第11話 プライドの行方 (後編)

 ゲームカウント「3−5」とリードを広げたあとの第9ゲーム。コートを囲む仲間たちと同様、透自身もこの因縁の対決に終止符が打たれる瞬間がそう遠くはないと信じていた。
 決して油断しているわけではないが、次のゲームが自らのサービスゲームとなれば、勝利を意識するのも無理はない。相手の決め球、ドロップボレーを破ったあとなら尚更だ。
 順調にサーブも決まり、マッチポイントを迎えた透の目に映るのは、対戦相手のゲイルではなく、後ろに控えるリーダーだ。
 「これで決めてやる!」
 渾身の力を込めて、透は最後となるはずのサーブを打ち込んだ。
 ところが勢いよく振り下ろされたラケットが手元に戻らぬうちに、素早いリターンが透の目の前を駆け抜けた。
 「これは……?」
 「切り札は最後まで取っておけと、お偉いお父様から教わらなかったか?」
 まさに足をすくわれた気分であった。
 勝利目前で叩き込まれたリターン・エースは、ナンバー2の底力をその場にいる全ての人間に知らしめた。

 「ジャン、今のは何だ?」
 ビーは一瞬で戦況を塗り替えた打球の正体が分からず、となりで観戦しているジャンに説明を求めた。ゲイルの練習相手を務めた自分の知識を総動員しても見抜けなかったということは、あとはリーダーに聞くしかない。
 「あれはライジング・リターンだ」
 「ライジング・リターン?」
 「ボールの跳ね際を叩くことで、バウンド後の軌道を無視して早いタイミングで返球できる。
 とくにゲイルのライジングには通常のリターンと同様のトップスピンがかけられている。そう簡単には返せねえよ」
 「くそっ! あと1ポイントってところで……」
 ビーは自身の舌先が思いほか忌々しげな音を立てたのに気づいて、慌てて首をすくめた。
 メンバーの間ではすっかり敵役と化したゲイルだが、ジャンにとっては学生の頃からの親友だ。本来なら称賛されるべきファインプレーに舌打ちされて、黙っていられるはずがない。
 ところが当のジャンは「心ここに在らず」といおうか、何事もなかったかのようにコートの中のただ一点を見つめている。
 「奴の得意なパターンだ。相手を調子づかせておいてから、一気に叩き潰す。そのほうが受けるダメージも大きいからな」
 「らしいと言えば、らしいけど……陰険だよな?」
 「ああ。だが、よほど腕に自信がなければ出来ねえ芸当だ。
 得意のサーブ&ボレーでてめえのサービスゲームをキープして、あのライジング・リターンで相手のサービスゲームをブレイクする。
 サーブ権がどっちにあろうと関係ねえ。チャンスだと思った時点で試合をひっくり返す。
 そういう高慢なプレーが多かった。昔のゲイルは……」
 ビーと会話をしながらも、やはり意識は他にあるのだろう。ジャンが話の途中で口を閉ざした。
 顔の前で両手を組んで、じっと試合の成り行きを見守る姿は、まるで何かに祈りを捧げているような。神にも運にも見放されたヤンキーばかりが集うストリートコートの中ではひどく場違いで、丸太の上の二人きりの空間では近り寄りがたく、それでいて、なぜか身につまされるものがある。
 この試合の開始直後、ジャンに言われた台詞がビーの頭を掠めた。
 「お前が仲間と見込んだ奴が本物かどうか、その目で確かめろ」
 何かが始まり、何かが終わろうとしている。この因縁の対決がどんな結末を迎えるかは分からぬが、急に無口になったリーダーの横顔から、ビーはそんな気がしていた。

 コート上では「40−15」、「40−30」と、ゲイルが少しずつ追い上げを見せていた。
 ライジング・リターンは通常よりも速いテンポで戻ってくる上に、彼のボールには強烈なトップスピンがかけられている。そのため、仮に返せたとしてもイージーボールになってしまう。
 そこを容赦なく叩かれ、透はあっという間に窮地に立たされた。
 「あと1ポイントなのに……」
 あまり自覚はなかったが、勝利を目前にして油断があったのかもしれない。
