第24話 バックハンドを操る男

 「トオル、大物だ。すぐに来られるか?」
 ストリートコートで「大物」と言えば、下っ端では太刀打ちできない手強い挑戦者を指している。
 久方ぶりの大物の襲来に、メンバー達も殺気立っているのだろう。興奮で上ずるビーの声が電話の向こうの騒ぎの様子を明確に伝えてくる。
 「ざっと数えて十人、いや、それ以上だ。大物ご一行様ってところだな」
 「一度にそんなに来るなんて、珍しいな?」
 「ああ、倒し甲斐のありそうな連中が、うようよいやがる。
 ジャンが、やる気があるなら一番面白そうな奴を残しておく、ってさ。どうする?」
 「分かった。あと三十分でそっちへ行くから、残しておいてくれ」
 力のこもった声で告げてから、透は店の電話を切ると同時に肩を落として呟いた。
 「まったく。よりによって、こんな日に……」

 帰国の為の資金を貯めるべく、中学生ながらにアルバイトに勤しむ透は、不要な出費を抑える事も貯蓄の一部と考え、携帯電話は持たない事にしている。中高生の三種の神器の筆頭が携帯電話と言われる時代に大胆な選択ではあるが、実はそれほど不自由を感じたことはない。
 多くの留学生を抱える自宅のリビングには学生達が共同で使えるパソコンがある。必要な情報はそこから入手出来たし、もちろん、家には固定電話もある。
 学校とストリートコートを往復するだけのテニスバカには必需品と思えるほど急な用事もなく、むしろ“不携帯”にしておく方が都合も良かった。
 第一に、透は電話で長々と話をするのが好きではない。相手の反応が見えない状態で、あれこれ気を遣いながら話すのが面倒なのと、話の間じゅう、片手であれ、片耳であれ、動きを制限される事にも耐えられない。
 また便利な通信機能を持つことによって、ジャンに呼び出される頻度も増えてしまう。これも携帯電話を持たない理由の一つである。
 ただでさえ付き人のような扱いを受けているというのに、この上、遠隔操作が可能な身となれば、昼夜を問わず扱き使われるに決まっている。
 電話は持ち歩いてはいけない。持ち歩くから捕まるのだ。
 特に今日みたいな日は誰にも捕まりたくはなかった。きっとこれは今まで学校のリクリエーションを軽んじてきた天罰に違いない。

 中学校で月に一度行われるリクリエーションは基本的に自由参加で、それを良い事に、透は行事に参加した事がほとんどなかった。そんな暇があるなら、金を稼ぐか、テニスの練習に費やす方が有意義に過ごせるし、リクリエーションは学校生活を幸せに送れる人間が暇つぶしに参加するものだと、軽侮もしていた。
 ところが今回はエリックのたっての希望で、どうしても参加せざるを得なくなった。
 「クラスメートとして、トオルと最後の思い出を作りたくて」
 親友からこんな頼み方をされれば、ノーとは言えない。実際、最後の思い出になるかもしれなかった。
 成績優秀な彼は、来年度は飛び級で二つ上の学年に移ることが決定している。よって再びエリックと同じクラスになるには、透自身も難しい試験と審査をパスするしかない。英文で出される定期テストの問題文を読み解くのにも労を要する凡人には逆立ちしたって無理な話である。
 不本意ながら参加する事になったリクリエーションだが、始めてみると思ったほど悪くはなかった。それどころか、 “暇つぶしに参加する行事”から“本気で取り組む真剣勝負”へと変わっていった。
 これが遠足や芸術鑑賞会であれば、そこまで入れ込むこともないのだろうが、今回は透が唯一、得意分野と誇れる行事、球技大会だったのだ。
 テニス、バレーボール、サッカーと、どれも魅力的に映る選択肢の中から、同じ家に住むジーンも誘って、三人がチームを組んで戦えるバスケットボールを選んで参加した。
 負けず嫌いの透を筆頭に、親友との思い出をよりベストなものにしようとするエリックと、そのエリックにいまだ想いを寄せるジーン。この三人の、本人ですら無自覚だった底力が上手く噛み合い、真嶋家代表の留学生チームは決勝戦まで勝ち進むことができた。
 残念ながら優勝は逃したものの、思い出作りの為に参加して準優勝という輝かしい栄誉を得られたのだから、充分満足のいく内容だった。
 しかし、はしゃぎ過ぎた代償として、とてつもない疲労が体に残った。
 昨夜は作戦会議と称して徹夜でエリックと話し込み、今日は丸一日通しでバスケットボールの試合に参加した上に、夕方からのアルバイトが加わった。こういう時に限ってシェフが新メニューを考案したとかで客が殺到し、カフェは戦場のような忙しさであった。
 睡眠不足と肉体疲労の両方で今日はこれで帰りたいと、残りの勤務時間を計算していた。ちょうどその時、不運なことにビーの電話に捕まったというわけだ。
 ここがストリートコートに身を置く者の辛いところである。
 学校の部活動なら、試合の日程が前もって知らされ、それに合わせてコンディションを整えておける。
 ところが、ストリートコートのメンバーには準備の時間がない。たとえその日が最悪のコンディションであろうと、疲労困憊で倒れる寸前であろうと、挑戦者が来た時点で試合開始となる。
 無論、上のランクになればなるほど、敗北は許されない。十三歳の少年が背負うには重過ぎる役目だが、それを承知の上でナンバー2になったのだから、今さら文句は言えない。
 しかもジャンがわざわざ「残しておいてやる」と言うのだから、かなりの大物が来ているはずだ。疲れきった肉体とは裏腹に、興味をそそられるのも事実であった。
 透が事情を話して早々と帰り支度を始めていると、シェフが「試合があるなら、食って行け」と言って、残り物の材料でリゾットを作って出してくれた。
 以前は透がジャックストリート・コートに出入りする事さえ反対していた彼だが、最近では試合と聞けばこうして食事を作ったり、シフトの融通を利かせたりと、何かと応援してくれている。
 おかげで活力を取り戻した透は、店を出ると同時に大物が待つストリートコートへと走っていった。

