第1話 新天地

 「ふ〜ん……」
 緩やかな坂道が連なるメインストリートに足を下ろした透は、懐かしい感覚に包まれた。
 バスの中から受けた印象では茹だるような日本の暑さを想像していたが、無遠慮に照りつける真夏の日差しに反して、外気はサラリとしていて心地良い。
 これが西海岸特有の気候なのか。海に近いわりには湿気がなく、通りを行き交う風も爽やかだ。
 初めて訪れたこの街で、透は多くのことを思い出した。
 本来、風は気まぐれであって、ビルの隙間から押し出されるものではない。木々の緑は単一ではなく、空は青い宇宙と繋がっていることも。
 「悪くねえじゃん!」
 透は一目でこの街が好きになった。突然の転校に頭を悩ませた日々が馬鹿らしく思えるほどに。
 肌が合うとか。水が合うとか。どちらを指すかは分からぬが、とにかく自分に合っている。
 ――ここなら大丈夫だ。上手くやって行ける。
 金色に弾ける太陽の澄んだ光を浴びながら、透は出どころ不明の自信に頬を緩ませた。

 「サウスストリート267……」
 とある建物の前まで来て、透は母親が残していったアドレスに間違いがないか、今一度確かめた。
 目の前の豪邸が、本当に我が家か、否か。敷地だけでも東京で住んでいた家の十倍近くはある。
 表の門には透の背丈よりも高い鉄柵が取りつけられており、その向こうには車二台分のガレージと、身内のちょっとしたパーティなら出来そうな広さの庭もある。
 こうした豪邸に付き物の小洒落た花壇やプールはないものの、代わりにハーブのプランターが所狭しと並べられている。あの無謀なまでの品種の多さと適当な並べ方は母親の仕業に見えなくもない。
 建物本体も、壁に埋め込まれた窓の配列からして三階建てのようである。アメリカの住宅事情を考慮しても、親子三人で住むには広すぎる。
 「やっぱ、ここだよなぁ」
 かなり気後れはしたが、透は空腹に耐え兼ねて中に入ることにした。秘かに楽しみにしていた飛行機の機内食が、育ち盛りの中学生には少なかったのだ。
 キュルルと情けない悲鳴を上げる腹をかばいつつ、インターホンを鳴らすと、「ハ〜イ」という日本語にも英語にも聞こえる女の声がした。
 やはり、ここが自宅と見て間違いなさそうだ。この瞬時に人を苛つかせる能天気な声の持ち主は、日米両国を合わせても一人しかいない。
 インターホンに向かって無事に到着した旨を告げて、高い門をくぐると、頭上から監視カメラが追いかけてきた。
 治安の悪いアメリカでは常識かもしれないが、日本の、それも田舎暮らしの長かった透には、自宅に入るのに監視カメラでチェックされること自体、ひどく不快であった。
 「ここ、俺ん家だから」
 透は監視カメラに向かってひと睨みしてから、玄関の扉を開けた。

 「トオル、お帰り〜!」
 中に入るなり、母親が両手を広げ、感動の再会とばかりに駆け寄ってきた。
 どちらかと言えば、透の母親は美人に属する顔立ちだが、年頃の息子にとっては女の色香も消え失せた“ただのオバサン”としか映らない。同年代の女子ならまだしも、四十近いオバサンの抱擁に笑顔で応えられるほどの度量は持ち合わせていなかった。
 「何だよ? 気色悪いから離れろよ」
 「あら、照れてちゃ駄目よぉ。こっちでは、こうしてハグハグして挨拶するのが常識なんだから」
 「ハグハグ?」
 どうやら母親は早速「ハグ」(hug=抱き合う)という英語を覚えたようである。
 国内外問わず転居を繰り返す気まぐれな夫に長く連れ添っているせいか、彼女は新しい環境に順応するのが異常に早い。
 岐阜から東京へ出てきた時も、引っ越しの一週間後には隣近所の主婦仲間に地元スーパーのお買い得情報を教えていた。
 適応能力に優れているのか、単に図太いだけなのか。紙一重の長所である。
 透はすっかりアメリカに染まった母親を引き剥がすと、二週間ぶりの挨拶もそこそこに龍之介の所在を尋ねた。
