第10話 プライドの行方 (前編)

 透がありあわせの資材で造ったトレーニングジムは思いのほか好評で、そこを訪れるメンバーの数は日を追うごとに増えていった。
 日頃はケンカ上等のヤンキーであっても、上手くなりたいと願う気持ちは皆一様にあるのだろう。初めは慣れない器具に悪戦苦闘していた彼等だが、トレーニングを続けるうちに己の肉体で進歩を実感するのか、二週間が経った今でも脱落者は一人も出ていない。
 透はいつの間にか、ジムのトレーナーのような位置づけなっていた。
 ゲイルからコートの出入りを禁じられた透にはバックヤードにしか居場所はなく、また今まで我流の練習法しか知らずに過ごしてきたメンバーには筋トレとは何ぞやから説いて聞かせる指導者が必要で、ランキングで定められた上下関係とはまったく別のところで、自然な師弟関係が芽生えていたのである。
 年下の指導者に対して貪欲に教えを乞う彼等を見ていると、透は過ぎし日の自分を振り返らずにはいられなかった。
 光陵テニス部では当たり前のように三年生が二年生を、そして二年生が一年生の指導をし、その基軸となる練習メニューはプロのコーチと部長、副部長といった知識も経験も豊富な首脳陣が作ってくれていた。
 なかなかレギュラーになれずに歯痒い思いもしたが、行く道に障害物はなく、努力さえすれば前に進める保証があった。
 それがいかに幸せなことなのか。アメリカで不当な差別に遭うまで気づきもしなかった。
 ゲイルとの再戦まで、あと二週間。残された時間は限られているが、自分が光陵テニス部で教わったことをひとつでも多く残していこう。
 手作り感満載のトレーニング器具に目を輝かせるメンバーと付き合ううちに、透はいつしか、部活動の仲間に対するのと同じ感情を抱くようになっていた。

 「トオル、俺様にも教えてくれ! 早く、早く!」
 順番待ちの列を無視して堂々と割り込んでくるのは、五十人からなるメンバーの中でも一人しかいない。自由奔放なビーである。
 そしてまた、「ブライアン、お行儀が悪いぞ。ハウス!」と皮肉を込めて諭せるのも、ただ一人。相棒のレイだけだ。
 二人とも相当ストレスが溜まっているらしい。
 この二週間、彼等はずっとゲイルのラリー練習に付き合わされていたために、仲間内で話題となっているトレーニングジムに入るのも今日が初めてだ。
 「レイの場合は、これを使って腕の筋力を付けるところから始めると良い。最初は鍛える個所を意識するつもりで、少しずつ……」
 砂袋を枝に通した木の前で、透がレイに説明を続けていると、ビーが辛抱しきれなくなったのか、壁打ちボードの前で練習を開始した。
 「ビー! そっちは、まだ無理だって!」
 「なんでだよ!? こっちの方が面白そうだ」
 「こっち」とは、二種類あるうちのコンクリートの塊をくっつけて固めたボードのほうで、あえて壁の表面に凹凸を作ることにより、変化に富んだボールが戻る仕掛けになっている。
 「ビーはまず平らなボードで基本のフォームから覚えなくちゃ駄目だ。いきなりこっちじゃ、それこそ手首を痛めるぞ。
 ほら、戻って……」
 透がなかなか秩序を守ろうとしないビーを隣のボードへ連れて行こうと、腕を掴んだ、その時。手首の辺りに違和感を覚えた。
 「ビー、これは?」
 「大丈夫だ。心配ないって」
 すると、そのやり取りを見ていたレイが、
 「ああ、ビーもやっちまったか」と言いながら、自身のジャケットの袖口をたくし上げた。
 二人ともゲイルとの練習が負担となっているのだろう。それぞれ手首と肘にテーピング用の白いテープが巻かれている。
 透でさえ返すのが精一杯のスピンボールを、まるまる二週間も受け続けているのだから、こうなっても不思議ではない。
 「お前等、ここへ顔を出す暇があったら、医者へ行け」
 幼い頃から父親の手伝いをさせられてきた透には、それがプロの処置か、否か、ひと目で分かる。何重にも巻きつけられたテープの固まりは、どう見ても素人のそれである。
 「テーピングで圧迫すれば痛みが和らいだ気になるけど、故障が治るわけじゃない。早く医者に診せて正しい処置を受けないと、あとで面倒なことになるぞ」