 金網フェンスの扉をくぐるや否や、コートで苦戦するビーの姿が目に入った。連絡を受けてからさほど間を置かずして彼がコートにいるという事は、今回はチーム戦で勝負をつけるつもりらしい。
 通常は挑戦者が五十位から順に対戦するのが基本ルールだが、相手次第で試合形式が異なる場合もある。
 チーム戦は主に挑戦者が徒党を組んでやって来た場合のルールで、互いに数人ずつ選抜メンバーを出して勝ち抜き戦を行ない、最後に相手チームのリーダーを倒した側の勝利となる。
 ジャックストリート・コートのメンバーになりたいと希望するヤンキーが多い中、チーム戦を仕掛ける連中は、大抵、勢力拡大が目的で、ジャンの取り仕切るコートを自分達の縄張りにしたいが為に乗り込んでくる。すでにナンバー4のレイがダウンして、ビーの動きも鈍くなっているところを見ると、敵も相当レベルの高いプレイヤーを引き連れてきたようだ。
 現在、相手チームで残っているのは、ビーと対戦中の選手ともう一人。こちらで戦力となるのは、透とジャンの二人。ほぼ互角の計算だ。
 コートで対戦中の選手は、ビーがナンバー3のプライドにかけて仕留めるとして、問題はその後だ。この試合でビーもダウンするだろうから、最後の一人、つまり大物集団の大将と対峙するのは透の役目となる。

 相手チームの大将と思しき人物は、やけに肩幅の広い男であった。ジャンの言う「一番面白そうな奴」とは、彼に間違いなさそうだ。
 ストリートコートでは、先輩やマネージャーから事前に対戦相手のデータを与えられることもなく、自分の目を頼りに情報収集するしかない。体型、筋肉のつき方、利き腕、使用するラケットから無意識に出る癖まで、相手を細かく観察していく中で、透に一つの疑問が浮かんだ。
 一体、彼等は何の目的でここへ来たのか。どう見ても、コートを乗っ取るような連中には思えない。
 特に大将格の彼はきちんとテニスウエアを着用し、大人しく自分の出番を待っている。性格が真面目なのか、公式戦でもないのに緊張した面持ちで構える姿は、ヤンキーというよりも、入学試験でも受けに来た受験生に近い。
 詳しい事情を聞こうと、丸太に上った透であったが、ジャンから蹴りを喰らって、有無を言わさず追い返された。
 「余計なことを考える暇があったら、試合に集中しろ! 今回は1セット6ゲームだ。俺の顔に泥塗るんじゃねえぞ!」
 「俺の顔に泥を塗るな」とは「必ず勝て」の意味だった。ゲーム数しか知らされず、ただ勝てと命令されても、そう簡単に疲れた体にエンジンはかからない。
 「何だよ、教えてくれたって良いじゃねえか! 無視すんな! このエロオヤジ!」
 名実ともに副将の立場にいるにもかかわらず、歩兵と変わらぬ扱いを受けては、ナンバー2も立つ瀬がない。今更なのは承知の上で、特製リゾットのエネルギーの大半を費やして叫んでみたが、やはり丸太の上からは、返事はおろか、一瞥たりとも降りてくることはなかった。

