第22話 グラデュエーション

 BMIを後にした透は、窮屈な服装のままジャックストリート・コートへ向かった。前もってジャンからは、今日は大事な「儀式」があるので、各自、用事が済み次第集まるように、と言い渡されていた。
 儀式の詳細は不明だが、このタイミングで彼の怒りを買うことだけは何としても避けねばならない。透にとって、高校生を相手に掴んだ栄えある一勝よりも、リーダーが機嫌を損ねる前にストリートコートに滑り込めるか、否かの方が、遥かに重大な関心事であった。
 クリスマスの“丸太焼失事件”以降、ジャンの「俺を怒らせる三人」に対する取り締まりは一段と厳しくなっていた。
 仲間うちでトラブルが発生すれば、根拠もないのに真っ先に疑われ、「またお前等か」とどやされた。ヤンキー同士の喧嘩の原因も、挑戦者から巻き上げた戦利品が消えるのも、ジャンに覚えのない請求書の出処も。最初に睨まれるのは、事件を起こした三人だ。
 この上遅刻となれば、何を言われるか分からない。とにかく彼を怒らせないよう急がなければ。まったく気難しいリーダーを持つと、下の者は苦労する ―― と当人達は思っているのだが、実際、勘でかけられた容疑のうちの八割が的中するのだから、根拠がなくても疑われるのは当然の成り行きだった。

 透がコートに足を踏み入れた途端、爆笑の渦が沸き起こった。そして、その渦の中心にはビーがいた。
 「トオル、ついにイカレちまったのか? なんだ、そのダサすぎる格好は?」
 ピンク髪に白のTシャツ、それに七分丈の紺袴のビーと、ジャケットにネクタイを締めて、きちんと身なりを整えた透。どちらがダサい烙印を押されるかと言えば、透の方である。
 「うるさいなぁ。ちょっと用事があったんだよ。だいたいビー、お前だけには言われたくねえよ」
 「良いから、タイぐらい外せよ。せっかくの儀式が仮装パーティに変わっちまう」
 「そんなに可笑しいか?」
 「ああ、胃痙攣を起こしそうだ」
 家では好評だったウィリアム王子も、ここ、ジャックストリート・コートでは道化師扱いだ。
 金持ちよりも、強い者の方が尊敬される。テニスにも喧嘩にも不向きな服装では、笑いの種になるだけだ。
 皆からの嘲笑を受け、ふて腐れる透を哀れに思ったのか。珍しくモニカがフォローに回った。
 「あら、そうかしら? アタシは悪くないと思うけど?」
 普段は率先して憎まれ口を叩いているが、複数の人間が一人をからかう場面に遭遇すると、彼女は決まって一人の方の味方をする。過去の苦い経験から、どんな理由であっても、一人だけが責められる光景を見たくはないのだろう。
 「モニカ! こいつに惚れたんなら止めとけよ。トオルには写真の彼女がいるからな」
 「ビー! また勝手に俺の財布!」
 気付くのが遅かった。透が脱いだジャケットから財布を抜き取ったビーは、中から写真を取り出して、自慢げに見せびらかしている。
 「ほら、この彼女。ナオって言うんだぜ。可愛いだろ?」
 「なんでお前が自慢してんだよッ!? 早く返せ!」

 いつもの悪ふざけと知りつつ、近頃、透は奈緒の事でからかわれることが重荷になってきた。照れ臭いのもあるが、それとは別に、彼女でもない人間を「トオルの彼女」と呼ばれることに対して苦痛を感じる。
 二人の距離が縮まる過程で言われるなら、まんざらでもなかったと思う。だが、現実は日を追うごとに遠くなっていく。
 彼女と約束を交わした絵葉書は、白紙の状態で机の中で眠っている。
 嘘は吐きたくなかった。だからと言って、この現状を正直に書く気も起きなかった。
 時間が経つにつれ、確実に広がる二人の距離を埋める手立ても見つけられず、ただ毎日が慌しく過ぎていく。
 もう奈緒だって、忘れているだろう。約束したくせに一度も葉書をよこさず、連絡もしないでいる人間を、そんなに都合よく覚えている訳がない。
 微妙に揺れる男心を知ってか、知らずか、モニカがビーから写真を取り上げると、透の手元へ返してくれた。
 「アタシ、お子様の恋愛ごっこに興味ないの」
 メンバーの中でも少し年上のモニカは、こういう子供染みた騒ぎに便乗することはない。
 すると、それを聞いたジャンがどさくさに紛れてモニカを口説き始めた。
 「だったら、大人の男を紹介してやろうか? 飛びっきり上等なジェントルマンが、ここにいるんだが……」
 油断も隙もない連中ばかりである。
 「ジャン、そろそろ始めよう」
 暴走しがちなメンバーの中で、唯一、真面目なブレッドが「儀式」の進行を促した。

