第28話 あるべき場所

 丸太の上で朝を迎えるのは、これで何度目だろうか。
 海面に広がる陽の光が細かい反射を繰り返し、重い瞼をちらちらと刺激する。
 夜景が織りなすオレンジ色のイルミネーションとは異なり、朝の光は慌しい。太陽から貰いたてのエネルギーを存分に使い、初めは港を、続いて高台にあるストリートコートを揺り起こし、最後の仕上げとばかりに、朝もやの立ちこめる街中へと飛び出していった。
 透はストリートコートで迎える朝が嫌いではなかった。何処にいようと、誰であろうと、平等に与えられるものが存在する、と実感できるから。
 ただ一つだけ難を言えば、深夜から明け方にかけての寒さが辛かった。
 特に夏の手前のこの時期は、昼夜の寒暖の差が激しく、実際よりも体感温度が低く感じられる。その上、風通しの良い金網フェンスと、コンクリートの地面では、防寒のしようもない。

 「夜通し付き合わせて、悪かったな。寒くないか?」
 透の問いかけに、隣で膝を抱えるモニカが小さく首を振った。
 「大丈夫。アナタこそ体を冷やさないようにしないと、肩でも壊したら大変よ」
 「俺は慣れているから良いけどさ、モニカは……その、一応、女だし」
 出来るだけ、普段通りに話したつもりであった。昨晩の告白は冗談で、強烈な平手打ちも、大粒の涙も、演技であると。
 何度も思い込もうとしたが、あの台詞だけは本心のような気がしてならない。
 「自分でも、どうして良いのか分からないの。ただアナタが好き。それしか理由が見つからない」
 透自身も奈緒に対して同じ感情を持つだけに、嘘を吐いているとは思えなかった。
 「愛している」と言えるほど深くは知らない。「恋」と呼べるほど甘くもない。ただ「好き」としか言いようのない想いがある。
 それ以上でも、それ以下でもなく。その気持ちをどうしたいのかも分からない。
 モニカのあの台詞は、認めるだけで精一杯の感情をシンプルに言い表したものだった。誰にも受け入れられない彼女の気持ちは、この後、どこへ向かうのか。
 コートの入口を確認する振りをして、透はさり気なくモニカの様子をうかがった。
 「大丈夫」と言ったわりには、唇の色は紫になり、膝を抱える腕も小刻みに震えている。
 「あのさ、そういうの、可愛くないぜ」
 わざと憎まれ口で前置きをしてから、透は着ているジャケットをモニカの方へ差し出した。気の強い彼女には、こうでもしないと素直に好意を受け取ってはもらえまい。
 ところが間髪を容れず、その好意は突き返された。
 「悪いけど、可愛い女でいるより、今はコーチでいる方が大事なの。選手の体を一番に考えるのが、コーチの仕事よ。
 アタシは良いから、ジャケットを着なさい」
 「モニカは、良いのかよ? その……コーチって意味で……」
 自分でも余計な一言を発した、と後悔した。
 もともと直球しか投げられない人間は、意識しないように話をするのが上手くない。意識しないよう気をつけるのだからと考えて、結局、露骨な言い方になってしまう。
 今の会話にしても、わざわざ「コーチって意味で」と付け足さなくとも、二人の間にはコーチの話題しか上がっていない。それなのに、女と言われた時点で意識が昨日の告白へ傾き、その事を否定するために不要なフォローを加えてしまった。
 「良いも、悪いもないの。アタシが選んだことだから」
 挙動不審の透に反して、モニカは毅然とした態度を通している。
 「モニカがそう言うなら、良いんだけどさ……」
 我ながら要領の悪さを自覚したが、これ以上余計な事を話せば状況が悪化しそうで、透は突き返されたジャケットと共に大人しくしていた。

