第26話 プロミスリング
ゲームカウント「5−5」。数字の上では引き分けているが、先に点差を広げた者と、後から追い上げた者とでは、圧し掛かるプレッシャーの性質が大きく異なる。選手の士気を高める追い風的なものと、焦りや迷いをもたらす重圧的なものと。
サーブ権を手にしたオズボーンからは、明らかに焦りの色が見て取れた。
理由は言うまでもない。
第5ゲームまでは楽にポイントを引き出せた対戦相手が、残り1ゲームの土壇場で息を吹き返し、別人のようになって応戦してきたのだ。しかも単純にウエイトを外しただけでは説明のつかない、高度な返し技を引っ提げて。
「トオル・マジマ……こんな決め球を持っていながら、なぜ今まで隠していた?」
長身のオズボーンが困惑する様は、見下ろされる立場にある透にとって、あまり気分の良い絵図ではなかった。彫りの深いしかめっ面でじっと上から凝視されれば、高い教壇から叱られているようで、反射的に身構えてしまう。悪ガキの悲しい性である。
「別に隠していた訳じゃねえけど……」
「だったら、何故だ?」
「何故って、言われてもなぁ」
セオリー重視のオズボーンに負けず嫌いの心理など理解できるはずもなく、仮に「負けたくない一心で踏ん張った」と説明したところで、更なる困惑を招くだろう。
「良いから、続きやろうぜ」
居心地の悪さも手伝って、透は彼の疑問に答えることなくリターンのポジションについた。
試合の流れが変わる、その分岐点となる一瞬は、ほんの些細な出来事から生まれることが多い。追い込まれた選手が狙い通りのショットを決めた事で、そこからゲームを盛り返すこともあれば、つまらぬミスから自滅の一途を辿ることもある。
自分の置かれた状況を冷静に見極め、ここ一番という時に流れを変える一瞬を上手く作り出せるか、どうか。トッププレイヤーと呼ばれる選手達は、その切っ掛けとなるショットをいくつか持っている。
窮地に立たされたオズボーンにも、それはあった。ジャンピング・サーブである。
彼はこの不可解な状況を打破しようと、渾身の一打を放ったが――。
「そうくると思ったぜ!」
流れを変えるはずのサーブが、バウンド直後に叩き返された。
「ライジング・リターン!? こんなショットまで隠し持っていたのか?」
「だから、隠していた訳じゃねえよ。ただ、ジャンピング・サーブは俺も前に使っていたから、欠点も知っている。
そのサーブは跳躍の反動を使う分だけ、動作も大きくなる。サーブの勢いに圧されて緩いリターンが返ってくれば主導権を握れるが、ライジング・リターンのように早いタイミングで返された場合、逆に対処が遅れる。
バックハンドもそうだけど、アンタの得意なショットは全部、諸刃の剣なんだ。図体のデカさが裏目に出てんだよ」
「貴様、そんな事まで……。だが、何故これを使うと?」
「だって、アンタ、脚のバネがありそうだし、俺なら使うかもって……勘だよ、勘!」
細かな説明をするのが面倒で、透はつい「勘だ」と言ってごまかした。しかし、その中途半端な態度がオズボーンに新たな誤解を植え付けた。
「最初から、俺を欺こうとしていたのか? 本当は俺達と同等の力があるくせに、わざと劣勢を装って、からかっていたのか?」
「バ〜カ! そんな余裕、ある訳ねえだろ」
「それなら、何故……」
「だから、何故、何故って聞くなよ、もう! 面倒臭せえ野郎だな!」
今まで王道を歩んできたであろうオズボーンに、どれだけ時間を費やして説明したところで、納得してはもらえまい。
常に挑戦者の絶えないストリートコートでは、練習も本番も関係なく、己の嗅覚を頼りに未知なる挑戦を続けなければ、人並みの成長は望めない。試合の前半で苦戦を強いられていた透が、オズボーンと打ち合ううちに打開策を見出し、得点に繋げる事が出来たのも、この荒っぽい環境ならではの“必然の進化”である。
ここでは試合前のミーティングもなければ、試合後の反省会もない。ましてプロのコーチによる懇切丁寧な指導など受けられるはずもない。