 「大丈夫だって。これぐらい、気合で何とかなる!」
 ケガに関して意識の低いビーに、透は根気よく説得を続けた。
 「良いか、ビー? ケガを放っておくと酷くなるばかりか、そこをかばって、故障が他へ広がることもある。
 こういうケガは軽傷のうちにきちんと治療しなくちゃ駄目なんだ」
 「だけど俺様、早く強くなりたい。もっと練習しないと」
 「テニスが出来なくなっても良いのか?」
 「それは困る」
 「テニスは逃げないから、まずは治すんだ。
 レイもだ。分かったな?」
 「オーケー、ボス!」
 おどけて見せてはいるが、レイには透が誰のためを思って苦言を呈しているのか、分かっているようだ。

 透がレイと協力して説得を続け、ビーも渋々ながら重い腰を上げようとした矢先。運の悪いことにゲイルがやって来た。
 「おい、練習を始めるぞ。コートに入れ」
 ゲイルが執拗にビーとレイにラリー練習の相手をさせる理由は、ただ一つ。二週間後の透との再戦に備えて、自身が現役で活躍していた頃と変わらぬ状態に仕上げるために、ランクが上のメンバーと打ち合う必要があったのだ。
 「お前等、聞こえなかったのか?」
 ビーとレイは互いに目配せをするだけで、動こうとはしなかった。いくら上からの命令とは言え、ケガの怖さを知らされた後では、腰が引けて当然だ。
 しかし、非情なナンバー2が故障ごときで許してくれるとも思えない。
 自分たちの体を優先すべきか。黙って命令に従うべきか。二人が躊躇していると、ゲイルの怒号が飛んだ。
 「さっさとコートに入れ! 頭の悪いクズどもが! 何度も同じことを言わせるな!」
 いつものことだった。誰もが聞き慣れたはずの、力ある者からの命である。
 ところが、その場にいたメンバー全員が一斉にゲイルに冷たい視線を向けた。
 自分のことしか考えないナンバー2と、苦労して造ったトレーニングジムを仲間のために開放し、共に強くなろうとするナンバー3。
 今まではこういうものだと無理やり納得してきたゲイルの横暴が、透が仲間に加わったことにより、異質なものとして浮き彫りになったのだ。
 だが、ゲイルはメンバーからの無言の抗議をものともせずに、普段と変わらぬ口調で言い放った。
 「そんなに居心地が良いなら、そこにいろ。但し、二度とコートに入るな。
 他の奴等もだ。今すぐコートに戻るか、永遠にバックヤードに留まり続けるか。
 どっちが得か、少ない脳みそで考えろ」
 力の弱い者達の抵抗はほんの数秒で砕け散った。
 行き場のない彼等にとって、コートから追い出されることが何より辛い。
 ゲイルが下した命は、二週間後に出て行く人間に肩入れして、唯一の居場所を失う覚悟があるのか、どうか。それを問うている。
 後々のことを考えれば、答えは決まっている。ナンバー2の圧力に屈して、ほぼ全員が隣のコートへ足を向けた。
 あくまでも“ほぼ”であって、全員ではない。
 「俺様は……」
 まず一人。
 「もうアンタには従わない。トオルと一緒にここにいる」
 ビーの決意にレイも続く。
 「アンタはこんな風に俺達のために何かしてくれたことがないからね」
 コートへ戻りかけたメンバーの間から、どよめきが起こった。バックヤードに残った顔ぶれの中に、もう一人、予期せぬ人物がいたからだ。
 「俺もここに残る」
 かつてナンバー5を務めていたブレッドだ。
 見た目と違って温厚なブレッドは、今まで正面切って誰かに異を唱えたことなどなかった。極力争いごとを避けるタイプの人間だ。
 その彼がバックヤードに残っていることに、さすがのゲイルも表情を硬くした。
 「ブレッド? 貴様、本気か?」
 「子供の頃、母さんが繰り返し説いていた。
 どんなに貧しくても手放してはいけない。人が人であるために、守らなければならないものがあると。
 トオルがそれを思い出させてくれた」
 「雑魚が得意のお仲間ごっこか? 弱者に哀れみでもよこせというのか?」
 「仲間も大事。人の痛みに寄り添うことも大事。
 大事なものを大事にする心……プライドだよ、ゲイル」
 「ふん、悪い冗談だ。