 「あのクソ親父、どこにいる?」
 「龍ちゃんはリビングよ。その廊下の左側」
 「危ねえから、俺が合図するまで、そこにいろよ?」
 透は母親に一言念押ししてから、リビングへと向かった。
 今日こそは本気で父親を殴りたおすつもりであった。これがアメリカまで来た目的の大半を占めるといっても過言ではない。
 随分前から教授職の話は内定していたにもかかわらず、それを隠して岐阜から東京へ引越し、たった四ヶ月でまたアメリカへ。
 家族の都合も考えないどころか一言の相談もなく、全部、自分で勝手に決めて、さっさと渡米した父。
 おかげで息子は思い出に残る感動的な別れをする余裕もなく、思い出したくもない失態で胸が一杯だ。
 最悪、流血騒ぎになるかもしれないが、今度ばかりは許せない。ラケットを握り締める手にも自ずと力が入る。
 扉の隙間から慎重に中の様子をうかがうと、人の気配がするわりにはやけに静かである。龍之介のことだから息子の動きを読んで、返り討ちにしようと入口で木刀を構えているかもしれない。
 部屋の前で呼吸を整えた透は、扉を開けるや否や、龍之介を目がけて大きく振りかぶった。
 たとえ卑怯者のそしりを受けようと、剣道四段の父親を打ち負かすには、相手の不意を突く一瞬しかチャンスはない。
 積年の恨みをたっぷり込めて、リビングの中へ足を踏み入れた。ところが――。
 「ウェルカム、トオル!」
 「へっ……?」
 開け放した扉の先で待ち構えていたのは、憎き父親ではなく、見たこともない外国人。いや、外国人の集団だ。
 思いがけない光景を前にして、透はラケットを振り上げたまま、呆気に取られるしかなかった。

 ツッコミどころは、いくらもある。
 なぜ外国人が集団で我が家にいるのか。
 なぜ初対面の彼等が自分の名前を知っているのか。
 なぜ自宅に帰ったはずなのに、他人から「ウェルカム」と歓迎されているのか。
 ただ次から次へと外国人が押し寄せてくるために、身動きが取れないだけである。
 入れ替わり立ち替わり見る顔は、いずれもアメリカ人ではない。
 色黒の大男は容姿からしてアフリカ人で、日本人に間違えそうな顔立ちの少女はアジア方面だと思うが、お国までは定かでない。巻き舌気味でまくし立てる男は「イタリィ」を連発しており、その隣で負けじとアピールするのはアラブ人のようである。
 国際色豊かな面々は皆一様に自己紹介に夢中で、日本から大事に抱えてきた息子の怒りは振り上げたラケットとともに完全に無視された格好だ。
 「トオル、もう入っても良いかしら?」
 母親が能天気にも扉の隙間から顔を覗かせている。
 「こいつ等、一体、何なんだ!?」
 父親に対する憎しみが驚愕に転じて、誰かにすがりつきたい気分であった。
 「スチューデントよ」
 「スチューデント!? 学生が何だって、こんな大勢、俺ん家にいるんだよ?」
 「だってオール マイ チャイルドだもの」
 「チャイルドじゃねえだろ。複数形はチルドレン……ってか、その中途半端な英語、腹立つから止めろよな」
 「ノンノン、トオル。ノー・ジャパニーズ! マイハウスのリビングはイングリッシュオンリーね」
 「『ノン』はフランス語じゃねえのかよ?」
 「ノン、ウォーリー!」
 「気にするな」と言われても、それは無理な話である。母親の文法をコケにした無茶苦茶な英語はさておき、せめて現状だけでも教えて欲しい。
 「とにかく、俺ん家で何が起こっているのか説明してくれよ」

 母親の話によると、龍之介を追ってアメリカまで来たものの、この二週間、夫は仕事で忙しく、ほとんど顔を合わせることもなかった。
 夫と息子のいない寂しさと言葉の通じぬ不安もあって、積極的で考えなしの彼女は、二人の代わりに話し相手になってくれる家族を求めてホストファミリー制度を利用することにした。
