第14話 招かざる訪問者

 デッキブラシの毛先がコンクリートと擦れ合う音。昔と比べてリズミカルになったと思うのは、それだけ透自身が罰当番に慣れてきた証拠である。
 その音に混じって、レイがブツブツと文句をつけてきた。
 「だから、止めておけと言ったんだ。絶対バレると思った」
 「俺のせいじゃねえよ! あそこで見つかったのは、ビーが原因だろ?
 だいたい、そのド派手なピンク髪で行くか、普通?」
 「俺様の作戦にミスはない。レイが逃げ遅れたのが悪いんだッ!」
 ジャンの言葉を借りれば、「俺を怒らせる三人」は例によってコート掃除の真っ最中であった。無論、「俺を怒らせる」ような事をしたから罰を受けている訳で、その原因は、昨日、突如として舞い込んだ戦利品にある。

 ジャックストリート・コートでは、挑戦者から巻き上げた戦利品はいかなる理由があろうとも、リーダーに報告してからでなければ手を付けてはいけない決まりがあった。もとは自分の私物であっても、例外はない。
 それにもかかわらず、この三人はジャンの留守中に挑戦者から奪った戦利品を勝手に使い込んだのだ。
 金目の物に無頓着な彼等が禁を破ってまで手に入れたかった物。それは年に一度、この街で行われるプロ・テニスプレイヤーによるトーナメントの「当日限定」の観戦チケットだった。
 テニスに携わる者なら誰しも、一度はプロの試合を生で観戦したいと願うものである。特に、金も時間もなくて、アメリカにいながらUSオープンをアルバイト先のテレビで盗み見するしかない少年達にとって、プロと名のつく選手達が出場する大会のチケットは宝石のような輝きを放っていた。たとえそれがUSオープンよりも遥かに小規模な、もうすぐベテラン枠に入れられそうな引退間際の選手達による地方色豊かなイベントだったとしても。
 彼等に迷いはなかった。ここで行動を起こさなければ宝物の価値が失われてしまうのだから。
 三人は幹部の仕事を放り出し、全ての予定をキャンセルし、トーナメントが行われる会場へと駆け出した。
 絶対にバレないと自負するビーの作戦は、その日たまたま不在のジャンが戻ってくる前に大急ぎで行って帰るという、何とも分かり易く単純なもので、透達はそれに従い、通常の約半分の時間で会場に到着した。
 ところが、そこで不運にもジャン本人と鉢合わせをしたのである。
 そのトーナメントにはジャンがプロ時代に懇意にしていた選手が出場するらしく、彼は当時の仲間と思しきテニス関係者らと共に招待席に座って観戦していた。一般席よりも場内がよく見渡せる場所にいて、ピンク髪を含む挙動不審の三人組を発見するのは造作もないことだった。慣れない会場で席を探してウロウロしているところを捕らえられ、「俺を怒らせる三人」は本戦前のエキジビションマッチの途中で放り出された。
 その後、彼等がジャンの為に夜遅くまで働かされたのは言うまでもなく、今日は朝からメンバー全員への謝罪としてコート掃除をさせられている。

 せっかくの戦利品を無駄にした悔しさと、目当ての試合をろくに見られなかった不満もあって、「俺を怒らせる三人」は先程から堂々巡りの罵り合いを続けている。
 「まったく、お前等と関わると、ろくな事がない」
 透はいつも同じ経緯で同じ台詞を吐いてしまう自分を情けなく思った。すると、そこへ追い討ちをかけるかのように、きつい台詞が浴びせかけられた。
 「やれやれ、光陵学園の元レギュラーも随分と落ちぶれたもんだ。こんな所でヤンキーに交じってコート掃除とは、人生何が起こるか分かんねえな。
 まさに『転落の一途を辿る』ってヤツを地で行ってやがる」
 最近荒れた生活が板につき、自分でも不安になっているところへタイムリーにかけられた「転落」の言葉は喧嘩の火種としては充分であったが、透はかろうじて思い止まった。
 “こんな所”で光陵学園の話題を出してきた相手が誰かを確かめる方が先である。しかも、この明け透けに人を見下す言い方には覚えがある。もしかして、声の主は――。
 「京極さん!」
 見間違いではない。フェンスの向こう側に立っていたのは、日本にいた頃に幾度となく勝負を挑み、その度に返り討ちにされた明魁学園・元部長の京極だった。