 「良いの、ジャン? トオルに本当のことを話した方が……」
 大物集団の正体を知るモニカは、素知らぬ顔を決め込むジャンの行動が理解できなかった。
 「いや、知らせない方が奴のためだ。奴等の正体を知れば、あいつは最初から全力でいく」
 「それの何処がいけないの?」
 モニカの視線が透から大物集団を連れてきた一人の女性へと移り、同時にそこへ注がれる感情も愛情から敵意へと変わった。
 いかつい顔のその女性はどこか冷酷さが漂い、同性の立場から見ても共感できる個所は一つもない。ジャンにはナンシー・バーナインと誇らしげに名乗っていたが、モニカの知る限り、“公の場”では一度も耳にしたことのない名前であった。
 「さっさと片付けて、あの胡散臭い女の鼻っ柱をへし折って欲しいわ」
 あからさまに敵意を向けるモニカの隣で、ジャンがにやけ顔でバドワイザーの栓を抜いた。彼がアルコールを口にするということは店じまいのサインである。
 透がチーム戦を終わらせると確信しているのか。ともかくジャンに戦意がないのは確かである。
 「まあ、そうカリカリしねえで、じっくり観戦しようぜ。俺達の作品の出来具合をな」
 周囲で渦巻く熱気をよそに、ジャンだけは静かにコートの中を見つめていた。

 相手のオズボーンという選手は透が今までに対戦したことのないタイプのプレイヤーだった。パワー、スピード、テクニック、冷静な試合運びをする精神力。全てにおいてバランスの取れた選手である。
 一つでも秀でた能力のある者は、それを武器に試合を組み立て攻めてくる。まだ自身の理想とするプレースタイルを封印中の透は、ストリートコートを訪れる多彩な挑戦者を相手に、彼等が使う武器の粗を探して反撃の糸口を掴んできた。
 パワー系の選手にはスピード勝負を仕掛けたり、俊敏さが自慢の選手には持久戦を強いたりと、相手の長所の裏側を鋭く突くといったやり方だ。
 ところがバランスの取れたオズボーンには、この方法が通用しない。偏りがないだけに、崩しようがないのである。
 隙のない難敵を相手に苦戦している間にも、昨日からの疲労がじわじわと肉体を圧迫する。早くこの厄介な挑戦者を退ける手立てはないものか。
 今のところ有効だと思える策はない。ならば力技で捻じ伏せようと強く打ちこんだ。その直後、目の前を鮮やかなトップスピンが駆け抜けた。
 「マジかよ!?」
 オズボーンのプレースタイルで返すにはギリギリ届くかどうかのコースを狙ったはずだった。仮に届いたとしても、強打は浴びないと確信していた。
 しかし両手打ちのバックハンドでは繋ぐしかないはずの打球を、彼はしっかりと体重を乗せて返してきた。
 序盤のラリーを通して、透はオズボーンのバックハンドは両手打ちだと思い込んでいたのだが、彼は両手と片手、二つの打ち方を使いこなせる選手だったのだ。
 両手打ちと比べて片手打ちのバックハンドは動きの制限が少ない為に、遠くの球にも届きやすい。しかも、彼は恵まれた肩幅を利用して、両腕を素早く広げて打つことで、その球威を高めている。
 但し、高い打点からの返球に関しては、両手打ちの方が左手も使える分だけ、より力強い打球が生み出せる。一長一短ある双方の打ち方を、彼は巧みに使い分けているのである。
 弱点がない上に、二種類のバックハンドを操れるプレイヤー。
 「あのエロオヤジ、厄介な野郎を残しやがって……」
 透の口から思わず恨み言がついて出た。

