第15話 汚れた練習試合

 こんな形で再会するとは思ってもみなかった。もう二度と会わなければ良いと願いながら、完全に記憶から消し去ることも、他人で通すことも出来ずにいた。
 突然、ストリートコートに現れたテニス部のキャプテン・ケニーを前にして、透は心の内の動揺を悟られまいと、わざと悪ぶって見せた。
 「何のつもりだ、ケニー? ここはお前等のような育ちの良いお坊ちゃまが来るところじゃないぜ」
 「ミスター・アップルガースが練習試合をすると言って、ここへ……」
 連れて来られたケニーも詳細を知らされていないのか、予期せぬ再会に面食らった様子である。
 「練習試合ねぇ。どうせ、ろくでもない事を企んでいるんだろう。
 安全な場所まで送ってやるから、あの野郎が戻ってくる前に、皆を連れて早く帰れ」
 「待って、トオル……」
 ペイントだらけのコートの中で、派手な格好をしたメンバー達に囲まれ、他の部員達は身を寄せ合うように縮こまっている。怯えきった視線が、元チームメイトの透にも向けられている。
 これが普通の反応だ、と透は思った。もう自分は怯える側ではなく、怯えさせる側の人間だ。
 しかしケニーだけは昔と態度を変えることなく、正面から視線を合わせて話しかけてくる。
 「コーチがどういうつもりで俺達をここへ連れてきたかは分からない。だけど、せっかくのチャンスだ。俺達と試合をしてくれないか?」
 「試合なら余所でやってくれ。お前等と遊んでいる暇はない」
 「いや、君に見て欲しいんだ。俺達は、君が残してくれた練習メニューを基にずっとトレーニングを重ねてきた。ここでその成果を見て欲しい」
 凛とした主張の中にも、声の震えが混じっている。本当はケニーも怖いのだ。だが恐怖を跳ね返すだけの強い信念が、彼の背中を支えているのだろう。

 透は面倒臭そうに溜め息を吐くふりをして、自分を見つめる視線から顔を背けた。己が目に映るものを素直に信じられるケニーが羨ましくもあり、眩しくもあり、そして少し疎ましくもあった。
 どこまでも純粋な彼は、アップルガースの作り話を信じ、透はちょっとした意見の食い違いからテニス部を退部したと思っている。信頼を寄せるコーチと透、二人の関係修復を願いながら、自身は誓い通りに部員達を独りで引っ張ってきたのだろう。
 共にテニス部を強くしようと誓い合った仲間が、いつ戻ってきても良いように。いつか戻ってくると信じて。
 彼の瞳からは一途な思いが溢れていた。疑うことも、つまずく事も知らない眼差しは、あまりに真っ直ぐ過ぎて、透はそこから顔を背けずにはいられなかった。面と向かって大切な友人に嘘を吐けるほど、まだ強くはない。
 「俺さ、プレースタイルを変えたんだけど、それでもやるつもり?」
 「それって、どういう……?」
 「足元を見てみろよ。そこにこびり付いているのは、ペイントなんかじゃない。血痕だ。対戦相手のな。
 この意味、分かるよな?」
 「嘘だろ? 君がそんな卑劣なプレーをするはずがない」
 「お上品にやってたら、ここじゃ生きていけない。俺と試合をしたってケガするだけだ。
 分かったら、さっさと帰れ」
 「帰るなら、君も一緒だ」
 「いい加減にしろよ! ここはお前等の来るところじゃない」
 「君だって同じじゃないか! 君だって……ここに居てはいけない。そうだろ?」
 ここに居てはいけない。ここに居るからこそ。二つの相反する思いが、また透の心の内の動揺を誘う。