独りで情報収集を行ない、独りで策を練り、自分独りの判断で実行に移す。失敗すれば反省点を洗い出し、成功するまでやり直す。
ドリルスピンショットも、ドロップボレーも、ライジング・リターンも、これらの過程を経て成功例に加わった。そのタイミングが試合の最中だった。ただ、それだけの話である。
街外れにある危険区域の、ラインもろくに見えないコートの中で、自分の居場所を確保するだけの強さを身につけるには、こうして図太く進化する外ないのである。試合を発表会と同じに捉えていては、あっという間にランク外へ追いやられてしまう。
だが、これはあくまでも路地裏の常識であって、表通りを歩く者には、なるべくして起こった逆転劇も「敵を欺くための演技」と映るだろう。
「トオル・マジマ……こんなふざけた奴に、俺が負けるはずがない。負けるはずはないんだ!」
現状を見誤ったオズボーンが再び勝機を手にすることはなく、残りのゲームでは乾いた手で砂を握り締めるが如く、ずるずるとポイントを失っていった。
「今回は全滅ね。まるで使えない選手ばかりだわ」
バーナインが忌々しげにカツンとヒールを鳴らした。コンクリートの地面から響く渇いた音が、収穫のない虚しさを代弁しているようだった。
「何だ、気に入らねえのか? 試合中の選手の対応を探るために、ここへ連れて来たんだろ?」
彼女の落胆の理由を知っていながら、わざとジャンはとぼけて見せた。
「だからこそ、失望しているのよ。逆転されたぐらいで冷静さを失うようじゃ、話にならないわ。
最近の若い選手は、技術面ではレベルアップしたけど、精神面では幼児と同じね」
「ま、相手が悪かったとも言うけどな」
「トオル・マジマ。確かに噂に違わない選手だわ。
前言撤回よ。ねえ、彼を私の所へ預けてみない?」
バーナインの倫理観は別として、対戦相手である選手の実力を正当に評価し、早々と新たな候補生に加えようとする強かさは、ヘッドハンターの鏡と言うべきか。モニカがこの場にいたなら、さぞかし憤慨するだろう。
ジャンはモニカの不在に感謝しながら、常識の範囲内での答えを返した。
「直接、本人に聞いてみたらどうだ? あいつは俺の持ち物じゃない。但し、不合格になった連中を帰した後にしてくれよ」
「あら、どうして? 話は早い方が良いでしょう?」
すでに敏腕ハンターの意識は新しいターゲットへと向いているらしく、自分で連れて来た候補生達の感情など、お構いなしという訳だ。
「やれやれ……まさに鉄の女だな」
ジャンが溜め息を吐くのと同時に、透の四本目のサービス・エースがコートの中を駆け抜けていった。
ゲームカウント「7−5」でオズボーンとの勝負を制した透が、試合後の挨拶もそこそこに、丸太の下へと駆け寄った。
「どうだ、ジャン! ちゃんと指示通り、勝っただろ?」
「笑わせるな。実力で勝ったような面するんじゃねえよ」
「うっせえ! 全部、計算通りだよ!」
「ほう、偶然の産物じゃねえのか?」
「何だよ! 少しぐらい褒めてくれたって良いじゃんか!」
疲労困憊の体で掴んだ逆転勝利と言い、ドリルスピンショットの完成度と言い、我ながら上出来だと思っただけに、透は何としても称賛の言葉を引き出そうとしたのだが、プロの世界も経てきたリーダーの評価は厳しいものだった。
しかし口の悪いリーダーに代わって、思わぬところから称賛の声がかけられた。
「素晴らしい試合だったわ、ミスター・マジマ。ねえ、私と一緒にプロを目指す気はないかしら?」
「あれ……魔女のババア? なんで、こんなところに?」
透に声をかけてきた女性は、いかつい顔つきも、下に伸びた鼻も、BMIのコーチ・バーナインに良く似ていた。
「誰が、魔女のババアですって!?」
いかつい顔の魔女が、呪いをかける直前の恐ろしい形相に変化した。怒った顔もそっくりだ。
「トオル……お前が知っているバーナインは……彼女の妹だ……」
怒り心頭の彼女を気遣い、ジャンがフォローに回ったが、説明を加える声そのものが笑いを堪える腹筋と共に震えている。
「なんだ、魔女の姉貴か。どうりで似ていると思った」