 すると、ぎこちない会話を修復しようとしてくれたのか。モニカがまったく別の話題を切り出した。
 「ねえ、トオル? どうしてアタシがコーチになろうと思ったか、まだ話していなかったわよね?」
 「そう言えば、聞いた事なかったな」
 「アタシね、アナタと違って、すごく飲み込みの悪い生徒だったのよ」
 「へえ、そんな風には見えないけど……」
 それまで忙しく動き回っていた朝の光が落ち着きを取り戻し、辺りは初夏ならではの軽やかな薄日が下りている。
 透はふと綺麗だと思った。上空から注がれる、透けるような朝の光も。それを受けて本来の色を取り戻したモニカの横顔も。
 ややこしい恋愛感情は抜きにして、単純にそう感じた。夢を語り始める人間の横顔は、どんな時でも輝いて見える。
 「体で覚えるよりも、理屈で覚えるタイプだったのよ。だから、コーチが提示した練習メニューにも素直に従えなくて。
 アタシを担当するコーチは、大抵、半年しか持たなかったわ」
 二人の間で立ち往生するジャケットを掴むと、モニカは透の肩にかけてから、また話を続けた。
 「自分が恵まれた環境にいると知らなかったのね。代わりのコーチはいくらでもいると思っていたから。
 アタシのせいで辞めていったコーチもいたけど、何とも思わなかった。
 でもね、ある時、素晴らしいコーチとの出会いがあったの」
 彼女の頬が紅潮するのが分かった。話の核心に触れる前に、記憶の方が先んじて現れ、感情を昂らせているのだろう。
 「そのコーチは、アタシが納得するまで根気よく説明を繰り返してくれたわ。
 生徒には体で覚えるタイプもいれば、視覚や聴覚で覚えるタイプもいる。モニカは理屈で覚えるタイプだと言って、嫌がらずに質問に応じてくれたの。
 何故この練習が必要なのか。それによって、どんな成果が得られるのか。全部、説明してから練習に取り掛かるのよ。
 アタシがコーチなら、きっと投げ出していたと思うわ。だって、すごく忍耐力を要する仕事だもの」
 言われてみれば、確かにそうだ。練習の度にトレーニングの必要性を説くコーチなど、聞いたことがない。
 「だけど、彼は何度もそれを繰り返したの。アタシが彼を信用して、素直にコーチの提案を聞き入れるまでね。
 それで、ようやく気付いたの。彼がまず優先させたのは、生徒との信頼関係を築くことだって」
 以前、彼女はジャンと透の荒っぽい師弟関係を羨ましいと打ち明けたことがあったが、その発想は信頼関係を第一に考えるコーチのポリシーを思い出しての事だろう。
 「いつだったか、どうしてコーチになったのか、彼に理由を尋ねたことがあるの。そうしたら、何て言ったと思う?」
 透はすぐには答えられなかった。
 プレイヤーの気持ちであれば、即答できる。しかしコーチという職業は、他人の成長を見て何が楽しいのか。正直なところ、理解できない。
 「『プレイヤーが一歩踏み出す瞬間を、最初に見られるのがコーチだから』って、彼はそう答えたの。
 繰り返し伝えてきたことを、生徒が自分の物にした瞬間。ずっと超えられなかったハードルを越えた瞬間。そういう時の選手は、すごく輝いて見えるのよ。さっきのアナタみたいにね」
 「さっきの俺?」
 「そうよ。アナタだけじゃないわ。ビーも、レイも、課題をクリアした時の顔は、皆、輝いているのよ。
 そして、その瞬間を特等席で共有できるのがコーチの醍醐味。だからアタシも、彼みたいなコーチになりたいと思ったの」
 「そうか、分かった。いや、よく分かんねえけど、コーチになる夢が大事なんだって事は、よく分かった」
 他人の夢を本人の描く通りに理解することは難しい。だが、どれだけその夢が大切なのか、推し測ることは出来る。自分も夢を抱えていれば、なお更だ。
 歯切れの悪かった会話はいつものテンポを取り戻し、二人ともに自然な笑みが浮かんでいた。
 「あのさ、モニカ?」
 透はこの機に、今までモニカに対して抱いていたある想いを打ち明けた。
 「前から思っていたんだけどさ。たぶん、ジャンは俺達と同じ道を通ったんじゃねえかって。
 理想のイメージはあるのに形にならなくて、苛ついたり、悔しかったり。どうすればスピードが上がるのか。威力が上がるのか。俺よりも苦しんだのかもしれない。
 モニカのことも、単に恩師の娘とかじゃなくて、自分も似たような経験があって、キャプテンならでは苦しさとか、孤独とか、そういうのを分かってんじゃねえかって」
 話の内容は理解できるが、その意図が見えぬという風に、モニカが戸惑い気味に首を傾げた。
 己の語彙の乏しさを恨めしく思いながらも、透は先を続けた。
 「つまり、その……モニカのいたチームには、たまたまその辛さを分かってくれる奴がいなかっただけで、そいつ等の下した評価が、モニカの今までやってきた事の答えじゃない。
 この何カ月か、ずっと一緒にいて、俺はモニカがそんなに自分勝手な奴だとは思わない。ジャンもそれを知っているから、秘書とか言って、俺達の指導をさせているんだと思う。
 だから、もっと自分に自信を持っても良いんじゃねえか?」
 出会った全ての人に分かってもらえなくても、同じ道のりを通った者には分かってもらえる。その事を知るだけで、前へ進む勇気が湧いてくる。少なくとも、顔を上げることが出来るはず。
 透はそれをジャックストリート・コートの仲間との出会いを通して教わった。サーブ練習に付き合ってもらった礼という訳ではないが、モニカにも同じように、少しで良いから前に進んで欲しかった。