 するとそこへ、ジャンに急を知らせにいったレイが『ラビッシュ・キャッスル』から戻ってきた。彼は透とビーをテニス部の一団から離すと、小声で事の次第を告げた。
 アップルガースの望みはテニス部の精鋭部隊と試合をして、彼等を全勝させて、透は復帰に値しない選手だと皆に知らしめること。この取引に応じなければ、ジャンの立場もストリートコートの存続も危うくなること。そして最後に「俺の顔に泥塗るんじゃねえ」というリーダーからの指示が伝えられた。
 話を聞き終えた透は、しばらくの間、無言で佇んでいた。
 コーチの非道なやり口と、ジャンの指示と、ケニーの想い。そして、まだ心の片隅にある本音が判断を鈍らせる。
 出来ることなら、テニス部へ戻りたい。誰からも疎まれることのない生活は、まだ手の届く範囲にあるのかもしれない。これが最後のチャンスではなかろうか。今ここで「帰りたい」と一言漏らせば、少なくともケニーは手を差し伸べてくれるはず。
 様々な思いが交錯した。
 試合を引き受けるか、否か。勝つか。負けるか。どれを選択しても誰かを傷つける気がして、考えがまとまらない。
 正直なところ、八百長を強要されずとも、正々堂々勝負をして勝つ自信はあまりない。透がテニス部に在籍していた頃はBランクへ放り込まれていた為に、今日この中にいるAランクの選手達とは対戦経験がないのである。
 一通り彼等のプレースタイルは頭に入っているものの、結果は五分五分というところか。あるいは、ここでのトレーニング方法が間違っていれば、最悪、負ける可能性もある。
 試合に負ければ、ケニー達は大人しく帰るだろう。真実が露呈することなく、ストリートコートも安泰で、全てが丸く収まる。だが、本当にそれで良いのか――。

 気持ちが定まらぬうちに、ジャンが京極とアップルガースを連れて戻ってきた。いずれにせよ、試合は避けられない状況になった。
 「どうする、トオル?」
 ダブルスのパートナーに指名されたビーが、すでにウォーミング・アップを開始している。
 「悪い。まだどうすれば良いか、決められない」
 「嘘つけ」
 「えっ?」
 ビーの右の拳が透の腹部を軽く突いた。
 「もう決まっているんだろ? 失敗するとか、迷惑かけるとか、らしくねえこと考えるな。今、お前が腹の中で思っていることが、一番正しいはずだ。
 望み通りに動いてやるから、その腹の底にあるものを遠慮しねえで出してみろ」
 それは、誰よりも透を認めてくれるビーならではの助言であった。
 「第一、この俺様と組んで失敗する訳がない。そうだろ?」
 実際には失敗だらけで、今朝も罰当番をさせられたばかりだが、この言葉のおかげで、透の揺らぎ続けた意志は固まった。
 自分が正しいと思う事を、やるしかない。こうして信じてくれる仲間の為に。
 「ビー、頼みがある」

