第16話 トオルの決断
「さあ、トオル。俺達と一緒に帰ろう」
キャプテンの仕事をなし終えたケニーが、何の疑いもなく透に右手を差し出した。当然、同じ反応が返ってくるものと信じての行為だろうが、現実に彼が掴まされたのは気まずい沈黙だった。元チームメイトの復帰を祝うはずの右手が、上を向いたまま疑問符に変わる。
「トオル……?」
他の部員達も表現こそ違うが、皆、困惑の色を浮かべている。
コーチの悪事を暴き、晴れてテニス部へ戻れるというのに、躊躇う理由がどこにあるのか。投げかけられた視線の大半は、そんな疑問と少しばかりの非難が含まれていた。
透は胸の内の葛藤を静めると、壁打ちボードのあるバックヤードへ向かった。そこならコートにいるケニー達に背を向けた格好で話が出来る。どんなに情けない顔をしたとしても、見られる心配はない。
「俺はテニス部へは戻らない。ここに残る」
「何を言っているんだ、トオル?
コーチのことなら、もう心配要らない。俺が責任を持って倫理委員会にかけて、きちんとした処分をしてもらう。君の退部も取り消せるし、大会にも出場できるよう交渉するから」
それが問題だった。
以前、透の身を案じた同居人のエリックが、正式な手続きを経てテニス部に復帰できる方法を調べてくれた事があった。
それによると、コーチや監督の意向で退部させられた部員の籍を元に戻すには学校側の承認が必要で、その為にはアップルガースの所業を倫理委員会に訴え、こちら側の正当性を証明しなければならない。
手続き自体はさして難しいものではないが、責任の所在を明らかにしていく過程で、キャプテンのケニーも少なからず処罰を受けることになると聞いた。過去のケースから考えて、三ヶ月の謹慎処分が妥当らしい。
地区大会は目前に迫っているというのに、コーチとキャプテンの両方を欠いた状態で、チームが勝ち進めるとは思えない。
大会優勝を目指して、ケニーがどれだけ必死になって部を引っ張ってきたか。その苦労を知るだけに、謹慎は何としても避けたかった。
第一、彼ほどのプレイヤーが三ヶ月もコートを離れて、平気でいられる訳がない。苦痛などと言う生易しいものでない事は、すでに経験済みである。
もう共に歩む事を望んではいけない。望めば、何らかの犠牲が付いてまわる。
透は唇の震えを悟られないよう、声を落として言った。
「いくら悪党でも、二度も裁く必要はない。これで充分だ。
そんなことより、テニス部を立て直す方が先じゃないのか? 辞めた奴のケツを追いかけている場合じゃないだろう?」
「何が不満なんだ? 二人で立てた誓いを忘れた訳じゃないだろ?
仮に俺が処分を受けたとしても、トオルなら新しいキャプテンとして皆も認めてくれる。君にとっても、やり直せるチャンスなのに……」
やはり思った通りだ。ケニーは処分を受けるのを覚悟で、透の復帰を望んでいる。大切な仲間だから、我が身と引き換えにしてでも戻ってきて欲しい。
立場は違えど、透も同じ事を考えた。大切な仲間だからこそ――。
気持ちと裏腹なことを言うのは、これで何度目だろうか。いい加減慣れても良さそうなものだが、口にする時には身を切られる思いがする。
「お前等じゃ、弱すぎるんだよ。俺はもっと高いところを目指している」
「だけど地区大会を勝ち進めば、強い選手と戦うチャンスはいくらもある。
知っているかい、トオル? カリフォルニア州では選手育成の為の強化プログラムがあって、地区大会の優勝者はそこの選抜チームに入ることが出来るんだ。きちんと設備の整った環境で、プロのコーチの特別指導も受けられる。
ここにいても……」
ジャンに遠慮をしたのだろうが、続きは透にも容易に推測できた。
ここにいたとしても大会に出られるチャンスなど、あろうはずがない。選抜チームなど夢のまた夢だ。
透は揺らいだ決意をもう一度固め直すと、再び声を落として言った。かなり皮肉めいた言い方になるかもしれないが、心の内を悟られるよりはマシだった。