 ここが街の連中から何て呼ばれているのか、知っているだろう? ゴミ溜めだ。
 そこに出入りしている俺達は何だ? そうだ、クズだ。
 ゴミ溜めしか行き場のないクズに、そんなものは必要ない」
 「いいや、違う。プライドを持っている人間はクズじゃない」
 ブレッドは透がストリートコートへやって来た日のことを話しているのだろう。
 試合放棄という安易な提案に惑わされず、最後までリーダーとの勝負にこだわり続けた。
 ゲイルのラフプレーに傷つきながらも、自らは決して卑怯なプレーに走らないと断言した。
 メンバー全員から敵意を向けられているにもかかわらず、ビーの体を案じ、ゲイルに対して仲間を大事に出来ない奴こそ価値がないと、啖呵を切った。
 一途な少年から飛び出す言葉の一つ一つに、彼もまた他の仲間と同様、心を動かされたに違いない。
 己が大切に思うものを、最後まで諦めずに守り通す。ブレッドが透の中に見たプライドだった。
 ふうっと、一筋の紫煙が立ち昇った。
 「どうやら大掃除が必要らしいな」
 主力メンバー三人からの抵抗を受けても、ゲイルは怯むどころか、落ち着き払って煙草をふかしている。
 「俺の命令に従えないなら、三人まとめてここから出て行け。残りのメンバーを幹部に繰り上げるまでだ。
 お前等の代わりはいくらでもいるからな」
 本来は別格であるはずの幹部でさえ、ゲイルは平然と切り捨てる。そこには迷いも動揺も見られない。まるで使い古したフィルターを交換するかのような、実に事務的な態度である。
 「ちょっと待て。
 確かここのルールじゃ、ランクが上の奴には絶対服従。そうだよな?」
 透は言いながら、身につけていたウエイトを一つずつ外していった。
 「だったら、お前等、出ていく必要ねえよ」
 皆が真意を計りかねて、続きをじっと待った。
 「まさか、お前……?」
 その言葉の意味にいち早く気づいたビーの顔色が変わる。
 「今から俺がナンバー2になってやる」
 それは紛れもない、ゲイルに対する宣戦布告であった。仲間を下僕のように扱うゲイルの非道なやり方に、透の怒りがついに爆発したのである。
 「やれやれ、一ヶ月も持たなかったか」
 なるべくして起こった因縁の対決に、丸太の上から溜め息が漏れた。

 「良いだろう。今度こそ、ここから叩き出してやる!」
 いきなりの宣戦布告に動じることなく、ゲイルがコートへ入っていった。迎え撃つ準備はすでに整えているのだろう。
 それに反して、透は何の勝算もなかった。
 ゲイルにコートを追い出されてから、まともに打ち合う機会もなく、バックヤードで思いつく限りの弱点を補強してみたが、その成果を確かめる前に再戦の事態に陥った。
 しかし、もう後には引けない。
 腹をくくってコートに入った透は、二週間前とは明らかに違う、ある変化を感じた。
 あの突き刺さるようなメンバーの視線が、今は祈るような眼差しに変わっている。
 ナンバー2を除いた全員が、仲間三人の残留を希望している。そして、その代わりに敵意を向けられているのはゲイルのほうだった。
 透はコートの周りを取り囲む一人ひとりの顔を見回した。
 彼等のためにも負けられない。心の中で固めた決意が闘志となった。

 ストリートコートのルールに則り、最初のサーブ権は挑戦者である透に与えられた。
 自由になった肉体から放たれたフラット・サーブは、皆の予想をはるかに超えていた。
 「あいつウエイト外したら、あんな速えサーブ打つのかよ? あのゲイルが一歩も動けなかったぞ!」
 驚きが沈黙と化した静寂の中で、ビーだけが素っ頓狂な声を上げていた。
 試合中は大声を出さない。対戦者同士はどんな妨害も許されるが、試合を見守るメンバーがそれに繋がる行為をするのは固く禁じられている。
 リーダーの厳命を思い出し、とっさに口に手を当て丸太の上を見やったビーだが、厳しい叱責の代わりに降りてきたのはいつもの間延びした声だった。
 「いいや、ウエイトだけじゃねえよ」
 ジャンが気だるそうに起き上がり、丸太の上でどっかりと足を開いて座り直してから、珍しく改まった様子でビーを見下ろした。