 「いつ日本から?」
 「一昨日だ。親父の出張のお供でな」
 話によると、京極の父親はスポーツビジネス業界では名の知れた新進気鋭の経営者の一人で、いまだ老舗メーカーが市場を譲らぬスポーツ用品産業と、大手企業による新規事業参入で成長期を迎えたスポーツ施設産業を統合し、「オリオン」という自社ブランドを掲げて一大グループ企業を設立、日本国内外で成功を収めている。要するに、スポーツ用品の開発、製造、販売、消費までを一括管理する事で、老舗でも大手でもない第三勢力を業界に確立させた兵だ。
 ここアメリカ西海岸にも彼が総帥を務めるオリオングループの傘下に入るテニスクラブがあるそうで、今回はそこから輩出されたプロの選手が例のトーナメントに出場する為に、視察を兼ねて来たとの事だった。
 京極は「転落」と言いつつも、何故かそこに至るまでの経緯には一切興味を示さず、つかつかと中に入ると、丸太の上のジャンに向かっていきなり交渉し始めた。
 「おい、アンタ? 俺と勝負しないか?」
 「ちょ、ちょっと待ってください。京極さん!」
 透は慌てて京極の腕を掴んで引き止めた。数週間前に自分も同じ事をしたのだが、今となっては、それがどれほど命知らずの行為かよく分かる。
 「なんだ? あいつが親玉じゃねえのか?」
 丸太の上を平気で指差しながら、京極が不満げに振り返る。彼も一目でジャンがリーダーだと見抜いたようである。
 「そうなんですけど、リーダーと勝負するには五十位から順番に対戦していって、全員を倒さないと出来ないルールになっているんです」
 「そんな暇はねえんだよ。勿体つけずに、奴と勝負させろ」
 「京極さん、無茶言わないでくださいよ」
 「トオル? お前、光陵にいた頃より態度がデカくなったな。まさか、あいつより強いのか?」
 「違いますよ。俺はジャンの下でナンバー2です。今のところ」
 負けず嫌いの透としては、「今のところ」を強調しておきたかった。決して今の立場に甘んじているのではなく、いつか必ず倒す気でいるのだと。
 しかし京極にとっては未熟者の秘かな野望など眼中にないと見えて、
 「お前がナンバーツゥゥゥ!? だったら、なおさら時間の無駄だ。残りは雑魚に決まっている」と、今までで最も確信に満ちた口調で言い切った。
 「雑魚って……」
 久しぶりの再会で忘れていたが、京極という男は、口だけでなく性格も悪かった。他人に対する配慮がまったくない、極めて自己中心的な人間だ。
 先程まで懐かしく思えた恩人が、急に厄介な客人に見えてきた。

 「お前に賭けられる物があるのか?」
 これまで丸太の上で二人のやり取りを知らん顔で聞き流していたジャンが、ラケットを片手に京極をじっと見下ろしている。
 彼がこの質問をしたということは、条件によっては試合をしても良いという事だ。しかも、すでにラケットを手にしているところを見ると、要求通りに下のランクを飛ばして、直接勝負する気でいるらしい。
 透の時にはルールを厳守して五十位からやらせたくせに、この待遇の差は何なのか。
 対する京極も、丸太から降りて来たリーダーに臆することなく、横柄な態度を崩さない。
 「俺が勝ったら、トオルを返してもらう。俺が負けたら、大人しく日本へ帰ってやる」
 「京極さん!? それ、条件になってないッスよ!」
 ここでは挑戦者が持参した賞品の価値が相応だと認められて、初めて挑戦権が得られる仕組みになっている。それを京極は丸っきり逆の、自分だけが得をする条件を出している。
 いくら日本でわがまま放題やってきたとしても、この血の気の多いストリートコートでそんな道理が通用するはずがない。第一、透は戦利品なんぞになる気はない。いずれにせよ、京極の条件が受け入れられる可能性は万に一つもないだろう。
 ところが、あろうことか、ジャンはその条件をあっさり承諾した。
 「1セットマッチ、6ゲームだ。サーブ権は挑戦者にある」
 「何でだよ、おっさん? 今日のアンタ、おかしいぞ!」
 これは他のメンバーも感じた事だった。今日のジャンと言うよりも、京極に対する彼の態度が柔軟すぎる。ルールを無視した自己中心的なリクエストに関しても、いつもなら無視するか、相手を殴り飛ばして追い返すかのどちらかだ。それを怒りもせずに条件を飲むという。
 ただリーダーの性格を良く知るメンバーは、彼が理由もなくそんな態度を取るはずがない。きっと何か考えがある、と思っているようだ。
 メンバーが大人しく成り行きを見守る中で、透だけは納得できず、抗議の声を上げた。勝手に戦利品にされては堪ったものではない。
 しかし二人は透の抗議を無視してコートの中へと入っていく。
 「京極さん! 一体、どういうつもりですか? 『返してもらう』って、何ですか!?」
 その問いかけに、京極が一瞬、歩みを止めた。
 「今より悪いようにはしねえよ。黙って見ていろ」
 静かだが気迫のこもった声音から、透は京極が生半可な気持ちで挑戦するのではないと悟った。また、彼が最初からジャンと試合をするつもりで訪ねてきたことも。