「カリフォルニア州の選抜チーム? そんな小せえ話じゃねえよ。
俺が目標にしているのは、世界を相手に戦ってきた男だ。ここに残る方がテニス部なんかよりもずっと価値がある」
カリフォルニア州の一都市に過ぎないサンフランシスコから、さらに外れた小さな街の裏通りに追いやられたストリートコートで「世界」とほざいたところで滑稽なだけである。それでも透は胸を張って言うしかなかった。ここはカリフォルニア州の選抜チームよりも価値があると。
バックヤードの地面に映る影を通して、ケニーの腕が力なく垂れ下がる様が見て取れた。
「すまなかった、トオル。もっと早く、俺が部内の問題に気付いていれば……」
ケニーは世間知らずだが、頭の悪い男ではない。透が誰のためを思って虚勢を張っているのか、気付いたようだ。
「バカ野郎! 自分のチームを馬鹿にされて、キャプテンが謝るな!」
「でもゴメン……本当にゴメン……」
もう限界だった。これ以上、言葉を交わせば、声まで濡れてしまう。最後に一つだけ言い渡して、終わらせなければならない。
「ケニー、頼みがある」
何も未練を残さないように。誰も後悔しなくて良いように。
「これからは、俺と会っても他人の振りをしてくれ。俺達の出会いから、なかった事にしよう」
ケニー達が引き払うのを見届けてから、京極はジャンに短く謝罪を入れた。
「悪かった、ジャン。本当の事を言うと、さっきまで俺はアンタのことを疑っていた」
「気にするな。あの状況で真意を確かめに来なけりゃ、俺の方がキョウゴクを甘い奴だと疑っただろうよ」
「疑り深いのは、お互い様か?」
「そういうことだ」
この男なら、透を託せる。自分から握手を求める事など滅多にない京極が、ジャンに右手を差し出した。
「トオルを頼む」
「ああ、約束だ」
すれ違った少年達に反して、丸太の上では二人のリーダーによる固い握手が交わされた。
バックヤードでは透が独りで練習を始めている。その姿を目で追いながら、ジャンが「念のため」といった調子で京極に問いかけた。
「まさかとは思うが、お前等、兄弟じゃねえよな?」
とっさに首を振って否定をしたものの、京極はその突拍子もない発想の根拠が知りたくて、答えとなるはずの語尾を上げた。
「親が不貞を働いていなけりゃ、赤の他人のはずだが?」
「そうだよなぁ。だけど二人ともよく似ている」
「そんな訳ないだろう? 俺の方が見た目も中身も、数段上だ。
それを言うなら、トオルはアンタに似ていると思う」
「どこがだ?」
入れ替わるようにして、ジャンが訝しげな顔を向ける。
「売られた喧嘩は必ず買うし、しかも勝たなきゃ気が済まない。他人がどう言おうが、絶対に自分の意志を曲げない頑固なところも。情が深いくせに相手に気取られるのが嫌いな、厄介な性格も。他にもあるが、聞きたいか?」
「もう良い。だが、それはキョウゴクも同じだろう?」
「いいや。幸か不幸か、俺はあそこまで他人に情はかけられない。予想通りの見返りがなければ、損をした気分になるからな。
その点では、あいつの方が俺より大きい器になるかもしれない。ただ、今は……」
「ああ、分かっている。磨いただけじゃ、光らねえ。削った後はきちんと手入れをしてやらねえと。ダイヤってヤツは。
まったく、面倒なモン引き受けちまったな」
本人の前では決して見せない二つの優しい眼差しが、丸太の上からバックヤードへと注がれる。
「来年、また来る」
「分かった。今度は小手調べ抜きのラブゲームで下してやる」
「ジャン、アンタやっぱり筋金入りの負けず嫌いだ」
「それも、お互い様だ」
信頼のおけるリーダーと再会の約束を交わし、京極はストリートコートを去っていった。
夜中のジャックストリート・コートでは、余所のグループに縄張りを荒らされないよう、常に複数のメンバーが見張り番として残っている。
大抵はコートで打ち合うか、飲み食いして暴れるか。ともかく昼も夜も関係なく過ごすのが、彼等の流儀である。