 学園都市と隣り合わせのこの街に、ホームステイを希望する留学生は山ほどいる。募集広告を出すと同時に申し込みの電話が殺到し、とりあえず知っている英単語 ――当時は「イエス」と「サンキュー」の二つのみ―― で受け答えをしているうちに、今の万国博覧会並みの状況に陥ったという。
 その数十二人。透の家族を含めると、総勢十五人の大所帯となる。
 「まったく……どういう思考回路してんだよ。いくら寂しいからって、英語もろくに話せねえのにホストファミリーなんて、短絡すぎんだろ。
 で、こいつ等、いつ出て行くんだ? 当然、次の受け入れ先、決めてあるんだろ?」
 「エブリバディ、バラバラよ!」
 「は……?」
 意識が朦朧としてきたのは、時差ボケが原因ではない。
 「だから、学校によって帰国する日が違うのよ。三ヶ月ぐらいの子もいるし、三年以上の子もいたかしら?」
 アメリカ行きの話をされた時と同様、嫌な予感が眩暈とともに押し寄せた。
 「……つうことは、こいつ等、本格的に俺ん家に住むのか? 俺はこの見ず知らずの外国人と、中学卒業するまで一緒に暮らさなきゃなんねえのかよ?」
 「大丈夫よ。トオルだって、アメリカに来れば外国人なんだから」
 確かに母親のいう通りである。日本にいるからアメリカは外国であって、アメリカに来てしまえば、日本人が外国人になるのである。
 しかし透が訴えているのは、そのことではない。十二年間、三人が当たり前だと信じてきた家族が、いきなり十五人の大家族になる理不尽さを責めているのだ。
 日本で十五人家族と言えば、テレビ局が好んで取材に来るほどの珍事である。
 つまりギャラが貰えるほど大変な苦労があるわけで、それを慣れない海外生活の大事なスタート時期に、得体の知れない連中と始める必要がどこにあるのか。
 「ノン、ウォーリー! レッツ エンジョイ アメリカよ!」
 息子の質問の意図をまったく解さぬ母。ある意味、彼女は龍之介よりも始末が悪い。
 実力行使のできない無力な人間は、力ある者に黙って従うしかない。この切ない現実を悪意なく証明して見せるのが、彼女である。
 「俺の部屋は?」
 長時間にわたるフライトと懐かしくもない我が家に帰ったせいで、透はとてつもない疲労感に襲われた。ここはひとまずインターバルを取って、諸々の問題を整理する時間が必要だ。
 「二階の廊下を右に曲がって、一番奥よ。ボーイは二階で、ガールは三階。間違って三階に上がっちゃ駄目よ」
 「二階の奥」以降の母の説明は、頭が理解する前に消えていた。もう身も心も限界に来ている。
 現に、部屋を出る直前にソファに座る龍之介が視界に入ったが、ムカつく以上の感情は湧いてこなかった。ここで一戦交えるほどの気力はない。
 ふらつく足取りで階段を上がろうとすると、金髪の青年があとをついてきた。
 「部屋まで案内するよ」
 彼は淡いブルーのシャツと白のスラックスという、見るからに上品ななりをしていた。
 透の感覚では制服以外でそんな窮屈な服装をする奴の気が知れないが、お国柄なのか、よほどお堅い高校か大学に通っているのか。興味はあったが、今はそんなことより眠気の方が強かった。
 部屋まで案内してもらうと、透はすぐさまベッドに倒れこんだ。吸い込まれるようにして眠りに落ちる感覚から、相当無理をしていたのだと改めて思う。
 慣れない出国に始まり、初めて乗った飛行機と、時差ボケもある。しかも安らぎを与えてくれるはずの我が家は万国博覧会と化している。
 だが、その様子を見ていた青年が慌てて透を揺り起こした。
 「トオル。出来れば、このまま起きていたほうが良い」
 「頼む、寝かせてくれ。眠い……」
 「でも、そのほうが早く時差ボケが治るから。夜まで我慢して」
 「無理……」
 「そうだ。僕の自己紹介、まだだったよね?」
 そう言って彼は自己紹介をし始めた。

 エリック・ユッカーと名乗る青年はドイツ人で、驚いたことに彼は透と同じ中学一年生だった。
