第25話 輝き始めた原石
体の各部から押し寄せる肉体的疲労と、それに持ち堪えようとする精神力。前者が後者を上回る場合には、残りの体力とゴールまでの距離とを照らし合わせ、その道のりの遠さに絶望してしまう。
反対に、精神力が勝る場合では、不思議と無心になれる。この身も心もニュートラルな状態を、真空の中にいるような感覚から「真空間」と呼ぶのだ、と聞いたことがある。
余計な物は視界から消え失せ、目先の課題に意識が集中する。疲れているはずの肉体は軽くなり、どんな指令にも応じられる。
ここで自分が何をすべきか。何を考えるべきか。どこを見て、どう動くべきか。その答えだけが次々と浮き上がり、容易く実行に移せる状態だ。
透は今、この「真空間」にいた。
ゲームカウント「0−5」。
5ゲームを取られているという事は、少なくとも7ゲームを取り返さなければ勝利はない。途方もない道のりだが、7ゲームのボリュームを考えるよりも、これから打ち込むサーブのみに神経が向いている。
「まずは一本、いつも通りに入れれば良い」
毎日千本以上のサーブ練習を自身に課してきたおかげで、いくら疲れていても、体は次の動作を覚えている。今まで精鋭さを欠いていたサーブに勢いが戻ってきた。
練習は嘘を吐かない。これはどのスポーツにおいても共通することで、また、追い込まれた先で「真空間」を体験した選手は必ずと言って良いほど実感する言葉である。
「さっきまでの彼とは別人のようだわ。ボールにキレが戻ったし、反応も良いわ。
どこにあんな体力があったのかしら」
原因を探るつもりで投げかけたモニカの言葉に、ジャンの鋭い視線が柔和なものに変わる。
「星の数ほど選手がいる中で、トッププレイヤーとして最後まで生き残るためには、何が必要だと思う?」
「それは……才能?」
「そんなのは眉唾モンだ。だが、仮に才能も等しくあるとしたら?」
とっさにモニカは「情熱」と答えようとして、我ながら安易な発想だと気付き、今度は慎重に考えを巡らせた。コートの中の透を見ていると、情熱とは違う力が働いている気がする。
悲鳴を上げる肉体をねじ伏せるだけの説得力を持ち、マイナス要素を跳ね返すほどの強さを秘めたもの。
彼のプレーには情熱の一言では片付けられない、何か信念にも似た筋の通った強さがある。この漠然とした感覚を、どう表現すれば良いのか。
答えに窮したモニカは肩をすくめた。
「精神力だ、モニカ。最後に物を言うのは、逆境を覆せるだけの精神力。
それがない奴は、どんなに優れた身体能力を持っていても、溢れんばかりの才能があったとしても、いずれ敗れ去る」
「精神力?」
一瞬、当たり前すぎると思った答えだが、頭の中で繰り返していくうちに、この言葉の持つ意味の深さが分かってきた。
コーチテストの勉強の際に、教科書で何度も目にした「精神力」。マーカーを引くにも値しないと読み飛ばしていたが、ここジャックストリート・コートへ来て、透とジャンの二人に出会って、痛切に感じたのが、これだった。
他人の意見に惑わされず、己の出した答えを信じて前へ進める力を彼等は持っている。それは試合に限らず、日々の練習の中で、いや、生活の中でも彼等のベースとなっており、残念なことに、今の自分に欠けているものだと思い知らされた。
「時々、ここへ新しいボールを届けてくれる謎の人物がいる」
そこまで言ってから、ジャンは急に口を閉ざした。正確には、大事な瞬間を見逃すまいと、その他の行動を一時中断したようだ。
研ぎ澄まされた視線の行く先は、コートの中で加速し始めたテニスボールであった。
先程から長いラリーが続けられていた。安定したストロークで着々と流れを作り出すオズボーンと、かろうじて失点せずに踏み止まる透の間で、ボールが勢いを増しながら行き来する。
モニカの目から見て、オズボーンの優位は変わらなかった。彼が決め球のバックハンドを打ち込むまでは。