しかし、今夜はやけに静かな時間が流れていた。その静けさを不思議に思いながらも、透は黙って壁打ちボードから戻ってくるボールを追いかけた。
いつの頃からか、辛くなると壁打ちボードに向かうのが習慣となっていた。
何があっても、もう泣かない。日本を発つ時に、泣くのは自分の夢を諦めた時だと心に決めた。
ケニーとの誓いを破った今、自分で立てた誓いぐらいは守り通さなければならない。その為には思考が余計な感情に捕まらないように、ひたすらボールを追いかけるしかない。
テイクバックも、打点も、フォロースルーも。足はもっと細かく動かし、体幹を意識して。
注意すべき点は山ほどあるのに、集中できない。一時間も打ち続ければ、大概の事はやり過ごせていたはずなのに。
ここに留まると決めたことを、後悔している訳ではない。最強の男を超えようとしていることも事実である。
だがテニス部の為を思って精一杯強がったしわ寄せが、今頃になって透の心を圧迫し始めた。
普通の中学生が送る当たり前の生活が、急に恋しくなった。授業が終われば部室へ行き、次の大会での優勝を目指してテニス部の仲間達と練習に励み、疲れたと愚痴をこぼしながら、皆で寄り道をして帰る。
その平穏な日々を捨ててしまって、本当に良かったのか。正しい選択だと言うのなら、何故こんなに胸が痛いのか。何故こんなに苦しいのか。
照明設備もろくにない薄暗いコートの中で、自分の返すボールの音だけが延々と響く。
覚えのある光景だと思いながら、とっさに透は甦る記憶を拒んだ。
光陵学園を去る日に泣きながら壁打ちをした思い出が、頭の中を通り過ぎては、Uターンして戻ってくる。いま思い出してはいけないと分かっているのに、優しさに包まれていた頃の記憶が、払っても、払っても、ボールと共に返ってくる。
涙で歪んだ壁打ちボード。皆と一緒に帰らずに、ずっと待っていてくれた唐沢の姿も。
あの時、彼はどれくらい前からあそこに居たのだろう。自分のことで精一杯で気が回らなかったが、恐らく一時間以上は待たせたはずである。
後輩の気持ちを察して好きなだけ泣かせてくれた先輩は、ここにはいない。そして今日、もう一つの居場所を自ら手放した。
「今日はやけに素直じゃねえか?」
透の背後から声をかけてきたのは、思い出の中に住む唐沢ではなく、現実に野暮用ばかり言いつけてくる偏屈なリーダーだ。
いつものように、からかわれると思った透は、知らん顔をして壁打ちを続けた。
「俺の顔に泥塗るんじゃねえ、と伝えただろ?」
それは「必ず勝て」という意味で、確かに透はその指示通りに全ての試合で勝利を収めた。
「別に……アンタの命令がなくても、そうしたから」
泣きそうになっている事を悟られないように、敢えてぶっきら棒に答えた。
「なんだ、そうか。せっかく、褒めてやろうと思ったのに」
予期せぬ言葉に、透の手が止まる。
「今……なんて?」
「よくやったな、トオル。危なっかしい所はいくつかあったが、悪くねえ内容だった」
「ジャン……」
そう言ったきり、次の言葉が出なかった。普段は子供扱いするジャンが名前を呼んで、しかも「よくやった」と褒めている。
辛い時に優しい言葉をかけられると、どうしてこんなに脆く崩れてしまうのか。ずっと堪え続けた努力も虚しく、涙が瞼に溜まっていく。
彼の前で泣いてはいけない。せっかく「小僧」から卒業できたのに、みっともない姿をさらしては、やはりガキだと笑われてしまう。
震える肩には力を入れて、体が不規則に揺れだす前に、先手を打って深呼吸で息を整える。我慢の仕方は分かっている。あとは大きく目を見開いて、少しばかり溜まった涙を乾かせば良い。
瞼から溢れて出なければ、涙ではない。瞳を潤しているだけなのだ。
今にも零れそうな涙をどうにかしようと、透が大きく息を吸いかけた、その時だった。
「ガキのうちからマセたことするじゃねえよ。大人になってから、やる事なくなるぞ?」