「こう見えても、プロのヘッドハンターだ。こう見えてもな……」
「ふうん……で、そのヘッドハンターとやらが、俺に何の用だ?」
冷静さを取り戻そうと軽く咳払いをしてから、バーナインが話を切り出した。
「この街にプロのテニスプレイヤーを育成する養成所があるのは、知っているわよね? そこへ通いながら、本格的にプロを目指してみない?」
「誰が?」
「貴方よ、ミスター・マジマ」
「何で?」
「私がそう判断したからよ。
優れた身体能力、冷静な判断力、柔軟な思考と適応能力。貴方にはプロとして必要な能力が備わっているわ。
養成所で適切な訓練を受ければ、必ず大成するわよ。さあ、私と一緒にいらっしゃい」
「う〜んと、よく分かんねえけど、断る」
正直なところ、疲労で頭が回らなかった。加えて、魔女の横柄な態度も気に入らなかった。
「ミスター・マジマ、いま何て?」
「ノーと言ったんだ」
ただ自分の出した答えが間違いだとも思っていなかった。
「プロになりたくないの? こんなチャンス、滅多にないわよ」
「今は興味ねえよ。俺はこいつ等と……ここの仲間達と一緒にテニスが出来れば、それで良い」
透の口から飛び出した短絡的な理由を聞いて、バーナインが露骨に顔をしかめた。
「興味がないなら、仕方ないわね。もう少し頭の良い子だと思ったんだけど、残念だわ」
再びヒールをカツンと鳴らすと、ヘッドハンターは全滅した候補生を残して、さっさとコートから出て行った。
透の答えには続きがあった。
今はプロになる事よりも、光陵学園へ帰ることの方が自分にとって重要だ、と言おうとした。その為に最強の男の下で腕を磨いているのだと。
「魔女に言っても、しゃあねえか」
選手の斡旋を生業とするヘッドハンターに、日本に残してきた想いの数々を説明したところで結果は同じである。言いかけた言葉を飲み込んだ時だった。
いきなり透は汗ばんだ筋肉の塊に喉元を押さえつけられた。
「やはり、俺達をからかっていたんだな!」
襲いかかって来た相手は、試合を終えたばかりのオズボーンであった。彼は透の体を金網フェンスへ叩きつけると、手にしたラケットを振り上げた。
試合に負けた相手が怒りに任せて殴り掛かってくるのは、ストリートコートでは日常茶飯事だ。だが、それは大して実力のないヤンキーが負けた腹いせにする行為であって、オズボーン程の選手がする事ではない。
とっさに透はラケットで食い止めたものの、彼の行動が理解できなかった。
「何すんだよ!? アンタほどのプレイヤーが、なんでこんな……?」
逆上したオズボーンには透の声が届かないのか。彼は一方的に恨み事を発している。
「貴様のような人間に何が分かる? 人を陥れて喜んでいるクソ野郎に!
プロに興味がない、だと? ふざけやがって! ここに辿り着くまでに、俺がどれだけのものを犠牲にしてきたか、分かっているのか? この試合には、俺の全てが懸かっていたんだ!」
プロテストで落とされたのならともかく、ストリートコートでヤンキー相手に敗北した結果、プロになる夢を目の前で破り捨てられたのだ。オズボーンが爆発させた怒りの炎は一瞬で他の選手達にも広がった。
我を忘れて襲い掛かる彼等に、透を始めとするメンバー達も臨戦態勢に入った。無論、手加減などするつもりはなかった。
先程まで自分の魂を騒がせていた対戦相手が、そこらの低俗なヤンキーと同じ行動に走っている。透にはそれが裏切り行為に思えて、どうにも我慢がならなかった。
「アンタは、もっとマシな人間だと思っていたのに!」
「貴様のような下種に言われる筋合いはない」
「すげえ良い試合だったじゃねえか!? あんな面白れえ試合が出来て、アンタに感謝してたのに!」
「何が、感謝だ!? 最初から騙していたんだろう? 俺をからかうつもりで……!」
なりふり構わず暴れまわるオズボーンに対して、透の対抗手段は限られていた。ストリートコートへ初めて入った時、ジャンと約束を交わしたからだ。どんな事があっても、利き腕だけは乱闘に使用しないと。