慎重にタイミングを見計らって放たれた、強烈なトップスピンのかかったバックハンド。何の落ち度もなかったはずなのに、この直後に形勢は逆転した。
透がグリップを持ち替え、通常の打点よりもインパクトを後ろに取った。咄嗟のことで、その二点しか捉えられなかったが、彼の放った打球が試合の流れを変えるほどのカウンターショットとなるであろう事は、ボールがラケットから離れたと同時に察せられた。
オズボーンから決め球として送り込こまれたバックハンドが、一瞬にして姿を変えた。荒々しい唸りを上げるトップスピンが透のガットの上でいなされ、送り主のもとへと返される。
ボールの軌道は滑らかに見えたが、見た目に反して、実際はもっと鋭く複雑な回転がかけられていたようだ。コートから出た後も一向に衰えぬ球速からも、威力の程は判断できる。
だが、肝心の球種が分からない。瞬時に両者の優劣を塗り替えた見慣れぬショットの正体が。
誰もが目を疑い、驚きを露にする中で、透とジャンの二人だけが満足げな笑みを浮かべている。
「悪くねえ仕上がりだ」
正体を知るうちの一人が、ご機嫌な様子でバドワイザーの残りを一気にあおった。
「ジャン、今のショットは何? スライスがかかっていたように見えたけど?」
状況整理もつかないままに、モニカはジャンに説明を求めた。
珍しく頭が混乱した。だが、嬉しい混乱でもあった。
見たこともないショットの正体を知りたいと思いながら、興奮の方が先んじて、取り乱してしまう。他人の試合で、こんなに気持ちが高揚するのは久しぶりのことである。
「もう、ジャン! 飲むのは後にして、早く教えて!」
新しく栓を空けようとするジャンからボトルを奪い取ると、モニカは素早く後ろ手に隠した。
「ああ、分かったから、俺のバドを返せ。せっかく酒の肴が揃ったのに、肝心の酒がなきゃ、話にならんだろう?」
「だったら教えて。今のは、ただのスライスじゃないわよね?」
「確かドリル何とかと、ほざいていたな。野郎のもう一つの課題だ」
「サーブの他にも課題を出していたの?」
「こっちは自由研究だ。俺が教えたわけじゃない。まぁ、少しぐらい、けしかけたかも知れんが……」
ジャンが「ふん」と短く鼻を鳴らした。思い通りに事が進んだ時に、ガッツポーズの代わりにする彼特有の仕草である。
丸太の上のしたり顔を見せられて、透は上手く乗せられたと思った。だが、不思議と腹は立たなかった。むしろ感謝の気持ちの方が強かった。
全てはジャンの思惑通りであった。
負けず嫌いの透は、ジャンにドリルスピンショットを「半端なスピン」と言われて以来、公の場でのショットの使用を控えていたが、精度を上げる為の研究は続けていた。
当初はトップスピンの返し技でスライス回転が基軸となるのだから、グリップはイースタン程度に薄く握れば良いと漠然と思っていた。ところがジャンの指摘によって、唐沢のショットにはもっと複雑な回転が施されていると気付き、インパクトのタイミングや回転の角度など、試行錯誤を重ねた結果、ある結論に達した。
ボールを捕らえる位置を極限まで後ろに下げなければ、充分な回転は与えられない。その為には、グリップをボレーと同様、最も薄いコンチネンタルにチェンジしなければならないと。
打点を後ろにずらし、グリップを薄く握り直した分だけ、ラケット面がボールに吸い付く時間が増える。増えた時間を利用して、方向を変えながら一気に回転を加えることで、唐沢と同じドリルのようなスピンが生まれる。
しかし、それは一ミリのズレも許されない、神業とも言うべき高い技術が要求された。これを生み出した先輩との距離を実感しながら、何度諦めようと思ったか知れない。それほどまでに、この複雑な回転を体得する道のりは困難を極めた。