 マッチポイントであっても、最後のポイントを物にするまでは勝利とは呼べない。王手をかけたところで気を抜いた自分のミスである。
 ゴールが見えていただけに、失望も大きい。こんな状態で今から気持ちを入れ直し、流れを引き戻すことなど出来るのか。
 しかし、ここで奮起しなければデュースに持ち込まれ、最悪の場合、逆転負けという不本意な結果にもなりかねない。むしろ、その可能性のほうが大きい。
 なせなら、ゲイルはすでに透のサーブの癖を掴んで、着実にポイントを重ねているからだ。
 1ポイントをこんなに重いと感じたのは初めてだ。心強かった皆の視線がプレッシャーとなって圧し掛かる。
 やはり身のほど知らずの挑戦だったのか。百戦錬磨のナンバー2を相手に、試合経験の浅い自分が容易くその座を奪えるわけがない。
 いや、そんなことは初めから分かっていた。それでも戦う理由があったはず。仲間を守る以外に、もう一つ大切な何かが。
 見失ったものを思い出そうと、透は静かに目を閉じた。
 心の底で常に求めて止まないものがある。
 自分の居場所は自分で決められるぐらいに強くなる。そう願って、今までやって来た。
 そして辿り着いたのが、このジャックストリート・コートである。
 ここでの望みは最強の男と勝負をすることだ。この街の頂点が如何なるものなのか。自分との距離がどれほどあるのか。全ては無力な我が身の糧とするために。
 今さら、己の未熟さを悔やむ必要はない。未熟だからこそ戦う意味がある。
 落ち着きを取り戻した透の胸の中に、一筋の希望の光が差した。
 無力だからこそ相手の力を利用しろと、教えられた返し技。今はあれに賭けるしかない。
 「なあ、ゲイル? これで終わりにするから、最後に俺と勝負してくれないか?」
 透の唐突なリクエストに、ゲイルが訝しげな顔を向けた。
 「貴様はまた、ふざけたことを。今のこれはリハーサルだとでも言うのか?」
 「そうじゃない。俺だって、このあとデュースに持ち込まれれば勝ち目がないのは分かっている。
 だから、これで最後にするから、アンタのライジング・リターンをもう一度受けさせてくれ」
 「ふん、良いだろう。引き際の良い奴は嫌いじゃない」
 ゲイルの了解を得ると、透はわざと緩めのサーブを放った。
 最後の勝負と、緩めのサーブ。これに誘われ返されたライジング・リターンには、予想した通りの回転がかけられていた。
 透は素早くラケットを引くと、いつもより後ろでボールを捕らえた。
 柔らかく保ったグリップをボールに触れる直前で握り締める。
 ガットの上で転がすようにして更なる回転を加えながら、打球の方向転換を試みる。
 透は脳裏に焼きつけた手順を、寸部の狂いもなく再現していった。
 「よし、ここだ!」
 勢いよく振り切られたラケットから生み出されたボールがネットを超えた。
 ここまでは順調だ。問題はこのあとだ。
 透の記憶では、このあとボールは失速せぬまま急激に落ちていき、着地と同時に蛇が這いまわるような“うねり”のある蛇行曲線を地面に描く。
 ゲイルのラケットが空を切った。ネット越しに捉えているので定かでないが、あの様子からしてボールはたぶん落ちている。
 透は構えを解いて、一歩、また一歩と進み出た。
 すると、ゲイルの足元近くから蛇のようにシュルシュルと這い出るボールが見えた。
 イメージ通りの仕上がりに、思わず頬が緩む。あの特徴的な蛇行曲線は上手くドリル回転がかけられた証拠である。
 「今のショットは……?」
 ゲイルが初めて驚きの色を露にした。
 「完成したての『ドリルスピンショット』だ。ついでに言っておくけど、俺の本当のプレースタイルはカウンターパンチャーだから」

 今まで透は、日本を発つ前に唐沢から見せてもらったドリルスピンショットを機会あるごとに思い出し、密かに練習を重ねていた。
 しかしドリルスピンショットが強烈なトップスピンの返し技であることから、実際には未完成で終わっていた。