「貴様さえ、ここにいなければ!」
暴徒と化した集団の先陣を切るオズボーンに、すでに理性はなかった。再び振り上げられたラケットから垣間見えるのは、夢を断たれた怨念から来る殺意である。
ネットを挟んでこそ対処のしようもあるが、体格差のあるオズボーンとまともに相対しては、こちらの身が持たない。そう判断した透は、この暴挙を一旦鎮めようと、自身のラケットで彼の鳩尾(みぞおち)に狙いを定めた。次の瞬間――。
「いい加減にしねえか、バカ野郎どもが!」
腹の底にずしりと響き渡る怒号と共に、バドワイザーのボトルが透を目がけて突っ込んできた。
ガラスが砕ける音と、飛び散る茶色の破片と。収まりのつかない乱闘を鎮めたのは、これらに続く異臭であった。つんと鼻の奥が刺激される匂いの元は、発火性の極めて高いガソリンだ。
「黒焦げになりたくなければ、全員ここから消え失せろ!」
丸太の上ではジャンがライターを片手に、憤然とコートの中を睨み付けている。
足元にじわじわと広がるガソリンと、今にも投げ込まれそうな炎を見せられ、バーナインに連れて来られた挑戦者達は、全員、血相を変えてコートから出ていった。
リーダーの一喝で騒ぎは収まったが、透の怒りは冷めやらない。
「おい、ジャン! さっき、俺を狙ってボトルを投げただろ!?」
すんでのところで避けはしたが、そのコースは明らかに自分を狙ったものだった。オズボーンに対してよりも、敵味方区別なくボトルを投げつけたジャンの方に強い怒りを覚えた。
ところが、それを聞いたジャンが、さらに語気を荒らげ掴みかかってきた。
「この大バカ野郎が! てめえは、ここで何を学んできたんだ!?」
「どういうことだよ? いつもの事じゃねえか! 売られた喧嘩を買って、どこが悪い?」
試合数より乱闘の方が多いコートでは、この手の騒動は珍しくない。しかも今回は相手から仕掛けられた喧嘩であって、自分達は応戦しただけのことである。
それにもかかわらず、ジャンはこれまで見たこともない形相で、皆を睨み付けている。いや、視線は真っすぐ透に向けられている。
「さっき自分が何をしようとしたのか、よく思い出してみろ」
その凄みの効いた声から、ジャンを本気で怒らせたと悟ったが、透はまだ自分の正当性を訴えるつもりであった。
「オズボーンをぶん殴ろうとしたんだよ! あいつが殴り掛かってきたから、やり返そうとしただけだ!」
言った側から、息が出来なくなった。逞しい腕に襟首を捕まれ、宙吊りにされていた。
地面につかない両足をジタバタさせて抵抗を試みるが、大柄なリーダーの前では無駄に終わる。
「もう一度、聞く。お前は、何をしようとした?」
「だから、オズボーンを殴ろうと……」
「どうやって? 右の拳で、か?」
「そ、それは……」
「左でか?」
「いや……」
「答えてみろ!」
ジャンの指摘を受けて、初めて透は己の愚行を省みた。
今の騒ぎで、自分はやってはならない過ちを犯すところであった。体格差のあるオズボーンを相手に拳では届かないと判断して、ラケットで腹部を狙っていたのである。
「俺の……ラケットで……」
「てめえのラケットは、喧嘩の道具か? 人を傷つける為にあるのか?」
頭に血が上ったとは言え、あまりの愚かさに返す言葉がない。
「そのラケットは、大事な夢を掴むための道具じゃねえのか!?」
「……悪かった、ジャン……本当に……」
すっかり意気消沈した透を下に降ろすと、ジャンは深々と溜め息を吐いた。そしておもむろに自身のラケットを取り出し、フレームに巻かれていたプロミスリングの結び目を丁寧に解いていった。
それは桜色と藤色をした和のセンスの漂うプロミスリングで、仲間内では彼女からのプレゼントだと噂されていた。本人から直接聞いたことはないが、透もそう思っていた。
ラケットを「夢を掴むための大事な道具」と説くリーダーが、いつもそこに結び付けているぐらいだから、よほど大切な人からのプレゼントに違いない。
細長い組紐のような姿になったリングを、ジャンが護身用の小さなナイフを使って四等分に切り分けた。