気弱になる透をいつも奮い立たせていたのは、「子供だまし」と馬鹿にされた悔しさと、日本にいる時に倒せなかったライバルに対する執念だ。
尊敬する唐沢の決め球を「子供だまし」と言われて、黙って引き下がる訳にはいかない。また、遥希を倒すという目標も、このままでは単なる願望で終わってしまう。
唐沢の名誉の為にも、目標を達成する為にも、何としてもやり遂げる必要があった。
結局、一年かかってしまったが、ようやく数日前に完成させたのだ。日本を発つ前に見せられたのと同じ、正真正銘のドリルスピンショットを。
予期せぬ反撃に、オズボーンの表情が険しくなった。ゲームカウント「0−5」の土壇場で、まさかこんな決め球を出してくるとは思わない。
通常のセオリーから外れた怪しい奴 ―― 険しい表情の中には、警戒心が強く張り巡らされていた。
透はセオリー通りの攻撃を繰り返すオズボーンの几帳面な性格を逆手に取ったのだ。ウエイトを外してからすぐに反撃に出なかったのも、1ゲームを犠牲にしてでも、彼のバックハンドをつぶさに観察したかったからである。
あの片手のバックハンドは、ボールを捕らえる範囲が広く、回転もかけ易い。また、肩幅を利用して両手を勢いよく広げることで、更なる球威を加えている。
その反面、打ち終わった後で、元のポジションへ戻るまでに時間がかかる。上半身を弾くように広げて打ち込むのだから、その流れで次の動作に移るには、通常のショットよりもコンマ何秒でも遅れが生じる。
だからこそ、慎重に狙いを定めてトドメとして使用しなければ、万が一、反撃された場合に対処に困る。
この弱点を見抜いた透は、第6ゲームから長いラリーを仕掛けた。そうすることで、几帳面な彼は最高のタイミングが来るまで力を温存し、ようやく訪れたチャンスでは、渾身の力を込めてトップスピンのかかったバックハンドを叩き込む。
それはドリルスピンショットの格好の獲物であった。しかも、相手はすぐに次の動作に移れない。一撃必殺のバックハンドは諸刃の剣だったのだ。
オズボーンのバックハンドは、今やドリルスピンショットの完成度を上げる為の貢物と化していた。
彼がポイントを決めようと打ち込むたびに、より鋭いショットが叩き返される。回を重ねるごとに磨き上げられ、習熟度も増していく。
ゲームの流れを覆した返し技が、スコアも瞬く間に塗り替えていった。
「これがトオルの本当の実力……」
少しずつだがモニカにも、何故ジャンが自信あり気に「ひっくり返す」と宣言したかが分かってきた。ゲームカウント「0−5」の崖っぷちは、透にとって本気を呼び起こす為の気付け薬のようなものだった。
初めは奇跡に位置した逆転劇が、ゲームを奪回するごとに「もしや」に変わり、3ゲームを続けて連取した頃には疑念の余地がなくなった。
勝機が見え始めた戦況に安堵したモニカは、先の会話を思い出し、ジャンに続きを促した。
「ジャン、さっきボールがどうのって、言いかけなかった?」
「ああ。トオルがここに出入りし始めてから、定期的に大量のニューボールが届けられるようになった」
「それは、つまり……?」
「プレーする環境は多少劣化していたとしても構わねえが、ボールだけは常に新しいもので慣れとかねえと、公式戦じゃ通用しねえ。いずれトオルが公式戦に出場する時のことまで見据えて、最低限の支援をする人物がいるという事だ。
誰だか、分かるか?」
「トオルの家族に、誰かテニスに精通する人がいるの?」
「奴のファミリーネームは『マジマ』。トオルの父親は、あの真嶋教授だ」
そう言えば、この試合が始まる前にバーナインが互いの選手を呼び寄せ、自己紹介をさせていた。その際に、彼女は透が名前だけを名乗った後から、わざわざ「彼がトオル・マジマよ」と苗字を付け足し、オズボーンに意味ありげな視線を向けていた。
あれは、自チームの選手に透が真嶋教授の息子であることを念頭に入れて戦えと、指令を下していたのである。