 向こうから見れば日本人が幼いだけなのだろうが、透の感覚では彼のほうが大人びて見える。
 エリックの話によると、この家に住んでいる中学生は三人で、他にもう一人、タイから来た「ジーン」という少女が同じ中学校に通うとのことである。
 先ほどリビングで見かけた東洋系の彼女が、そのジーンだろう。
 残りの留学生も、それぞれ高校、大学、専門学校に通っているらしく、人種だけでなく、学校も年齢も「エブリバディ、バラバラ」だ。
 続いて、エリックは母親に頼まれたと言って、この家のルールを説明していった。
 自分の家のルールを他人に説明されるのも可笑しな気分であったが、透はとりあえず大人しく聞くことにした。
 まず、皆が集まるリビングでは英語を話すこと。
 これだけ国籍や立場が違うと勘違いや誤解も生じる可能性があるため、不要な争いを避ける意味でも、リビングでは皆が分かる英語のみで、他の言語は使用禁止となっている。
 母親が「ノー・ジャパニーズ」と話していたのは、このことだ。
 次に、新しい我が家では買出し当番があるらしい。
 十五人分の食事の買出しを母親一人ではこなせないのと、学生同士の交流を深める目的もあって、月に一度ぐらいの割合で二人一組となって買出しに行かされる。
 最後に、母親が一日のうちに作る食事は夕食の一回のみで、他はキッチンの材料を適当に使って自炊する。
 人種が違えば味の好みも違うため、あえて食材だけを提供する自炊形式を取っており、洗濯も各自で行なうのが基本とのことだった。
 エリックの話を総合すると、透はこの家の息子というより、寮で暮らす学生の一人として扱われるようである。
 「この父にして、この母あり」と言いたくなるような、息子の存在をまったく無視した母親のマイペースぶりはアメリカに来てからも健在だ。
 話を聞いているうちに、眠気に代わって、ひどい空腹が押し寄せた。
 「エリック、腹減った。今の時間だと、自分で作らなきゃ駄目だよな?」
 「オーケー、トオル。ランチは自炊が基本だけど、今日は特別に僕が作るよ。
 何かリクエストは?」
 とっさに透の頭に肉だんごが浮かんだ。甘辛い醤油味の、それも奈緒の手作りの肉だんごが食べたくなった。
 それは肉だんごでなくても良いのかもしれない。彼女を身近に感じられる物なら、コップ一杯の水だって満足するはずだ。
 空港での情けない別れが生々しい記憶となって甦る。
 あれからまだ一日と経っていない。ほんの何時間か前に、確かに彼女は目の前にいて、言葉を交わしていた。
 時間の経過が存在しない、距離だけの別れ。寝不足と涙で赤く充血していた瞳や、リストバンドを渡す時に震えていた指先も、細部に至るまでよく覚えている。
 いっそのこと、時差ボケとともに記憶も薄れてくれれば良いものを。二人を隔てる距離以外、全てが近くに感じてしまう。
 「トオル……?」
 たぶん、まだ寝ぼけていると勘違いしたのだろう。エリックが項垂れる透の顔を覗きこみ、いかにも人の良さそうな目を向けた。
 カラーリングでは不可能な柔らかな金髪。心配そうに上下する青い瞳も。彼の容姿が現実を物語っている。
 ここはアメリカ。外国人だらけの我が家。奈緒に会えるはずのない場所に、もう来てしまっている。
 「量が多けりゃ……何でも良い……」
 自分を見つめる好意的な視線から目を逸らした透は、わざと寝ぼけた振りをして答えた。

 エリックに連れられてキッチンまで降りていくと、刺激的な匂いがして空っぽの胃袋が今度は痛いぐらいにキュンキュンと鳴り出した。
 「エッリク? これ、食っちゃ駄目か?」
 鍋の中にたっぷりと用意された料理は、具材こそ違うが、色も匂いも日本の食卓を髣髴とさせるカレーであった。
 透はそれを目にした途端、無性にカレーが食べたくなった。とてもエリックがランチを作り終えるのを待っていられる状態ではない。