 上空を突き抜けるような真っ直ぐなトスが上がる。惚れ惚れするほど伸びやかなサーブのフォームを目にした途端、透は自身の心の奥底に燻る願望を自覚した。
 日本に住んでいた頃は、京極のような手本となるプレイヤーが数多くいて、見るもの、聞くもの、全てが教材となった。ところがアメリカに来てからは、中学校での理不尽なランク分けにより手本を見つけること自体が難しく、その後は孤独な自主練習が続いた為に、現状維持で精一杯になっていた。
 ストリートコートに流れ着き、ようやく練習場所にもラリーの相手にも事欠かずに過ごせているとは言え、見習うべき選手はおらず、唯一、教えを請いたいと願うリーダーは指導に向いていないのか、その気がないかは知らないが、コートに立つ事さえ稀である。
 実に久しぶりであった。こうして背筋を伸ばして他人のプレーに見入るのは。
 昨日、禁を破ってまでプロの試合を見たいと思ったのも、心の奥底で飢えていたのだろう。自分を成長させてくれる指針となるものを、無意識のうちに求めていたに違いない。
 まだ始まったばかりだが、この試合が飢えを満たしてくれると予感した。透が当てるだけで精一杯だった京極のサーブをジャンは難なく返し、ジャンの高速リターンにも京極は即座に対応し、試合を進めている。
 透は京極がどうやって元プロを攻め落すのか、固唾を呑んで見守った。

 コートを行き交うテニスボールが両選手の手によって荒々しい唸りを上げている。但し、初っ端からトップギアで攻め立てる京極に反して、ジャンはまだまだ余裕があるのか、始終リラックスムードでベースラインの中央を陣取り、そこから様々な球種を織り交ぜ返球している。
 京極がランダムに送り込まれるボールを処理してポイントを取ると、ジャンがすかさず次を取る。「15−0」に始まり、「15−15」、「30−15」、「30−30」と、ジャンは2ポイント以上の点差を開かせず、ぴたりと後を追っている。
 余裕があるわりには自分から仕掛けていかないところを見ると、ジャンは京極がどの程度の選手か、品定めをしているのだろう。
 これは長い試合になる。そう確信した直後、京極が「40−30」のカウントから得意のドロップボレーで奇襲攻撃を仕掛け、ゲームポイントを物にした。元プロから第1ゲームを先取したのである。
 「ほう、勝負のやり方は心得ているか。名前を聞いておこうか?」
 「京極だ」
 「そうか、分かった」
 口の端だけを緩めたジャンが、赤い革のジャケットを脱ぎ捨てた。
 透は今までジャンがジャケットを脱いだところを見たことがなかった。それほど1ゲームを取られたことが彼の闘争心を掻き立てたのか。
 いつにない緊張感が漂う中で、ジャンからサーブが打ち込まれた瞬間、透はこの試合のレベルの高さを改めて実感した。以前、自分と対戦した時と比べ、明らかに球速が違う。
 あの時、さすがに元プロのサーブはスピードがあると思っていたが、それでもまだ手加減されていたらしい。京極に向けて放たれたサーブは、記憶していたものよりも何倍も速かった。
 リーダーのシンボルであるジャケットを脱いで、プレイヤーとしてコートに立つジャンは、他の者を寄せ付けない迫力がある。また、そのジャンを相手に喰らいつく京極も、明魁学園を率いたリーダーの意地を見せている。
 ボールの唸り声がますます激しくなる。観戦者である透の方がプレイヤーのスピードに追い付けない。ヤンキーの溜まり場だったコートがプロの選手が集うトーナメント会場に早変わりしたようだ。

