第29話 砕かれた砦
街の中心部でひしめき合うシティホテルには、二つの顔がある。旅行客に宿を提供する宿泊業の他に、もう一つ。地元住民を取り込む為のイベント業の顔である。
レストランや宴会場をベースに、フィットネスクラブ、テニスコート、エステサロンなど、目的に応じて住民が集える機会と場所を設けることにより、彼等が新たな顧客を連れて来る。
リゾート地とは違って価格競争の激しい都市部では、この第二の顔から得られる収益がホテルの命綱になる、と言っても過言ではない。
透が今から向かう『セント・ラファエル・ホテル』も例外ではなく、ここはVIP専用のスペースを各施設に設け、客層の差別化を図る事で、安定した収益を上げている。VIP待遇を望む客は、自動的に同ホテルへ転がり込む図式である。
華やかなビル群の中から一際重厚な造りの建物を見つけると、透は正面玄関を素通りして、裏手へ回った。
二つの顔は営業方針のみならず、建物の出入り口にも言える事だった。
表から見れば格式のある高級ホテルだが、裏へ回ればファーストフード店の従業員通用口と何ら変わりはない。ジーンズ地のジャケットとパンツといったラフな服装であっても、今夜、どこぞの宴会場で開かれるパーティの関係者ぐらいにしか思われず、フリーパス同然で出入りできるのだ。
無論、透が今回ここを訪れた目的は、パーティの裏方としてではない。もっと重要な任務 ―― モニカのグラデュエーションには欠かせぬ材料を求めて、ある人物の協力を仰ぎに来たのである。
「久しぶり、ブレッド。ストリートコートにいた頃より、顔色が良いんじゃねえか?」
ここ『セント・ラファエル・ホテル』は、ジャックストリート・コートを卒業したブレッドの職場でもあった。
かつての仲間との再会に、双方ともに自然と笑みがこぼれる。
「ああ。トオルも元気そうで、何よりだ」
ベルボーイの制服に身を包んだブレッドは、佇まいからして折り目正しく、立派なホテルの顔になっていた。ストリートコートに出入りしていた頃とは、まるで別人だ。
「悪かったな、職場まで押しかけて。頼んでいたアレ、良いか?」
「ノー・プロブレム。どうせ捨てるものだから、こっちも助かる」
先日、透はモニカからコーチテストに合格したとの知らせを受けて、早速、グラデュエーションの準備を始めた。
彼女にはサーブの件で人一倍世話をかけたのだから、幹事役を引き受けること自体はやぶさかではなかったが、問題は恒例化しているシャンパン・ファイトをどうするか。これが意外に難問だった。
さすがに年頃の女性、しかもフェミニズム論者のモニカに対して、あの下品な行事を敢行する訳にもいかず、だからと言って、シャンパン・ファイトを無くしては盛り上がりに欠ける。
そこで透は限られた予算内で上品、且つ、盛大にやる為に、ホテルの宴会等で使い終わった装飾用の生花を利用する事を思いついた。これらを丁寧に解して、花びらをシャワーのようにかけながら、モニカを送り出してやろうという計画だ。
「トオル? 今日は団体客が多くて、グラデュエーションには間に合いそうにない。俺の代わりに『おめでとう』と、モニカに伝えてくれないか?」
ブレッドは卵や消火器の泡をかけられ、見るも無残な姿で送り出された卒業生の一人だが、人の良い彼は待遇の差に文句をつけることもなく、仲間の卒業を心から祝福している様子である。
「あと、これを……」
詰襟の制服のポケットから、彼がネックレスのようなリング状の品物を取り出した。よく見ると、それは飴やチョコレートを繋げて作った「キャンディ・レイ」と呼ばれる菓子の首飾りであった。
子供が主役のイベントで使われることの多いキャンディ・レイだが、ブレッドが手にしているのは高級菓子を紐で通して作られた『セント・ラファエル・ホテル』のオリジナルで、これを目当てに来館する客もいる程、若い女性の間では人気の高い商品だ。