 ジャンが丸太の上に立つと、これまで好き勝手にしていたメンバー全員が手を止めて、リーダーの方へと向き直った。
 よほど大切な儀式だろうか。真顔になったジャンが、ブレッドを丸太の上に呼び寄せた。
 「今から、ブレッドのグラデュエーションを始める。準備が出来た奴からランク別に並べ。
 全力で、このクソ野郎を叩き出す。良いな?」
 リーダーの号令と共に、丸太の下から歓声が沸き上がる。
 グラデュエーションとは“卒業”の意味だが、一体、彼等は何をしようというのか。
 訳が分からず、透はレイに説明を求めた。
 「今日は、ブレッドの卒業式なんだよ」
 「卒業式?」
 「ああ。お袋さんの具合が悪くなって、ブレッドはもうここには来られない。だから、俺達で卒業式をやるんだ」
 話によると、ブレッドの母親はもともと病弱で、今までは母と子の二人で暮らしを支えていたのだが、彼女の病状が悪化した為に、ブレッドは不安定なアルバイト生活を辞めて稼ぎの良い定職に就かなくてはならなくなった。
 入院となれば、費用もそれなりにかかる。母子家庭の彼には、看病を頼める家族もいない。
 幸いジャンの口利きでホテルのベルデスクの就職が決まり、収入は安定するようになったが、職業柄、いつまでもヤンキーでいる訳にも行かず、時間的にも看病と仕事の両方をこなすだけで手一杯と考え、これを機にストリートコートを去る決心をしたという。
 挑戦者との試合に敗れ、ランク外に落ちて、コートから出ていく仲間はいる。特に四十位から五十位のメンバーは入れ替わりが激しく、別れのない日の方が珍しい。
 だが、また力を付けて戻って来られる彼等と違って、ブレッドの場合、もう二度とここへ足を踏み入れることはない。そうした止むに止まれぬ事情を抱えて去るメンバーには、ジャンが必ず「グラデュエーション」と称して送り出しているとの事だった。

 透は話を聞いているうちに、切なくなってきた。
 自分にとっては最後の砦のストリートコートが、ブレッドの置かれた立場では、留まることさえ許されない。ナンバー5の地位を常にキープするほどの力がありながら、ここが唯一それを発揮できる場所でありながら、彼は病気の母との暮らしを守るために出て行かなくてはならない。
 普段と変わらぬ笑顔で皆と接するブレッドを見ていると、初めて対戦した時のことを思い出す。
 周りが敵だらけのコートの中で、最初に透をプレイヤーとして認めてくれたのが、彼だった。
 「賞賛すべき小さな挑戦者」
 彼は、そう呼んでくれた。透が正式にメンバーに加わった後も、人の良い彼は何かと親切で、ジャンに怒られる回数を減らしてくれた。
 素行の悪いメンバーの中で、最も天罰とは遠いところにいるブレッドが、何故こんな目に遭わなければならないのか。よくある話だと割り切って送り出すには、心残りが多すぎる。
 恐らく頭の中の考えが表に出ていたのだろう。無言で佇む透の尻を、ビーが後ろから蹴飛ばした。
 「そんな湿っぽい顔をしてたら、ブレッドだって辛れえだろ?
 今日はあいつに『こんなところ、二度と来るか』と思わせる。それが残された俺達の役目だ。まずはナンバー2の仕事をきっちりして来やがれ!」
 背中を押されて、透はメンバーが実力順に並ぶ列に加わった。

 「グラデュエーション」は、ブレッド一人を相手に五十位から順に一球ずつ交代でラリーを続けるという、いたってシンプルなものだった。但し、一球でもミスがあれば、もう一度最初からやり直す。全員のボールを返球できた時点で、最後にリーダーのジャンがロブを上げ、それをブレッドがスマッシュで決めれば終了する。
 ナンバー2である透の役目は意外と重要で、ロブへの流れをスムーズに作れるよう、打ちやすい場所へ返してやらなければならない。
 コートに入るのが、こんなに辛いと感じたことはない。これがブレッドとの最後のプレーになるのかと思えば、当然の感情だ。
 しかしビーの言う通り、自分が暗い顔を見せてはいけない。気持ちを切り替えコートに入ると、透はブレッドからの返球を待った。