 息も吐かせぬ激しいラリーの応酬を食い入るように見つめる透に向かって、ジャンがおもむろに声をかけてきた。
 「小僧、今から面白れえもん、見せてやる」
 「面白れえもん」とは、前にレベルが低すぎると言って見せてもらえなかった“何か”を意味している。それが何だったのか、透はずっと気になっていた。
 そして今、この場でジャンは披露すると宣言した。
 京極がドロップショットを放った。ボレーを得意とする彼の、ネット際での攻防戦に持ち込む際の下準備である。
 それとほぼ同時に、ジャンがネット前へ躍り出た。その手には、すでにラケットが立ててセットされている。
 相手の心が読めるとしか思えない準備の早さは、踏んできた場数の多さに比例する。試合勘とも言うが、相手の動きを正確に捉えて次の動きを予測する、その洞察力と推理力の双方に長けているのである。
 京極が仕掛けたドロップショットの罠を、ジャンが軽やかに受け止め、自身の攻撃技に塗り替えていく。不思議なことに、鉄で出来ているはずのラケットが竹刀のように曲がって見えた。
 しなやかに振り抜かれるラッケットのフレームと、それを柔らかく支えるジャンのフォーム。そこから生み出されたボールは、繊細なプレイヤーの動きとは対照的に、鋭い軌道をコートに刻んで去っていく。
 一瞬の事でよく分からなかったが、「面白れえもん」の正体はボレーの一種だろう。その結論に達したのも、ネットを挟んで対角線上に突き抜けたボールが竜巻状の横回転を帯びて勢いよくコートから出た後だった。
 「アングルボレーか?」
 成田の決め球よりも更に角度と回転数が増したそれは、京極の言う通り、アングルボレーであった。フレームが曲がって見えたのは、絶妙のタイミングでラッケトを合わせ、素早く回転をかけたからだ。それ程までに、あのアングルボレーには難しいタッチが要求されるという事だ。
 「これがジャンの決め球……」
 以前、透が放ったドリルスピンショットを見て、ジャンは「こんな半端なスピンを、決め球にしない」と言い切った。その言葉を裏付けるかのような一打である。
 透は今一度、強烈なサイドスピンが残していった軌跡を見つめた。回転の鋭さと言い、角度の際どさと言い、あんなものを放たれれば返すことはまず不可能だ。
 「これを決め球というのだ」と、目の前に突きつけられた気分であった。
 「今日のところは、これぐらいにしておいてやる」
 言い終えたジャンは、その後、一切手加減することなく、まさにワンサイドゲームで試合を終了させた。あの京極に1ポイントも取らせなかったのだから、第1ゲームは彼にとって単なる小手調べといったところだろう。

 「キョウゴク、喉が渇いた。『ラビッシュ・キャッスル』で一杯やろう。お前も付き合え」
 試合終了後、ジャンはやけに上機嫌で、負けたら大人しく帰るはずの京極を連れて出て行った。
 やはり、今日のジャンはおかしい。よほど日本からの客人が気に入ったのか、「キョウゴク」としっかり名前まで呼んでいる。
 わがままで、性格が悪くて、リーダーを務める者同士。よく考えれば、この二人は気が合うのかもしれない。
 いまだ「小僧」呼ばわりされている透には試合前もその後も納得のいかない事だらけだが、それに代わるだけの満足感を得られたのも事実である。
 最強の男の下で這い上がると決めた自分の選択は間違っていなかった。二人のリーダーの真剣勝負を目の当たりにして、改めてそう確信した。


 『ラビッシュ・キャッスル』に着くや否や、京極は早速、ジャンに向かって恨みがましい目を向けた。
 「アンタ、格下の俺を相手に、ほんと容赦なかったな?」
 「当たり前だ。俺の実力を確かめに来たんだろ?
 第一、てめえが格下だとは思っちゃいねえだろ? そのクソ生意気な態度は。違うか?」
 冷えたラガーを口に運びながら、ジャンが涼しい顔でやり返す。
 「参ったな」
 見事な切り返しに相手の度量を認めた京極は、降参とばかりに両手を挙げて見せてから、本音を打ち明けた。
 「本当はアンタが大したことなければ、トオルを日本へ連れて帰ろうと思っていた。うちの学校にはスポーツ特待生の制度があって、俺は一人分の推薦枠を持っている。今のあいつなら、審査も問題なくパスするはずだ。
 わざわざアメリカまで来た甲斐があったと内心喜んでいたんだが、まさかあんな日の当たらねえ場所に世界トップクラスの選手がいるとはな」
 「キョウゴク、知らないのか? あそこは通りとは反対方向の東側が高台になっている。午前の日当たりは最高だ」
 「茶化すなよ。事情は知らねえけど、アンタ、プロの中でも相当上のランクにいたはずだ。さっきの試合だって、あれでもまだ手加減していただろ?」
 「さあ、どうだかな。それより、トオルにはその話をしたのか?」
 「いや……あいつは、自分が認めたリーダーにしか付いていかない。不器用なくせに、妙に頑固なところがあるからな。残念ながら、奴が帰ろうとしている群れはうちじゃない」

