第2話 新たな道 

 夏休みも終わりに近づいたある日、透のもとに一通の手紙が届いた。差出人は日本にいる奈緒からだ。

 お元気ですか?
 東京は毎日30℃を超える猛暑で、みんな、ぐったりしています。
 テニス部の夏の大会は、関東でベスト8、全国では二回戦敗退でした。
 学校じゅうが日高コーチ在学以来の快挙だと盛り上がっていますが、テニス部の人たちはあんまり嬉しくなさそうです。
 たぶん、もっと上位を目指していたんだと思います。
 ハルキ君も、なんだか元気がないみたい。
 トオルがいないせいもあるのかな……?
 アメリカも、夏はやっぱり暑いよね。
 日本から送って欲しいものがあったら言ってね。
 国際スピード郵便というのがあって、カリフォルニアまで2、3日で届くんだって。すごいよね!
 それでは、またお便りします。
 体に気をつけて。

 相変わらずだ、と透は思った。初めてのエアメールで、それなりの時間と労力を費やしたであろうに、そこに綴られているのは透の関心事ばかりである。
 いつも我が身より相手を気づかう彼女。その変わらぬ優しさに、愛おしさと懐かしさが同時に込み上げる。
 そろそろ自分も便りをしなければ。愛おしさよりも懐かしさのほうが色濃くなる前に――。

 日本を発つ前、彼女と交わした約束は、いまだ果たせぬままだった。決してなおざりにするつもりはなかったが、落ち着いてからと思っているうちに、早くも一ヶ月が過ぎていた。
 そもそも文字を書くことからして面倒な人間は、手紙を書こうと決意するにも時間がかかる。
 しかも筆不精の腰をさらに重たくしている理由がもうひとつ。肝心の絵はがきがないのである。
 一目で西海岸だと分かるものなら、いくらもある。ここはゴールデンゲート・ブリッジやフィッシャーマンズワーフなど、サンフランシスコの観光地からもそう遠くない。
 しかし彼女のリクエストは透の住んでいる街の絵はがきで、これが“ありそうでないもの”の典型といおうか。いや、あるか、ないかで言えば、あるのだが、それらは何の変哲もない役所の外観や、禿げた市長の銅像など、とても生涯初のエアメールを心待ちにしている相手に宛てて送れるような代物ではないのだ。
 唯一まともに見えたのが、先日開催された小型犬コンテストで優勝を飾り一躍有名になった「ウィッキー君」というモデル犬の絵はがきであったが、これがまたウケ狙いとしか思えぬほど気の毒な面構えをしている。
 ただのブサイク犬なら「可愛い!」と言ってもらえるミラクルが起きるかもしれない。
 だが、彼の場合はブサイクな上に泣き顔なのだ。万が一、野生に戻った場合、一発で喰われるか、同じ群れの仲間からパシリ扱いされそうな面なのだ。
 ただでさえ空港で恥ずかしい思いをしたというのに、このタイミングでパシリ顔の「ウィッキー君」を自分の住んでいる街の絵はがきとして彼女に送る度胸はない。

 ふうっと、透の口から溜め息が漏れた。約束を果たすまでの遠い道のりもさることながら、日本から送られてきた便りに関しても。
 あの光陵テニス部が全国大会では上位に食い込むことなく敗退した。透の抜けた穴埋めに二年生の中西をレギュラーに戻して、都大会優勝時のベストメンバーで臨んだはずなのに。
 全国大会とは、それほどレベルの高いものなのか。
 透はいまだ足を踏み入れたことのない大舞台を想像し、焦りを覚えた。
 嫌な焦りであった。後ろから追い立てられるのではなく、いまいる場所から少しずつ後退していくような。
 実際、後退しているのかもしれない。
 透の通うイースト・パタソーンズ・ジュニア・ハイスクールは、学問はもちろん、スポーツも盛んな学校だと聞いていた。
 ところが、当然、毎日あるものと思っていたテニス部の練習日は週に三日しかない上に、その内容もいい加減なものだった。
 コーチのアップルガースの話によると、同校のテニス部はフリースタイル制を取っており ――彼がいうには、アメリカではこのスタイルが主流だそうだが―― 部員たちは個々のペースで活動している。
 したがって部内では先輩後輩の格づけもなく、球拾いもない代わりに、誰かに技術や知識を教わることもない。
 部員が頼りにできるのは入部時にコーチから渡された練習メニューだけで、それも「個人のレベルに合わせて特別に作成した」と恩着せがましく言われたわりには、素人でも思いつきそうなお粗末な内容だ。
 おかしな点は、それだけではない。
 月に一度行われる校内試合も各部員が所属するランク内でしか対戦させてもらえず、その戦績によって所属が変わることもない。
 現に、透は前回の校内試合で一度も負けなしの完全優勝を果たしたにもかかわらず、いまだBランクのままである。
 そもそも、透がそこに入れられた理由も定かではなかった。体力測定も試合もなく、入部の意思を示した翌日にはランクを告げられた。
 こんな生活を続けていては、今までの苦労が無駄になる。生温い環境に危機感を抱いた透は、日本にいる滝澤にメールでアドバイスを受けながら自分でも練習項目を追加して、どうにかに現状維持に努めているが、それでも昔よりレベルダウンしたような気がしてならない。