 集中して五十回も返球し続けるのは、体力的にも精神的にも疲れるはずだ。しかも一球ごとに相手が違う。それでもブレッドのボールの威力は、一向に衰えなかった。
 彼のパワーボールに苦戦した試合を思い出しながら、透は重い打球を絶好球へと変えて送り返した。
 「サンキュー、トオル!」
 ブレッドはそう言って微笑むと、リーダーへ最後のラリーとなるボールを返した。
 ジャンから放たれた最高のロブにして最後の贈り物がコート上空に舞い上がり、ブレッドの巨体がそれを追いかけていく。スマッシュの体勢に入る直前で袖口からチラリと見えた筋肉の塊は、テニスをする為に鍛えられたものだった。
 このままボールが永遠に落ちて来なければ良いのに。あるいはブレッドのイージーミスで、もう一度最初からラリーがやり直しになれば良い。その後も誰かがミスを連発して、このラリーがエンドレスになりはしないか。
 現実離れした願いを透が本気で神様に祈ろうとした瞬間、ガットの弾ける快音と共に、五十回続いたラリーが終わりを告げた。
 もう二度と、ブレッドと打ち合うことはない。豪快なスマッシュがコンクリートのコートの中を駆け抜けていった。
 「モニカ? そこのボールを、ブレッドに渡してやってくれ」
 コート脇で皆のラリーを見守っていたモニカに、ジャンが小声で指示を出す。いまだコートに入ることの出来ないモニカの為に、彼女にも活躍できる場を設けてやろうとしたのだろう。ジャンらしい気遣いだ。
 コートの端に転がるボールを拾い上げると、モニカが申し訳なさそうに呟いた。
 「ごめんなさい、ブレッド。ラリーに参加できなくて……」
 「ノー・プロブレム!」
 いつものブレッドの口癖だ。どんなに迷惑をかけられても、人の良い彼はこうして水に流してくれる。いつでも、誰に対しても。

 記念ボールがブレッドへ渡ったのを見届けてから、ジャンが次の催し物の合図を出した。それと同時に、メンバー全員に意地の悪い笑みが浮かぶ。
 粛々とした空気から一転して、いつもの騒々しさが復活した。
 各自がシャンパンのボトルを手にして、上半身の衣服を脱ぎ捨てていく。コートの各所で、ボトルがシェーカーのごとく上下に激しく振られる音がする。
 まさかと思っているうちに、コート内が白い泡で埋め尽くされた。ブレッドがボールを受け取って数秒も経たない間の出来事だ。
 まるで優勝を果たした野球チームが監督に向かってシャンパンをぶちまける“シャンパン・ファイト”を見ているようだった。
 五十人のメンバー全員から放出されるシャンパンの豪雨。しかし、どうも色がおかしい。
 黒いシャンパンなど、あっただろうか。青も黄色も、見たことがない。
 第一、柄の悪さを売りにする連中が、そんな小洒落た演出をするはずがない。
 透が目を凝らしてよく見てみると、案の定、彼等が手にしているのはシャンパンだけでなかった。
 コーラ、ペンキ、卵と、頭から絶対にかけられたくないと思う品々が、節操なくコートの中へ投げ込まれている。シャンパンとよく似た、いつまでも白さの残る泡の正体は腐った牛乳に違いない。凄まじい悪臭が何よりの証拠である。
 追い出される側の人間は、この豪雨をかいくぐってコートの外に脱出しなければならない。病気の母親のために断腸の思いで出て行く仲間に対して、あまりに酷い仕打ちである。
 先ほどビーが「こんなところ二度と来るかと思わせるのが、俺達の役目だ」と言ったのは、このヤンキー流シャンパン・ファイトを指しての事だった。