 「アナタのお手本が、登場したみたいよ」
 何となく話をはぐらかされた感はあったが、モニカに言われてコートの入口を見やると、ジャンがラケットを担いで中に入ってくるところであった。
 大抵、朝は二日酔いで機嫌の悪いリーダーが、珍しく両眼をきちんと開き、二足歩行で歩いている。
 「ふん、朝っぱらから相手をしろってか?」
 透の得意げな顔を見て事情を察したらしく、練習の成果を報告する前に、ジャンはベースラインにポジションを取った。
 「ああ。今から、すげえの見せてやるから、腰抜かすなよ?」
 丸太から飛び降りると、透もコートに散乱しているボールを手に取り、位置についた。
 「自信満々だな」
 「俺とモニカの最強コンビで編み出したんだ。当然だろ?」
 「それじゃあ、じっくり見せてもらおうか?」
 「じっくり見る暇なんてねえよ」
 初めてジャンから課題を出されたのも、こんな静かな朝だった。
 『伝説のプレイヤー』と呼ばれる男から放たれたサーブは、今まで目にしたどの球よりも凄まじかった。凄まじいという表現がピッタリくる程に、スピードも、キレも、重量感も、全てにおいて次元が違う事を知り、その途方もない迫力に一歩も動けなかった。
 あの時と同じサーブが、今、透の頭の中に描かれている。
 一回、二回、三回とボールをバウンドさせて、感触を確かめてから、全神経をトスに集中させる。鍵を握るのは、このトスの角度である。
 左手がボールを上げると同時に、ラケットを握る右腕も速やかにスタンバイに入る。何度も繰り返された練習の中で自然と培われた動作の数々が、意識から外れたところで行われている。
 一瞬で過ぎてしまうベストなタイミングを掴む為に、意識をそこから逸らさずいる為に、体の各所が、指令がなくとも動き出す。まるで自分達の役割を心得ているようだ。
 視線はただ一つの打点を捉え、右腕はそこに向かってラケットを振り切れるよう、じっと出番を待っている。
 体のしなりが大きくなる。下半身から背中、背中から腕へと、連鎖の波を打つ筋肉が、持てるパワーを最大限に活かすべく、限界まで体をしならせ、その力を溜めている。
 頭の中のイメージが、己の肉体と繋がった――。
 ラケットがボールを弾くと同時に、コンクリートの地面が乾いた音を響かせた。朝の静けさの中でコートに響き渡る快音は、二人のプレイヤーに独自の満足感をもたらした。
 「な、言った通りだろ?」
 透は、モニカのいう「プレイヤーが輝く瞬間」を自分なりに感じ取った。たった一球のサーブだが、ここに辿り着くために重ねてきた努力を思えば、フルマラソンのゴールに匹敵する価値がある。
 そして、そのゴールで待ち構える観客もたった一人。労いの言葉も、賞賛の拍手もなかったが、ふてぶてしさを含んだ笑みが合格を告げる証となった。
 「ふん、やっと気付いたか」
 「ああ。ちょっと苦労したけど、俺には頼りになるコーチがいるからな」
 実際には「ちょっと」どころではなかったが、可愛げのないリーダーの態度に合わせて、透はうそぶいた。
 「どうせモニカが手取り足取り、指導したんだろう?」
 「違うって! ヒントを見つけたのは、俺のが先だ。そうだよな、モニカ?」
 透が慌てて同意を求めると、モニカも援護に回った。
 「その通りよ、ジャン。最初にトオルがトスを前に上げることに気付いたのよ」
 「あ、いや……それは、モニカのおかげだ。俺は、何となく気になった程度だから……」