 「あら、彼女に振られたの? 難しい顔して?」
 悶々とする透の意識を呼び戻したのは、同じ家に住む美容師の卵のディナだった。
 透はいま自宅のリビングで彼女に髪をカットしてもらっている最中だ。
 ヘアカットのスキルアップのために練習台を必要とするディナと、日本への帰国を夢見て地道に節約生活を続ける透。十五人の大家族の中でも、何かと気の合う二人であった。
 「彼女なんていねえし、作ったこともねえよ」
 「嘘!? もしかして、トオルってバージン?」
 昼間から刺激的な単語を聞かされ、透は椅子から転げ落ちそうになった。
 ディナはアメリカ人のオープンな気質に加え、開けっぴろげな性格がプラスされ、普通なら夜まで控える話題でも白昼堂々ぶつけてくる。
 透はその裏表のない性格が嫌いではなかったが、十二歳の少年では対応し切れない時もある。
 「バージンって……俺、まだ十二なんだけど。つか、男なんだけど?」
 「英語ではね、男も女も“まだ”ならバージンよ。
 あと、ノンアルコールって意味もあるわ。トオルは未成年だから、覚えておくと便利かもよ」
 「ソフトドリンクじゃ通用しねえのか?」
 「バージンはアルコールを抜いて欲しい時に使うのよ。例えばカクテルバーで『バージン・チチ』ってオーダーすると、ウォッカを抜いたチチが出てくるわ」
 さすがネイティブだけあって、ディナは学校では教えてくれない便利な単語を教えてくれる。ろくな準備もなしに海外生活を始めた透には、彼女から教わる生きた英語が役に立つ。
 感心して頷く透に、ディナが意味ありげな笑みを傾ける。
 「で、トオルは“まだ”なんだ?」
 出来ることなら、その話題から離れて欲しかった。だが彼女の関心はその一点にあるらしく、カットの練習台になって欲しいと頼んだ時よりも意欲的な視線が、手元のハサミを通り越し、透の横顔を捉えている。
 「わ、悪りぃかよ?」
 「う〜ん、悪くはないけど、遅いよね」
 「マジで?」
 国際色豊かな学生たちと暮らし始めて一ヶ月。彼等と話していると、しばしば日本人とのギャップを感じることがある。ディナの場合はとくに。
 幼い頃から化粧やファッションに興味を持ち、高校卒業と同時にメークアップアーティストを志して故郷のオレゴンから出てきた彼女は、同世代の友達よりも何倍も大人びた感覚を持っている。
 しかしその点を割り引いたとしても、やはり「遅い」の言葉は胸に突き刺さる。テニスのみならず、男としても後れを取っているとは。
 切り揃えた髪のブローを終えても、ディナはまだお気に入りの話題から離れようとはしなかった。
 「お姉さんがバージンの汚名、取り払ってあげようか?」
 「な、な、なに言ってんだよ!? 無理、無理、絶対無理! ディナとなんて、あり得ねえ」
 姉御肌で、何かと面倒見の良いディナ。彼女と関係を結ぶなど、透にとっては近親相姦に等しい行為である。
 ところが、あからさまに拒絶したのがマズかったのか。それまで笑みを浮かべていたディナの口元がへの字に曲がった。
 「アタシって、そんなに魅力ない?」
 「いや、そうじゃないけど、ディナは姉貴みたいなもんだし、女には見えねえっつうか……」
 普段は陽気な彼女がいつになく暗い顔を見せている。これは乙女心を傷つけたと反省し、慌ててフォローに回ったが、事態は悪くなる一方だ。
 「あ、いや、女らしくないとか、そういう意味じゃなくてさ。男気があるっていうか、頼り甲斐があるっていうか。
 ああ、あと、肝も据わってるよな? 自分の夢を叶えるために、ひとりでオレゴンから出てきたんだから」
 男には褒め言葉になるもしれないが、異性に対するフォローとしては最低だった。肝の太さを褒められて喜ぶ女はまずいない。
 己の語彙能力の乏しさを痛感しつつ、思いつく限りの賛辞を述べてみる。
 「あと、あと、ディナが作るカレー! あれはメチャメチャ美味かった!
 それから、えっと……」
 「もう良いよ。実はね、アタシ、彼氏に振られちゃったんだ」
 「彼氏って、オレゴンの?」
 「ううん、この家」
 「へっ? この家……ってことは、俺の知っている奴?」
 「ジョセッピ」
 「ジョセッピ」とは、透の家に住む留学生の一人で、ディナと同い年のイタリア人の名前である。本名は「ジョセフ何某」と覚える気も起きないほど長いため、皆から「ジョセッピ」の愛称で呼ばれている。
 同じ家に住んでいながら、二人が恋仲だとは気づかなかった。しかもジョセッピがこの家にやって来たのは、透とほぼ同時期だ。
 出会いから別れまでを一ヶ月のうちに済ませるなんて。自身の恋心に気づくまでに四ヶ月もかかった挙句、結局、告白できなかったお子様とは時間の使い方からして違うらしい。
 唖然とする透の視線を避けるようにして、ディナが話を続けた。
 「お互い本気ってわけじゃなかったのよ。
 彼、ギリシャ彫刻みたいにきれいな顔立ちしているでしょ? きっとモテると思ったし」
 「他に付き合っている奴がいたのか?」
 「違うの」
 「じゃあ、なんで?」
 「よく分からないの。九月になるからって、それしか言わないの」
 ひょっとしたらジョセッピは故郷の彼女と二股をかけていて、九月になるとその彼女がアメリカに来るのかもしれない。それ以外に九月で別れる理由の説明がつかない。
 「彼、優しいからハッキリ言わないけど、きっとアタシと付き合ってみてがっかりしたのよ」
 「そんなことねえよ。ディナほどいい奴……じゃなくて、いい女! そう、そう、いい女は滅多にいねえし」
 「ありがとう。トオルに話したらスッキリしたわ。
 いつまでもウジウジするなんて、アタシらしくないわよね。さっさと次を探さなきゃ」
 強気な言葉とは裏腹に、その口調には覇気がない。透がやっとの思いで捻り出した「いい女」も慰めにはならかったと見えて、彼女は不自然な笑顔を残して去っていった。
 一つ屋根の下で多くの学生が暮らしていると、今のようなトラブルがあっても不思議ではない。
 透は改めて母親の取った行動は浅はかだったと結論づけてから、ふたたび意識を手紙に戻した。
 光陵テニス部が敗退した事実と、いま自分が置かれている状況を冷静に考える。
 このままでは、たとえ帰国できたとしても、全国大会どころかレギュラーの座も危ういかもしれない。
 一刻も早く今のぬるま湯から脱却しなくては、焦っているだけでは何の解決にもならない。
 透は手早く後片づけを済ませると、テニス部のキャプテン・ケニーに電話を入れた。
 今日は部活動が休みの日だが、そんなことは関係ない。練習は毎日行なうのが基本である。
 そして、せっかく練習するのであれば、自分より強い相手と打ち合うほうが多くのものを吸収できる。
 その点、ケニーは二年生にしてキャプテンを務めるほどの実力の持ち主で、当然のことながらAランクに所属している。
 仮に断られたとしても、自分から声をかけることで何かしらの収穫はあるはずだ。

