第19話 ガラスの優等生

 “丸太焼失事件”を起こした罰として、透、ビー、レイの三人は、クリスマス・ホリデーの間じゅう、材木店で働かされた。
 この時期、材木店の忙しさは半端ではない。手作りの手間を惜しまぬアメリカ人が休暇中に行く先と言えば、スキー場よりも、デパートよりも、ホームセンターの方が断然多い。彼等はそこで資材を買い込み、家の修理やら、子供たちの遊具の製作やらを、自分達の手でやってのける。
 よってホームセンターの下請けで成り立つ材木店は、目の回るような忙しさであった。
 商品を納めた側から追加注文が入り、在庫確認の合間にも次の現場から催促がくる。しかもジャンの知り合いの店とあって、店主の人使いの荒さも半端ではなかった。
 「俺を本気で怒らせた三人」は文句を言う暇も与えられず、朝から晩まで扱き使われること二週間。リーダーの怖さが骨身に染みた休暇となったのだ。

 この過酷なアルバイトの最終日、ようやく諸々の任から解放された三人は、迷わず『ラビッシュ・キャッスル』へなだれ込んだ。無論、祝杯をあげる為である。
 「マジで、きつかったよな? 俺様、いつ死んでもおかしくないと思ったぜ」
 三人の中でも最も現場に馴染んでいたビーが、清々とした顔で透に相槌を求めた。彼は日頃からペンキ職人として働いているのだが、さすがに左官の仕事と重量級の木材を運ぶのとでは勝手が違ったようで、体の各所から湿布の匂いを漂わせている。
 「俺も、もう限界……。腹が減って死にそうだ」
 「だったら、トオルにはキドニーパイを頼んでやる。今なら喜んで食えるだろ?
 俺様はローストビーフだ。グレイビーソースのたっぷりかかったヤツ!」
 「あっ! 汚ねえぞ、ビー!」
 ようやく訪れた自由を噛み締めながら、三人が店の二階へ上がろうとした時だ。偏屈で有名な店のオーナーが、カウンター越しに手招きをしている。
 彼が自分から話しかける事など、滅多にない。珍しいと思って近付いてみると、オーナーが迷惑そうな視線を一階の奥の席へと投げかけた。
 テーブルにうつ伏せた状態ですぐには分からなかったが、赤茶けた髪には見覚えがある。ストリートコートのメンバーの間では「トオルが泣かせて追い出した」とされるモニカであった。
 かなりの酒量を浴びているらしく、彼女の長い手足は好き勝手な方向へのびて、頭頂部できつく結ばれていたであろう髪型は崩れ、もつれた髪が方々へ散らばっている。
 「何よ、皆してアタシを責めて。パパも、ジャンも、大嫌い。
 どうせ、お嬢様ですよぉ。逃げ出しましたよぉ……」
 酒まみれの吐息と共に漏れ聞こえてきた内容に少なからず覚えのある透は、胸の裏側を細い針でチクリと刺されたような気分になった。
 「アンタの場合は、居場所を失くしたんじゃない。逃げ出しただけだ。自分から捨てたくせに、被害者面するな!」
 二週間ほど前、モニカの甘ったれた態度が癇に障り、心無い台詞を発してしまった。あれ以来、透なりに反省し、釈明の機会を探してはみたものの、自ら彼女の自宅へ出向くほどには悪いと思っておらず、そのままとなっていた。
 客よりも、売上げよりも、店の雰囲気を大事にするオーナーは、モニカが「ジャン」と口走るのを耳にして、知り合いではないかと声をかけてきたのだろう。良からぬ騒ぎになる前に、さっさと連れて帰れということだ。
 確かに、この状況では「襲ってください」と頼んでいるようなものだった。ろれつの回らぬ彼女の周りには、複数の男達が舐めるような視線を短いスカートの裾に這わせている。
 「連れて帰るのは構わねえけど、俺様のアパートメントじゃ、却って危ない。トオル、ここは一つ、男の責任ってことで……」
 「ややこしい言い方するなよ、ビー!」
 原因の一端はあるかもしれないが、酔っ払いを連れて帰る義理はない。あくまでも部外者を決め込む透の脇腹を、すかさずレイが肘で突く。
 「だけど彼女、無神経な誰かさんの所為でかなり傷付いたって感じ? 女の子を泣かせたのは事実なんだから、少しは誠意を見せないとね」
 そこを指摘されると、返す言葉がない。ここは責任を持って、世話をするしかなさそうだ。