 今回、その未完成の技を出そうと決めたのは、追い込まれたせいもあるが、ゲイルのリターンなら条件の揃ったボールが来ると判断したからだ。相手の技術が高ければ高いほど、返し技の成功率も高くなる。
 「カウンターパンチャー? 貴様、その足でサーブ&ボレーヤーじゃないのか?」
 まだ自身の敗北さえ飲み込めずにいるゲイルは、次々と明らかになる事実に声を震わせた。
 「アンタみたいにタイミングよく言えなかったけど、俺が目指すプレースタイルはカウンターパンチャーだ。それから、俺は引き際の良い奴より、諦めの悪い奴のほうが好きだから」
 透の笑顔につられるようにして、非情なナンバー2の表情が一瞬、和らいだ。
 「最後まで俺をコケにしやがって……」
 「試合に勝ったんだから、あいつ等、ここにいて良いよな?」
 「ああ、好きにしろ。俺にはもう関係ない」
 ゲイルはコート脇に脱ぎ捨てたジャケットを肩にかけると、丸太の上に目をやった。
 「世話になったな、ジャン」
 「行くのか?」
 「本当は、一ヶ月のハンデは俺のために設けた時間だろう?」
 大抵のことには動じなさそうに見えるジャンが、ゲイルの問いかけに眉根を寄せたまま押し黙っている。
 「『世話になった』って……どういうことだよ?」
 今の二人の会話から、それが何を意味するかは分かっていた。だがその事実を認めたくなくて、透は出口へ向かう後姿を追いかけた。
 「おっさんとの試合が終わったら、俺はいなくなるんだ。何もアンタが出て行く必要ねえじゃんか!」
 何かとそりの合わないゲイルだが、出て行くとなると話は別だ。
 ここのメンバーは、皆、居場所を失くして流れ着いた者たちだ。それを今さらどこへ行こうというのか。
 必死で引き止めようとする透に背を向けたまま、ゲイルはつかつかと出口まで歩を進め、体が半分ほど出たところで立ち止まった。
 「ガキから情けをかけられるほど落ちぶれちゃいない。俺にもプライドがある。もう、貴様ほどピュアではないが……」
 ネットを挟んで互角に渡り合えた相手でも、コートを離れてしまえば向こうのほうが遥かに大人である。中学生が吠えた程度では、そう簡単に決意は変えられないと、頑なな背中が伝えている。
 「何だよ、それ? 分かんねえよ、こんなの! 俺が出て行くまで我慢できねえのかよ?」
 どうにかして引き止めようと、あえて辛辣な言葉を投げかけてみるが、やはり子供の浅知恵では時間稼ぎにもなりはしない。
 彼のプライドが何であるかは分からない。ただ自分がストリートコートに来たことで、彼が居場所を失くしたことは確かである。
 仲間のために良かれと思った行為が、彼を追い詰める結果となったのだ。
 今になって敵意しか持たなかった己の度量の狭さが悔やまれる。
 「出て行くなんて言うなよ。なあ、ゲイル!」
 説得には程遠い叫び声が辺りに響き渡ったが、結局、ゲイルは一度も振り返ることなく去っていった。
 「放っておけ。じきに戻ってくる」
 親友であり、片腕でもあったであろう男が出て行ったというのに、ジャンは顔色一つ変えることなく落ち着き払っている。
 初めからこうなると分かっていたのか。あるいは彼のいう通り、すぐに戻ってくるのか。透にはゲイルの言葉も、ジャンの言葉も、理解できなかった。
 だが、今はそれを突きつめる前にやるべきことがある。
 「小僧、準備は出来ているな?」
 丸太の上からラケットを担いで、ジャンが降りてきた。
 いくらか面倒臭そうにも見える態度とは裏腹に、その視線はコートを去った友ではなく、ぴたりと自分に置かれている。
 透は眼前に覆い被さるようにして立つリーダーの鋭い視線を捉えると、負けじと睨み返した。
 「準備? そんなもん、こっちは二週間前から出来ているぜ」

 丸太の上にいる時よりも、コートを挟んで向き合った時のほうがジャンとの格差を実感する。
 ゲイルと対戦した時も大人と子供ほどの違いを感じたが、ジャンとはそれ以上の違いを感じる。