 「さっき、小僧がレイに教えていたあの砂袋な? あれは上腕筋と同時に背筋も鍛えられるハイプーリーをイメージして造ったもんだ」
 「ハイプーリー?」
 「そうだ。背筋を鍛えるマシンだ。
 ゲイルのリターンに対抗するには、背筋を鍛えて、てめえのサーブを強化するのが一番の近道だ。
 ビー、こっちに上がって二人のプレーをよく見ておけ。もしかしたら見納めになるかもしんねえ」
 「見納めって、トオルの?」
 「いや……何でもねえ。忘れろ」
 長い付き合いのゲイルを除き、ジャンが丸太の上にメンバーを呼び寄せることは滅多にない。よほど信頼できる人間か、大事な話をする時に限られている。
 ジャンの気が変わらぬうちに、ビーは憧れの特等席へと駆け上がった。
 コートを上から眺めることによって、試合の様子がよく分かる。
 積極的に際どいコースを攻める透と、勢いに圧されて守りに入るゲイル。今のところ、透のほうが優勢に思えた。
 ゲイルが圧されているのは数字の上でも明らかで、彼は第1ゲームに続いて、自身のサービスゲームも落とし、第3ゲームでもその流れは変わらなかった。
 ゲイルの得意とするドロップショットを、透は持ち前の瞬発力をフルに使って拾い上げ、逆サイドへと沈めていく。
 極限状態で臨んだ前回の試合と違って、今回はショットに追いつくだけの体力は残っているようだ。
 「トオルの奴、体力全開だと俺様より速えんじゃねえか?」
 「それもあるが、あれも一役買っている」
 ジャンがバックヤードの壁打ちボードを顎で示した。
 「あのコンクリートの塊が塗りつけてあるヤツな。あれはゲイルのドロップショット対策用に造ったものだ」
 凸凹だらけの壁打ちボードでは、いくら強く打ち込んだとしても、ボールは急降下してドロップショットのようなタイミングの外れた抜け球となる。
 透はそれを利用して、練習相手のいないバックヤードで黙々とドロップショットに対抗するスキルを磨いていたのである。
 「あの面白そうな壁打ちボードは、そんなすげえモンだったのか?」
 「ああ、あっちもそうだ」
 続いてジャンが指したのは、シーソーにしか見えない丸太と板を組み合わせた器具だった。
 あれは支柱をずらせば腹筋や背筋を鍛えるベンチにもなり、さらに板を外せばサイドステップの練習も可能で、スペースを取らずに多くのマシンの代用が出来るよう工夫されているという。
 バックヤードの地面には、コートと同じラインが白いペンキで引かれている。ジムの器具を片づければ、簡易のシングルスコートとしても使える仕組みである。
 ジャンから説明を聞き終えたビーが、思わず感嘆の溜め息を漏らした。
 「あいつ、ひょっとしてとんでもねえ奴なのか?」
 「さあな。お前が仲間と見込んだ奴が本物かどうか、その目で確かめろ。
 試合はまだ始まったばかりだ」

 第2ゲームに続いて、第3ゲームもキープしたところで、透はわざとゲイルに挑発的な言葉を投げかけた。
 「ウエイトしているんなら、さっさと外さねえと負けちまうぜ?」
 当然、ゲイルがウエイトを着けているはずもなく、「3−0」と点差が開いた今、皮肉の混じった挑発は彼を煽る目的で発したものだった。
 ゲイルは何かを隠している。3ゲームも離されたというのに淡々と試合を進める様を見て、透は本能的に裏があると感じていた。
 このゲーム差は決して二人の実力差ではない。そんな甘い相手ではないはずだ。
 「クソガキ、調子に乗るな」
 おもむろにゲイルはジャケットを脱ぎ捨てると、足元を確認するかのように軽くその場でジャンプした。
 形勢が逆転したのは、この直後であった。
 鋭いスピン・サーブを打ち込んだ後、ゲイルがネット前へと飛び出した。
 ほんの一瞬の出来事だった。ベースラインからネットにつくまでの驚異的なスピードと、そこから放たれた鮮やかなボレーは、明魁学園の京極を髣髴とさせるほどの早業だ。
 「ドロップボレー?」
 ネット上を綱渡りのように移動してから反対側へと落ちるボレーは、透がこれまでに見たこともない軌道を描いていた。
 通常のドロップボレーとは勝手が違う。