自分でも情けなかった。情けなかったが、溢れ出す涙をどうにかするには、もう本物の大人の胸を借りるしかなかった。
人前で泣いたのは、これで二度目である。
「今夜は二人で見張り番だ。泣きたければ、好きなだけ泣けば良い」
太くて低い声が耳元で響いた。
「俺……本当は、あいつ等と一緒に帰りたかった。
毎日、テニス部のコートの前を通って、ここへ来るんだ。心の中では、何で俺ばっかり……何の苦労もしない奴だっているのにって……」
「ああ、そうだな。世の中ってのは、不公平に出来ているよな」
「ケニーに言った事は嘘じゃない。でも、俺も大会……まだ一度も出てない……出たいって……」
「ああ、可哀想にな。今頃ケニーの野郎は、ラッキーってほくそ笑んでいるかもしれねえな」
「ここで頑張ろうって思うたびに追い出されて……今度こそって思ったのに。もう、こんなの嫌だ」
「ああ、辛かったよな。お前だけが苦労して、世の中の不幸を一身に背負って、こんな気の毒なガキは見たことがない」
「泣かないって……もう泣かないって決めたのに、また泣いて……最低だ……」
「ああ、聞くに堪えない悲惨な人生だ。俺まで泣けてくる」
「ジャン!? アンタ、何しに来たんだ?」
「何って、世界一不幸な野郎を慰めてやっているんだ。可笑しいか?」
「ここまで大げさにされると、泣く気が失せるっつうか……馬鹿馬鹿しくなる」
「なら、成功だ」
ジャンがニヤリと笑った。
いつも感じることだが、ジャンは透が知る誰よりもいい加減で、そのいい加減さがどういう訳か、器の違いに見えてしまう。
「ジャン? さっき『好きなだけ泣け』って言わなかったか?」
「まだ泣き足りないなら、どんどん泣け。ガキの特権だ。いくらでも泣いて良いぞ。
何ならバスタオルも貸してやろうか?」
「もう、良いよ」
「遠慮するなよ?」
「してねえよ。これで充分だから」
相手の思惑通りと知りつつ、透はもう一度、大きな懐に顔ごと突っ込んだ。頭をすっぽりと包み込む赤い革のジャケットは、泣き顔を隠すにはちょうど良い。
「俺が泣いたって、他の奴等に言うなよな?」
「当たり前だ。本来、ここは女性限定の特等席だ。お前こそ、言うなよ?」
「誰にだよ?」
「誰って、全員の名前を言い終わるには、半日かかるぞ?」
「そんなにいるのかよ?」
「良い男には、良い女。強え奴には、強えライバル。世の中、てめえの力量に見合った出会いがあるもんだ」
「俺にも……あるかな?」
「ああ、あるさ。もしかしたら、もう出会っているかもしれねえ。
ケニーの野郎は、お前とつるむには役不足だった。ただ、それだけだ」
ジャンの胸は思いのほか温かで、厚くて、大きくて。誰にも見られず、ささくれ立った心を癒すには最高の場所だった。
あり得ないことだが、もしも父親が抱きしめてくれたら、こんな感じになるのだろうか。それとも器の大きいジャンだからこそ、作り出せる空間なのだろうか。
ここに残った真の理由が見えてきた。
「ジャン……やっぱり俺、ここで強くなりたい。強がりなんかじゃなく、本当に強く……ジャンみたいに……」
全ての本音を吐き出した後で心の底に残ったものは、最強の男のもとで強くなりたいという果てしない願いであった。その想いがあったからこそ、無意識のうちに辛い選択をしたのかもしれない。
どれだけ遠い道のりになるかは知らないが、今ならこの選択が正しかったと断言できる。
「ああ、強くなれ。今度はお前が誰かに胸を貸してやれるぐらいに、強くなれ」
ジャケットの隙間から見えたのは、先程のようなしたり顔ではなく、少年の成長を心から待ち望むリーダーの穏やかな笑みだった。
涙が引っ込み、気持ちも落ち着いた頃に、ジャンが丸太の上へ移動しようと言い出した。試合もないのに登ったところで殺風景なコートしか見えないと思ったが、透は大人しく従った。泣いた後のばつの悪さもあって、場所を変えたい気分であった。