 標的となったブレッドは、健気にも、貰ったばかりの記念ボールをジャケットで庇いながら、メンバーから放出される悲惨な暴風雨を突破しようと必死で走り回っている。ここまでされたら、確かに二度と来るものかと思うだろう。
 透が助けに行こうか迷っていると、ブレッドの方から駆け寄ってきた。
 「トオル。最後に、これだけは伝えておきたくて……」
 すでに彼はペンキとコーラと悪臭漂う牛乳で、この世の物とは思えない、おぞましい色彩の粘液に包まれていた。その中で他の色とは混ざらずに黄色い水玉模様を作り出しているのは、単体でも充分ベタベタする卵の黄身だった。
 「ブレッド、何か俺に出来ることは?」
 「いや、そうじゃない。礼を言いに来たんだ。
 トオルと出会えて、本当に良かった。おかげで、俺は人として一番大切なものを思い出すことができた」
 話の最中にも、容赦なく降り注がれるシャンパンの雨、嵐。別れを惜しむ暇もない。
 最後だと言うのに、何かブレッドを勇気付ける言葉はないものか。
 無茶苦茶な暴風雨の中で思案する透の目に、更にとんでもない物を持ち出すジャンの姿が飛び込んできた。
 「ジャン、それ……消火器!?」
 「この日のために、何日も前から準備したんだ。覚悟しやがれ、クソ野郎!」
 丸太の上でいそいそと消火器のストッパーを外すジャンは、前々から欲しがっていたオモチャを手にした子供のようである。ああなっては、誰も彼を止められない。
 今までに無いことなのか、他のメンバーも消火器を見て慌てふためいている。コート内が蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
 「10、9、8、7……」
 発射前のカウントダウンがコート内に響く。
 シャンパンの泡ならともかく、あんな物をまともに喰らっては、堪ったものではない。話もそこそこに、透はブレットに付き添って出口へ急いだ。
 「俺は、トオルと同じコートでプレー出来たことを誇りに思っている」
 炭酸のほとばしる音と、靴底にへばり付く卵やペンキから発する粘着質な音と、メンバー達の悲鳴に近い叫び声の中を、ブレッドの太く逞しい声が響いてくる。邪心のない彼の声は、どんな騒音の中でも澄んで聞こえる。
 透はまだブレッドがすぐ側にいるにもかかわらず、その温もりのある声を懐かしく思った。
 「6、5、4……」
 丸太の上のカウントダウンは容赦なく進行し、残り三秒のところで二人はコートの出口に辿り着いた。
 「ありがとう、トオル」
 「俺の方こそ、ありがとう。ブレッド……」
 何か気の利いた言葉をかけなければならないのに、こういう時に限って浮かばない。礼を言うのが、やっとであった。
 「3、2、1……」
 「ゼロ!」の号令と共に、大量の白い泡の塊が丸太の上から落ちてきた。
 「……夢……諦めないで……」
 勢いよく噴出する泡の音に紛れて、懐かしい声が遠ざかっていく。結局、自分の夢を叶えられずに去っていくブレッドを、透はただ見送ることしか出来なかった。
 「二度と戻って来るんじゃねえぞ、クソ野郎!」
 丸太の上では消火器を振り回しながら、ジャンが大声で叫んでいた。
 今まで彼は、何人のメンバーをこうして送り出してきたのか。仲間に対して滅多な事では使わない「クソ野郎」のフレーズがやけに物悲しげに響き、そこで初めて透は、このメチャメチャな儀式が送り出す側の辛さを紛らわす為の精一杯の演出だったと気が付いた。

 ブレッドがコートを去ってから何時間経っても、誰一人として帰ろうとはしなかった。
 最もエンジン全開で儀式を仕切っていたジャンも、ブレッドの姿が見えなくなった途端、丸太の上に座りこみ、身じろぎもしなかった。遠くの景色を眺めるポーズを取っているが、その目に映るのはブレッドとの思い出ばかりだろう。
 メンバーの中では最も日の浅い透でさえ辛いのだから、長い付き合いのジャンはその何倍も応えているに違いない。透がここで拾われた時と同じような思い出が、ブレットとジャンの間にも存在するはずだ。
 透は丸太に寄りかかると、ポケットからハーモニカを取り出した。まだ上手く演奏できないが、少しくらいの慰めになればと思い、ジャンの好きな『アメージング・グレイス』を吹いて聴かせた。
 何度も間違えたので、上から怒鳴られるかと思ったが、今日はそんな元気もないらしい。
 「俺がここから出ていく時も、このぐらい悲しんでくれよな?」
 いつもの悪態を期待して上に向かって叫んでみたが、返ってきたのは予想に反して、やけに落ち着いた大人の声だった。
 「上がってくるか?」