 胸板を中心とした厚みのある肉体はプロのアスリートのそれであり、コートで構える姿は、その佇まいからして彼の積み上げてきた戦歴がうかがえる。
 やはり、この男は大きい。気後れするのと同量の興奮が、透の全身を駆け巡る。
 彼に小細工は通用しない。透は最初から全力でぶつかるつもりで、フラット・サーブを打ち込んだ。
 たった今、自身のラケットを離れたはずのボールが、瞬時に足元へと戻ってきた。
 ライジング・リターンではない。何の変哲もないリターンのはずなのに、その球速は次元が違う。しかも桁外れのスピードだと認識できたのも、ボールの動きを目で捉えたからではなく、足元を通り過ぎた一瞬の空気の振動で感知したのである。
 ――プロのリターンは、ここまで速いのか。
 素直に驚くほかなかった。初めてドリルスピンショットを見せられた時以来の感動だ。
 足元を通り過ぎたリターンの振動が、じわじわと体の奥深くに染み込んでくる。一歩も動けなかったというのに、全力疾走したあとのように心臓が騒がしい。
 透は最強の男との勝負にこだわった理由を、改めて自覚した。
 この魂が震えるような緊張感。それをもう一度、この男から味わえる予感がしたからだ。
 「おっさん、やっぱ強えんだな! 面白くなってきた」
 リターン・エースを取られた立場であるにもかかわらず、透は気持ちが萎えるどころか、更なる刺激を求めていた。
 「俺のリターンを返せたら、もっと面白れえモン、見せてやる」
 「面白れえモンって?」
 「返えせたら、の話だ。ま、無理だと思うがな」
 「何だと!? 馬鹿にすんな! 絶対、返してやる!」
 負けず嫌いにとって、この手の挑発が最も闘争心を掻き立てられる。
 あの高速リターンを返すには、サーブでコーナーを攻めるより、センターを狙ったほうが成功率は高くなる。角度をつければ、それ以上の角度をつけて返されるが、コートの中央を狙えば返球の幅は限られてくるからだ。
 そう判断して、今度はセンターサービスライン近くに打ち込んだ。
 案の定、軽快な打球音とともに、ボールがど真ん中に返ってきた。
 「よっしゃ!」
 透は予想通りの返球に満足しながら、センターで構えて待っていた。
 確かに読みは当たっていた。ボールも確かに捕えていた。
 だが打ち返そうとした瞬間、ガットが擦れる鈍い音がして、透のラケットはオモチャのように弾かれた。
 ボールが向かってくるスピードから重圧も相当なものだと分かっていたが、実際に受けてみると想像以上の圧がある。
 今までは自身の手に負えそうにないサーブでも、ブロック・リターンでどうにか対処できたのに、当てるだけでは返せない。
 まさかリターンを返す段階で、こんなに苦労をするとは思いも寄らなかった。
 動揺を悟られまいと、きつく唇を引き結ぶ透とは対照的に、ジャンは腹の中を隠すつもりはないらしく、無精髭の生えた口元を意地悪く緩ませている。
 「どうした、小僧? せっかく拾いやすいところに返してやったのに。
 そんな調子じゃ、見れねえぞ?」
 「ちくしょう!」

 その後のゲームは、ほとんど記憶にない。一心不乱にボールを追いかけ、その努力がどこにも反映されなかったことしか分からない。
 大人と子供ほどの格差は、肉体だけではなかった。
 ど真ん中に打たれたリターンもろくに返球できないプレイヤーが、サーブを返せるはずもなく、気がつけばゲームカウントは「5−0」と、透の勝利はもはや風前の灯だった。
 常識で考えて、テニスを始めて一年にも満たない中学生が元プロを相手に勝利するなど、あり得ない話である。それでもジャンのいう「面白れえモン」だけは、どうしてもこの目で見たかった。
 恐らく最後になるであろう、このゲーム。ここでまともなボールを返せなければ、永遠に見られない。リーダーとの勝負が終われば、ストリートコートのメンバーではいられなくなるからだ。
 「せめて一球だけでも返さなきゃ……」
 透は大きく深呼吸をしてから目を閉じた。