 一時間後、透が校門の前で待っていると、ケニーがやって来た。
 「誘ってくれて、ありがとう。実は、俺も練習相手を探していたんだ」
 「それなら良かったです。俺とはランクが違うから、断られるかと思っていました」
 「断るなんて、とんでもない。第一、俺の目から見れば、トオルはAランクでも充分通用すると思う」
 これを受けて、透は予ねてからの疑問を投げかけた。
 「うちの部は何を基準にしてランクを決めているんですか?」
 「ミスター・アップルガースが決めているんだよ。トオルのランクも、コーチが決めただろう?」
 「ええ、俺がコートに立っている姿を一度も見ずに、Bランクに入れと。
 おかしいと思いませんか? 普通は試合とか、せめて体力測定だけでもしますよね?
 何の根拠もなしにコーチから一方的にランク分けされるのが、俺には納得できません。
 どうして誰も文句を言わないんですか?」
 「いや、俺はここのやり方しか知らないから、とくに疑問は持たなかった」
 驚いたように目を瞬かせるケニー。彼の言葉に嘘はないだろう。
 イースト・パタソーンズのテニス部しか知らずに育ってきた部員であれば、アップルガースのやり方がスタンダードで、他校も似たようなものだと思う。
 光陵テニス部を経験してきた透だからこそ、数々の矛盾に気づくのだ。
 不可解なランク分けに始まり、お粗末な練習メニューと、少なすぎる活動日。こんな状態で地区大会を勝ち抜けるとは思えない。
 「トオル? もし良かったら、君の話をもっと詳しく聞かせて欲しいのだけど。このあと、空いているかい?」
 唯一の救いはケニーがキャプテンであることか。彼は後輩からの苦言にも耳を傾けようとしてくれている。
 透が頷くと、ケニーは街一番のテニスショップに案内すると言って、嬉しそうに顔を綻ばせた。