 昨夜、モニカの自宅でプロのプレーを調べていた透は、自分と同じ背丈のプレイヤーが長身の選手と違わぬ鋭いサーブを放つシーンを見つけ、そこにヒントが隠されていると直感した。
 具体的な方法は分からなかったが、その映像が解決の糸口となる予感はあった。そしてモニカとシミュレーションしていくうちに、トスアップの時にボールを前に出して球威を操作している事実を突き止めた。
 フラット・サーブの場合、スピードを重視するあまり、なるべく高い打点から打とうとする。ところがこの選手は、トスを前に出す事で、長身の選手と同等のスィングの距離を生み出していたのだ。
 但し、この方法はボールを前に出した分だけスピードも上がるという単純なものではなく、通常のトスとの高低差を埋める為の巧妙なリストワークも要求された。
 ラケットがボールを捕らえる瞬間に手首を返し、一気に溜め込んだパワーを注ぎ込む。これを真下に落ちてくる素直な軌道の中で行なうのではなく、前へ遠のくボールを捕らえてやろうと言うのだから、タイミングを掴むのは見た目以上に困難な作業であった。
 しかも前に上げるトスは落下時間が短い上に、スィングの距離が増えた分、倍の速度でラケットを振り切らなければ間に合わない。プロの選手は易々と打ち込んでいたが、全てのタイミングを合わせるのに、結局、ひと晩かかった。
 それでも、このやり方は苦労に値するもう一つの大きな利点があった。トスを前に出す事により、受ける側から見れば、コースの予測が立てづらくなるのだ。
 すでに透は、同じフォームで三つのコースを打ち分けられる。つまり、このトスをマスターした事で、出された課題以上に強力なサーブを得ること出来たのだ。

 「俺が出した課題以上のサーブを、お前等二人で完成させたということか」
 「だから言っただろ? 最強コンビだって!」
 得意満面の透に対して、ジャンから厳しい評価が下される。
 「サーブを打てるようになったぐらいで、調子に乗るな。お前には、まだやるべき事がある」
 「ゲッ! そうなのか?」
 「この課題は手始めだと、最初に言っておいたはずだ。当然、次もある。
 だが、今日のところは合格だ。モニカ、よく頑張ったな」
 「だから、なんでモニカばっかり褒めんだよッ!? 俺だって、すっげえ頑張ったのに!」
 「ほう……『ちょっと』苦労しただけ、じゃねえのか?」
 明らかに、ジャンは完成までの苦労を承知の上で、透をからかっている。努力を認めるとか、褒めるといった類の言葉を、この性格の悪いリーダーに求めるのは愚かな行為である。
 苦労がまったく報われぬ生徒を不憫に思ったのか。モニカが労いの言葉をかけてくれた。
 「トオルは、よく頑張ったわ。アナタの歳で、ここまでのサーブを完成させるなんて、大したものよ。捻くれ者のリーダーにもっと自慢してやりなさい」
 称賛の言葉を強く望んだわりには、面と向かって褒められると照れ臭かった。
 「いや……ジャンの言う通り、完成したのはモニカのおかげだから。
 そうだ! モニカ、このサーブに名前をつけてくれよ」
 「アタシが?」
 「俺がここに来て、初めて形になったものだから。記念っつうか、忘れたくないんだ。良いだろ?」
 努力の末に勝利を掴んだとしても、ストリートコートでの戦績が公の記録に刻まれることはない。どんな強敵を倒そうと、盾やトロフィーが授与されるはずもなく、証となるものは何もない。ここで形になるものと言えば、乱闘に巻き込まれて出来る傷跡ぐらいである。
 透の想いが通じたと見えて、モニカはしばらく思案した後で、ある人物の名前を口にした。
 「それじゃあ、ブレイザー・サーブで、どうかしら?」
 ブレイザーは、ジャンの苗字である。
 「何か、やる気が失せるネーミングだな」
 「どういう意味だ、それは?」
 名前の由来である本人から、すかさず突っ込まれたが、透はこの時とばかりに反論した。
 「だってさ、サーブの度にアンタの顔を思い出すんだせ。ムカついて、集中できねえよ」
 「確かに、お前のヘタレサーブに俺の名前が使われるのは不愉快だ」
 「ヘタレって言うな! 返せなかったくせに」
 「指示通りに完成させたか、じっくり見てやったんだ。あんなヘタレサーブ、その気になればリターン・エースで返してやる」
 「だから、ヘタレって言うなって!」