 となりのダイニングで鍋の所有者と思しき女性を捕まえると、母親と同レベルの拙い英語で自分にも分けてもらえるよう頼み込んだ。
 初め彼女は怪訝な顔を見せていたが、エリックが流暢な英語で補足を入れると、すぐに笑顔で了承してくれた。
 「今日、着いたばかりじゃ仕方ないわね。その代わり、練習台になってくれる?」
 彼女はディナといって、この家に住む唯一のアメリカ人であった。メークアップアーティストを志望する十九歳の学生で、透のボサボサの髪を練習台としてカットするのが交換条件だという。
 「オーケー、オーケー!」
 交渉成立だ。いくらメークアップアーティストを目指しているとは言え、ディナはまだ修行中の身でプロではない。テクニカル・カレッジと呼ばれる職業訓練校に通う美容師の卵である。
 普通なら敬遠するところだが、今はカレーのためなら多少の犠牲は構わない。
 アメリカ人の彼女が作ったカレーは米がパサパサで、ルーも大して手間をかけた形跡はなく、繊細な舌を持つ日本人には物足りなさを感じるものの、飢餓にも似た空腹が満たされるという一点で大いに満足できた。
 立て続けに二皿を平らげ、エリックのランチになるはずのマッシュポテトとスープも横取りし、ようやく落ち着きを取り戻した透であったが、食欲が満たされたと同時に、またも眠気に襲われた。それもかなり本格的なヤツである。
 「トオル! 起きて、起きて!」
 必死で話しかける皆の声が遠くに聞こえる。今度こそ眠りに落ちると思った次の瞬間、エリックが苦し紛れに放った一言で飛び起きた。
 「僕達の中学校を下見しに行こう!」
 透を外に連れ出すことで眠気を覚まそうとしたのだろうが、その一言は彼の予想以上の効果があった。
 なぜなら、透には自分の入学する中学校にテニス部があるかどうか。それが龍之介を殴りたおす目的の次に重要な関心事となっていたからだ。

 『イースト・パタソーンズ・ジュニア・ハイスクール』という仰々しい名前の中学は、その校名だけでなく、建物も敷地も全て日本の大学並みに広くて立派であった。中等部と高等部の両方の校舎を併せ持つ光陵学園もかなり広いと思ったが、その倍はある。
 エリックの話によると、この学校は、学問はもちろん、スポーツにも力を入れており、毎年どのクラブも地区大会で優秀な成績を残しているとのことだった。
 図書館を見学したいというエリックと別れ、透は早速、テニス部を目指して広大な敷地を見て回った。
 テニスコートへ向かう。この何でもない行為が光陵テニス部と繋がりを保てる唯一の接点のような気がして、次第に足も速くなる。
 「ここか?」
 校舎の裏側、表のグラウンドとは別の裏庭に当たる場所で見つけたテニスコートは、広大な敷地に反してたった四面の質素なものだった。男女合わせて一面しかない海南中を思えば贅沢は言えないが、スポーツに力を入れている学校にしてはお粗末な気がした。
 そこに漂う違和感も、コートの数が少ないから――。果たして、そうだろうか。
 漠然とした違和感を抱えたまま周辺を散策していると、ちょうどコートの脇をテニスウエア姿の学生が通り過ぎた。
 「あの、ここのテニス部に入部希望なんですけど、いつから入れますか?」
 「お前が?」
 その男は透を一瞥すると、「ふん、お前じゃ無理だ」と冷たく言い放った。
 「あ、俺は九月からこの学校に入学することになっていて……」
 最初は部外者だと勘違いされたのかと思った。あるいは自分の拙い英語が通じていないか。
 ところが男は透の説明を最後まで聞かずに、「日本人は……」と言いかけ、急に口を閉ざした。こちらに向かって来るもう一人の部員らしき人物に気づいて、慌てて話すのを思い止まったようだ。
 「何かあったのか?」
 「やあ、ケニー。別に大したことは……」
 それまでの冷たい態度から一変して、男はあとから来たケニーという人物に媚びた笑みを返した。