 試合開始と同時に、ジャンが京極を丸太の上へ来るよう呼びつけた。
 「ここは、コート全体が見渡せる特等席だ。どうだ、キョウゴク? 気に入ったか?」
 話しかけられても、京極は黙したままコートの中に全神経を集中させた。
 隣にいるリーダーには、まだ心を許してはいけない。もしも彼の指示が八百長を強いるものであれば、ここにいる全員を殴り倒してでも透を日本へ連れて帰ると、覚悟を決めていた。
 試合の状況から見ても、その可能性は高かった。序盤から本気で攻める相手に対し、透達の動きは守り一辺倒だ。
 京極のサーブを返せるだけの実力のある選手が、緩めのセカンド・サーブをイージーボールで返球している。相手の選手は下手ではないが、光陵学園のレギュラー陣と比べれば雲泥の差がある。
 「あいつ、まさか……?」
 もしかして透は、アップルガースの思惑とは別に、ここに連れて来られた部員達を大人しく帰す為に、わざと負けようとしているのではないか。あるいは、ここの仲間を守る為に、あえて八百長を受け入れたのか。
 嫌な予感がするところへ、先程『ラビッシュ・キャッスル』へ駆け込んできたヤンキーが不安を煽るような事を言ってきた。
 「なあ、ジャン? トオルって、ダブルスやったことあったっけ?」
 「さあな……」
 皆の心配をよそに、ジャンは素知らぬ顔を通している。
 京極の知る限り、透がダブルスで試合に出場したという話は聞いたことがない。そして仲間の口振りから察するに、アメリカに来てからもシングルスプレイヤーで通しているらしい。動きがおかしいのは、慣れないダブルスのせいなのか。
 あらゆる可能性を挙げてみるが、どれも正解だとは思えない。不安要素が渦巻く中で、今度は透が瞬く間にサービスゲームをキープした。
 見たところ、日本にいた頃より腕を上げたようだ。そうなると、いくらダブルスの経験が乏しいとしても、やはり第1ゲームの動きは妙である。
 「一体、あいつは何をしようとしている?」
 透の意図が見えずに苛立つ京極の傍らで、アップルガースが満足げな笑みを浮かべてジャンに話しかけている。
 「なかなか躾が行き届いている」
 「そうだろう? トオルはうちのナンバー2だからな。ここで生きて行く為に必要なことは、一通り叩き込んである」
 「なるほど。クズには似合いの場所だ」
 部員達に八百長だと悟られないよう、上手くシーソーゲームに持ち込む。接戦に見せかけてから、最後に相手を勝たせる腹なのか。
 ゲームが進むにつれて、不安が現実味を帯びてくる。隣でせせら笑うアップルガースが、京極には不快でならなかった。
 苛立ちを募らせる京極と、悦に入るアップルガースと。それぞれが良くも悪くも読みが外れたと感じ始めたのは、ゲームカウントが「4−4」と並んだ後の、そろそろ敗戦を匂わせなければならない終盤に差し掛かった頃である。
 第9ゲームに入っても、その後のゲームに突入しても、シーソーゲームは終わらなかった。そして、ついにゲームカウント「6−6」となり、タイブレークまで達した直後、透とペアのビーと呼ばれる前衛が一息ついた後で、清々した様子で声を張り上げた。
 「トオル、ここからは好きなように暴れて良いんだよな?」
 「ああ、待たせたな」
 この声掛けを合図に、ネットからの猛攻撃が始まった。今までサービスゲーム以外は攻撃を控えていた前衛が、次々とポイントを決めていく。
 「一体、これはどういう事だ?」
 ジャンに詰め寄るアップルガースの耳元に、ビーの叫び声が届く。
 「悪りィ、悪りィ! うっかり勝っちまった。ごめんな、コーチ!」
 それを受けて、ジャンも大して悪びれた様子もなく前に倣う。
 「そういうことだ。すまんな、コーチ」
 もう何年も使われていないような土埃のこびりついたスコアボードに、透達のダブルス一勝目が記された。

 コート脇で試合を見ていたテニス部の一団が騒ぎ始めた。今のビーの発言は、コーチが八百長をするよう仕向けたとしか思えない。
 ざわつく部員達を横目に、ビーが小声で透に不満を漏らした。
 「まったく、危ない橋渡らせやがって」
 「悪いな、ビー」
 作戦通りに勝ったというのに、いつになく元気のないパートナーの姿を認め、ビーが口調を和らげた。
 「柄にもなく素直に謝るな。言っただろ? 望み通りに動いてやるって。
 お前が腹に決めた事だから、引き受けたんだ。それを忘れんな」
 軽く片目を瞑って見せてから、元のポジションに戻るビーに向かって、透は心の中で頭を下げた。