 落ち着いて、今までのジャンのフォームを思い返してみる。
 まっすぐに伸びる高いトスと、しなやかに弧を描くラケットと、それを支える無駄のないフォーム。打点もかなり高いように見えたが、スィングスピードが速すぎて、正確な位置までは分からない。
 「小僧、パワーリストつけてやろうか?」
 ジャンが面白がって冗談を飛ばしてきたが、透はそれを無視してコートの後ろで構えた。
 いつもの集中力の高まる感覚を肌で感じながら、サーブが放たれる瞬間をじっと待つ。
 5ゲームを経て、スピードに慣れたこともあるのだろう。相手のモーションが少しずつ見えてきた。
 「今度こそ、いける!」
 ジャンのフォームからサーブのコースを予測すると、透はラケットを素早く引いた。
 ガットがボールを的確に捕らえた時の軽やかな打球音。やっと、いつもの耳慣れた音がした。
 「これがベストなインパクト……」
 今までは球の重圧に押されて、打点が微妙にズレていたようだ。今回はスィートスポットと呼ばれる適切な箇所で捕らえられたのが良く分かる。
 体の回転と、ボールの打点と、ラケットのスィングと。これらが全てベストな状態で揃わなければ返せない。
 極めて初歩的なことだが、他の相手なら強引にねじ伏せられる僅かなズレが、彼のサーブの前では許されない。それ程までに球威があるということだ。
 ようやく返せたリターンに易々と追いつくと、ジャンが「小僧、アレ、打って来いや!」と言って、トップスピンのかかったボールをよこした。
 「アレ」とは、ゲイルとの対戦で使ったドリルスピンショットを指しているのだろう。
 「言われなくても、そのつもりだ!」
 唯一、透に勝機があるとすれば、完成したばかりのドリルスピンショット。これに頼るしか策はない。
 ジャンから打ち込まれた絶好球を、透は先ほどと同じ手順で返した。
 我ながら、これまでで一番の出来だった。前回よりも更に鋭さの増したショットがネットを超えた。
 ――ボレーで受けても、あれだけ回転がかかっていれば弾かれる。
 そう確信した直後のことである。ジャンがネットの前で腰を深く落とすのが見えた。
 体の正面から扇を返すようにスライドさせたラケットは、ドリルの刃先を正確に捕らえただけでなく、渾身の一撃を新たな決め球として生まれ変わらせた。
 「まさか!? ドリルスピンショットをドロップボレーで返したのか?」
 ようやく完成したと思った決め球をあっさり破られ、動揺を露にする透に向かって、ジャンは興が醒めたとばかりに落胆の色をありありと浮かべて言った。
 「こんな子供騙し、どこで教わった?」
 「子供騙し、だと?」
 尊敬する唐沢の決め球を「子供騙し」と評され、透は思わずカッとなったが、現に足元で転がるボールを見せられれば、それ以上、反論の余地はない。
 「良いか、小僧? この手の返し技は、使い方を間違えると逆に命取りになる。
 お前、このショットを誰かから見よう見真似で盗んだだけだろう?」
 確かにそうだ。透は唐沢のフォームを記憶して、それを自己流で再現したに過ぎない。
 「どうして、それを?」
 「俺なら、こんな半端なスピンを返し技には使わない。こうやって逆襲されるリスクがあるからな。
 第一、お前はこのショットの特性を理解していない。だから使い方を間違えるんだ」
 確かにジャンのいう通りかもしれない。
 ゲイルとの対戦で上手く決まったために、都合よくマスターした気でいたが、記憶にある唐沢のドリルスピンショットにはもっと複雑な回転がかけられていたように思う。
 透がマスターしたと思っていたのは進化前のドリルスピンショットで、本物は進化後の、あの明魁学園の越智をも退けた回転数の多いショットだ。
 唐沢も半端なスピンでは逆襲される恐れがあると思ったからこそ、改良を加えたに違いない。
 そもそも、あの唐沢が多くの歳月をかけて完成させた決め球を、そう簡単に習得できるはずがない。
 一瞬で叩き落されたドリルスピンショット。無様に足元に転がるボールが自分の姿と重なって見えた。