 酒豪の父親と、普段からテンションは高いが下戸の母親と。この二人の間で育った透は、酔っ払いの世話などした事がない。
 モニカの場合、絡み上戸というヤツだった。帰る途中、彼女は何度も同じ会話を繰り返しては、勝手に怒って、勝手に泣いた。
 「コートに入れないコーチなんて、あり得ないわよね?」
 「そうか?」
 「あり得ないの!」
 「分かった、分かった」
 「笑っちゃうわよね?」
 「まあな……」
 「だったら、笑いなさいよ! 早く!」
 「無理、言うなよ」
 「コートに入れないコーチなんて……」
 初めは適当に受け流していた透だが、会話が振り出しに戻るたびに、胸の裏側に隠れていた罪悪感が真ん中を占拠するようになった。
 コートに入るのが怖いとは、どんな気持ちになるのだろう。四角いラインの内側が地獄にでも見えるのか。
 透自身、コートでの練習を渇望するあまり飢えを感じた事はあっても、怖いと思ったことは一度もない。コートに吸い込まれる感覚なら分かってやれるが、恐怖心に関しては、いくら考えを巡らせても想像できなかった。
 正直なところ、罪悪感が頭をもたげる一方で、釈然としない気持ちもまだ残っていた。
 例えば、何の気なしに手を伸ばした品物が偶然ガラスで出来ていて、触れたと同時に壊れたとする。壊すつもりはなかったと叫んでみても、ガラスは元へは戻らない。
 不用意に触った自分が悪いのか。ろくな梱包もせずにガラスを放置した相手が悪いのか。
 透がモニカに対して素直になれないのも、捉え方によって、どちらにも非があるように思えるからだった。
 ただ一つだけハッキリしていることは、世の中にはそういうケースが多々あって、自分はまだその多くのことを知らない。ジャンも、ビーも、レイも、たぶん知っている。彼等は触れる前から、それがガラスで出来ていると分かるのだ。
 勝気に見えたモニカの内面が実は繊細であることを、透は泣かれるまで気付かなかった。
 「今度はお前が誰かに胸を貸してやれるほど強くなれ」
 あの晩、泣きじゃくる自分を包んでくれた赤い革のジャケットの温もりを思い出し、透はまた胸が痛くなった。

 真嶋家は、幸か不幸か、たくさんの留学生を受け入れているために、一人ぐらい酔っ払いを連れ帰っても、どうという事はなかった。
 母親の了解を取り付けた透は、同居人のディナに頼んで空き部屋を教えてもらうと、酔いつぶれたモニカを三階まで担ぎ上げ、ベッドへ寝かしつけた。
 「ねえ? 彼女、大丈夫?」
 布団に入っても、尚、枕を抱いて愚痴をこぼし続けるモニカを横目で見ながら、ディナが整った眉をクシャッと寄せた。
 「ひと晩ゆっくり寝れば、大丈夫だろ?」
 「そうじゃなくて、精神的にかなり参っているんじゃない? 普段は気が強いでしょ、彼女?」
 「メチャメチャ気が強くて、おまけに口も悪い。どうして分かるんだ?」
 「トオルとは経験値が違うのよ。彼女、お酒の力を借りないと、本音が言えないタイプね。こういう娘は一旦折れてしまうと脆いから、気を付けてあげてね」
 「なんで、俺が?」
 「あら、何らかの責任があるから、連れて帰って来たんじゃないの?」
 やはり姉貴分の言うとおり、経験値の差は大きいようだ。
 「なあ、ディナ? こういう時ってさ、どうやって元気づけたら……」
 途中まで言いかけて、透は皺の寄った眉根がいそいそと広がる様を見て、慌てて質問を引っ込めた。あれは冷やかす準備の整った顔である。
 夜遅くに酔った女性を自宅に連れ込んだのだから、恋仲を疑われても仕方がない。手始めに、こうなった経緯を聞きたくて堪らないと、緩んだ口元にも書いてある。
 「何かお姉さんに聞きたい事があったんじゃなあい?」
 「いや、なんでもない」
 それに、ディナのアドバイスに頼らずとも分かっていた。男女の性別に関係なく、一度傷をつけてしまった心には言葉よりも時間が必要で、特効薬はないのだと。