 京極は夏の都大会で成田に敗北してから、もう一度自身のテニスを見直そうと、自宅を練習場としてトレーニングを続けていた。その為、透の渡米も後から越智に聞いて知ったのだ。
 今回、父親の出張に同行する気になったのも、単に会えずに旅立った他校の後輩を心配しての事ではない。光陵テニス部があっさり手放した逸材と今のうちに繋ぎを付けておき、折を見て自分の群れに引き入れ、「打倒・光陵」の新たな戦力にしようとしたのである。
 ところが軽く挨拶をしておくつもりで覗いた中学校のテニス部に、彼の姿はなかった。聞けば、すでに退部して、ヤンキーの溜まり場であるストリートコートにいるという。
 他校の部長に土下座してまで己を鍛えることに貪欲なテニスバカが退部するとは、余程の事情があったに違いない。もしも彼が悲惨な生活をしているのなら、これを機会に明魁学園への転入を勧めようと、ジャンに会うまでは本気で考えていた。
 スポーツ特待生なら授業料も免除され、学校指定の寮から通える。親元を離れたとしても、問題ない。
 だが丸太の上に座るリーダーの姿を一目見て、京極は透がそこを居場所と定めた理由が、消去法によるものではないような気がした。そして実際に対戦してみて納得した。透は自身が付いていくべきリーダーと運命的な出会いをしたのだと。

 「ジャン。あいつのこと、頼んで良いか?」
 「何故、トオルにそこまでこだわる? 面倒を見たところで余所の群れに帰られたんじゃ、何の得にもならんだろう?」
 「まだ諦めた訳じゃない。それに何の得にもならないのは、アンタも同じだと思うけど?」
 京極の鋭い切り返しに、今度はジャンが肩をすくめて見せた。大仰なポーズは面子があるのか、控えているが、無精髭を生やした口元が苦々しく歪んでいる。
 「トオルは言ってみりゃ、原石だ。放っておけばその辺の石ころと同じだが、きちんと磨けばダイヤモンドに化ける可能性を秘めている」
 「ああ。だからこそ、ここまで追いかけてきた。いずれ俺が育てるつもりでな」
 「奴を日本に帰すまでは、俺がきっちり預かる。約束だ、キョウゴク」

 すっかり京極と意気投合したジャンが、『ラビッシュ・キャッスル』自慢のキドニーパイをツマミに三杯目のラガーを空けたところで、ストリートコートにいたヤンキーの一人が慌てた様子で店内に駆け込んできた。
 「ジャン! コートにトオルの中学のテニス部の連中が大勢押しかけて来た」
 「連れ戻しに来たのか?」
 「いや、それが試合をしに来たみたいだ。顎の突き出た妙な野郎が、リーダーと話がしたいって……」
 彼が事情を説明している側から、受け口気味の顎を撫でながら、見るからに陰険そうな男が近寄ってきた。
 「君が、あのゴミ溜めのリーダーか。私と取引をしないか?」
 男はジャンに会うなり無遠慮な視線を投げかけ、大層高貴な名でも告げるかのように自分はイースト・パタソーンズ・ジュニア・ハイスクールのテニス部のコーチ・アップルガースだと名乗った。
 「うちの大事な部員が、君のところのクズに振り回されていてね……」
 憎しみを前面に押し出した口調から、京極は彼が透の退部に深く関わった人物だと直感した。この男のせいで貴重な部員候補を潰されかけたかと思うと、すぐにでも殴り倒したい衝動に駆られたが、ジャンは平然と構えている。
 「『クズ』と言ったが、もとはトオルもアンタのところの大事な部員だろう?」
 「とんでもない。ありゃ金ヅルにもならなかった、クズの中でも最低のクズだ。
 散々、うちの部に迷惑をかけておいて、まだ足りないらしい」
 陰険な顔をさらに歪めて、アップルガースは吐き捨てるように言った。
 面と向かって仲間を侮辱されても、ジャンは顔色一つ変えずにパイの残りを突いている。
 「で、何が望みだ?」
 「クズがあんなところで未練たらしくテニスを続けているせいで、うちの部員が動揺している。もうすぐ地区大会がある。彼等を安心させて欲しい」
 「どうやって?」
 「地区大会に出場するレギュラーの中から、うちの精鋭部隊を連れてきた。
 シングルス三人、ダブルス三組。1試合につき、100ドルでどうだ?」
 アップルガースが財布から百ドル紙幣を六枚数えて、ジャンの目の前に差し出した。
 「俺達に八百長をやれと?」
 「いや、君達じゃない。君のところの『クズ』にだ。
 ゴミにまみれて使い物にならなくなった無様な姿を、うちの部員達に見せてやって欲しい。彼等はまだクズのレギュラー復帰を望んでいるからね。目の前で奴が惨敗すれば、納得するだろう」