 「もう、二人とも、いい加減になさい!」
 永遠に続くかに思われたレベルの低い口喧嘩を、モニカがピシャリと鎮めた。
 「ジャン、アナタも本当は嬉しいんでしょう? もっと素直に喜びなさいよ。
 それからトオルも。アナタは『伝説のプレイヤー』のサーブを受け継いだのよ。何も恥じることはないでしょ?」
 二人の性格をよく知る彼女から理路整然と説かれては、ぐうの音も出ない。
 「ブレイザー・サーブで良いわね?」
 「頼んだのは俺だから文句はねえけど、モニカの名前じゃなくて良いのかよ?」
 「コーチは、表舞台に出るものではないわ。それに、さっきも言ったけど、このサーブはジャンのサーブが軸になっているんだから、これが一番良いと思うの」
 「分かった。それじゃあ、ブレイザー・サーブで決まりだ。
 で、次は何をするんだ?」
 たった今サーブを完成させたばかりだというのに、透は次の課題が気になって仕方がなかった。
 「トオル。少し休んだほうが良いわ。アナタ、昨日は寝ていないのよ」
 透は昨日どころか、厳密に言えば、一昨日からまともに睡眠をとっていない。モニカの心配も無理からぬことである。
 球技大会の作戦会議で夜通しエリックと語り明かし、その翌日はリクリエーションとアルバイトをこなし、オズボーンと対戦した後、昨日の夜から今朝にかけてはブレイザー・サーブの完成に時間も労も費やした。疲れていない訳がない。
 「そう思うんだけど、何だか絶好調でさ。こう、上手く言えないけど……体が軽い感じ?
 今なら、どんなショットでも制覇できそうな気分だ」
 嘘ではなく、虚勢を張っているのでもなく、本当に調子が良いと感じた。そして、この状態を我が事として知る男が、透をネット際へ呼び寄せた。
 「だったら、次の課題を教えてやる」

 ジャンには、この現象が手に取るように分かる。
 なかなか超えられなかったハードルをクリアした直後というのは、心身ともに充実し過ぎて、理性では歯止めが利かなくなる。自分の力が無限にある気がして、あえて困難に挑戦したくなり、肉体もいう事を聞いてくれると錯覚してしまう。
 これはあくまでも本人の感覚であって、実際に疲労は蓄積されているのだが、それを説き伏せて休ませたところで、極度の興奮状態にある選手に効果はない。
 同じ経験を持つジャンは、高揚する透に新たな課題を提示した。
 「次はアングルボレーだ」
 さらに難易度の高いステップを知らせることで、大抵は鎮静剤の役割を果たしてくれる。
 ところが、それを聞いた透はますます目を輝かせ、やる気満々でネットについている。サーブをクリアし、ドリルスピンショットも習得した今、自身に足りないのはネット際での勝負球だと分かっていたのだろう。
 「よっしゃ、始めようぜ!」
 掛け声までは威勢が良かったが、ジャンが球出しを始めると、俊敏さが売りの少年にしては反応が鈍かった。やはり、体力的には限界のようである。
 「どうした、トオル? そんな動きじゃ、すぐに抜かれるぞ!」
 スピードダウンする透に対し、ジャンはわざと球出しのペースを速めた。もはや決め球の伝授どころか、ボレー練習にすらならない有様だ。
 この様子を見兼ねたモニカが、二人の間に割って入った。
 「トオル、少し休みなさい。それから、ジャン? 球出しのボールが速過ぎるわよ」
 モニカの指摘を受けたジャンは、大げさに腕を広げてみせた。
 「これが俺の限界だ。これ以上、遅い球なんて出せやしない」
 「仕方がないわね。それじゃあ、トオルがタイミングを掴むまでは、アタシが球出しをするわ。二人とも、良いわよね?」
 「モニカ……?」
 思いも寄らぬ展開に驚いた透が、その事を本人に告げようとしたが、ジャンはそれを遮り、
 「頼んだぜ、モニカ。トオル、しっかりやれよ!」と言って、彼に目配せをした。