「キャンディ・レイなんて子供じみているんだが、ベルボーイの薄給じゃ、これが精一杯なんだ。他に女性が喜びそうなプレゼントも思いつかなくて……」
外見はすっかり変わったと思ったが、今でも仲間の事を考え、精一杯を形にして差し出す彼は、透がよく知るブレッドだ。
「サンキュー、ブレッド。きっと、モニカも喜ぶよ」
「そうだと良いけど……」
「間違いないって。彼女は仲間の好意が分からない奴じゃない」
これを聞いて、ブレッドが何か言いたげな目を向けた。そして、そんな彼を見て、透は時の流れを感じた。
ブレッドがストリートコートいた頃は、透とモニカはまだ互いを信頼し合うほどの仲ではなかった。むしろ犬猿の仲といった印象の方が強いだろう。
資材の置かれている保管庫へ案内される道すがら、透はブレッドが卒業してからストリートコートで起きた出来事をかいつまんで説明していった。ヘッドハンターが大物集団を連れて来て騒ぎになった事や、モニカと二人で課題のサーブを完成させた事や、「俺を怒らせる三人」の健在ぶりも。
「そうか。皆、頑張っているんだな。良かった……」
ブレッドが目を細めて喜ぶたびに、透は胸の辺りにチクチクとした痛みを覚えた。夢を諦めざるを得なかった彼が、夢を掴もうとする仲間を応援する姿に、グラデュエーションの時に感じた理不尽さが甦る。
「ブレッドは、その……」
コートに戻る気はないか、と聞こうとして、続きを躊躇った。これは今の彼にとって、残酷な質問に違いない。
自分から話しかけておいて口ごもる透に、ブレッドが人懐っこい笑みを傾けた。
「変わらないな、トオルは」
「そうか?」
「俺がストリートコートを去った時と同じ顔をしている。あのグラデュエーションの時と同じ」
「ごめん。あの時も、今も、何も出来なくて……」
「それは違う。トオルが夢を追い続けてくれるから、俺は安心して違う夢を探しに出られた」
「違う夢?」
「そう。今はベル・キャプテンになるのが、俺の夢だ。
他の皆から見れば小さな夢かもしれないが、いつかこのホテルのベルデスクを切り盛りできるようなキャプテンになりたい。それが、ここを紹介してくれたジャンに対しても恩返しになる、と思うんだ」
かつての仲間は、もうとっくに新しい夢に向かって歩き出していた。ストリートコートを卒業して、この巨大ホテルの中で追いかけられる新たな夢を。
持ち場に戻るブレッドの後姿を見送りながら、卒業式の日、彼から言われた最後の言葉を思い出す。
「俺は、トオルと同じコートでプレー出来たことを誇りに思っている」
皺一つない制服の背中を見つめ、透はあの時、言いそびれた返事をそっと呟いた。
「俺もだ、ブレッド。I‘m proud of you!(=君を誇りに思う)」
保管庫に入った透は、早速、作業に取り掛かった。
花びらをシャンパンの代用品にするには、かなりの量を解して、持ち帰らなければならない。卒業式に必要な物は大方用意を済ませてあるが、花びらだけは直前でなければ変色する為に、あえてモニカがコートに来る数時間前に受け取れるよう割り当てた。
赤やピンクなど女性が好みそうな色を選んで袋に詰めていると、廊下から従業員達の話し声が聞こえてきた。
周りに誰もいないと思ったのか。舞台裏では当たり前のことなのか。彼等は遠慮のない音量で、客に対する不満を漏らしている。
透は人の陰口を言うのも聞くのも嫌いだが、彼等の口から予期せぬ名前が飛び出した瞬間、反射的に作業の手を止めて、両耳を澄ませていた。
「ミスター・チャンフィーだとさ! あんな男に敬語を使うだけでも屈辱なのに、VIP専用のテニスコートで世話役を仰せつかるとは、二重の屈辱だ!」
「確かに、場違いにも程がある。VIPの連れと言われなきゃ、警備に頼んで叩き出しているところだ」