 これが今の自分だ。ナンバー2は倒せても、本物を知るリーダーの前では通用しないのだ。
 ジャンの指摘ですっかりペースを崩した透は、その後もポイントを奪うことは叶わず、念願の最強の男との勝負を情けない結果で終わらせた。

 「話にならなかったな?」
 コートでへたり込む透の頭上から、ジャンの心無い言葉が浴びせられる。
 「おっさんの言った『面白れえモン』って、これだったのか?」
 「いや、お前のレベルが低すぎて出せなかった」
 「くそっ……!」
 1ポイントも取れなかったのだから、何を言われても仕方がないが、あからさまに「レベルが低い」と見下されては、さすがに腹に据えかねるものがある。
 「おっさん、もう一度、俺と勝負してくれないか?」
 こうなったら、せめて1ゲームでもこの男から取らなければ、腹の虫が収まらない。
 五十人ものメンバーを撃破して、幹部との接戦を制した結果がこれかと思うと、どうにも気持ちのやり場がない。
 しかし透の気持ちなど、リーダーの知ったことではないようだ。
 「最初から一度だけの約束だ。ここでのことは忘れて、とっとと出て行け」
 まさしく、これも仰る通りである。十二歳の自分が出入りさせてもらえるだけでも、特別の中の特別なのだ。
 色々な意味で未練は残るが、ここは潔く退くしかない。
 「そうか、分かった。約束だからな。いろいろ世話になった。皆も……」
 初めてストリートコートを訪れた時は、孤独と恐怖の中で戦っていた。それがメンバーとともに練習を重ねることで仲間意識が芽生えて、日を追うごとに通うのが楽しくなっていた。
 明日からまた孤独な練習が始まるかと思うと大いに後ろ髪が引かれるが、それでも出て行くしかない。ここは自分の居場所ではないのだから。
 透が心残りを振り切るようにして出口へ向かった、その時。ジャンが再び声をかけてきた。
 但し、それは透を引き止めるためのものではなかった。
 「おい、小僧。出て行くなら、あの写真を置いていけ」
 すっかり忘れていたが、もともと透は奈緒との写真を賭けるという条件で、ここでの勝負を許された。
 ゲイルが突き返してきたために免除されたと思っていたが、それはあくまでナンバー2との契約であって、リーダーとの条件は変わっていない。試合に負けた透は写真を手放さなければならない。
 泣きっ面に蜂とはこのことだ。1ポイントも取れずに敗北し、散々馬鹿にされた挙句、唯一の宝物まで没収されるとは。最強の男と勝負した代償はあまりにも大きい。
 どんよりとした気持ちで、透はジーンズのポケットから財布を取り出した。
 「あれっ?」
 今朝、見たばかりの奈緒の写真が消えている。
 「なんで?」
 焦りを抑えて、ジャケットやジーンズのポケットを順に探したが見つからない。
 「まさか条件の写真も持たずに、俺と勝負したってんじゃねえだろうな?」
 急にトーンダウンした声は、ジャンが不機嫌になりつつある証拠である。荒くれ者のヤンキー五十人を取りまとめるリーダーを怒らせては、ただでは済まされない。
 必死で探し回る透に向かって、ビーが追い討ちをかける。
 「いくらガキでも、約束は守ってもらわねえと。なあ、ジャン?」
 「当然だ。守れねえなら、体で払ってもらう」
 「か、体って、まさか!?」
 とっさに透は、誰かが背後から襲ってくるような気がして身構えた。
 条件反射とは恐ろしいものである。耳元に生温かい空気が吹き込まれるような、気色の悪い感触もセットで甦る。
 これは間違いなく、滝澤に襲われる直前の感覚だ。海を越えても、この感覚だけは忘れようにも忘れられない。
 「あの……俺……」
 二週間前とはまったく違う種類の恐怖が押し寄せた。
 ジャンは無類の女好きと聞いている。だが、女が好きだからと言って、男が駄目とは限らない。
 「俺、違うから……。ノーマルだから……!」
 パニックの最中に口を開いても、そこから漏れ出た言葉が事態を好転させることは滅多にない。
