目には宝箱のように映ったのだ。
 『熊のおっさん』は放課後になると子供達と遊んでくれたし、山の事にも詳しかった。何処へ行けば何の実が取れるとか、どんな魚が釣れるとか。野生の動物並みに知り尽くしており、それ故、子供達からは教師よりも尊敬され、親・兄弟よりも慕われていた。
 小学校の高学年ともなれば、親の存在を疎ましく思う。だからと言って、まだ大人の判断や助言が必要な歳でもある。『熊のおっさん』は、そんな子供達の親と友達の中間的役割を果たしていたのである。
 中でも透は『熊のおっさん』に特別懐いており、また人一倍可愛がられていた。やんちゃ盛りの少年は、各所で悪戯を仕掛けては教師達から怒られていたが、彼だけはいつも笑って許してくれた。
 ただ過去に一度だけ、『熊のおっさん』にこっぴどく叱られたことがある。

 あれは小学四年の頃だったか。そろそろ雪がどうのと話していたから、十月か十一月の秋口の話である。
 校庭の隅にある柿の大木から食べ頃の果実を採るのにテニスボールを使おうとしたところまで良かったが、収穫前から赤々とした柿の実の魅力に気を取られ、集中力を欠いた状態で打ち込んだ為に、コントロールを失った球は的から逸れて、すぐ側の教室の窓ガラスに直撃した。
 窓ガラスを割ったこと、それ自体を責められたのではない。透が放ったボールが窓ガラスを通り越して棚に置いてあった水槽に当たり、中の金魚が死んだのだ。
 すぐに謝りに行けば助かったかもしれないものを、ガラスを割った瞬間に怒られると思った透は、仲間を引き連れ一目散に逃げてしまった。
 『熊のおっさん』がものすごい形相で家まで押しかけ、まさしく熊並みの剣幕で怒鳴られたのを覚えている。この時、父親の龍之介は特に擁護する素振りも見せず、「てめえの後始末ぐらい、てめえででつけろ」と言って、息子が熊にさらわれるのを黙って見送った。
 普段は温厚な『熊のおっさん』だが、生命を粗末にするような行動に対しては誰よりも厳しかった。結果、透は丸一日校庭の柿の木に吊るされるという厳しい仕置きを受けた。何事も穏便思考の年老いた校長が取り成してくれなければ、三日は吊るされていたかもしれない。
 そんな苦い思い出もあるが、それでも透は『熊のおっさん』が好きであったし、彼も何かと気にかけて可愛がってくれていた。
 数日前まで暮らしていたはずなのに、岐阜での生活がとてつもなく遠い昔に思えてくる。
 「熊のおっさん、元気かなぁ」
 まだ暖かい布団に包まれながら、透は緑に囲まれた懐かしい風景をぼんやりと思い返していた。



 同じ頃、小心者の久保田は副部長の唐沢にミーティングと称して呼び出され、人気のない部室で二人きりで向き合っていた。
 「あのう、唐沢先輩? 早朝ミーティングというのは、もしかして僕達二人だけですか?」
 「ああ、これは部内でもあまり知られていない極秘ミーティングなんだ」
 「でも、どうして僕だけ?」
 「良いかい、久保田君。俺は、君のそのテニスに関する高度な知識を放置しておくのは勿体ないと思っている」
 「いや、僕の知識なんて、先輩達に比べたら大したことはないですよ」
 謙遜しながらも、久保田は何処かくすぐったさを覚えていた。
 生来、気弱な性格で、体つきも標準以下の彼は、どちらかと言えばテニスをプレーするよりも、プレースタイルを分析したり、研究したりするほうが得意であった。世界ランク百位以内に入っている選手の名前とプレースタイルは正確に記憶しており、マニュアル本から月刊誌まで、テニスに関する情報は常にチェックして、独自のノートも作っていた。
 但し、その行為は決して敵を倒す為でもなければ、プレイヤーとしての向上心からくる訳でもなく、単に自身のテニスの知識を増やして満足したいからだった。つまりはテニス・オタクである。
 新入部員の自己紹介の時に、久保田は自身にオタクの気がある事をほんの少し口走った記憶がある。副部長の唐沢は、それを覚えていたのだろう。
 人当たりの良い、柔和な笑みを浮かべて唐沢が囁いた。
 「謙遜なんかしなくて良いよ。俺は、君が入部した時から他の奴とはちょっと違うものを持っているって、感じていたんだよね。
 思い当たること、あるんじゃない?」
 「いや、まあ……実は僕、選手名鑑を読むのが好きで、テニス雑誌も月間講読したりして」
 「なるほどね。それじゃあ、当然、マニュアル本とかルールブックとか、メジャーなものは一通り読破しちゃっているよね?」
 「当然ですよ」
 「すごいなぁ。いや、感心、感心。
 こういう一年生がいてくれると、俺達三年も心強いよ」
 権力にめっぽう弱い小心者の久保田は、天にも昇る心持ちであった。今までオタクと馬鹿にされたことはあっても、心強いと言われたことなど一度もない。しかも他人には理解されないマニアな行為を、部内一、二を争う実力者の副部長が直々に認めてくれているのだ。浮かれるなと言うほうが無理である。
 「僕、嬉しいです。ようやく僕の努力を認めてくれる人に出会えて、感動です」
 「そこでさ、久保田君の知識の広さを見込んで頼みがあるんだけど。君、確か真嶋君と同じクラスだったよね?」
 唐沢がココア色の長い前髪を掻きあげ、にっこりと微笑んだ。瞬時に人の心を開かせるその笑みは、上級生の間では“悪魔の笑み”と恐れられるものであったが、新入部員の久保田はこの事実をまだ知らない。