「聞かなかった事にして、そうしておけば良かった。コートマナーも知らない客の相手なんて、酔っ払いより始末が悪い」
「おいおい、本気でやるなよ? ミスター・チャンフィーはともかく、VIPを怒らせでもしたら、俺達の首が飛ぶ」
「ああ、分かっている。あれは支配人の上客だからな。警察でも上層部の……」
肝心なところで途切れてしまったが、今の会話から、このホテルにジャンと敵対するもう一人のリーダー・チャンフィーが警察関係者と来館している事は分かった。不満を漏らしていた従業員は、VIP専用のテニスコートでチャンフィーの接客を任された者達だ。
あまり時間の余裕はなかったが、「チャンフィーと警察関係者」の組み合わせが気にかかり、透はホテルの敷地の中にあるテニスコートを覗いてみることにした。
ジャンからは「あの男に関わるな」と釘を刺されていた。
ジャックストリート・コートと並んで勢力を二分する、ヴィーナスストリート・コートのリーダー・チャンフィー。アジア系アメリカ人の彼は己の出自にコンプレックスがあるのか、同じアメリカ人でもイギリス系移民の流れを汲むジャンを毛嫌いしている節があり、何かと理由をつけては乱闘を仕掛けてくる。
しかもストリートコートが法の届かぬ無法地帯であるのを良いことに、メンバーの数が少ない時間帯を狙って夜襲をかけるような卑怯な男で、その汚れ仕事も自身は直接手を下さず、高みの見物を決め込むという、どうにも食えない悪党だ。
しつこくジャックストリート・コートのリーダーの座を狙うのも、彼が仕切るコート名の「ヴィーナス」の部分が女々しく聞こえるからとの噂もある。こんなくだらない理由で他人の縄張りを荒らすなど、常識では考えられないが、彼の場合は充分あり得る話であった。
己の欲望の為には、平気で他人を犠牲にする男。そのチャンフィーが、VIP専用のコートで警察関係者と会っている。
決して表舞台に顔を出すことのないリーダーの出現に、ひどい胸騒ぎを覚えた。
従業員が使用する通路を抜けて、テニスコートの前まで来た時、透は一人の男とすれ違った。
アジア系のアメリカ人。黒い髪に、浅黒い肌。細い瞼の隙間から、ぬらぬらと黒光りする瞳が見えた。
互いに面識はなかったが、一目で彼がチャンフィーだと悟った。同じリーダーでありながら、ジャンとは異質な威圧感がある。
まるで蛇と対峙した時のような殺気にも似た威圧感。それに圧された透は、情けない事に、チャンフィーが通り過ぎるまで、立ちすくんでいることしか出来なかった。
あの男に関わるな ―― ジャンの言う通りであった。
確かに、あの男は危ない。普段、物怖じする事など滅多にない透だが、この時ばかりは防衛本能が働いた。
「奴の好きにさせて良いんですか?」
テニスコートから漏れ聞こえる話し声が、透の凍りついた体を動かす原動力となった。
「あの男を信用して任せた訳じゃない。どちらか一方でも潰れてくれれば、手間が省ける」
「なるほど……厄介なリーダー二人のうち、一人でも片付けば、我々の労力も半分で済みますからね」
この声の主が、例の警察関係者に違いない。
透があたりをつけて近付いてみると、コート脇に設置された屋外用のガーデンテーブルで二人の男が話し込んでいた。コートに向かって座っているので顔まではよく見えなかったが、彼等の会話と後姿から察するに、白髪頭の男が警察上層部の人間とやらで、もう一方の、頭髪の量も色もまだ余裕のありそうな男が部下のようである。
テーブルの上にはコーヒーカップが三つと、クッキーなどの焼き菓子が並んでいる。このVIP専用のコートはしばしば警察関係者の密談に使われているのかもしれない。
白髪頭の男がコーヒーを一口すすり、それから含み笑いと思われる妙に揺れのある声を漏らした。