 特等席から眺める夜景は、いつも通りの眩い光を闇夜に放っていた。ただ、それを誰よりも楽しみにしているはずの主が、今夜はどこか遠い所を見つめたまま、微笑むことも、酒の肴にすることも控えていた。
 「お前とモニカは、本来あるべき場所へ、必ず帰してやるからな」
 大して抑揚もつけずに言われた言葉が、透の胸を小さく揺らす。
 ジャンはブレッドとの別れを寂しがっているのではない。今日のような形で彼を卒業させてしまった自分を責めている。仲間の為に何もしてやれなかった己の非力を悔やんでいるのだ。
 誰にも見つからない場所で。夜景を眺めるふりをして。
 透はジャンを慰めようと意気込んで登ってきた自分を愚かしく思った。しかし人知れず己を責める彼の姿に胸を打たれる一方で、腹立たしくもあった。
 「そうやって人の事ばっか考えてないで、ジャンこそ、ここから卒業したらどうなんだ?」
 本心ではずっと留まって欲しいと思うが、ジャンの将来を考えれば、こんな所にいつまでも居て良いわけがない。彼なら、いくらでも力を発揮できる場があるはずだ。
 オレンジ色の光に目をやりながら、ジャンが静かに微笑んだ。夢路の途中にいるような穏やかな笑みは、丸太の下では一時たりとも見せない顔である。
 「俺には、夢があるからな」
 「ジャンの夢?」
 最強と呼ばれる男の夢に、透はひどく惹きつけられた。
 「力のある選手が正当な評価を受けて、世界の頂点を目指す。そういうプロチームを作りたい。金も、出身地も、肌の色も、あらゆる圧力に左右されない、実力だけで勝ち上がることを目的としたチームだ」
 「なんだ、思ったより地味な夢だな。ジャンなら、すぐにでも出来そうだ」
 「理屈じゃ簡単なことだが、実際にやってみると、案外、難しいもんだ。現に、俺もお前もここにいる」
 言われてみれば、確かにそうだ。たとえ実力があっても、それだけで勝ち抜けるほど、現実は甘くない。プロの世界になれば、尚更だ。
 ジャンが叶えようとしているのは、理想郷を作るに等しいほど、難易度の高い夢なのだ。
 「それに、この夢を叶えるには原石がいる」
 「原石?」
 「何にも屈しないだけの力を持った、最強のプレイヤーだ」
 「それなら、ジャンがいるじゃねえか?」
 「いいや、残念ながら選手としてのピークは過ぎた。だから、代わりになる原石を探しているところだ」
 彼以外の最強のプレイヤーを想像できない透は、まるで異次元の世界の話をされているように思えた。
 すると、今まで夜景を眺めていたジャンが緩んだ表情を正して向き直った。真っすぐに投げかけられた視線は、いつになく慎重にこちらの様子をうかがっている。
 「なあ、トオル? お前は日本へ帰った後、どうするか決めているか?」
 とっさの質問に、何も答えられなかった。
 今の目標は、光陵学園へ戻って、遥希を倒す。正直なところ、それしか頭にない。その先の将来はと言うと、全くの白紙である。
 「日本に倒したい奴がいるから、そいつを片付けたらここに戻って、ジャンの代わりにリーダーになってやっても構わないぜ?」
 自分の将来を何も考えていないとバレるのが恥ずかしくて、苦し紛れに心にもない事を口走ってしまった。
 「ほう? お前の将来の夢は、ここのリーダーか? 思ったより、地味な夢だな」
 未熟な少年の虚栄心などリーダーにはお見通しのようで、驚いて見せた顔がわざとらしい。
 「俺はただ、世話になったままじゃ悪いかなって、思っただけだ……」
 自身の放った台詞をそっくり返され、透はばつが悪かった。
 だが、全てが苦し紛れの嘘でもなかった。行き場のない自分を拾って育ててくれた恩を、いつか必ず返したいと思っているのは事実である。
 「だったら、もっとデカい男になってから戻って来い。そん時は散々恩を着せて、お前に寄生してやる」
 「寄生って……」
 「そうだなぁ。とりあえずは使用人付きの豪邸と、そこに俺の専用コートでも造ってもらうか?」
 「無茶言うな。そんなの無理に決まっている」
 「いや、一流のプレイヤーになれば、それぐらいは朝飯前だ」
 「だから、それが無理だって!」
 「お前が、その原石だったとしてもか?」
 一瞬、夜景と同じ類の光が、ジャンの瞳にも宿った気がした。決して派手ではないが、静かに、そして確かに燃え続ける種火のような強かな光が。
 丸太の上が緊迫した空気に包まれた。心臓を鷲づかみにされているようで、体を動かすことも、言葉を発することも出来なかった。
 理由もなく、こんなに緊張するのは初めての経験だ。だが緊張の原因が目の前の男から発せられる気迫だと分かると、ようやく口だけは開くようになった。
 「俺が……原石……?」
 「例えばの話だ、阿呆! お前はまだ、その辺に転がっている石ころと変わらない」
 悪態をつくジャンからは、先程の気迫は消え、穏やかな笑顔が復活している。
 安堵した透は、調子に乗って例え話の続きを膨らませていった。
 「俺が一流のプロになったとして、ジャンは何をするんだ?」
 「俺は、チームのマネージャーでもやるかな」
 「コーチじゃねえのかよ?」
 「そういう責任のあるポジションは若い連中に任せて、俺は気が向いた時だけ試合を見に行く」
 「それじゃあ、マネージャーは務まらないだろ?」
 「ああ、だから美人秘書を雇う。脚の綺麗な女が良い」
 ここまでくると、夢というより妄想の世界である。
 「普段はトオルが稼いだ賞金で豪遊して、好き勝手に暮らす。面白そうなトーナメントだけ、マネージャーの権限を利用して顔を出す。それには豪邸の他に、専用の高級外車と運転手も用意してもらわねえと」
 あくまでも妄想の世界であるが、そこまで自分が世話をかけているようには思えなかった。
 次第に渋面になっていく透を無視して、ジャンの妄想はにやけた笑顔と共にますます広がりを見せている。
 「俺の専用のコートは、そうだな……海の見える場所が良い。こんな汚ねえ港じゃなくて、魚なんかも泳いでいる透き通った海だ。
 あれは、何て言ったか。コバルト・ブルーより淡い感じの、ブルーハワイによく似た……ああ、そうだ。セルリアン・ブルーと言ったか。海の底まで見えるカクテルみてえな色だ。
 この街にも長く居たからな。余生は澄んだ空気と綺麗な海に囲まれて、自由気ままに過ごすんだ」
 「それじゃあ、どっかの島でも買い取らねえと無理だ」
 「ああ、それも良い。天気の良い日はお前を呼びつけて、専用コートで打ち合う。その頃には酒が飲める歳になっているだろうから、そこでお前と一杯やるのも悪くねえ。
 なあ、どうだ?」
 「分かった。分かった。もう勝手にほざいてろ」
 妄想の世界ではどんな設定も許されるだけに、その人間の本性が垣間見える。結局、夢の中でも透はパシリの位置づけからは逃れられないようである。