 次の日、モニカは激しい頭痛と共に目が覚めた。脳が固まって岩になったかと思うような痛みである。
 少しでも動くと頭が割れそうになるが、見たこともない部屋にいるのが落ち着かなくて、重い体を引きずって階下へ降りた。
 「おはよう、気がついた?」
 モニカの姿を認めるなり、同年代と思しき女性がにこやかな笑顔で声をかけてきた。同じように数人の外国人が挨拶をしてきたが、どの顔も記憶にない。
 自分の連れて来られた場所が透の自宅だと判明したのは、その数分後。彼と面差しのよく似た日本人女性がハーブティーを勧めてくれた時である。
 「トオルのフレンドね? これ、ヘッドのアウチにグッドなのよ!」
 片言の英語から察するに、「頭痛に良く効く」と言っているのだろう。スパイシーな香りのするハーブティーは二日酔いの頭をスッキリさせてくれた。
 「フェンネルとローズヒップのハーフ&ハーフのハーブ……あらら、言いにくいわね。何て言えば良いのかしら? そうそう、ミックス・ブレンド・ハーブなの!」
 日本の女性は控えめで大人しいと聞いたことがあるが、彼女は片言の英語を駆使して、メチャクチャな文法にも構わず、堂々と話しかけてくる。良くも悪くもこの物怖じしない性格は、あの口の悪い少年と共通するものがある。
 「あの……彼、トオルは?」
 「テニスコートにいるはずよ。バックサイドのガーデンね」
 母親らしき女性に礼を述べてから、モニカは裏庭へ回った。
 頭の中が混乱した。
 昨夜『ラビッシュ・キャッスル』で飲んだところまでは覚えているが、そこから先は記憶がない。かなり酔っていたのだろうか。
 仮に泥酔していたとして、腑に落ちないのは、そんな自分を運んでくれた人物があの憎たらしい暴言を吐く少年で、この豪邸が彼の自宅ということだ。
 裏庭にテニスコートのある恵まれた環境に居ながら、なぜ彼はジャックストリート・コートに出入りしているのか。他のメンバー達とは事情が違うのか。
 透に関して多くの疑惑を抱えたまま、モニカは裏庭までやって来た。

 「中に入ってくるんじゃねえぞ!」
 ひとまず礼を言うつもりで近寄ったモニカだが、可愛げのない少年の態度に酒で飛ばしたはずの怒りが再燃する。コートに入れないのを知っているくせに、わざと嫌味を言っているのだと。
 しかしコート脇に掲げられた「2ドル」の表示を見て、考えが変わった。
 「もしかして、お金を取られるの?」
 「コートの中に入ったら、誰であろうと一回に付き2ドルだ。アンタが無駄金を払いたいなら別だけど。
 うちの親父はプレーをしても、しなくても、通り過ぎた人間からでも、容赦なく金を巻き上げる」
 「アナタ、ここの家の息子なんでしょう? どうして自宅のコートを使うのに、お金が必要なの?」
 「そんなの、知るか! うちのクソ親父に聞いてくれ」
 辺りを見回すと、コート脇の壁打ちボードには一回の使用料が1ドルと提示してある。
 どうもこの家は普通の金持ちとは様子が違う。このセコい表示と言い、透の身なりも、口の悪さも、どちらかと言えば貧乏人に限りなく近い。
 確かめたい事は色々あるが、他人の家について根掘り葉掘り聞くわけにもいかず、まずは今一番気になる疑問から切り出した。
 「あれからずっと、サーブ練習を続けていたの?」
 「当然だ。これを完成させねえと、次には進めない」
 「どうして、そこまでジャンを信じられるの? 彼が無理な課題をアナタに押し付けているとは思わないの?」