「州知事から、外国人観光客の誘致に向けて警備体制の見直しを迫られたと話したところで、我々の要望を素直に聞き入れる連中じゃない。政治的な話は、殊更、解せんだろう。
目には目を。クズにはクズをもって制すれば良い。いっそ共倒れになってくれれば、儲けものだが……」
ひんやりと冷たい汗が、首筋から背中をつたって流れていった。嫌な予感が現実味を帯びてくる。
透は半分にも満たない花びらの袋を引っ掴むと、すぐさまホテルを飛び出した。
能天気にグラデュエーションの準備をしている場合ではない。今の会話は二人のリーダーの抹殺を示唆するものだ。
口では協力関係を結ぶと言い寄り、各リーダーに危険区域の治安を守らせておいて、都合が悪くなれば排除する。ここにチャンフィーが呼ばれたのも、彼をけしかけて騒ぎを起こし、あわよくば両リーダーの潰し合いで決着がつくことを願っているのだろう。
チャンフィーが狙いをつける相手は、一人しかいない。汚れ仕事は全て手下に任せる彼のことだ。今頃は、他の者に指示を出しているかもしれない。
透は嫌な予感が現実にならないことを祈りながら、迷わずジャックストリート・コートへ向かった。
ジャックストリート・コートは、厳密に言えば、大通りに面する場所にはない。メインストリートに沿って生育する森のさらに奥にある。従って、通りから中の様子を窺い知ることは不可能なはずだった。
ところが、森の奥からわずかに黒煙が見える。通りを走る車の騒音でハッキリとは聞こえないが、いつもより騒がしい気がする。
透はラケットを背中から取り出すと、最悪の事態に備えた。一瞬、フレームに結ばれたプロミスリングが視界に入ったが、今はプレイヤーの誇りがどうの、と悠長なことを言っていられる場合ではない。
「ラケットで人を傷つけない」
頭の中でジャンと交わした約束と、チャンフィーの蛇のような視線が交錯した。
「ジャン、ごめん。でも、今は……」
誇りよりも仲間を守る方が大事だと腹をくくると、透はグリップを握り締め、コートの中へ駆け込んだ。
「皆、無事か!?」
やはり黒い煙の発生元は、ジャックストリート・コートであった。
コンクリートの地面にはガラスの破片が散らばり、あちらこちらからテニスボールや木材の焼ける匂いがする。相手は大量の火炎瓶を投げ込み、焼き討ちを仕掛けたようである。
メンバーの安否が気になるが、煙に遮られて視界が利かない。
「誰か、返事をしてくれ!」
「トオルなのか?」
コートの奥の方から、ビーの声がした。
透は敵に背後を取られないよう気を付けながら、声を頼りに丸太の上へと駆け上がった。コートの中は煙が充満しているが、丸太の上なら風通しも良く、全体の様子が把握できる。
「大丈夫か、ビー?」
「ああ、取りあえずはな」
「チャンフィーの仕業か?」
「他に誰がいる? 不意打ちは奴の常套手段だ」
「相手は何人だ? こっちは誰が残っている?」
「最初に襲ってきたのは三十人ぐらいだが、何人残っているかは、煙が邪魔して分かんねえ」
「手当たり次第、片付けていくしかないって事か?」
「そういうこった」
話すそばから、鉄パイプが振り下ろされる気配がした。
「危ない!」
恐らくバックヤードに転がる資材に目を付けたチャンフィーの手下が、それらを用いて襲いかかってきたのだろう。勢いのある鉄パイプをラケットで受け止めた透は、その反動を利用して、相手の胸元にグリップを突きつけ、応戦しようとした。
「プレイヤーの誇りを忘れんなって、言われただろ?」
聞き覚えのある声に、ラケットを握る手が止まる。
「レイ!?」
鉄パイプで襲ってきたのは、仲間のレイだった。あくまでも振り、であるが。
「こんな時に、悪い冗談やめてくれ! もう少しで、味方を殴り倒すところだったじゃねえか!」
「悪かった。だけど、おかげで頭も冷やせただろ?