 学校のテニスコートで三時間ほどみっちり練習したあとで、二人はダウンタウンにあるテニスショップに向かった。
 その道すがら、透は光陵テニス部で行われていた練習内容や、バリュエーションの仕組みなど、これまでに得た知識を出来るだけ分かりやすくケニーに話した。
 とくにキャプテンの役割についてはケニーから積極的に尋ねてきたので、“必要な範囲”で成田の話を聞かせた。
 無論、範囲から除外されたのは、異常な甘党であることと、試合になると幼児化する特異な性格についてである。どちらも成田の魅力と言えなくもないが、こればかりは意図して出来るものではない。
 「キャプテンが練習メニューの作成や試合のオーダーまで関わっているなんて驚きだな」
 「俺のいたテニス部では大会の前後には必ずミーティングがあって、試合の打ち合わせをしたり、練習メニューの提案をしたり、皆がもっと積極的に部の運営に関わっていましたよ」
 「すごいチームにいたんだな、トオルは……」
 確かにそうかもしれない。当時はあまり自覚がなかったが、こうして外の世界に身を置くと、どれだけ恵まれた環境であったか、よく分かる。
 一通り話を聞いてから、ケニーが真剣な面持ちで問いかけた。
 「トオルは、うちの部をどう思う?」
 「このままじゃ、優勝なんて無理だと思います」
 「優勝? 地区大会で優勝するつもりなのかい?」
 「えっ? 優勝するつもりじゃないんですか?」
 二人が同時に目を丸くした。ケニーは透が優勝を目指していると聞いて驚き、透はキャプテンのケニーにそのつもりがないことに驚いた。
 どうりで話が合わないはずである。互いの目標設定からして違っているのだから。
 だがしかし、そうなると新たな疑問が生まれる。
 「じゃあ、キャプテンはどうしてそんなに一生懸命なんですか? 今日だって、休みなのにわざわざ練習に来なくても……」
 透がこの疑問を口にした時、二人はちょうどテニスショップの前にいた。
 「続きは中で話そうか?」

 ケニーに連れられて入った店は、『ロコ』という名の五階建てのテニスショップであった。
 この街で一番というだけあって、店内は広々としていて品揃えも豊富である。
 ショッピングモールと見紛うほどの広い通路。商品の陳列も分かりやすく、仕入れにも偏りがない。
 しかも在庫がない時のために、希望の品がその場で調べられるよう、各メーカーのカタログと検索用のパソコンまで設置されている。
 透が何より気に入ったのは、店の裏手にある壁打ちスペースだ。ラケットの購入を希望する客は、店内で試し打ちも出来るし、一週間のレンタルも可能である。
 おまけに、こうしたきめ細やかなサービスは高額商品に限った話かと思えば、レジ前のもっとも目立つ場所には「ユーズドボール」が山積みにされている。
 テニスクラブやホテルなどの施設から使用済みのテニスボールを多量に引き取り、学生の練習用にニ十個1ドルという破格値で販売しているのである。
 「ユーズド(=中古品)」と言っても、ほとんど新品と変わりがないため、透のような貧乏学生には非常にありがたいご奉仕品だ。
 ここの店長はよほどの商売上手か、テニスに特別な愛情を持っているか。あるいは、その両方かもしれない。