 モニカは幼い頃、父親に連れられてジャンの試合を観戦したことがある。子供の目にもコートに立つ彼からは他の選手とは違うオーラが放たれていたことは分かったし、今でもその時の姿は鮮明に覚えている。
 しかしながら、優れた選手が、イコール、優れた指導者とは限らない。むしろ、逆のケースの方が多い。
 生徒も自分と同じ速度で成長すると思い込み、高すぎるハードルを設定し、越えられなければ生徒の努力が足りないと決めつける。父親がテニススクールの経営者とあって、モニカはそうした指導の技量のないコーチを多く見てきた。
 ジャンとは父を介した顔見知り程度の付き合いで、どういう考えでハードルを設定したかは知らないが、日本人のまだ発育途中にある少年に自身と同じサーブを習得させようとしている事自体、適切な手順を踏んでいるとは思えなかった。
 行き過ぎた指導は生徒の能力を潰す危険もある。
 しかも、透の方も出された課題に何の疑いもなく取り組み続けている。いい加減、自分には無理なハードルだったと気付きそうなものなのに、クリアできると信じている。ジャンの指導に対する疑念は欠片もない。
 「そんなこと考えて、何になる?」
 淡々とサーブ練習を続ける少年からは、モニカの思いも寄らない答えが返ってきた。
 「俺はジャンを倒すのが目標だから。その為に出された課題なら、何だってやる。
 それにまだ自分に出来ることを、全部試したわけじゃない。諦めるのは、その後でも遅くない」
 「アナタ、どうかしているわ。こんな無駄な練習をずっと続けて……イカレているとしか思えない」
 それを聞いた透がふっと笑みを浮かべた。機関銃のごとく反論してくる憎たらしい少年のものとは思えぬ、実に素直な笑みだった。
 「確かにイカレているよな。だけど、心底好きだとそうなるのかも」
 「心底好き……?」
 彼が何気なく漏らした言葉が、モニカの脳裏にさまざまな記憶を呼び起こす。
 ずっと悩みの種だったバックボレーが上手く決まった時。初めてスピン・サーブを覚えた時。トーナメントで優勝した日のこと。
 どの思い出にも今とは違う自分がいた。好きだからこそ、上手く出来なくても頑張れた。そして、その過程で出会ったコーチに憧れ、同じ職業を目指したはずだった。
 夢を追い続けていたあの頃の自分なら、「なぜ頑張るのか」と聞かれれば、今の彼のように「好きだから」と答えていただろう。他人から整然と語られる理論より、自分の中にある1%の可能性の方を信じたはずだ。
 ごく自然で、当たり前の理屈である。心底好きだから。

 「ヘッドダウン……頭が下がっているわ」
 「えっ?」
 「ボールを打った直後に、振り下ろした腕につられて、一瞬だけ頭が下がっているの。コントロールに自信のあるプレイヤーにありがちなフォームよ。
 ボールを最後まで目で追うようにしないと、下半身で溜めた力がそっちへ流れてしまって、スィングの加速が甘くなるわ」
 「それって、俺のフォーム……?」
 天敵から思わぬ助言を与えられ、透は自分の耳を疑った。しかし、今は驚いている場合ではない。せっかく手にした解決の糸口をみすみす逃す手はない。
 言われた通り、頭の位置を意識しながら打ってみると、驚いたことに球速が格段にアップした。今まで勢いよく腕を振ることだけを考えて、力の無駄遣いをしていたようだ。
 頭を下げずに視線を残すことで、肩がスィングの支柱となり安定する為に、力が効率よくボールに伝わる。言われてみれば単純なことだが、無意識のうちについた癖というのは、案外、自分では気付かぬものである。
 「これでもまだジャンのサーブには届かないだろうけど、少しは役に立ったかしら?」
 「ああ、メチャメチャ役に立った」
 「断っておくけど、アタシはアナタがジャンと同じサーブを習得できるとは思っていないし、ハッキリ言って反対よ。成長期に無理をしては、体を壊すわ」
 「もしかして、俺の体の事を考えて忠告してくれていたのか?」
 「別に、そういうわけじゃないけど……」
 「ありがとう、モニカ」
 「止めてよ。急に素直になられると、調子が狂うわ」
 「アドバイスをくれた人に礼を言うのは当たり前だ。それに、その……この間は悪かった。言い過ぎたって言うか……」
 「何のことかしら? アタシ、お酒を飲むと全部忘れるの。だから、アナタも忘れてくれない?」
 今回は誰に教えられなくても、それが彼女なりの謝罪だと気が付いた。
 「酔っ払って、暴れて、絡んで、ゲロ吐いたことも?」
 「えっ……アタシ、そんなに酷かったの?」
 「ゲロは嘘」
 「アナタ、やっぱり口も性格も悪いわね」
 「お互い様だ」