ほら、この鉄パイプはトオルとビーの分だ。さっさとラケットをしまえよ。誓いを破ったと知れたら、後でジャンに殺される」
確かにレイの言う通りだ。火炎瓶の散乱する現場で木製のラケットを振り回したところで、大して役に立つとは思えない。それに、出来る事ならプレイヤーの誇りも手放したくはなかった。
おかげで冷静さを取り戻した透は、ラケットを背中にしまうと、リーダーの大事な教えを再び胸に刻んだ。
少しずつだが煙も外へ流れていき、視界もハッキリしてきた。
「レイ? 奴等がここを襲ってから、何分ぐらい経っている?」
「三十分ぐらいかな?」
「その時、こっちは何人いた?」
「俺とビーを含めて、二十人はいたと思うけど?」
おかしい。何かが頭の中で引っかかる。
約五十人もの人間が三十分近くも争っているわりには、コートの中の被害が少な過ぎる。上からざっと見回す限りでは、倒れている者は一人もいない。しかも黒煙と喚き声は派手だが、実際に向こうから襲ってくる気配もない。
先程のレイではないが、まるで襲う振りをしているかのようだ。
「しまった!」
「どうした、トオル?」
あの狡猾な手段を得意とするチャンフィーが、こんな分かりやすい奇襲を仕掛けるはずがない。
「ジャンは? ジャンはどこだ!?」
「それが、まだなんだ」
全身から血の気が引いた。
「『ラビッシュ・キャッスル』か?」
「たぶんね。グラデュエーションの前には、大抵、一杯引っ掛けてから来るからね。
それが、どうかしたのか?」
「これはチャンフィーの罠だ!」
頭に引っかかっていた疑問が、最悪の事態の輪郭を描きながら解けていく。
ジャンの身が危ないと思って反射的にストリートコートに駆け付けてみたが、彼等が白昼堂々、襲ってくるなど不自然だ。昼間のコートは主力メンバーが顔を揃えており、バックヤードには万が一に備えた武器もある。
相手の狙いが敵陣の大将を潰すこと、この一点にあるのなら、ここで他のメンバー達の足止めをしてから、独りでいるところを襲う方が確実に仕留められる。
チャンフィーのことだから、あえてこの日を選んだに違いない。別れの儀式のある日は、寂しさを紛らわせるために、ジャンは決まって事前に酒を飲んでくる。
「こっちはフェイクだ! ジャンが危ない!」
丸太から飛び降りた透は、まだ薄っすらと黒煙の漂うコートを駆け抜け、『ラビッシュ・キャッスル』を目指した。
「大丈夫、間に合う。絶対、間に合う」
これは祈りでも、願望でもなく、確信だと自分に言い聞かせた。コートで騒ぎが続けられているという事は、ジャンも無事でいるはずだ。最強の男が、そう簡単にやられるはずがない。
全力で確信にすがり付こうとするたびに、重みに耐えかねて、根拠が揺らいでいく。どうにかして安心材料を挙げようと思案するも、頭に浮かぶのは悪い想像ばかりである。
事前の知識もなく暮らし始めたアメリカで、最初に直面したのは人種差別が歴史の教科書の中だけではないという悲しい現実だった。そして自分はその現実に対抗する術も、力も、知恵もない。ただ地べたを這いずり回るしかない、無力な人間だと思い知らされた。
そんな時に出会った「自由にしたけりゃ、強くなれ」と説く男の存在は、透に居場所だけでなく、希望と勇気も与えてくれた。
テニスプレイヤーとしての誇りも、魂の在り処も、夢を追いかける道筋が一つではない事も。全部、彼が教えてくれた。
力を持つ者が、どうあるべきか。守るべきは何なのか。血の気の多いリーダーは、時に己が拳で、時に己が宝物を切り分け、諭してくれた。
しかし、彼は見た目とは違って情に脆いところがあり、メンバーの誰かが卒業する日は、必ず事前に酒を飲んで酔っ払う。そこを大勢で襲われたとしたら――。
「頼む……間に合ってくれ!」
透は『ラビッシュ・キャッスル』へ着いたと同時に、扉を突き破るようにして中へ飛び込んだ。
「ジャン!」
薄暗い店内の奥に、赤い革のジャケットが見えた。
「良かった……無事だったんだな?」
いつもと変わらぬ様子のリーダーの姿を認め、胸の中に安堵が広がると共に、全身の力が抜けていった。ところが、その油断が命取りとなった。