「俺を怒らせる三人、ちょっと来い!」
名前を呼ばれた訳ではないが、透、ビー、レイの三人は大人しく従った。
「今から俺の前で誓いを立てろ」
そう言ってジャンは四等分した紐の一本を自分のラケットに結び直し、残りを三人に手渡した。
「お前達は頭に血が上ると、何をしでかすか分かんねえ。今も、トオルだけじゃねえよな? ビーも、レイも、俺がボトルを投げ入れなければ、トオルと一緒になってラケットで殴っていたよな?」
黙って聞いているところを見ると、彼等も同じ過ちをしかけたらしい。
「良いか? 乱闘が多いこの場所で身を守るには、武器も必要だ。バックヤードに転がっている鉄パイプでも、護身用のナイフでも、角材だって構わねえ。
だがな、テニスプレイヤーでいたければ、ラケットだけは使うな。これは人を傷つける為の道具じゃねえ」
三人は黙って話を聞いていた。
常識で考えれば、こんな無茶な話はない。これではラケットさえ使わなければ、角材や鉄パイプで人を殴っても良いと認めているようなものである。
しかしリーダーの真意を知る三人は、彼が伝えようとしている事が一般常識ではないと分かっていた。
「道具には、その持ち主の魂が宿る。だから、自分から汚しちゃいけねえ。
たとえ相手がどんなに卑劣な奴でも……。例えば、お前等も知っているチャンフィーだったとしても、ラケットだけは使うなよ?」
チャンフィーとは、ジャンと並んでこの街を牛耳るもう一人のリーダーの名前である。但し、勢力的には同じでも、向こうは悪名高きリーダーとして同じヤンキーからも忌み嫌われている。
その彼の名前を出して、ジャンは三人に念を押した。
「どんな時でも、お前達はテニスプレイヤーの誇りを忘れるな。分かったな?」
テニスプレイヤーとしての誇り。きっとそれはジャンが最も大切にしているもので、ここにいるメンバー達にも守って欲しいものなのだ。
彼女からの大事なプレゼントを切り裂いてまで、彼は出来の悪い三人に説いている。
夢を掴むためのラケットを自らの手で汚してはならない。どんなに荒んだ環境にいたとしても、自ら堕ちてはならない。他人から汚されるのと、自ら汚れるのとでは、傷付き方が違うから。
短くなったリングを受け取ると、透はラケットのフレームに結びつけた。ビーとレイもそれに続いた。
もはやプロミスリングとは呼べない不恰好な結び目が四つ揃った。
誓いの儀式はこれで終了したと思っていたら、今度は丸太に向かって整列させられた。
ラケットを胸に当て、ジャンが誓いの言葉を述べた。
「俺達は、テニスプレイヤーとして二度とラケットで人を傷つけないと誓います。ほら、後に続け」
少し仰々しい気がしたが、リーダーから分け与えられたリングの重みを考えれば、従う外はない。
「俺達は、テニスプレイヤーとして二度とラケットで人を傷つけないと誓います」
三人の誓いの言葉を聞いて、ようやくジャンに笑顔が戻った。
「それで良い。お前達、一つくらいは俺の言う事を聞くんだぞ?」
「ジャン、本当に悪かった」
自身のラケットに結ばれたプロミスリングを認め、透の口から謝罪の言葉がついて出た。台詞は己の愚行に気付いた時と同じだが、その意味合いは違っていた。
「これ……ジャンの願いを叶えるためのプロミスリングだろ? 願掛けしてたんじゃねえのかよ?」
「いいや。実は俺も、昔、同じ誓いを立てさせられた。これは、その時の『誓いの証』ってヤツだ」
「それって、シアトルの女か?」
すかさずビーが会話に割って入った。クリスマス・ホリデーに必ずそこへ立ち寄る行動パターンから、ジャンの本命の彼女がシアトルにいるというのは周知の事実である。
「ああ、そうだ。プロを辞めて一番荒れている時に、俺を救ってくれた女だ」
荒れていた頃の話をするわりには、ジャンが遠くに向けた眼差しは柔らかなものだった。まるで故郷の話でもするような。
「あの頃は、酷かったなぁ。飲んでは暴れて、暴れては飲んで。気が付けば、俺は街中の居酒屋から締め出されていた。