ところが頂上まで登ると、いきなりジャンに肩車で担ぎ上げられた。
「何だよ、ジャン! いくらなんでも、俺のこと、ガキ扱いし過ぎだろ?」
幼児扱いされたのも恥ずかしいが、意に反して軽々と持ち上げられた事も、かなりショックであった。
「文句を言う前に、向こうを見てみろ」
「向こうって、こんな時間に何も見えるわけ……」
こんな時間だからこそ、見えるものがあった。
高台に位置するストリートコートの丸太の上から見えたもの。それは街外れからサンフランシスコの港までが一望できる、まさに絶景と呼ぶに相応しい眺めであった。
日本で見る赤や黄色の華々しいイルミネーションではなく、キャンドルの炎に似た温かなオレンジ色の光が漆黒の闇の中に広がっている。地上と海面の双方から反射して出来た光の波は、まるで鏡の上で宝石箱をひっくり返したようで、互いに照らし合いながら輝きを放っている。
眩いという言葉は、この景色の為にあると思った。強い色味を持つものは一つもないのに、小さな光の粒が寄り添い、瞬き、オレンジ色の帯を作っている。
「すっげえ!」
久しぶりに、この禁句を使った。
肩の上ではしゃぎ出す透を抱えたままで、ジャンが誇らしげに目を細めた。
「本当はリーダーだけの特権だが、今日は特別だ。試合のご褒美だ」
「よし、決めた!」
涙が通った跡に、いつもの負けん気の強い少年が顔を出す。
「俺、もう迷わない。早くアンタを倒して、この場所を独り占めすることにした」
「ほう……?」
「アンタに言わせりゃ、『頭の腐ったクソ野郎』だかんな。そんなコーチのいるテニス部に、未練はない」
「そんなこと、言ったか?」
ジャンが記憶をたどる前に、透は断言した。
「ああ、絶対に言った」
「よく覚えているな。そういう無意味に細かいところが、キョウゴクにそっくりだ」
「アンタ等こそ、よく似てるって!」
「どこがだ?」
透はすかさず二人のリーダーの共通点を並べ立てた。
「平気で人を振り回す迷惑なところとか。俺を悔しがらせて面白がる陰険な性格とか。なかなか分かりにくい思いやりのかけ方とか。他にもあるけど、まだ聞くか?」
「いや、もう良い」
さすがのジャンも痛いところを突かれてぐうの音も出ないと見えて、唐突に話題を変えた。
「ところで、トオル? ジャケットに何を入れている? まさか刃物じゃねえよな?」
頭に当る異物を訝るジャンに向かって、透はお守り代わりにポケットに忍ばせているハーモニカを取り出して見せた。日本を発つ前に、早く友達が出来るようにと、親友の疾斗が持たせてくれたものである。
「洒落たもん、持っているじゃねえか。お前、吹けるのか?」
「ちょっと練習してみたけど、上手くいかなかった」
「貸してみろ」
「ジャン、吹けるのか?」
「そんなに驚いた顔をするな。一曲だけだ」
「どうせ女を口説く時に使っているんだろう?」
「まあ、そんなところだ」
透を下へ降ろすと、ジャンは珍しく照れ臭そうな顔をしながらハーモニカを口に運んだ。よほど思い入れのある曲なのだろう。こんな彼を見るのは初めてだ。
暗闇に流れ出たメロディーは、ジャンの逞しい肉体とはおよそ不釣合いな、儚げな印象の曲だった。
『アメージング・グレイス』といったか。曲名も定かではないのに、その旋律はどこか懐かしく、遠い記憶に語りかけてくる。
なるべく思い出さないようにしていた光陵学園のテニスコートが、最初はぼんやりと、そして徐々にはっきりと浮かび上がる。それと同時に唐沢を始めとするテニス部の仲間や、別れの日に空港まで見送りに来てくれた皆の姿も。
疾斗からこのハーモニカをもらった時は、まさかこんな形で聞くとは思ってもみなかった。だが、もう辛くない。平穏な日々でなくても、万人が通る道でなくとも、目標と定めた行き先が正しいと信じられるから。
切ない思い出までも柔らかくしそうな優しい音色が、夜のストリートコートに繰り返し流れていた。
Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wreck like me
I once was lost but now I’m found
We blind but now I see
暗闇の中に訪れた光は神が授けた恵みなのか
身を堕した我をも救おうというのか
見失い、踏み外しても、また降り注がれる
進むべき道が今は見える
「トオル、起きろ!」
ジャンの怒鳴り声で目を覚ました透は、いきなり飛び込んできた光の眩しさに、思わず顔を背けた。
いつの間にか眠りに就いていたらしい。昨日の夜景から一転して、突き刺すような朝日の力強さに、まだ頭も体も付いていけない。
辺りの様子からして六時前後のはずだが、ジャンはすでに下に降りてストレッチを始めている。ヤンキー集団のリーダーが起きるには、健康的過ぎる時間帯だ。
「何だよ、ジャン? もう少し寝かせてくれよ。まだ目覚まし……あれ?」
夢現であった透の意識が、コートに立つジャンの姿を現実のものと認識し始めた。
「十秒以内に降りてきたら、もう一つ、ご褒美をやっても良いぞ?」
一瞬にして全神経が飛び起きた。コートの中でラケットを手にするリーダーから想像できるご褒美と言えば、一つしかない。今までパシリの仕事しか与えなかった彼が、ようやくテニスを教えてくれる気になったのだ。
「今すぐ行く!」
丸太の上から転がるように降りて来た透に向かって、ジャンが反対側のコートへ立てと指示を出す。
「良いか、トオル? 最初に試合の流れを作るのは、サービスとリターンだ。
お前がゲイルとの試合で学んだように、この二つを高めることでゲームの主導権が握りやすくなる」
真剣な眼差しで理論を説くジャンは、今までとはまるで別人だ。わがままで横柄なリーダーでもなく、女好きのエロオヤジでもなく。世界を舞台に戦ってきたプロのテニスプレイヤーの顔をしている。
「そこから絶対に動くなよ?」
そう念を押してから、ジャンがサーブの構えを取った。
トスを上げてラケットを引くところまでは見えたが、そこから先は、ボールの音以外、まったく捉えられなかった。
ネットの向こうでガットが唸る音と、透の足元でボールが地面にバウンドする音が、ほぼ同時に聞こえた。いずれもそれは一つのボールが別々の場所で発した音だが、透には同時に起こったとしか思えなかった。
「もう一本、本気のサーブを入れてやるから、よく見ていろ。間違っても、手を出すんじゃねえぞ」
言われなくても動けないと思った。
次にジャンが放ったサーブは、京極との対戦よりも更に威力が増していた。さすがに二本目となると、ボールの音以外にも感じるものがあったが、それは自分に向かってくる勢いのある何か ――無論、テニスボール以外にないのだが―― の圧迫感を全身で受け止めるという、極めて初歩的で分かりやすい感覚だった。
桁外れのパワーとスピードを兼ね備えたサーブを目の当たりにして、胸の鼓動が速くなる。体中の血が訳も分からないものに沸き立つなど、初めての体験だ。
「すげえ……」
「本気で俺を超えるつもりなら、まずはここから始めろ」
目にも留まらぬ速さのサーブ。これがリーダーから与えられた最初の課題であった。
誰よりも強くなる為に。最強の男を超える為に。
冬を迎えるにしては、やけにギラついて見える金色の朝。この日が透にとって新たなステージへの幕開けとなった。
※文中の『アメージング・グレイス』(Amazing grace)の歌詞は、宮城あおばが『輝』バージョンとして意訳したものです。宗教的な意味合いよりも、ジャン個人の過去に沿って、私なりの解釈を加え表現してあります。
興味のある方は『アメージング・グレイス』で検索してみてください。色々な和訳(解釈)があるので、比べてみると新たな発見があるかもです。
個人的には本田美奈子さんが歌われた詞が、原文に忠実で分かり易いのでお薦めです。