 能力的にこれといった弱点を見つけられないとなると、相手の苦手な球種を探るしかない。直接、体をぶつけ合う競技と違って、ここがテニスの面白いところである。
 たとえ体格や技術に差があろうとも、相手方に送り込む打球を工夫することで形勢逆転のチャンスを掴めることがある。ボールの回転であったり、コースであったり。組み合わせ方次第では格差も無きが如しとなるのである。
 しかしながら、相手はバランスの取れた能力と同様、不得手な球種がないのか。透がどんな打球で攻めたとしても、安定したストロークで正確に返し、反対にこちらの隙をうかがっている。
 「試合巧者」という言葉がある。ストリートコートのような何でもアリの危険区域ではお目にかかれる事などほとんどないが、光陵テニス部に在籍していた頃は、自校、他校を問わず、多くの選手が“技の使い時”を心得ていた。
 闇雲に決め球を乱発するのではなく、それを最大限に活かせる状況を整えた上で、ここぞのタイミングでショットを決める。オズボーンの場合は、守備範囲の広いフォアハンドと安定した両手のバックハンドで流れを作り、最後は片手のバックハンドから繰り出される強烈なスピンボールでトドメを刺している。技の使い時を巧く掴んでいる証拠である。
 ここ、ジャックストリート・コートで試合巧者と呼べるのは、リーダーのジャンだけで、他はテニスボールを自分の拳にするような物騒な連中ばかりである。おかげで透は滅多なことでは動じなくなったし、どんな相手でも臨機応変に対処できる適応力も身についた。だが、その代わりに、知らず知らずのうちにゲームメークが疎かになっていた。
 次々と打開策が消えていくのと並行して、ジリジリと点差も開いていく。疲れが焦りを生み、焦りが点差を開かせる。
 悪循環のループはサーブにも影響を及ぼし、ついに透はゲームカウント「4−0」まで追い込まれてしまった。

 「随分と期待外れじゃないの」
 いかつい顔のバーナインが、ジャンに向かって文句をつけた。
 「まあ、そう怒るな。アンタの目利きが確かだった、とも言えるだろう?
 あのオズボーンといったか? 悪くない」
 「確かに彼なら引き渡しても、私が恥をかくことはなさそうね。
 それに引き替え、おたくのナンバー2はどうなっているの? とても妹が一目置くほどの選手には見えないわ」
 「キャシー・バーナインか……。まだBMIのコーチをやっているのか?」
 「ええ。ここへ来たのも、彼女から一見の価値はあると強く薦められたからよ。でも無駄足だったわね」
 モニカは喉元まで出かかった台詞をかろうじて飲み込んだ。ジャンの知り合いでなければ、この失礼極まりない女を怒鳴りつけているところである。
 ナンシー・バーナインは、知る人ぞ知る、やり手のヘッドハンターで、話によると、彼女は素質のありそうな若者を見つけてはプロの選手を育てる養成所へ斡旋して紹介料を稼ぐという、自分の目利きだけが頼りの業界人との事だった。とは言え、その狩りの場はテニスの名門校から繁華街の路地裏までと幅広く、素性を明かせぬ選手も平気で連れてくることから、ナンシー・バーナインの名が表舞台に出ることは決してない。要するに、裏稼業の人間だ。
 今回、彼女がここへやって来た目的は、自身が目を付けた選手達の実力を試合形式で確かめる為と、もう一つ。彼女の妹でBMIのコーチをしているキャシー・バーナインから透の噂を聞きつけ、調べに来たのである。
 フリーという立場上、ヘッドハンティングに費用をかけられない彼女としては、参加費を払って選手達をトーナメントに出場させるよりも、ストリートコートに連れてきてヤンキー達と対戦させた方が時間も経費も節約できるし、そこに新たな獲物がいるのであれば、狩りの手間も省ける。
 しかしこの一方的なゲームカウントではいずれの調査にもならず、彼女は不満を募らせているのであった。