 「奈緒、今日のおかず何だ?」
 肉だんごをあげて以来、隣席の透が毎日のように奈緒の弁当の中身をチェックしに来るようになった。
 「えっと、シューマイと、卵焼きと、アスパラと……」
 言い終わらないうちに、透が弁当箱を食いつくように覗き込み
 「そっか、シューマイと、卵焼き。残ったら俺に言えよ。食ってやる」
 と期待に満ちた笑みを向けた。
 こんな顔をされては無視する訳にもいかず、目当てのものを差し出すと、彼は
 「うん、この卵焼き、甘さ加減がちょうど良いな。うん、シューマイもなかなか」などとコメントを入れながら、即座に平らげていく。
 常識的に考えればかなり図々しい行為だが、透が口一杯におかずを頬張る姿を見ていると、あげて良かったと思ってしまう。この感情は、弟に対するものとは少し違う。
 弟におかずを横取りされようものなら、間違いなく兄弟喧嘩へと発展する。だが透の場合には、どういう訳か腹立たしい気持ちは起こらない。それどころか、微笑ましいとすら思っている。
 弟のように気になる存在でありながら、同じ行為をされても怒りを感じない。この矛盾だらけの感情は何だろう。
 答えを探して、横目で隣席を観察していた時である。じりじりと布が裂ける音がしたかと思えば、次の瞬間には雪崩にも似た振動と共に大量の本と木製のラケットが床に落ちていた。

 どうやら透が鞄代わりに使用していた麻袋が本の重みに耐えかねたらしく、机の脇にかけた状態で底の部分が破れて抜け落ち、中身が飛び出してしまったようである。
 こうなる事を予期していたのか、彼は
 「あちゃ〜! やべえかなと思ってたら、ついにやっちまったか」と呟き、慌てて床に散らばった本やらノートやらをかき集めている。
 本来、麻袋はジャガイモなどの運搬用に作られたもので丈夫なはずだが、よほど多くの荷物を詰め込み酷使していたに違いない。本の数だけでも、かなりの量である。
 隣席のよしみで、奈緒も手伝おうと散乱している冊子の一つに手を伸ばした。
 「あれ、この本……」
 それは彼女がテニススクールに通っていた頃に、教科書として読んだ覚えのあるテニスのマニュアル本だった。他にも、ルールブックや雑誌など、テニスに関する書物が五、六冊ほど散らばっている。教科書以外にこれだけの量を突っ込めば、いかに丈夫な麻袋でも大破するだろう。
 「トオル、すごいね。こんなに熱心にテニスの勉強していたんだ」
 「いや、これは今朝、久保田からもらったばかりだ。
 何か急に『お前にはテニスの知識が欠けているから、僕が支えになってやる』とか、言い出してさ」
 「へえ、良かったね。この本、私も読んだことあるけど、分かりやすかったよ」
 小心者の久保田が積極的に誰かの面倒を見ようとするのは不思議であったが、テニス部の中で透を助けてくれる協力者が増えるのは喜ばしいことだった。
 奈緒が拾い上げた一冊を手渡すと、透も
 「ああ、初心者の俺が読んでも理解できる本ばっか、選んでくれたらしい」と嬉しそうに言ってから、おもむろに破けた麻袋に目を向けた。
 「それにしても、どうするかな、これ?」
 どうするも何も捨ててしまうしかないと思ったが、破れた底の部分を真剣な面持ちで眺めているところ見ると、まだ使う気でいるらしい。
 出来ることなら、これを機会に麻袋から卒業して欲しかった。奈緒の家には弟が使わずに放置しているスポーツバッグがいくつかある。それを彼に使ってくれと申し出るのは失礼になるだろうか。
 校則が「服装は華美にならない程度」の一文しか書かれていない自由な校風の光陵学園には学校指定の鞄はなく、スポーツメーカーのロゴ入りバッグを携行したとしても咎められる事はない。少なくとも、今より目立つことはないだろう。
 奈緒が弟の鞄の話を切り出そうと口を開きかけた時である。破れた麻袋の中の布地にサインペンで書かれた拙い文字の羅列が目に入った。