 「一階はテニス用品、二階はウエアを販売していて、三階はテニス関連のビデオやDVDがレンタル出来るんだ。プロの選手の試合なら、大抵のものは置いてあるんじゃないかな」
 店内を案内しながら、ケニーが透を四階へ連れていった。
 そこは休憩所を兼ねたカフェになっており、店と隣接するテニスクラブのレストハウスとしても機能している。
 ケニーはこの店の常連らしく、カフェにいた店長と親しげに挨拶を交わしたあとで、透にも紹介してくれた。
 「ああ、トオル・マジマ! 君がマジマ・ジュニアだね!」
 ハウザーと紹介された店長は、そう言っていきなり透を抱き寄せた。
 母親の話していたアメリカの常識とされる「ハグハグ」はまんざら嘘でもないのか、店長は初対面であるにもかかわらず、やけに親しげで、しかも聞き取れないほどの早口で話しかけてくる。
 その身振りと視線から察するに、どうやら彼は透の背中のラケットに興味があるようだ。
 「これは、あの真嶋教授が選手時代に使っていたラケットだろう? R.MAJIMAって、ほら、ここ!」
 またしても龍之介の信者と出くわした。龍之介に好意を持つ者は息子にとっての敵だということを、いずれこの街の全住民に知らしめてやらねばなるまい。
 透が人知れず誓いを立てていると、ハウザーが満面の笑みを携え、手もみでもしそうな腰の低さで擦り寄ってきた。
 「ねえ、ジュニア。このラケットを私に譲る気はないかい?」
 「はぁ?」
 「真嶋教授はテニス界、いや、スポーツ界に革命を起こした天才だからね。ずっと憧れていたんだ。駄目かな?」
 息子の神経を逆撫でするとも知らずに、ハウザーはうっとりとした表情で美辞麗句を並べ立てている。
 「このラケットにどんだけ価値があるかは知んねえけど、今は俺のだ。初対面のアンタにくれてやる義理はねえよ」
 自分でもきつい物言いだと分かっているが、龍之介を褒めそやす態度がどうにも気に入らない。
 「じゃあ、千ドルでどう?」
 千ドルと言えば、日本円にして約十万円になる。不覚にも、ほんの一瞬だが大金に目が眩んだ。
 十万円もあれば、ラケットもシューズも上等な品物が買える上におつりが来る。決して悪い話ではない。
 しかしその誘惑を振り切ると、透は改めて決意を固めた。
 確かにもとは龍之介のラケットだが、いまは違う。透自身の思い出を含んだ大切な宝物となっている。
 岐阜の山奥で自由奔放に駆け回っていた頃の思い出だけでなく、光陵テニス部での汗と涙にまみれた思い出も。
 一日も早くレギュラーになりたくて、来る日も来る日も振り続けた。村主、京極、藤原、遥希、唐沢と、手強い選手たちとの戦いをともに潜り抜けてきた唯一無二の相棒だ。
 人に誇れるような華やか思い出はないけれど、それだけに思い入れも強い。
 そんな大事なラケットを、いかに大金を積まれようとも手放してはならない。
 「ハウザー、申し訳ない。けど、このラケットは俺にとっても宝物なんだ」
 光陵テニス部で過ごした日々をうまく英語で言い表すことは出来なかったが、先ほどよりも丁寧な言い方をしたので、想いは伝わったはずである。
 するとハウザーは残念そうに肩をすぼめながらも、
 「オーケー、今回は諦めるよ。でも気が変わったら、いつでもおいで。五千ドルで引き取るからさ」と言い残して去っていった。
 「えっ、五千ドル!?」
 いきなり五倍の金額を提示され、透は思わず身を乗り出した。
 思い出は金では買えないが、五千ドルなら売り飛ばしても良いのではないか。
 五千ドルと言えば、約五十万円。いかに大切な思い出であろうと、その金額の前では色褪せてしまう。
 しかし当のハウザーは前のめりになった透を置き去りにして、さっさとスタッフルームへ引き上げていった。
 商売上手な店長は、最初からレア物のラケットを千ドルで買い取れるとは思っていなかったのだ。
 去り際に客が食いつきそうな餌をばら撒き、次の商談に繋げる。駆け引きにおいては、長年ダウンタウンの一等地で商いを続けてきた店長のほうが一枚上手であった。
 「くそっ! タヌキオヤジめ!」
 類は友を呼ぶとは、このことだ。愛想の良い接客態度にすっかり騙されたが、ハウザーの狡猾さは父・龍之介に負けずとも劣らない。