 「キャシーったら、どこに目をつけているのかしら」
 露骨に透を蔑むバーナインを横目に、モニカは思わず自身の親指の爪を強く噛んだ。苛立ちを抑える時に、うっかり出てしまう癖だった。
 「ジャン、これ以上点差が開いたら、逆転するのは不可能だわ。トオルに本当のことを話しましょうよ。相手はプロを目指すほどの上級レベルの選手だって……」
 いきり立つモニカとは対照的に、ジャンは呑気に三本目のバドワイザーに手を伸ばしている。
 「相手の実力を見極めて、てめえで試合を組み立てられないようじゃ、アイツはただの石ころだ」
 「だけど、今日の彼はひどく疲れているようだし」
 「コートに上がって言い訳をする奴は、どんな時でも、自分以外のせいにする。今回は相手が強すぎた。運がなかった。調子が悪かった。練習不足も、てめえの弱さも、不可抗力だと言って逃げ回る。
 確かにトオルは頭の切れるタイプじゃねえが、そんな言い訳がクソの役にも立たねえことぐらい分かっているはずだ。違うか?」
 「でも……」
 「モニカ? 必要もねえのに手を貸すのは指導じゃない。お節介だ。
 最近、トオルに甘いと感じるのは、俺の気のせいか?」
 酔っ払いとは思えぬ鋭い視線がモニカを捉えた。冷やかすつもりは毛頭なく、むしろ恋愛感情と指導を混同しかけたコーチの卵を諭すような眼差しだ。
 男女の色恋に関しては、誰よりも熟知する彼のことである。本人が自覚する前に、とうに気付いていたのだろう。
 「そうかしら? アタシは、平等に接しているつもりだけど?」
 分かっていながら、あえて気のないふりをした。そして演技を続けながら、体ごとコートの方へと向きを変え、訳知り顔の視線からようやく逃れた。

 丸太の上で絡み合う大人達の思惑も知らずに、透は全く別のことを考えていた。
 頭の中には自室の柔らかな寝床が浮かんでいた。そこで眠りこける自分の姿を想像し、試合中だというのに、妙に穏やかな気分になっていた。
 珍しく試合に集中できなかった。毎日のように訪れる挑戦者に対し、惰性からくる気の緩みもあった。
 昨日も一昨日も、挑戦者はやって来た。今日も、たぶん、明日も、明後日も来るだろう。
 昔は挑戦者が来るたびに浮かれていたが、一年も経てば珍しくもない。三百六十五日のうちのたった一日。今日だけは勘弁してもらいたい。
 対戦相手よりも、自分にかかる負担の方が気になった。向こうは準備万端で挑んできたかもしれないが、こっちは寝不足と球技大会とアルバイトで疲れているのだ。
 それに無理して勝ったとしても、個人的に何かメリットがある訳ではない。ジャンはこれ見よがしに酒を飲んでいるが、彼の実力なら酔いが回っていたとしても、簡単に片付けられるだろう。
 コートを乗っ取られる心配がないのであれば、ここで自分が負けたとしても、何も問題はないはずだ。疲れているのだから、一度ぐらい手を抜いたって――。

 「問題はねえんだけど……ああ、ちくしょう!」
 透はジャケットを脱ぐと、力一杯、丸太に向かって叩きつけた。
 「本当はバイトが終わったら、家に帰ってゆっくり風呂に入るつもりだったんだ!」
 喚きながら、パワーリストとパワーアンクルを外していく。
 「そんでもって、メシ食ったら、布団に潜り込んで、明日の朝まで寝るつもりだったのに!」
 大声で愚痴を吐き、肉体に負荷をかけるものを一つ一つ取り除く。
 「今日は二週間に一度のベッドメイクの日だから、シーツも洗い立てで、すっげえ気持ち良いはずなんだ。メシだって、今朝、お袋がポークソテー用の肉を解凍していたから、がっつり食えるんだ。それなのに、クソッ……!」
 まるで体の中に座りの悪い石ころを抱えているようだった。何度振り払っても抗い続け、快適な居場所が出来るまでゴロゴロと動き回る。どんな言い訳を用意しても納得しない。居心地が悪いと文句を言う。
 最近、透にもその正体が分かってきた。ブレッドの卒業式の夜にジャンが教えてくれた。
 座りの悪い石ころを静める方法はただ一つ。ジャンが拳を突いた場所にピタリと収まるような選択をしなければならない。
 透はリストバンドの文字を見つめると、観念したように呟いた。
 「分かったよ。お前にみっともねえ試合は見せられねえかんな」