 動揺を露にする透に対し、ゲイルが今にも高笑いせんとばかりの高圧的な笑みを向けた。
 「俺の本来のプレースタイルはサーブ&ボレーヤーだ。貴様のスピードじゃ、俺には勝てない」
 サーブ&ボレーは瞬発力とボレーの技術、その双方に長けた選手にのみ可能なプレースタイルだ。
 先日の試合でベースラインからの巧みなコントロールを見せられた透は、てっきりゲイルはベースライナーだと思い込んでいた。
 瞬く間にコートの周りが騒がしくなった。リーダー以外、この事実を知る者はいないと見えて、幹部のビーでさえ、丸太の上で大口を開けて唖然としている。
 この機に乗じて、サーブ&ボレーヤーの猛攻撃が始まった。
 鋭いスピン・サーブで透を外へと追い出し、リターンをボレーで沈めるやり方で、確実に点差を埋めていく。
 突然プレースタイルを変えられたことにより、透が頭の中で思い描いていたゲーム展開が白紙になった。
 それはまるで地図を頼りに走っている最中に、横から取り上げられたようなもので、動揺と不安が同時に押し寄せる。
 何を目安に進んで良いのか、道標となるものが見えない。
 気弱になったところを一気に攻め立てられて、透の動揺はますます酷くなる。
 「落ち着け……落ち着け……」
 経験値の差を思い知らされた。
 自分の手持ちの札を、どこでどう切るのが効果的か。勝負の進め方を、ゲイルは知っている。
 彼が3ゲームの開きを平然と許していたのも、透の仕上がり具合を見るためだ。最初から彼はそのぐらいの点差なら追いつけると踏んで、様子を探っていたに違いない。
 どうにかしてこの劣勢を五分まで戻し、戦局を立て直さなければならない。
 次は透のサービスゲームである。
 ――白紙に戻ったのなら、一から組むしかない。
 透は一つの打開策を見出した。
 相手がサーブ&ボレーで攻めるつもりなら、それより先に自分がネット前を占領してみてはどうか。とっさに思いついた苦肉の策だが、試す価値はありそうだ。
 サーブと同時にネット前から攻撃すべく、透がスタートを切った直後である。
 ゲイルからパッシングショットが打ち込まれた。
 「くそっ! パッシングまで、リターン並みの速さだ」
 「言ったはずだ。貴様のスピードじゃ、俺には勝てないと」
 巧みな戦術と高い技術に振り回されるばかりで、全てが後手に回っている。しかも向こうには決め球となるドロップボレーもある。
 ゲイルのドロップボレーが厄介なのは、ネット上を綱渡りのようにつたう滞空時間が存在することだ。
 通常のネットを挟んで反対側へストンと落ちるドロップボレーなら、ある程度の落下地点を予測できる。
 だが彼のドロップボレーは、ネットの上をつたうことでタイミングが狂わされる上に、どこへ落ちるのか予想もつかない。落下地点の読めないボールに追いつき、返すことなど不可能だ。
 相手の素早い動きに翻弄されて、ドロップボレーを封じる手立てもなく、まさに八方塞がりの状態だ。
 コートを囲むメンバーたちの視線が不安の色に変わっている。
 彼等を失望させてはいけない。手作りのトレーニングジムに目を輝かせる彼等のささやかな願いを、どうにかして守る術はないものか。
 透は大きく息を吐き出すと、ゲイルと同じようにジャケットを脱ぎ捨てた。
 「本当はおっさんとの勝負まで外したくなかったんだけど、やっぱアンタ強いみたいだし……」
 「貴様、まだそんな物をつけていたのか?」
 ジャケットと共に取り払われたのは、腰に巻きつけるタイプの最後のウエイトだ。
 「言ったはずだ。俺は最強の男と勝負することしか興味がないって。だけど、今はこいつ等のほうが大事だから」
 ゲームカウント「3−3」と引き分けた第7ゲーム。これ以上ズルズルと点差を開かせるわけには行かない。
 この試合に勝つために、透は全力を出すと覚悟を決めた。

 全ての枷を外した透は、これまで以上のスピードでネットへとダッシュした。
 「俺より先に前へ出られると思うなよ」
 例によってゲイルから素早いパッシングが打ち込まれたが、透は軽くなった体で難なく方向転換すると、前に出ようとする相手の背後へロブを上げた。