 いま会話に加わった彼のほうが先輩か、もしくは立場が上に違いない。そう睨んだ透は、同じ質問をもう一度「ケニー」と呼ばれた男に投げかけた。
 「この学校に九月から入学するんですけど、いつからテニス部に入部できますか?」
 「もう入部希望者が来ているのか。君、名前は?」
 やる気のある部員は大歓迎とばかりに、ケニーが目を細めた。
 これが普通の反応だと思いながら、透は自分の名を告げた。
 「トオルです。トオル・マジマ」
 「俺はケニー。テニス部のキャプテンだ。
 入学式を待たなくても、君さえ良ければ、いつでも来ると良い」
 やはり透の睨んだ通り、彼は部長であった。どこの国でもリーダーを務める人間は、話が早い。
 「マジマって……もしかして、あの真嶋教授の息子なのか?」
 透が苗字を名乗った途端、冷たい態度を取っていた男が大仰なポーズで聞き返した。まるで透の父親を知っているかのような口振りだ。
 その問いかけに軽く頷きながら、透は日高から「龍之介は海外のほうが知名度はある」と言われたことを思い出した。今回の転勤も、それ故に生じた話である。
 あのわがままで、横暴で、自己中心的な父親も、海外ではスポーツ科学の権威として広く知られている。その事実が無性に腹立たしく、彼の息子であることを含めて、全面否定したい衝動に駆られた。
 元プロのテニスプレイヤーを父に持つ遥希の気持ちが、今更ながら分かった気がした。
 どこへ行っても「真嶋教授の息子か」と挨拶代わりに聞かれ、自分よりも父親のほうに興味を持たれる。そんな人間関係しか知らなければ、誰しも卑屈になるだろうし、自己防衛のために他人と距離を置くようになる。
 これがアメリカにいる限り続くのかと思うと、透は早くもうんざりした。
 しかし龍之介を知った風な男は、先程とは打って変わって、いやらしいまでに友好的な態度で透をマネージャールームへ案内すると言い出した。
 「キャプテンのお許しも出たことだし、コーチを紹介するよ。ミスター・マジマ!」

 マネージャールームの中へ入ると、細身の男が一人、退屈そうに雑誌を読んでいた。
 「彼がテニス部のコーチ、ミスター・アップルガースだ」
 男は小声で透に耳打ちをすると、中にいたコーチに紹介し始めた。
 「コーチ、うちのテニス部に入部希望のトオル・マジマです」
 龍之介の話題に敏感になっているせいか、「マジマ」のところだけ、やけにハッキリ聞こえた。
 「マジマ……中国人だったか?」
 「違います、日本人ですよ。ほら、あのスポーツ科学の……」
 面倒臭さそうに雑誌から目を離したコーチが上から下まで舐めるように透を観察してから、受け口気味の顎をゴシゴシとしごいた。
 「ああ、あれね。じゃあ、明日から来て良いよ」
 新しい中学校にテニス部が存在し、そこへすんなり入れたのは嬉しいが、透は龍之介の知名度で入部を許可されたようで不快であった。しかも強豪校のコーチにしては、このアップルガースという男、あまりに体格が貧弱すぎる。
 先ほど感じたコート内の違和感も、この男が原因ではなかろうか。
 だがしかし、胡散臭さの漂うテニス部ではあるが、入部を断られるよりはマシだと思うことにした。
 これでまたテニスがやれる。ここにも個性豊かな仲間たちが集まっているに違いない。その安堵にも似た喜びは、不快な思いを一掃した。
 透は軽く会釈をしてから、マネージャールームを後にした。背後で二人の男の乾いた笑い声がしたが、喜び勇んで部屋から出ていく透の耳には届かなかった。
 「コーチ、良いカモが入ってきましたね。とりあえず、Bランクでどうですか?」
 「ああ、それから早目に奴の自宅の電話番号を聞き出しておけ。役に立つとしたら、親父のほうだからな」






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