「こっちに来るんじゃない!」
ジャンの怒鳴り声で、まだ緊張を緩めるべきではなかった、と後悔した。だが、時すでに遅く、再び身構えようとしたほんの一瞬の隙を突かれ、透は入口に潜んでいた男達によって両脇を押さえられてしまった。護身用に持ってきた鉄パイプも、相手の手に渡っている。
「アンタ等、チャンフィーの……?」
身動きが取れないまま中の様子をうかがうと、この辺では見かけぬ顔が五人、ジャンを取り囲むように座っている。透を押さえつけている二人を合わせ、店内にはチャンフィーの手下と思しき男が七人。いずれも脛に傷の一つや二つ、持っていそうな連中だ。
透は、ジャンが無事だと早合点して、緊張を緩めた自身を呪った。彼を助けるどころか、足枷になってしまった己の愚かさを。
ジャンが来るなと忠告してきたという事は、すでに連中の怪しい動きに気付いていたのだろう。他の客を気遣い、場所を変えようとして出口へ向かったところを、透が飛び込んで来たせいで、また店の中へ引き返さざるを得なくなったのだ。しかも人質を取られるという最悪の条件付きで。
男の一人が勝ち誇ったような笑みをジャンに向けた。
「これが、アンタの飼っている日本人のガキか?」
「だったら、どうした? お前達が用のあるのは、俺の方だろう?」
「そのつもりだったんだが、アンタ、なかなか隙を見せてくれないからさ。
なあ、人質と交換ってことで、俺達に付き合ってくれないか?」
「良いだろう。但し、そのガキには絶対に手を出すなよ?」
「こっちの用事が済んだら、すぐに放してやるさ」
不気味なほど落ち着いてジャンと話を進める男は、チャンフィーと同じ異質な威圧感を随所に漂わせていた。彼が七人の中ではリーダー的存在なのだろう。
男が何を企んでいるかは、透にも察しがついた。彼の手には鋭利な刃物が握られている。
「ふざけんじゃねえぞ、ジャン! 今さら恩着せがましい事すんな!」
透はわざと喧嘩を吹っ掛けて、時間稼ぎを試みた。
丸腰の捕らわれの身で、七人もの男達を相手にするには分が悪過ぎる。しかし、あと五分も経てば、ビーやレイが到着するはずだ。それまでの間、場つなぎが出来れば、どうにかなる。
その考えを察してか、ジャンが挑発に乗ってきた。
「だから、てめえはガキなんだ。足手まといになっておいて、大口叩くな」
「うるせえぞ、この酔っ払い! だいたい昼間からこんな所で……」
言いかけたところで、透の口元に冷たい光があてがわれた。
「お喋りは、そこまでだ。あまり時間をかけたくないんでね」
有無を言わせずジャンを店から連れ出そうとする男に、透はなおも食い下がる。
「止めろ! ジャンに何をする気だ?」
「ちょっと使い物にならないようにしてくれ、と頼まれたんでね」
「頼まれた?」
もしかして、このリーダー格の男はチャンフィーの配下の者ではないのか。手下であれば「頼まれた」ではなく、「命令された」と言うはずだ。
言われてみれば、先程から刃物をチラつかせているこの男だけは、他の連中と比べて毛色が違う。今日の為に雇われた、人を危めることを生業とする裏社会の人間に違いない。
「タイム・アップだ」
男に連れられて、ジャンが出口へと向かった。
「駄目だ、ジャン! 行くな!」
今度は挑発でも、演技でもない。懇願だった。
このまま彼等に付いていけば、どんな目に遭わされるか分からない。原因は油断した自分にあるというのに。
「行かないでくれ、頼む!」
必死で叫び続ける透に向かって、ジャンが一度だけ振り返った。
「最初に約束したはずだ。ガキの一人ぐらい面倒見ると」
「そんな……だって、あれは……」
あれは透が初めてストリートコートを訪れた時のことだった。ゲイルに敗れた透を仲間に迎え入れようとして、ジャンは他のメンバー達から猛反発を受けた事がある。
今にして思えば、彼等が反対するのも当然だ。当時十二歳の子供をストリートコートに出入りさせるなど、本人にとっても、周りにとっても、リスクがあり過ぎる。
ところが難色を示す仲間達に対し、ジャンは平然と言ってのけた。