 「もう良いわ。元々こんな所に上物が転がっているなんて思わなかったけど、リーダーが貴方だと聞いたから期待したのよ。
 『伝説のプレイヤー』も堕ちるところまで堕ちたわね。あんな子に肩入れするなんて」
 再びオズボーンのバックハンドからの攻撃が決まると同時に、バーナインは見切りをつけたように溜め息を吐いた。目論見とは違うゲーム展開に腹立たしい思いを隠せない様子である。
 そして彼女の予想を裏付けるかのように、第5ゲームもオズボーンが物にした。
 ゲームカウント「0−5」のスコアを見れば、彼女でなくとも透の敗北を確信する。モニカもその一人だった。
 冷静に考えて、疲労し切った体で今から試合をひっくり返すのは無理がある。せめて第4ゲームからウエイトを外していれば、少しはチャンスがあったかもしれないが。
 今回は明らかに自分達の判断ミスだと後悔した。その直後、コートの中から叫び声がした。
 「なあ、ジャン? アンタのいう魂ってのは、こいつ以上に厄介な奴だな!」
 こいつとは、対戦相手のオズボーンを指している。この期に及んで、透は何を言っているのか。
 訝るモニカの隣で、ジャンが意味ありげな笑みを浮かべた。
 「ああ、そうだろうな。だが、厄介な分だけ面白れえだろ?」
 「アンタ、その面白れえこと、期待してんのか?」
 「酒の肴にするには、面白い方が良いに決まっている」
 「それに夢見も良いはずだ。負けて布団に潜り込むよりも……」
 「腹くくったか?」
 「ああ。絶不調だけど、この厄介な野郎を大人しくさせるには、ボロボロになってもやるしかなさそうだ」

 切羽詰った状況で、何を二人は楽しそうに会話を弾ませているのか。モニカは半分非難の意を込めてジャンの脇腹を突いた。
 「一体、トオルは何をしようとしているの?」
 「言葉通り、面白れえことだ。これから奴はこの試合をひっくり返す」
 「まさか、そんな……。ウエイトを外した後で、第5ゲームも取られたのよ?」
 「奴が1ゲームを費やして、あのバックハンドの攻略法を掴んでいたとしてもか?」
 これが他の人間から言われたのなら、即刻、反論するところだが、『伝説のプレイヤー』からの言葉となると話は別である。
 「モニカはまだ奴の本気を見たことがねえだろ?」
 「トオルの本気?」
 今までの試合で透は充分本気を出していると思っていた。モニカの知る限り、彼は常に真剣に挑戦者と相対している。
 ジャンの真意を計りかねていると、懐かしい顔が目に飛び込んできた。
 「モニカなら分かるはずだ。この後の試合を見れば、俺が何をしようとしているか……」
 それは記憶の奥底に眠っていた『伝説のプレイヤー』の顔だった。幼い頃、テニススクールを経営する父親に連れられ入った試合会場で一度だけ目にした覚えがある。
 5セットのうちの2セットを連取され、第3セットのゲームカウントは「5−3」だった。その明らかに崖っぷちに追い込まれた状況で、何故かジャンは今と同じ顔をしてコートの中に立っていた。
 子供の記憶にしては鮮明に覚えているのは、彼の矛盾した表情の意味が理解できなかったからだ。追い込まれた選手が、なぜ楽しそうに笑っているのか。笑いながら、なぜ何かに取りつかれたような恐ろしい目をしているのか。
 そんなジャンの姿を見て沸き上がる観衆と、リードを保持していながら怖気づく対戦相手の心情も。当時のモニカには何一つ理解できなかった。
 あの時と同じ表情を浮かべたジャンがここにいる。そして、彼とよく似た少年がもう一人。
 もしかしたら自分はとんでもない思い違いをしていたかもしれない。透は群れからはぐれた迷鳥などではなく、群れを率いる側の人間なのでは――。
 「見せてもらうわ、この試合の続きを。彼を指導する立場のコーチとしてね」
 背筋を伸ばし、コートに目を向けたモニカの耳にあの時の観客達の歓声が聞こえたような気がした。






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