 「アンタこそ、前には出させねえよ」
 ゲイルはパッシングで、透はロブで、両者とも互いの前進を牽制し合う。
 互角のスピード。互角の技術。勝負の鍵は、あのドロップボレーを試合中に攻略できるかどうかに懸かっている。
 それぞれがサービスゲームをキープしようと躍起になっていた。第7ゲームは透が死守し、第8ゲームはゲイルが同じようにキープするつもりでネットについた。
 ところが、その直後に透も前へ躍り出た。ネットプレーを得意とする相手に対し、真っ向勝負の構えである。
 「俺は、ビーとは違う」
 これから始まるであろうボレー合戦を前に、ゲイルは揺るぎない自信を見せている。
 敵の懐へ飛び込むことで、初めて見えるものがある。こちらがリスクを背負うことで、向こうは致命傷を与えようと、迷うことなく手の内を明かす。
 ゲイルのラケットからドロップボレーが送り込まれた。ふわりと浮いたボールがネットの上を軽やかに滑っていく。
 透はネットに対して体を沿わせるように並行に構えた。
 少しずつうねり始める白帯に意識を集中させる。
 ボールの軌道が読みづらいのは、ネットをつたうからである。言い換えれば、ボールの通り道となるネットの白帯こそが、その軌道である。
 ボールの重みに耐えかねて、白いラインが最も歪む瞬間に狙いを定める。
 「今だ!」
 思い通りの一瞬を捉えた透は、落ちていくボールの下に素早くラケットを滑り込ませると、反対側のコートへとスライドさせた。

 「これは……!」
 思わぬ返球に驚いたのは、ゲイルだけではなかった。
 「今のは、ドロップボレーをドロップボレーで返したのか? そうだよな、ジャン?
 俺様、あんな芸当、初めて見た!」
 興奮を抑えきれずに、ビーが詳しい説明を求めてジャンの太い腕にしがみついた。
 「俺は二度目だ」
 「ジャンも、あんなミラクル起こしたのか?」
 「バカ野郎、あんな下手クソと一緒にするな。俺のほうがもっとスマートだ」
 格が違うと言いたげに、ジャンは敢えて仏頂面で答えたが、その口元は心なしか緩んでいる。
 「なあ、ジャン? さっきの『見納めになる』って、もしかしてゲイルのことなのか?」
 そう考えれば、ビーが丸太の上に呼ばれたのも納得がいく。
 色々と問題はあったが、ゲイルはジャンにとって最も信頼を寄せる幹部であり、学生時代から多くの時間を共に過ごした友である。
 その彼の最後となる試合を、後を引き継ぐビーとともに見届けるつもりだとしたら。
 しかし、一旦「忘れろ」と命じたジャンに前言を翻すつもりはないらしく、緩んだ口元から答えらしきものは返って来なかった。

 「貴様、いつの間にドロップボレーを覚えた?」
 この二週間、ゲイルが意図的に透をコートから遠ざけ、オンコートでの練習時間を作らせないよう画策していたのは知っている。
 それにもかかわらず、前回対戦した時よりも力をつけている。しかも、こんな短時間で決め球まで攻略されたとあっては、ゲイルが驚くのも無理はない。
 焦りの色が見え隠れするゲイルに向かって、透は安堵の溜め息とともに本音を漏らした。
 「確かにアンタのドロップボレーは計算外だった。だけど、おっさんを倒すのに必要かと思って、バックヤードで練習だけはしてたから……」
 目の前の試合ではなく、その先にそびえ立つ大きな目標のために。
 昔、唐沢が同じことを言われていた。彼のプレーは目先の勝敗よりも、返せない一球にこだわる。まるで職人のようだと。
 今ならその気持ちがよく分かる。最強の男を倒すには、克服すべきボールは全て返せるようにしておきたい。
 前の試合で返せなかったゲイルのドロップショット。それを攻略しようと練習しているうちに、自然と身についた技である。
 ゲームカウントは「5−3」。あと1ゲームで片がつく。
 透の勝利を確信した仲間たちが安堵の笑みを浮かべる中、なぜかジャンは違う種類の笑みを浮かべていた。
 「小僧、決め球は一つだけだと思うなよ」






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