 「さあ、基本のアングルボレーから始めるわよ。初めは、サイドスピンは意識しなくて良いから、ボールに角度をつけて返すところからやってみて」
 モニカが説明を加えながら、球出しを始めた。そこへコートにやって来たビーが、まず足を止めて、目を瞬いた。
 続いてレイも、他のメンバー達も、ネットを挟んで透と向き合うモニカの姿に気付くや否や、ビーと同じ反応を見せた。
 「おはよう。あら、皆、どうしたの?」
 他人事のように訝るモニカに向かって、ビーがコートの中を指差した。
 「モニカ? お前、いまどこに立っているか、分かってんのか? いつの間に、コートに入れるようになったんだ!?」
 これを聞いて、一番驚いたのはモニカ本人だ。
 「アタシがコートに入っている? 嘘!?」
 ベースラインから中に入れなかったモニカが、コートのど真ん中で球出しをしている。思いも寄らない光景に、メンバー達はもちろん、彼女自身もまだ信じられない様子であった。
 「これって、夢じゃないわよね?」
 「だから、言っただろう? モニカにはコーチの素質があるってな」
 ジャンには最初から分かっていたのだろう。人を育てることに情熱を傾けられる人間は、熱意ある生徒の前では、己の都合など容易に捨て去ることが出来ると。
 「ジャン? もしかして、わざとあんな球出しを?」
 「いや、あれは偶然だ。俺はそんなに器用じゃない」
 「そうそう。このおっさんの球出しは、昔から最悪だから。
 モニカが自分で乗り越えたんだ」
 リーダーの照れ隠しに、透が調子を合わせた。
 「何だと? 俺の球出しが最悪なら、てめえのボレーは馬の糞か? もたもたしやがって」
 「まったく、口の減らねえオヤジだな!」
 「もう、二人とも……」
 仲裁に入りかけて、モニカはもっと効果のある言葉を二人に伝えた。
 「二人とも、ありがとう。本当は半分諦めかけていたの。もしかしたら二度とコートに入れないんじゃないかって。
 でも、アナタ達と出会って、アタシにとって一番大事なものを思い出せたみたい。本当にありがとう」
 心からの感謝を述べる彼女に向かって、ジャンが珍しく無精髭だらけの口元を、白い歯がこぼれる程に綻ばせた。
 「おめでとう、モニカ。これで卒業だな?」

 卒業 ―― 突然、リーダーから発せられた言葉を、その場にいる全員が複雑な思いで受け止めた。
 モニカが他のメンバーよりも早くストリートコートを去る事は分かっていた。
 本来、ここに女性が出入りすること自体、危険極まりない行為であり、仲間に加わった時もジャンの秘書という名目で、正規のメンバーとは線引きされていた。それは、ここにいてはいけない人間だからである。
 皆の視線が一斉にモニカへ向けられた。
 身の丈に合わないハードルを課せられた苦しみを、彼女は誰よりも知っていた。周りから見れば大した事でなくても、当人には高いと感じることもあるのだと。
 その彼女が作る練習メニューは、各メンバーの能力に合わせて組まれており、おかげでモニカがジャックストリート・コートに来て以来、全員が着実に力を伸ばしていた。
 見捨てられる事はあっても、見守られた経験のない彼等にとって、彼女の存在がどれだけ励みなったことか。それを考えると、言いようのない寂しさが込み上げてくる。
 メンバーの動揺を敏感に感じたらしく、モニカも複雑な表情を見せている。
 彼女の卒業を祝う者もいなければ、本人さえも受けかねているようで、リーダーが発した「おめでとう」は宙に浮いたままだった。