 「男に興味はないし、経験もないし……」
 「ほう、女とはあるのか?」
 ジャンの顎鬚を蓄えた口元がいやらしく広がった。
 「ねえよ、そんなもん!」
 「バージン野郎か?」
 「当たり前だ!」
 口は災いの元 ―― コート周辺からどっと笑いが起こったあとで、遅ればせながら浮かんだ諺だ。いくら焦っていたとは言え、暴露する必要のないことまで口走ってしまった。それもメンバー全員の目の前で。
 笑い声に包まれ、項垂れる透のもとへ、ジャンが満足げな笑みとともに歩み寄ってきた。
 「これで、めでたくお前もここの一員だ」
 「へっ?」
 「ここの幹部になるには、他人に知られたくねえ秘密を一つ、リーダーの俺に打ち明ける決まりになっている」
 「それって……えっ……?」
 「ナンバー2の穴もある。お前にその気があるなら、正式に預かってやっても良い」
 「体で払え」とは「ナンバー2になれ」ということか。幹部の皆がリーダーを恐れているのも、これが原因だ。一人だけ秘密が“周知の事実”に変わったが。
 「本当に良いのか? 俺がいたら、ゲイルは帰って来ないかもしんねえぞ?」
 ゲイルを追いつめた原因は自分にある。罪悪感にまみれた透の問いかけを、ジャンがばっさりと斬り捨てた。
 「人それぞれ守るものが違えば、守り方も違う。お前が気にすることじゃない」
 リーダーの提案は願ってもないことだ。このジャックストリート・コートにはラリーの相手もいて、トレーニングジムもある。しかも最強の男のもとで腕を磨けるとは、これに勝る環境はないだろう。
 だがしかし、この危険区域を居場所にするとなると、少なからず抵抗もあった。中学のテニス部と比べればケガのリスクも高いし、光陵学園への道のりが一段と遠くなる気もした。
 答えを決め兼ねて、またも躊躇する姿を認めたリーダーが、珍しく真顔になった。透がここに転がり込んでから、初めてかもしれない。
 「お前には行き場がなくても、帰りたい場所はあるんじゃねえのか?」
 その問いかけに応えるように、透の脳裏に光陵学園の校舎が、テニスコートが、汚い部室の床が、まざまざと浮かび上がった。
 「ここは永遠の居場所じゃない。本来の居場所へ帰るための砦だ。
 仲間同士のいさかいもあるし、よそのヤンキーが乱入して来ることもある。身の安全は保証できねえ。
 だがな、お前が貶められた場所から這い上がれるだけの力はつけられる。
 本来の居場所へ帰るために戦うか。もっと安全な道を探すのか。あとは、てめえで決めろ」
 彼の言葉に嘘はないだろう。
 ジャックストリート・コートは弱肉強食を唯一の掟とする無法地帯だ。力と引き換えにリスクも背負わなければならない。
 「俺……ここに残りたい」
 勘としか言いようがなかった。
 「ここで強くなりたい。アンタの下で!」
 試合後の興奮がそうさせたのか。「最強の男のもとで戦え」と、もう一人の自分が訴えかけている。リスクを恐れるよりも、現状を変えられる可能性があるならば、それに賭けろと説いている。
 「俺を仲間に入れてくれるか?」
 「ああ。他の連中は、もうお前を仲間だと認めている」
 周りを見渡すと、皆、それぞれのやり方で歓迎の意を示している。
 ガッツポーズを見せる者。静かに笑みを返す者。中でもビーは、満面の笑みで丸太の上から手を振っている。そして、その指の間に見えたのは――。
 「あっ、ビー! いつの間に、俺の財布から……!」
 彼の指先で揺れているのは、失くしたはずの奈緒との写真であった。
 コンクリートで出来た一面のコート。これがジャックストリート・コートの全てである。
 設備も何もないコートだが、ここにはあの日、テニス部を追い出された日に切に欲しいと願ったものがある。
 盗られた写真を追いかけながら、透はアメリカに来て初めて自由な空気を感じていた。






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