 ほんの少しだが、彼女との距離が縮まったと感じた。その直後、透の視界に赤い何かが飛び込んできた。よく見ると、モニカの足先が血で染まっている。
 「モニカ、靴はどうした?」
 「脱いできちゃった」
 「なんで?」
 「ここ、芝のコートでしょ? ヒールだと、傷つけると思って」
 「バーカ! コートより、自分の足の方を大事にしろよ。切れてんぞ」
 透は彼女をベンチに座らせると、裏庭の倉庫から救急箱を取り出し、素早く処置にあたった。
 恐らく母親が雑然と放置したガーデニングの道具を踏んだに違いない。爪先が赤いペディキュアと見分けがつかなくなっている。
 「アナタ、今『バカ』って言ったわよね? コーチにも、パパにも、言われたことないんだけど?」
 モニカにとって、足のケガよりもバカ呼ばわりされたことの方が重大らしい。
 「良いじゃねえか。テニスバカって意味だ」
 「嫌よ。バカって呼ばれるのは絶対にイヤ。第一、女性に対して失礼よ」
 「まったく、アレコレうるさい女だなぁ」
 これも経験値の差なのか。どうも彼女に対して優しい言葉をかけづらい。まして短いスカートをはいた女性に片足を上げさせ、向き合った状態で包帯を巻く立場にいる者としては、このタイミングで甘い言葉をかければ、いやらしく思われやしないかと気が気でない。必然的にぶっきら棒な言い方になってしまう。
 「アナタ、本当はアタシのこと馬鹿にしているでしょ?」
 「そんなことねえよ。さっきのアドバイスは、さすがだと思った」
 「そう?」
 「酒乱で、気が強くて、化粧も濃くて、俺が今まで会った中で最悪の女だけど。コーチとしては、そんなに悪くないと思うぜ」
 「コーチとして?」
 「アンタ、コーチを目指しているんだろ? ちょっと理屈っぽいけど、良いコーチになると思う」
 「子供のくせに、生意気……なんだから……」
 「モ、モニカ?」