 原石からパシリに降格した透は、不快な気分で丸太の下段に足をかけた。
 「トオル?」
 まだ何か言い足りないのか、ジャンが呼び止めた。
 そろそろ戻らないと、エリックが心配している。他校へ偵察に行ったきり自分が戻らなければ、人の良い彼は考えられる全ての場所を探し回るはずだ。くだらない妄想に付き合っている場合ではない。
 「原石と、石ころの違いを教えてやろうか?」
 ジャンの言葉に、降りかけた足が止まった。
 「ここに……」
 最強の男の力強い拳が、透の左胸を突いた。
 「ここに魂を持っている奴だけが、本物になれる。それがない奴は、いくら素質があっても石ころと同じだ。よく覚えておけ」
 「本物になれる魂……」
 ジャンが拳を当てた場所に、自分も手を当ててみた。不思議と熱くなるものを感じる。
 その正体が魂なのかは分からなかったが、何か大事な決断をする時に、いつもそこが熱くなるのを思い出した。強い奴と対戦する時には暴れ出し、悔しいと思う時には激しく燃える。
 先ほど心臓を鷲づかみにされたような感覚に陥ったのも、この魂に共鳴する何かが彼の瞳の中に見えたから、そう感じたに違いない。
 「オーケー、ジャン。やっぱり、アンタにコートぐらいは造ってやるよ」
 最強の男から教えられた魂の在り処。それ抱え込むようにして、透は丸太を駆け下りた。ブレッドが去り際に残していった言葉を同じ場所に抱きながら。
 「夢を諦めないで、トオル。君が俺の最後の砦だから」






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