 試合前、透がビーに「頼みがある」と言って切り出した案は、全試合タイブレークの末に勝利するというものだった。しかも互いのサービスゲームをキープした上での勝利を要求した。
 タイブレークを経た後の敗北は、プレイヤーにとって、精神的にも肉体的にも疲労を伴う最悪の負け方だ。その上、わざと仕組まれていたと分かれば、そのダメージは倍増する。
 但し、この作戦は一歩間違えれば、自分達が敗北するリスクも秘めている。
 通常の試合と違って、タイブレークまで持ち込むという事は、確実に1ポイントのミスもなく決めなければならない場面が、6ゲーム分もあるということだ。かなり高度なテクニックが要求されるのは言うまでもない。
 もしもその場面で決め損なえば、即、敗北へと繋がり、自分達は八百長を受け入れた恥ずべきプレイヤーの汚名を着せられる。そのプレッシャーを考えれば、ビーがボヤくのも無理からぬことだった。
 しかし透には、危険を冒してまでケニーに伝えなければならない事があった。
 一つはアップルガースのコーチの立場を利用した悪行の数々。このまま黙っていようかとも思ったが、他人の手で暴かれる前に、ここで明らかにした方がケニーの為だと判断した。
 この場にいないBランクの選手達は、皆、コーチに大金を積んで大会に出場させてもらっている。参加者の約半数が、すでに汚い金に手を染めている。
 地区大会でチームが勝ち進めば、悪事はもっとエスカレートするだろう。仮にもキャプテンを務める者が、知らなかったでは済まされない。そうなる前に、ケニーには真実を知って欲しかった。
 それともう一つは、互いに進むべき道が違ってしまった悲しい現実も。
 ケニーがキャプテンとしてテニス部を強くしたいと願っているように、透にも幹部として守らなければならない仲間がいる。
 「ここに居てはいけない」と言われれば、たとえ相手が誰であろうが、ここで確固たる力をつけたことをナンバー2として証明して見せなければならない。そうでなければ、ここはただの「ゴミ溜め」になり、自分達は正真正銘の「クズ」になる。
 透を信じて付いてきてくれる仲間の為にも、今なすべき事は、難易度の高い試合を自身に課して、クリアすることだ。
 最も難しい方法で相手をぶちのめす。これが透の腹の中から出てきた嘘偽りのない答えであった。行き場のない自分を救ってくれたこの場所が「ゴミ溜め」ではない事を証明する為に。

 次の試合も同じ展開で進められると、アップルガースがコートの周りを落ち着きなく歩き始めた。どうも自分のリクエストとは違う方向に進んでいると気付いたようだ。
 同じように気付いた人物がもう一人。丸太の上にいる京極だ。
 ようやく透の意図が見えて安堵したものの、京極には一つの疑問が浮かんでいた。
 確か『ラビッシュ・キャッスル』でジャンが出した指示は、「俺の顔に泥塗るんじゃねえ」だった。これは「リーダーの顔を立てろ」との意味で、ジャンはアップルガースの取引に応じるものと思っていた。
 もしそうだとしたら、透はリーダーの指示を破ったことになる。だが、その指示が違う意味を持っているとしたら――。
 京極は、この疑問を隣にいるジャンに投げかけた。
 「あれは暗号だ。『俺の顔に泥塗るんじゃねえ』と言ったらな……」
 続きを下にいるヤンキーが引き継いだ。
 「『好きなように暴れて良し。ただし、必ず勝て』って意味だよ。要するに、どんな事をしても勝てばオッケーってこと」
 「だけど、ジャン? さっき、あのクソ野郎に『話は分かった』と言っていなかったか?」
 「ああ、確かにな。だが、奴の思い通りにすると言った覚えはない」
 「アンタ、俺以上に性格悪いな?」
 「繊細だと言ってくれ。こう見えても、レディーの間じゃ『言葉の魔術師』と呼ばれているんだぜ?」
 そう言って、ジャンは男の色気を誇張するかのように無精髭だらけの顎に手をやり、おどけた顔をして見せた。