 カフェで食事をしながらも、透の頭の中にはまだ掴み損ねたドル紙幣が飛び交っていた。
 あのタヌキオヤジのことだから、次回は安い金額を提示するに決まっている。それを見越していくらか吹っかけたいところだが、さすがにイノシシと戦闘をまみえた年代物のラケットを五千ドルより高値で切り出す勇気はない。
 さて、どうやってあのタヌキオヤジの口から「五千ドル」と言わせるか――。
 「トオルはお父さんが苦手なのかい?」
 ケニーが温かな、どこかキラキラとした輝きさえ感じる眼差しで透を見つめている。人の良い彼は、透が父親の名前を持ち出されて気分を害したと思っているらしい。
 さすがに頭の中が札束だらけとも言えず、透は「ええ、まあ……」と曖昧な返事でごまかした。
 ところがその態度が彼には悩める仔羊と映ったようで、温かな眼差しがより一層慈悲深いものへと変化した。
 「俺にもそういう時期があったよ。反抗期というのかな。父親を追い越したいと思うあまり、つい乱暴な言葉を使ったり、背伸びをしていた時期がね。
 トオルもあと二、三年もすれば分かるよ。息子にとって父親は永遠のライバルであり、また師でもあるのさ」
 誰もが通る道だと言いたげに、目を細めるケ二ー。いかにも育ちの良さそうな彼に、真嶋家の内情を明かす気にはなれなかった。
 当の本人ですら、一過性の反抗期ならどんなに良いかと願っている。
 何しろ、血を見る寸前の乱闘が親子喧嘩として日々繰り返される家庭である。
 説教の代わりに息子に躊躇なく木刀を振り下ろす父親と、ラケットで応戦しながらも、あわよくば親父が息絶えてくれないかと念じる息子。
 これを反抗期と呼べるか。少なくとも、懐かしそうに目を細めて振り返る日は永遠に来ないだろう。
 人種の違い以上の隔たりを感じる透とは対照的に、ケニーはいまだ慈愛に満ちた光をその純粋な瞳に宿している。
 「真嶋教授の息子と言われて煩わしい時もあるかもしれないけど、いつかきっと偉大なお父さんに感謝する日が来るよ。
 俺だって君のお父さんには感謝している。彼がいなければ、こうしてトオルと出会うこともなかったんだから」
 あくまでも後輩のためを思って助言を続ける彼は、人を疑うとか、憎むなどの感情とは無縁のまま過ごしてきたに違いない。
 気まずくなった透は、先ほどの疑問を投げかけた。
 「あの、キャプテンは何のために練習を続けているんですか? 地区大会だって、優勝を望まなければ、今のままでも充分じゃないですか」
 その言葉を待っていたかのように、ケニーが頷いた。
 「たぶん、自信がなかったんだと思う。人前で優勝を目指すと断言できる勇気もね。
 でも期待のルーキーと一緒なら、もっと先まで進めるような気がするよ」
 「それじゃあ……」
 「ああ。今日、トオルと話をしてよく分かった。俺も目指すところは君と同じだ。
 うちのテニス部を強くするために協力してくれるかい?」
 断る理由はなかった。何事にも誠実に向き合うケニーとなら、多少の困難も乗り越えていける。
 立派な設備、頼もしい先輩、経験豊富なコーチと、何でも揃っていた光陵テニス部と比べれば問題は山積みだが、彼となら苦労しながらでも上手くやっていけそうな気がした。
 地区大会優勝を目指して共に歩もうと、二人が選んだ新たな道。それがすぐに別れてしまうとは、この時の透には思いも寄らないことだった。






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