行き場がなくて、生きる気力もなくて、自分でもどうしたいのか分からなかった。そんな時、出会ったのが彼女だ。
当時、彼女にはモデルになるという夢があって、『ラビッシュ・キャッスル』でアルバイトをしながら学校に通っていたんだ。
朝っぱらから酔っ払って店に来る俺に、彼女は何も言わずに酒を出し、話を聞いてくれた。
最初は大人しい女だと思った。男に尽くすタイプと言うか、俺にとっては好都合で……それだけの感情しかなかった。
ところがある日、俺が店の客と騒ぎを起こして、ラケットで相手を殴ろうとした時だ。あの女、いきなり焼きたてのキドニー・パイを俺の顔面に投げつけやがった」
「随分、過激な仲裁の仕方だな。まともに喰らったら、火傷じゃ済まねえぞ」
「ああ、本気で女を殴ろうとしたのは、後にも先にも、あの時だけだ。ただでさえ、テニスプレイヤーなんてのは潰しが効かねえ上に、失明でもした日にゃ、食っていけなくなっちまう。
けどな、『目が見えなくなったら、どうするつもりだ』と詰め寄る俺に、あいつは毅然とした態度でこう言いやがった。
『視力を失うのと、誇りを失うのと、どっちが良いの?』ってな。
正直、参ったと思った。こっちがガツンと殴られた気分だった」
「それで惚れちまったのか? どっちも、すげえな……」
ビーが恍惚とした表情で溜め息を漏らした。
その気持ちは、透にもよく分かる。自身の体験はもとより、これまで見聞きしたどの話よりもジャンの思い出話は激しくて、決して大人の恋と呼べるような洒落たものではないが、なぜか憧れを抱かずにはいられない。
自堕落な生活を続ける男を慰めるでもなく、キドニー・パイを投げつけて啖呵を切る女。そんな彼女に救われたと、目を細めて語る男。彼等は理屈のまったく届かぬところで恋に落ちて、彼等にしか理解し得ない価値観で繋がっているのだろう。遠く離れて暮らす今も。
「気が強くて、高飛車で、やたらとお節介で。俺が今まで出会った中で、最高の女だ」
「だったら、なんで他の女と付き合っているんだよ?」
これは予てからの透の疑問でもあり、不満でもあった。そんな大切な人がいながら、何故ジャンは多数の女性と付き合えるのか。プロミスリングの彼女が、リストバンドをくれた奈緒と重なった。
口を尖らせて抗議する透をなだめるように、ジャンは理路整然と自分勝手な見解を述べた。
「あのな。上等な女を相手にするには、男も格を上げなきゃならねえ。より多くの女性と付き合い、経験を積むことで、男の価値も上がるし、腕も上がる。
どのタイミングで、どんな言葉を囁けば、相手が喜ぶか。日々努力と研究を重ねておかねえと、良い女はすぐ他の男に取られるからな」
「全然、分かんね。エロオヤジの言い訳にしか聞こえないんだけど?」
「ま、ガキに説明したところで、分かんねえか?」
「いつまでも、ガキ扱いすんな! まったく、アンタとモニカは、すぐ俺を……。
あれ? そう言えば、モニカは?」
乱闘騒ぎで忘れていたが、試合前にいたはずのモニカの姿が見当たらない。
今日の苦戦の原因は、半分は疲労のせいだが、残りは前半のサーブの不調によるものだ。普段はあまり意識しないが、オズボーンのような実力のある選手と対戦すると、サーブが試合の主導権を握る上で非常に重要だ、と痛感させられる。
ジャンから出された課題のサーブは99%まで完成している。今の試合でも、それなりの手応えはあった。だが、最後の1%になかなか辿り着けない。
試合後の騒ぎがなければ、透は残りの1%を完成させるべく、モニカにサーブ練習を見てもらうつもりであった。
「なんだ、帰ったのか」
落胆を露にする透の傍らで、ジャンが思い出したように呟いた。
「確か『ロコ』に行くとか、言っていたな。プロの試合がどうとか、口走っていたっけな」
「プロの試合? そうか、その手があったか! ジャン、俺も今日は帰る!」
喜び勇んで飛び出した、まだ幼さの残る小さな背中を見送りながら、ジャンが無精髭にまみれた頬をふと緩めた。
「ふん。こっちも、そろそろか……」