モニカ自身、なるべく父親を遠ざけたくて苗字を伏せていただけに、他人の素性を知ろうともしなかったが、確かにスポーツ科学の権威である真嶋教授の息子と言われれば、あの豪邸にも納得がいく。
しかし同時に、別の疑問も浮かび上がる。
「そんな恵まれた家庭にいながら、どうしてトオルはこんな所に?」
言った後から、マズいと思った。仮にも「こんな所」のリーダーの前でする発言ではない。
狼狽するモニカを気に留める様子もなく、ジャンはその質問に真顔で答えた。
「俺の推測だが、真嶋教授は自分の息子に必要な力をつけさせる為に、ここへの出入りを黙認している。ボールはその謝礼というか、授業料を納めているつもりだろう」
「必要な力って、さっき話していた精神力のこと?」
「そうだ。いくら能力があったとしても、置かれた環境によって潰れていく選手は山ほどいる。
仕事柄、多くのプレイヤーを見てきた彼なら、俺達以上に知っているはずだ。天才と呼ばれた選手達の末路をな」
説明を聞きながら、モニカは透の家での不可解な決まり事を思い返していた。
あの家では、コートを利用するのに使用料を払わなくてはならなかった。透に寮生のような生活をさせているのも、小遣いを与えずにアルバイトをさせているのも、ひょっとしたら深い考えがあっての事かもしれない。いつの日か、自分の力で日本へ帰るという無謀な夢を持った息子の為に。
「もしも俺がトオルの親なら、力ずくでもここから連れて帰る。てめえの息子が『こんな所』に出入りして、平気でいられるはずがない。そうだろ?」
ジャンから同意を求められたが、モニカは「こんな所」に遠慮して、軽く頷くに留めた。
「さっき『指導とお節介は別物だ』と話したが、真嶋教授はそれを誰よりも良く心得ている人物だ、と俺は思う。
本人がギブアップする前に手を貸すのは、甘やかしだ。だから、あえて知らん顔を通しているんだろう。俺達に授業料を払ってでも、そうする必要があったんだ」
「要するに、真嶋教授は息子のトオルにトッププレイヤーになり得るだけの才能を見出しているって事よね?
だけどジャン? さっき、才能は眉唾物だって言わなかった?」
「ああ、その通りだ。正しくは、才能は誰にでもある。ただ、それを真っ当な形で開花させられる人間が稀だという話だ。
最初から形をなしている才能なんか、ありゃしねえ。全部、未確定の “何か”なんだ。
得体の知れねえ“何か”を信じ続けるってのは、言わば、超能力や幽霊を信じるのと同じようなもんよ。報われる事より、虚しさを味わう方が圧倒的に多い。
誰にも認知されない不確かな存在を信じ、ケガや故障に見舞われず、絶え間なく襲ってくる不運を跳ね返し、ゴールまで辿り着ける選手はほんの一握りだ。真嶋教授が息子に求めているのは、この奇跡を掴むに等しい道のりを歩き通せる力だ」
「それが精神力?」
「ああ、そうだ」
確かに透を指導していると、驚かされることが多い。
最初に驚かされたのは、口の悪さに反して、素直に指導に従う従順さであった。
純粋に上手くなりたいと願う分だけ、こちらが教えたことを素直に受け入れ、自分なりに消化しようとする。そういう生徒は成長が早く、彼の飲み込みの早さも、この従順さから来るものと思っていた。
ところが徐々に、それだけでは説明し切れない現象が起きてきた。
今、目の前で放たれているドリル回転のカウンターショットにしてもそうだ。瞬時にあれだけの複雑な回転をボールに与えるには、かなり高度なテクニックが必要となる。それを彼は平然とやってのけている。
無論、本人の努力は不可欠だが、ジャンの言う通り、透にはテニスに適した才能があるのかもしれない。そして彼の父親はその才能を潰さぬように、支えとなる精神力を独自のやり方で育てているのだろう。
コート上では、二人のプレイヤーが正念場を迎えていた。