 京極の我慢も限界に来ていた。仮にもコーチと呼ばれる立場の人間が部員の実力も見抜けず「クズ」呼ばわりし、おまけに復帰を望む部員達を諦めさせる為に、平気で八百長を持ちかける。
 間違いない。透がテニス部を退部した理由は、この男が原因だ。
 「おい、そこのクソ野郎! トオルはな、お前のせいで……」
 京極が言いかけたのを、ジャンがすぐに制した。
 「キョウゴク。リーダーは、この俺だ。ここには、ここのやり方がある」
 ジャンが京極を制するのを見て、アップルガースが満足そうに微笑んだ。
 「話が早くて助かる」
 「まだオーケーした訳じゃない」
 「いや、イエスと言わざるを得ないよ、君は。最近、保護者からの問い合わせが多くてね。うちの元テニス部員を妙なところで見かけると……」
 遠回しにアップルガースはジャンをゆすりにかかった。
 確かジャックストリート・コートは、市の条例で十八歳未満立ち入り禁止の危険区域に指定されていると聞いた。そこを中学生の透が出入りしているとなると、それを容認するジャンの立場も危うくなる。
 大抵こういう裏社会の人間は警察組織と上手く協力関係を結び、そこで起きる騒ぎを揉み消すぐらいのことは出来るだろうが、万一、アップルガースのような学校関係者が保護者からの問い合わせを理由に調査を依頼すれば、いくら裏で協定を結んでいるとは言え、警察も動かざるを得なくなる。最悪の場合、ストリートコートの存続自体、危ぶまれる事にもなりかねない。アップルアガースはそこに目をつけて、ジャンを従わせようという魂胆だ。
 「ジャン……?」
 急を知らせにきたヤンキーが、不安げにリーダーの判断を仰ぐ。
 「話は分かった」
 ジャンはカウンターに散らばった百ドル札を丁寧に折畳むと、ジャケットにしまった。それから指示待ちの手下に向かって、短く告げた。
 「レイ。トオルに今の話を正確に伝えろ。ダブルスのパートナーはビーだ」

 指示の内容を聞いて、京極は自分の甘さを後悔した。
 ジャンはアップルガースの取引に応じるつもりだ。いくらテニスの実力は確かなものだとしても、裏社会で生き続ける男の人間性がイコールとは限らない。今日会ったばかりの人間を信用して、透を託して良かったのか。
 「ここには、ここのやり方がある」
 もしもジャンのあの言葉に、互いの感覚の相違があるとしたら――。
 明魁テニス部では選手の実力が何より優遇されるべき判断基準だが、彼等は自分達の縄張りの確保が最優先のはずである。ジャンがたった一人のメンバーよりも警察の介入を退ける方法を取ったとしても、なんら不思議はない。
 ジャンが席を立つのと同時に、京極も後に続いた。もう一度、彼の人間性が確かかどうか、見極めなければならない。
 「ジャン? 俺もその試合、見届けて良いよな?」
 語気の荒くなった京極に頷いてから、ジャンは店から出て行く手下を呼び止めた。
 「もう一つ、大事な指示がある。
 あいつ等に伝えておけ。俺の顔に泥塗るんじゃねえ」






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