 日が高くなるにつれ、他のメンバー達もコートに集まってきたが、事情を聞くと、皆、一様に口を閉ざしてしまった。
 「最初からモニカの親父さんとは、コートに入れるようになるまで、という約束だった」
 ジャンが後から来たメンバーにも聞こえるように、ゆっくりと話し始めた。いつもの乱暴な命令口調ではなく、どちらかと言えば、我が子を諭す父親の口調であった。
 「良いか? よく聞くんだ。ここはモニカのように、帰る場所のある人間が長居するところじゃない。そして、お前達もだ。
 人はそれぞれ“あるべき場所”を持っている」
 ここで一旦区切ると、ジャンは一人ひとりを見渡し、彼等の神妙な顔つきに納得したように頷いてから、また続けた。
 「このジャックストリート・コートは、永遠の居場所じゃない。“あるべき場所”へ帰るための砦だ。
 自分の能力を最も発揮できて、最もいたいと願う場所。自分が必要とされ、自分自身も必要だと思える場所が、必ずどこかにある。
 ここは、それを見つける為の仮の居場所だ。だから、“あるべき場所”を見つけたモニカは、もうここにいてはいけない。分かるよな?」
 ジャンの言う通り、ジャックストリート・コートは“あるべき場所”を失った人間が、流れ着いて出来た溜まり場だ。
 初めて透がストリートコートに足を踏み入れた時、ここが自分の「最後の砦」だと思った。それは今でも、そう思う。
 しかし世間から見れば「ゴミ溜め」と疎まれる危険区域で、モニカのようなプロのコーチを目指す人間がいつまでも留まる場所ではない。
 最後の砦を仕切るリーダーの説明に、それぞれが自分の流れ着いた経緯を思い浮かべていた。
 本当はもっと日の当たる場所を目指していたはずなのに、理不尽な差別や、不当な扱いを受けて、そのルートから外れてしまった。壁に突き当たり、出口のない迷路をさ迷った挙句、ここに辿り着いた。
 ここしか受け入れてくれる場所がなかったから、ここにいるしかなかった。誰も、ここを自分の“あるべき場所”だとは思っていないし、いくら居心地が良くても、そこを終の住処にしてはいけない事も分かっている。
 最後の砦は、ゴールではない。戦う力を蓄える為の一時しのぎの拠点に過ぎない。
 透は、ふとブレッドがここから卒業していった夜を思い出した。
 無茶苦茶なやり方で仲間のブレッドをコートから追い出した後、ジャンは独りで丸太に上がり、自分を責めていた。最後の砦を取り仕切るリーダーの願いは、ここにいる全員を“あるべき場所”に帰してやる事なのだろう。

 ジャンの気持ちを察した透が、最初に口を開いた。
 「卒業おめでとう、モニカ。モニカのグラデュエーションは盛大にやってやるからな!」
 「トオル……」
 「俺達もすぐ後に続くから。今度は、どこか他のコートで会おうぜ」
 「他のコートで?」
 「そう、もっとマシなコートで。お互いテニスを続けていれば、きっとどこかで会える。そうだろ?」
 「そうね。アナタの言う通りだわ。
 だけど、次に会う時は、せめてコンクリート以外のサーフェスが良いわね」
 一人、また一人と、準備が整っていく。仲間の巣立ちを受け入れる準備が。
 「モニカのグラデュエーションは、俺様が責任を持ってペンキ使用禁止にしてやるから、安心して来いよな!」
 最もペンキの使用頻度が高いビーの言を受けて、レイが冷やかなコメントを加えた。
 「だったら、ビーは出入り禁止にしないと……」
 「なんでだよッ!?」
 皆が納得したのを見届けてから、ジャンがグラデュエーションのまとめ役として透を指名した。
 「トオル? モニカのグラデュエーションは、お前が仕切れ。一番世話になっただろ?」
 「任せておけって! モニカ、いつが良い? 早いほうが良いよな?」
 「そうね。でも、ここは今日で卒業するけど、グラデュエーションは秋まで待ってもらえないかしら?
 十一月にプロコーチのテストがあるの。それに合格してから、堂々とここを卒業したいの。ジャックストリート・コートの一番の出世頭としてね」
 勝気なモニカらしいリクエストである。
 「それじゃあグラデュエーションは、十一月で決まりだな。ど派手にやろうぜ!」
 夢を諦めて去るのではなく、夢に向かって旅立つ為の卒業の儀式。彼女の為にも、それを願うリーダーの為にも、盛大な式にしようと、透は胸を躍らせていた。
 だが、その卒業式の日がジャックストリート・コートに悪夢をもたらすことを、この時はまだ誰も知らずにいた。






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