 いつかと同じ光景を目の当たりにして、透はやってしまったと後悔した。
 「悪りぃ。俺、また、きつい言い方になったか? ごめんな?」
 今回は迷うことなく謝罪を入れてみたが、モニカは俯いたまま、一向に顔を上げようとはしなかった。
 透は急いでジーンズのポケットに手を突っ込み、彼女の涙を拭えそうなものを探した。言葉では無理でも、せめてフォローする気がある事だけでも分かってもらいたい。
 「えっと、何かねえかな……」
 以前、日本を出発する際に、奈緒にも泣かれたことがあった。涙で頬を濡らす彼女にハンカチの一つも差し出すことが出来なくて、ひどく情けない思いをしたにもかかわらず、いまだその学習効果はどこにも反映されていなかった。しかもその事に気付いたのは、ジーンズのポケットから洗濯機では洗い落とせなかったと思われるマーブル模様のペンキの塊が出てきた後である。
 ところが、学習能力の低い少年を不憫に思った神様が導いてくれたのか。つい、そう信じてしまう格好の“布きれ”が救急箱の中に入っていた。
 「あっ! これ、使えよ」
 「アナタって、本当にデリカシーがないのね」
 涙目のモニカが棘のある視線を容赦なく向けている。
 「これ、消毒用のガーゼじゃない!」
 「でも、ほら、柔らかいし、きれいだし」
 空港で奈緒に渡し損ねたポケットティッシュの残骸よりは何倍も柔らかくて清潔だと思って勧めてみたが、モニカとって滅菌ガーゼは屈辱的な代用品のようである。
 「良いこと? こういう時の男の役目は決まっているの」
 「へっ?」
 突如として、頭の中が真っ白になった。アメリカ全土にガールフレンドのいるジャンならば、両腕を広げて歓迎するのだろうが、日本男児の中でも奥手の部類に入る透にとって、それは心臓が破裂するかと思うほど衝撃的な出来事だった。
 今度は誰かに胸を貸してやれるほど強い男になれ、と教えられた。そうなりたいとも思っている。だが、十八歳の女性が相手では、まるで話が違ってくる。
 赤茶けた彼女の髪は見た目よりしなやかで、華奢な体は思いのほか豊かであった。今までに経験した事のない温かくて柔らかな感触が、自分の胸を通して伝わってくる。
 心臓の音がドクンと響いた。一度大きく波打って、その後はドクドクと小刻みに初体験の感動を訴えている。
 嬉しいような、困ったような、このままでいたいような。複雑に揺れる感情の波間に、なぜか罪悪感が顔を出す。
 唐突に、奈緒の顔が浮かんだ。その昔、クラスメートの高木が、奈緒の胸は平均よりもある方だと話していた。モヤシ体型のモニカでもその柔らかさを実感出来るのであれば、奈緒を抱き締めたら、これ以上の感動が待っているかもしれない。
 高木が女子の胸に異様な執着を見せていた気持ちが、今更ながら分かった気がした。無限の柔らかさを想像させる摩訶不思議な物体が目の前にぶら下がっていれば、探求したくなるのが人情だ。

 良からぬ想像をして、ニヤついているところを見られたのか。突然、モニカが透を突き飛ばし、侮蔑のこもった目で睨み付けてきた。
 「やっぱり、お子様じゃ役不足ね」
 「な、なに!?」
 「だって信号機みたいに止まったままで、話しかけてもくれないし」
 どうやら侮蔑の意味するところは、透の対応の稚拙さにあるようだ。
 確かにモニカの方が背は高い。その相手に胸を貸そうとしても、涙に濡れた顔は透の肩先に来てしまう。胸ではなく、肩を貸している状態だ。しかも髪を撫でるわけでもなく、優しい言葉をかけるでもなく、ずっと女性の胸について不埒な妄想をしながら硬直していたのだから、非難を受けても仕方がない。
 一方的に抱きつかれ、文句を言われ、理不尽さを感じなくもないが、その不満は後から付け加えられた一言ですぐに解消された。
 「でも、嬉しかったわ。ありがとう」
 プライドが高くて、わがままなお嬢様から出た感謝の言葉は、これまでの因縁を容易に吹き飛ばす。
 「アタシね、本当はトオルとジャンが羨ましかったんだと思う」
 「なんで?」
 「口に出さなくても、お互いを信じ合っている。そういう絆が、アタシにはないから。
 きっとコーチになっても、生徒と信頼関係を築くなんて無理だろうなって思ったら、自信が持てなくなったの。将来にも、自分自身にも」
 「自信がないから、コートにも入れないのか?」
 「分からない。ただ入ろうとすると、足がすくむの。自分でも馬鹿げていると思うけど、怖くて……」
 これが彼女の本心なのだろう。遠目にコートを捉えるモニカは、ひどく心細げな目をしている。
 彼女の姿が、日本にいるライバルの遥希と重なった。
 幼い頃から周囲に期待されて育ったせいで、知らず知らずのうちに弱い部分を誰にも見せられなくなった。決して外へは出せないが、自身の目にはハッキリと映る自分の弱さ。それを隠しているうちに、ますます自分自身を追い込んでしまう。
 遥希も時々こういう目をしていた。