 「トオル、それ、何て書いてあるの?」
 「ああ、これか?」
 透は照れ臭そうに頭を掻きながら、麻袋の内側を広げて見せてくれた。
 そこには袋の中央に大きくマジックで「トオル兄、だいすき」と書かれており、その周りにはサインらしき文字がびっしりと並んでいた。透を慕う小学校時代の友人達が書き綴ったものだろう。中にはジャガイモ農園を営んでいるという勘太の名前もあった。
 「これさ、俺がこっちに来る時に勘太達が餞別代りに作ってくれた鞄でさ。針とか持ったことない奴等が作ったから、鞄っていうより“まんま袋”なんだけどさ。
 あいつらなりに苦労して作ったんだろうなって思ったら、どうしても使ってやりたくて」
 そう言って、透は子供達が書いた文字の辺りを指で何度も撫でながら、寂しいとも懐かしいともつかない表情で、ふっと笑った。
 確かに彼の言うとおり、その麻袋は鞄というより袋そのものだった。袋の底の両端に筒状の布を縫いつけ、二本の紐を絞り口のところからそこへ通して、リュックサック方式に背負えるようにしただけの代物だ。布の縫い目は粗く、ホッチキスで繋ぎ合わせたほうがまだ丈夫ではないかと思えるほどのお粗末な出来だった。
 普通なら有難く頂戴したとしても、クローゼットに仕舞っておくか、せいぜい部屋の片隅に飾っておくのが関の山だろうが、透はそれを鞄として、制服とのミスマッチにもめげずに使っているのである。針を持つ手もおぼつかない子供達が想いをこめて作ってくれた贈り物だから。
 奈緒は少し迷ったが、先ほど頭に浮かんだものとは異なる案を投げかけた。
 「ねえ、トオル? もし良かったら、その鞄、リメイクしてみない?」
 「リメイク?」
 奈緒が提案したのは子供達が書いた文字の箇所は裏地として残し、他の裂けた所を補強しつつ表面は新たな布で覆い、丈夫で見栄えの良い鞄に作り変えようというものだった。肝心の思い出は裏側に残るので問題ないかと思ったが、透はしばらくの間、考え込んでいた。
 無鉄砲な彼が用心深く考える姿を見せるのは、これが初めてかもしれない。
 「あのさ、奈緒? そのリメイクって、針使うよな?」
 「うん。縫い直さないといけない所がいくつかあるし」
 「実は俺、苦手なんだよな。その……針が」
 「針って、裁縫針が? 注射針じゃなくて?」
 「いや、針全般」
 針全般が何処までを指すのか分からなかったが、どうやら透は針と名のつく全てが苦手のようである。彼の話によると、子供の頃、父親の研究室で悪戯をしていて棚から箱ごと注射針が落ちてきたらしく、それ以来、先の尖ったものが苦手との事だった。
 「よく槍が降るって言うだろ? だけどさ、針が降ってくるほうが怖いって!
 腕とかにさ、浅く刺さってんだぜ。プスプスって!」
 透はどんなに怖い体験をしてきたかを懸命に話していたが、奈緒には身振り手振りを交えながら語る仕草が微笑ましく、申し訳ないと思いながらも笑ってしまう。怖いもの知らずのやんちゃ坊主にも、苦手なものがある。そう思うと、自然と笑みが零れるのであった。
 「笑い事じゃないんだってば! マジ、怖えから!
 なあ、奈緒? 真面目に聞いてるか?」
 「聞いてるよ。大変だったね」
 「お前、俺が大げさに話していると思ってんだろ?」
 「そんな事ないよ。
 それより鞄のリメイク、どうする? 私、手芸部だし、二日くれれば何とかなると思うけど?」
 恐らく透は自身が針を持たなければならない状況を考え、悩んでいたに違いない。奈緒が代わりにリメイクすると申し出た途端、「良いのか?」と聞き返しながらも、その口元は綻んでいた。
 「お前、やっぱ、すっげえな。針、使えるんだもんなぁ」
 透が妙なところで感心してから、ボロボロになった麻袋を差し出し、ぺこりと頭を下げた。
 「頼む! こいつを甦らせてくれ!」
 偶然にも、彼が両手で掴んでいたのは「トオル兄、大好き」と書かれた箇所だった。拙い手書きの文字に、胸の奥がドキドキして、チリチリする。「大好き」の言葉に胸が高鳴り、「トオル兄」の部分では自分の知らない絆を感じて、焦げ付くような痛みが走る。この幾重にも重なる複雑な感情は何だろう。
 「上手く出来るかどうか分からないけど、やってみるね」
 奈緒は麻袋を受け取ると、大切な文字の箇所がこれ以上ほつれないよう丁寧に折り畳んで、鞄の奥に仕舞った。チリチリは少し引いたが、ドキドキは収まらない。彼から大切なものを預かったと思うだけで、動悸がさらに激しくなる。
 ドキドキ、少しチリチリ――。恋愛未経験の彼女がこの複雑な感情に名前があると気付くのは、それから数日後のことだった。






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