 二組目も同じ勝ち方で退けると、ビーがわざとらしく頭を抱えてみせた。
 「やっべえ! また勝っちまった。上手く負けるって、女を口説くより難しいなぁ」
 この八百長を示唆する態度を不審に思ったケニーが、アップルガースを問い詰めた。
 「コーチ? まさかとは思いますが、彼等にわざと負けるように頼んでいませんよね?」
 「当たり前だ。あれは我々を動揺させるための奴等の心理作戦だ。キャプテンが引っ掛かってどうする?」
 ケニーから核心を突いた質問を受けても、アップルガースは動じることなく、しらを切り通したが、彼の演技が通用したのもダブルスの三試合目が終わるまでだった。
 三戦とも同じ勝ち方で終わらせた透のところへ、ケニーが直接真相を確かめに来た。
 「トオル? コーチから、八百長を頼まれていたのか?」
 真実を告げる時が来た。
 「ああ、そうだ」
 「どうして黙っていたんだ?」
 「口で言うより、見せた方が早いと思ったから」
 「何を言っている!? クズの話など、信じる必要はない。
 奴はうちの部を辞めさせられた腹いせに、我々を混乱させようとしているだけだ」
 悪党の口から綻びが一つ、零れ落ちた。
 「コーチ、今『辞めさせられた』とおっしゃいましたよね? トオルが自分から退部したというのは嘘ですか?」
 詰問口調のケニーに対し、アップルガースはさらに嘘を重ねた。
 「ああ、このクズは俺の判断で辞めさせた。使い物にならないと思ったからな」
 しかしその弁解も、難易度の高い勝利の後では無意味である。

 ケニーを筆頭に詰め寄るテニス部員と、透を中心とするストリートコートのメンバーと。双方からの冷たい視線が、一人の悪党に集中した。
 もう誤魔化しようのない状況でありながら、アップルガースは尚も丸太の上のジャンに向かって見当違いの叱責を飛ばし、悪あがきを続けた。
 「おい! 貴様もここのリーダーなら、こいつ等を何とかしろ!」
 「何とかしてやっても良いが、契約外だぞ? それとも、さっきの600ドルにボーナスを付けてくれるのか?」
 「な、何の話だ?」
 「往生際の悪い野郎だ。何とかしなきゃいけねえのは、てめえの腐った頭だろ?」
 ジャンはポケットから百ドル札の束を取り出すと、まとめて一気に破り捨てた。600ドルもの大金が、丸太の上から紙吹雪となってコートの中を通り過ぎて行く。
 「何て事を!」
 慌てて拾い集める仕草から、その所有者が明らかとなる。
 「残念だったな、クソ野郎。こんな紙クズ、ここじゃあ糞の役にも立ちゃしねえ」
 「貴様、さっきはゴミ溜めで生きていく為に、必要な事は教えてあると……」
 「何を勘違いしたかは知らねえが、俺がこいつ等に教えた事は、ただ一つ。
 自由にしたけりゃ、強くなれ。それだけだ」
 「こんな事をして、ただで済むと思うなよ。即刻、警察に訴えてやる!」
 逃げ場のないアップルガースが切り札をチラつかせるが、それは丸太から降りて来たリーダーの足止めにもなりはしなかった。
 「誰に喧嘩を売ろうとしているか、よく考えろ。長生きしたいだろ?」
 「な、何を……」
 ジャンはアップルガースの首根っこを捕らえて軽々と持ち上げると、まるで食材の良し悪しを品定めするかのような楽しげな目付きで、貧弱な体を舐めまわした。その傍らで、ビーがわざとらしく怯えた振りをする。
 「この街でうちのリーダーの名前を聞いて、ビビる奴はいても、喧嘩を売ろうなんて命知らずはいねえよなぁ。たった一つしかない命だ。大事にしねえとな」
 続いて、レイがいつもの淡々とした口調で追い打ちをかけた。
 「うちのリーダー、肩書がたくさんあってね。『伝説のプレイヤー』とか『非運の覇者』とか。
 でもプロの選手登録で使っていた名前は、ジャン・ブレイザー。アンタもコーチの端くれなら、聞いたことあるでしょ?」
 「ジャン・ブレイザー? 貴様があの……?」
 アップルガースの顔がみるみるうちに青ざめていった。この街のテニス関連の職に従事する人間なら、その名を知らぬ者はいない。
 ジュニアの時代から数々の記録を打ち立て、ハイスクールではすでに全米最強と謳われた男。『非運の覇者』の名の通り、プロとしての実績は僅かだが、アマチュア時代に残した戦績は伝説と化している。
 そして、そんな彼が最も活躍した場がライバル校のウェスト・パタソーンズ・ハイスクールだ。そこのコーチ陣は、皆、テニス界に顔が利く大物ばかりである。
 地元で英雄扱いされる彼に逆らうという事は、その後ろに控える権力者達も敵に回すという事だ。テニスのコーチ職にしがみつくしかないアップルガースは、ジャンの言う通り、この街で生活できなくなる。