「なあに、ガキの一人ぐらい俺が面倒見てやるから、心配するな」と。
あれは約束というよりも、メンバーを取り成すための軽口のようなものだった。
あの時の豪快に笑うジャンの顔が、今と重なった。我が身が危うい状況にありながら、それでも彼は顔色一つ変えずにリーダーとしての立場を貫こうとしている。
「お前は何も心配しなくて良い」
そう言って微笑むと、ジャンは再び出口へと歩を進めた。
「俺が油断したせいで……ジャン……!」
迷いのない歩調で赤いジャケットが遠ざかる。
これ以上、彼を先に進ませてはいけない。しかし、身動きの取れない体で何が出来るのか。己の未熟さを悔やみ始めた時だった。
上着のポケットから、ブレッドにもらったキャンディ・レイがこぼれ落ちた。
キャンディを繋ぐ細い紐を目にした瞬間、透はある妙案を思いついた。諦めるには、まだ早い。
透は自身の両脇を押さえつけている一人に向かって、わざと子供じみた声で話しかけた。
「ああ、せっかくのキャンディ・レイが! 踏まれでもしたら、食えなくなっちまう。
なあ、おっさん? これ、拾ってくれよ」
「うるさい。黙っていろ」
「大事なもんだから、拾ってくれって。朝から並んで、やっと手に入れたんだ。なあ、頼むよ」
「あとにしろ」
「ジャンも出て行ったんだし、良いじゃねえか! これ、超レアものなんだ。頼むよ」
「まったく、ガキはこれだから……」
渋々ながら男がキャンディ・レイを拾おうと俯いた一瞬を狙って、透は相手の顔面を力一杯、蹴り上げた。
以前、手芸部の奈緒から聞いたことがある。キャンディを結びつけているテグスという紐は、細いわりには頑丈で、強く引っ張ると指が切れてしまう事もあるのだと。
周りの者がうずくまる男に気を取られている間に、透は自分を押さえつけているもう一人の男をテグスで締め付け、しばらくは動けない程度に大人しくさせてから、残りの連中に飛びかかった。
店の中で乱闘が始まると同時に、ジャンがニヤリと口の端を持ち上げた。
「お前等、人質に取る相手を間違えたんじゃねえか? ありゃ、ただのガキじゃねえ。うちのナンバー2だ」
人質さえ解放されれば、刃物を所持する相手であっても、ジャンの敵ではない。騒ぎに合わせるようにして、彼も外にいる連中を片っ端から殴り倒していった。
「ジャン、悪かった! 俺のせいで……」
店内にいた男達を片づけた透は、ジャンを援護するために外へ飛び出した。
「だったら、そのナンバー2から始末してやる!」
全てが、一瞬の出来事だった。
リーダー格の男が、透を目がけて襲い掛かってきた。
男のターゲットがジャンから自分に変更されたと気付いたが、躊躇いもなく突っ込んでくる相手をかわす余裕はなかった。
銀色の光が向かってくる。このスピードでは間に合わない。
避ける事を諦めた頭に浮かぶのは、ホテルですれ違いざまに見えたチャンフィーの黒光りする瞳であった。
あの時、動けなかった原因は、なるほど、そういうことかと得心する。自分は鋭利な刃物のような冷たい光に恐怖したのだ。そして、それと同じ類の光にもうすぐこの身は貫かれることになる。
「危ない、トオル!」
聞き覚えのある声がしたかと思えば、腹部に鈍い音を感じた。
刺されたような感触はあった。振動も感じた。だが、不思議と痛みがない。
自分に向かってきたナイフの光と、男の影。それが見えたということは、確かに刺されたはずなのに――。
目の前には刃物を持った男が立っている。しかし、その男と透の間には、ジャンがいた。
「ジャン! まさか!?」
「……トオル……お前は何があっても、“あるべき場所”へ帰れ。……良いな?」
「ジャン、なんで!?」
次の瞬間、もう一度、鈍い音を感じた。今度は透の背後、後頭部の辺りである。
「“あるべき場所”へ帰れ」
ジャンの声が、顔が、徐々に薄れていった。
じわじわと広がる赤い視界。それが血の色なのか、ジャンのジャケットの色なのか、よく分からなかった。
あるべき場所へ ―― この言葉に絡め取られるように、意識が深い谷底へと沈んでいった。何も見えない。何も聞こえない。深くて暗い闇の中へ。