 胸を貸すには失敗したが、透は今の精一杯を言葉にして伝えた。
 「だったらさ、気が向いた時で良いから、俺の練習を見てくれよ。サーブだけなら、コートに入らなくたって、ベースラインからでも指導できるだろ?」
 「そんなの、みっともないわ」
 「そうかもしれないけど、何もしないでいるよりはマシだと思うぜ」
 「同じことよ」
 「同じじゃない。少しだけど近付いている。アンタの夢に向かって。
 好きなら上手く出来なくても、やれるところから始めれば良いじゃねえか」
 「アナタって、本当に生意気ね。第一、こんなに口答えばかりする生徒、御免だわ」
 「駄目か?」
 「考えておくわ」
 やはり時間が必要なのだろう。
 裏庭を去っていく後姿を見送りながら、透は彼女がコートへ戻って来る日を待とうと思った。罪悪感からでも、責任感からでもなく、同じ仲間として。

 ところが、翌日、透がジャックストリート・コートに顔を出すと、リニューアルされた丸太の上で、ジャンと並んで腕組みするモニカの姿があった。いつもの短いスカートとヒールではなく、上品な色合いで統一されたテニスウエアとテニスシューズを着用し、髪もきちんと動き易いように束ねている。それに合わせて化粧も控えめで、昨日までの彼女とは別人に見えた。
 「コーチテストに合格するまで、ここでコーチングの勉強をすることにしたの。よろしくね」
 「モニカ、なんで? 昨日は『考えておく』って、言わなかったか?」
 昨日の心細げな眼差しは何だったのか。傷つき易い優等生はどこへ行ったのか。
 「家に帰って考えてみたら、こうなったの。ベースラインから指導するのは格好悪いから、丸太の上から指示を出させてもらうわ。
 まず、トオルは昨日のサーブ練習からね。コースはレシーバーの正面を狙ったボディも増やして、各コース二百本ずつ。合計千二百本。
 それからレイとビーには新しいメニューを作ってきたから、目を通しておいて。あとブレッドは……」
 「ちょ、ちょっとタンマ! なんで、お前がリーダー面して仕切っているんだよ? だいたい、そこへ上がれるのはジャンだけだ」
 どうも雲行きがおかしい。嫌な予感がする。
 「アタシ、ジャンの秘書になったの」
 鼻の下をこれでもかというほど伸ばしたジャンが、隣で満足げに頷いた。クリスマス以降、彼のこんな笑顔は初めてだ。
 「モニカの言う通りだ。今日から彼女は俺の専属秘書になってもらう」
 「秘書?」
 「要するに、他のメンバーとは別格ってことだ。俺は忙しくてお前等の面倒まで見切れねえから、彼女に雑用……じゃなかった、指導を頼んだ。
 今日から彼女の命令は、即ち、俺の命令だと思え」
 「ジャン? アンタいま、俺達の指導を雑用って言ったよな? そもそも、アンタが忙しくしているところなんて、女との揉め事以外で見たことねえんだけど?」
 「やかましい! リーダー命令だ。お前等は、大人しく彼女の教材になっていろ」
 「勝手なこと言うな! つうか、そのエロい顔はなんだ? アンタ、下心、大アリだろ?」
 鋭い指摘に目が泳ぎ始めたジャンに代わって、モニカが毅然とした態度でやり返す。
 「あら、勝手じゃないわよ。昨日、ナンバー2のアナタが頼んできたんじゃない? 『俺にテニスを教えてください』って」
 「あれは、そういう意味じゃなくて……」
 「口答えしないの。さっさとサーブ練習を始めなさい。ジャンを目標にするんでしょう?」
 人一倍傷つき易い優等生は、その分、立ち直りも早いらしい。
 結局、ジャンに加えて口うるさい指導者をもう一人増やす結果となり、透は「女は弱いけれども、強かな生き物である」という事実を、遅ればせながら経験値の低い胸に刻むのであった。






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