 脅しにかかった相手が『伝説のプレイヤー』だと分かり、今度こそアップルガースは観念せざるを得なくなった。
 「悪かった。何でも言う通りにするから、取引は無かったことにしてくれ」
 すっかり低姿勢になったアップルガースの首根っこを掴んだままで、ジャンが透に
 「クソ野郎がこう言っているが、どうする?」と問いかけた。
 「ケニーに任せる。俺には、もう関係ない」
 アップルガースがすがるような目でこちらを見ていたが、透は不思議と落ち着いていた。この男のせいで散々辛い目に遭ったというのに、無様な結末を前に、嬉しいとか、清々するとか、そんな感情は少しも湧かなかった。
 悔しさも、怒りさえも感じない。一つだけあるとすれば、安堵であった。
 透に代わって、ケニーがキャプテンの使命を果たそうと、アップルガースの前へ進み出た。
 「コーチ、この場で誓ってください。二度と不正はしない。不当な指示を出さない。
 これまでの件に関しては、倫理委員会の判断を仰ぎます。良いですね?」
 「分かった」
 もしも目の前で行われている裁きが退部した直後であれば、透は飛び上がって喜んだ事だろう。しかし今は落ち着いて見ていられる。
 理不尽な差別を受けても対抗する手段を持たず、そこから逃げ出すしかなかった過去の自分。悔しさを壁打ちボードにぶつけ、行き場のない不安を孤独なトレーニングで紛らわせていた。
 「これで良かったのか」と自問自答する日々が、あの頃の苦い思い出が、一つずつ清算されていく。

 キャプテンらしい毅然とした態度で、ケニーが続けた。
 「もう一つ大事な約束を。うちのルーキーを……トオルをテニス部に復帰させてください」
 「分かった」
 全てのケリが付いたのを見届けてから、おもむろにジャンが右足を引いた。
 「それじゃあ、このクソ野郎に用はねえな? 最後に、うちの大事なナンバー2を『クズ』呼ばわりした落とし前、キッチリつけてから出て行ってもらおうか?」
 言うが早いか、アップルガースの細い体が皆の前を横切った。よほど力を込めたのか。コートの端まで蹴飛ばされた彼は、金網フェンスに体ごと叩きつけられ、その下顎は見事に腫れ上がっている。
 ジャンも透と同じやり方で、悪党に制裁を加えたかったようだ。ジャケットの襟の間から、ヤンチャ臭い笑みがチラリと見えた。
 「ジャン、ありがとう」
 無意識のうちに、透の口から感謝の言葉がついて出た。
 「自由にしたけりゃ、強くなれ」
 彼のおかげで、自分に降りかかる火の粉ぐらいは払えるようになった。ここに辿り着いたからこそ、手に入れたものの一つだろう。
 諸悪の根源が取り除かれた今、透には二つの選択肢が用意された。
 テニス部へ戻るか、ストリートコートに留まるか。ケニーとの誓いを守るのか、ジャンの下で危険と背中合わせの生活を続けるか。
 コートに散らばるドル紙幣が、秋の風に吹かれて舞い上がる。それを見つめる透の瞳には力強い光が宿っていた。






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