ゲームカウントは「4−5」。まだオズボーンが1ゲームリードした状態だ。
この第10ゲームをオズボーンが制すれば、「4−6」で透の敗北が確定する。しかし、ここで透がさらに1ゲームを奪回すれば、「5−5」に追いつき、勝利への望みを繋ぐことが出来る。
まさに両者にとって踏ん張りどころである。
それぞれに大事な場面であるにもかかわらず、二人は対照的な顔を見せていた。
厳しい表情のオズボーンに対し、透は嬉々としてコートの中を走り回っている。カウント上は透の方が劣勢だというのに、相手の方が追い込まれているようだ。
誰もが奇跡の逆転を確信し始めた。
ところが、オズボーンはこれで終わるような甘い選手ではなかった。決め球の使い時を心得ている彼は、4ゲームを費やして透の放つショットの特性を見抜いていた。
準備の整ったオズボーンがまず送り込んだのは、ドロップショトであった。
不意を突かれて前進する透の脇を、再び強烈なトップスピンが駆け抜けた。
オズボーンは透を前に誘き出すことで、あのドリル回転のショットを封じると共に、得意のバックハンドを繰り出すチャンスを作ったのだ。
トップスピンの返し技であるショットを、ネット前からボレーのようにして放つことは不可能だ。ドロップショットとバックハンドを組み合わせることによって、返し技の体勢を取らせない。試合巧者の彼ならではの強力コンボである。
逆転の鍵を握るショットを封じられては、もうなす術はない。やはり攻めに転じるタイミングが1ゲーム遅かった、とモニカが後悔した時だ。
透が自分の左胸辺りのシャツをぐいと掴み、オズボーンに話しかけた。
「アンタ、やっぱり強えんだな。どうりで、こいつが騒ぐと思った」
「気付くのが少し遅かったな。このゲームで決着をつけてやる」
勝利を確信したのか、オズボーンが初めて口を開いた。その口元には、すでに誇らしげな笑みが浮かんでいる。
「そうだよな。もっと早く気付いていたら、もっと面白れえ試合になっていたのに。もう遅せえよなぁ」
反論するかと思えば、透は珍しく素直に相手の意見に同意を示している。だが、彼が悔いていたのは、自身の敗北を認めたからではなかった。
オズボーンのドロップショットを受けて、透は前進すると同時に、力なく落ちていくボールの下へラケットを滑り込ませた。地面にバウンドしかけたボールがふわりと浮かび、ネットの上を綱渡りのように伝ってから、反対側のコートへ静かに着地した。
「今のは、ドロップボレーよね?」
先の決め球と同様、再び混乱を強いられたモニカは、ジャンに説明を求めた。
「あれは昔、うちのナンバー2だった男が得意としたボレーだ。ドロップボレーには違いねえが、ネットを伝う分だけタイミングを取るのが難しい厄介なボレーだ。
ふん、ちったあナンバー2らしくなったじゃねえか」
決め球を封じられた透が代わりに取った対抗策は、オズボーンのドロップショットをドロップボレーで切り替えすというものだった。
「まったく、惜しいことしたよなぁ。タイブレークに出来たら、アンタと気の済むまで遣り合えたのに……」
嫌味でも演技でもなく、透は本心から悔しがっているようだ。但し、それは敗北を覚悟したからではない。あくまでも「7−5」で勝利するのを前提に、タイブレークのチャンスを逃した事を悔いているのである。
「ねえ、ジャン? アナタ、とんでもない原石を拾ったんじゃないかしら?」
「ああ。だからこそ、あいつには俺のサーブを教えた」
「まさかとは思うけど、ジャンがやろうとしている事って、この街に『伝説のプレイヤー』を甦らせるつもり?」
『伝説のプレイヤー』の再来。それは、この街に住む者なら誰しも待ち望んでいる事だが、同時に奇跡を起こすよりも難しく、海底で無色透明のダイヤモンドを探すようなものだとも言われている。
呆れ顔のモニカに動じることなく、ジャンは意気揚々と持論を展開してみせた。
「そんなチンケな話じゃねえよ。あいつは俺以上のプレイヤーに育ててみせる」
「だけど、トオルは日本へ帰るつもりなんでしょう?」
「それは過程に過ぎない。奴が本物なら、必ず俺のところに戻ってくる。
釣りで言えば、キャッチ&リリースだ。一旦、海へ返して成長させてから、後でたっぷり楽しませてもらう」
コーチという立場上、物事を理詰めで考えるモニカには、ジャンの話がかなり都合の良い夢物語に聞こえた。単純に考えて、ストリートコートに居場所を求めるしかなかった透にとって、アメリカが祖国よりも居心地が良いと感じるはずがない。
だが、その都合の良い話を、自分より理性のあるはずの大人の男が大真面目に語っている。これも夢のなせる業なのか。普段のジャンとは違って、かなり子供染みて見える。
「とてもじゃないけど、付き合いきれないわ」
あえてモニカは大人びた口調で返した。
「何を言っている? モニカも俺の構想の中にコーチとして入っているんだぞ?」
「アタシが?」
「その為に、ここで指導経験を積ませている。気付かなかったのか?」
「だって、アタシはまだ……」
「良いか、モニカ? プレイヤーの素質と、コーチの素質もまた別物だ。モニカに関して言えば、選手を育てる能力は充分にある」
「アタシなんて、そんな……」
意外にも、自分が指導者として評価されていると分かり、嬉しい反面、俄かには信じられなかった。
幼い表情を残したまま、ジャンが続ける。
「現に、トオルの才能を伸ばしているじゃないか。
トオルはてめえが信用した相手の言葉しか聞き入れねえ意固地なところがある。そいつを手なずけたという事は、コーチの素質があるってことだ。
ここまで話せば、分かるだろう?
モニカにもあるんじゃないのか? トオルと同じものが」
「トオルと同じもの?」
「散々、嫌な思いをしたテニスをキッパリ捨てられねえのは、何故だ? コートに入れなくなる程の恐怖心を抱えながら、こいつ等の指導を続ける理由は何だ?
得体の知れない“何か”のせいじゃねえのか?」
「そんなの……それこそ眉唾物よ」
「信じる、信じないは、本人の自由だ。俺は安易に信じろとは言わねえよ。
だがな、これだけは言っておく。そいつに気付いちまった人間は、必ず二択を迫られる。その存在をとことん信じるか、とことん目を瞑るか。
俺なら、逃げ回る事に労力を使うぐれえなら、とことん信じる方に使うがな」
自分にも透と同じものがあると言われ、モニカは彼が左胸をぐいと掴んだ気持ちが分かる気がした。モニカも、今、同じことをしたくなった。
あれは自身を突き動かす“何か”を確かめる為の行為なのだ。透は、本人が意識しているかどうかは別にして、その存在に目を背けず、認めることを選択したのだ。
常に感じていた透とジャンとの絆は、己の中の得体の知れない“何か”を信じているからこそ、同じものを持つ相手も信じられるという、気付いてみれば実に単純で当たり前のことだった。そして彼等は同じスタンスで、モニカの中にあるものを信じてくれている。
それを才能と呼ぶかどうかは、まだ分からない。ただ己の信じる道を突き進む二人を目の前にして、コーチとしてあるべき姿は明確に見えてきた。
「ジャン? 確か『ロコ』にはDVDのレンタルコーナーもあったわよね?」
「ああ、三階のフロアは全部そうだ。指導法からトレーニング法、トーナメントはプロ、アマ問わず、あらゆるジャンルが揃っている」
「今日はこれで帰るわ」
「今5−5だ。これからが面白いところだぞ?」
「試合の結果は見なくても分かるから。それよりアタシは、この後の練習の方が気になるの!」
笑顔でそう叫ぶと、モニカは丸太から駆け下りた。
「ふん、こっちの魚の方が先に帰るか……」
走り去る後姿を見送りながら、ジャンが短く鼻を鳴らした。