第3話 自由の代償 

 新学期が始まった。
 幸運にも、透は同居人でドイツ人のエリックと同じクラスになった。
 彼とは特別仲が良いわけでもなく、いまのところ同い年であること以外に共通点は見当たらない。
 ただ、言葉の壁を抱える者同士、何となくだが仲間意識は芽生えていた。
 ドイツ人を同類だと思う。日本に住んでいた頃には考えられない話だが、アメリカの地元の中学校に通い、視界の八割をアメリカ人で占められていると、エリックに限らず、“その他の人種”が仲間に見えてくる。
 しかも真面目で思慮深いエリックは、同居人のよしみなのか、透の無鉄砲さが目に余るのか。教室でも、食堂でも、何かと気にかけ、フォローしてくれる。
 おかげで透は光陵学園に転入した時のように周囲から変人扱いされることもなく、平和な毎日を過ごしている。
 入部当初はやる気の見られなかったテニス部も、ケニーと協力して立て直しを図った結果、部員たちの意識も高まり、いまでは毎日の練習が当たり前となっている。
 強豪と呼ぶにはまだ程遠いレベルだが、ひとつのチームを土台から作りあげていく充実感はこれまで透が経験したことのなかったもので、光陵テニス部とはまた違った魅力がある。
 目下の悩みは、部活動に追われてアルバイトまで手が回らず、帰国の資金はおろか、小遣いにも不自由している点だが、それもテニス部の改革が軌道に乗り始めたことで、全てが上手く運んでいるような気がしていた。

 そんなある日、コート脇に設置されているテニス部の掲示板に、地区大会に出場する選手のオーダー表が貼り出されていた。
 同大会の団体戦には、シングルス五名、ダブルス五組の計十五名が出場できると聞いている。
 いまやケニーとともにテニス部を牽引する立場にある透は、当然、選ばれるものと思っていた。
 ところが、オーダー表の中に自分の名前はどこにもない。しかも出場選手のほとんどが透から指導を受けている部員で、その三分の一はBランクの所属であった。
 入部以来、同ランク内で無敗記録を更新中の透は、この不可解な選出結果に不満というより違和感を覚えた。
 一体、コーチのアップルガースはどういう基準で出場選手を決めたのか。
 透はすぐさまマネージャールームへ向かった。
 前々から、アップルガースとは一度きちんと話をしなければ、と思っていた。
 お粗末な練習メニューと言い、一向に入れ替わりのないランキングと言い、このテニス部はおかしな点が多すぎる。

 「コーチ、あの地区大会のメンバーはどういう基準で選出したんですか?」
 部屋に入るなり、透はストレートに自分の疑問をぶつけた。英語で誤解のないよう話を進めるためには、単刀直入に切り出すのが一番だ。
 アップルガースは読みかけの雑誌から目を離すと、鬱陶しそうに透を見やった。
 「生徒の分際で、俺に意見する気か?」
 「意見じゃありません。質問です。
 納得できる理由があるなら、俺も従います。コーチの考えを聞かせてください」
 「お前が納得しようが、しまいが、知ったことか。まったく、親子して何様のつもりだ」
 「親子して?」
 「お前の親父はケチな野郎だな。
 スポーツ科学の世界的権威で、ここへは大学から請われて来たというじゃないか。
 さぞかし良い金ヅルになるかと思ったら、奴は『寄付金は1ドルだって払わない。運営に困っているなら、部員の息子からふんだくれ』とさ」
 はじめ透は何の話をされているのか、よく分からなかった。地区大会の話をしていたはずなのに、いつの間にか龍之介の名前が出てきて、話題は寄付金に変わっている。
 「あの……地区大会の話をしているんですよね?」
 「おめでたい奴め。まだ分からないのか? お前がBランクに入れられた理由が」
 「実力順じゃないんですか?」
 「何を寝ぼけたことを言っている。お前のいるBランクは金ヅルの寄せ集めだ」
 「金ヅルって……アンタ、もしかして俺の親父から金を取ろうとしたのか?」
 「当然だ。部外者を大会に出させてやるんだ。それなりの感謝の気持ちを見せてもらわなきゃ、他の部員にも示しがつかない」
 「部外者?」
 「よそ者と言ったほうが分かりやすいか? アメリカ国籍を持たない人種、お前等のことだ」
 これでようやく合点がいった。
 このコーチが選手を選ぶ基準は強さではない。アメリカ人か否かで決めている。
 ランキングに変動がないのも、ランク分けそのものが実力順ではなく、人種によって分けられているからだ。
 単なる偶然かと思っていたが、確かにAランクはアメリカ人の中でも白人のみで占められている。
 そしてBランクにはそれ以外の人種で、透のように家庭が裕福と見なされた「金ヅル」が、Cランクにはどちらにも当てはまらなかった部員が放り込まれている。
 実力で正当な評価を受けるのはAランクの部員のみで、Bランクは金を積まなければ試合には出られず、Cランクはその権利すら与えてもらえない。
 まさか地区大会優勝を目指して練習に励む部員たちを横目に、コーチと保護者の間で金銭の授受が行われていようとは。
 思いも寄らない現実に、透は言葉を失った。
 アップルガースは生徒のためでも、テニス部のためでもなく、己の私利私欲のためにコーチ職に就いているのだ。
 部活動にもかかわらず個別トレーニングを推奨していたのも、下手に部員同士で結束されては、裏工作がやりづらくなるからだ。
 「アンタ、こんなやり方で地区大会を勝ち抜けると思っているのか?」
 「やれやれ、これだからイエローは。経済も貧困なら、発想も貧困だ」
 「まさか、地区大会で八百長するつもりじゃ……」
 「いまさら何を言っている? うちの部の優秀な成績は、全て金で買いそろえたものだ。
 現に、それが目当てで子供をうちの部に入部させる親もいる。
 クラブで優秀な成績を残せば、将来の就職にも役立つからな。いわゆる、勲章ってヤツよ」
 「勲章だと?」
 アップルガースがその言葉を口にした途端、透は激しい怒りを覚えた。自分の知る勲章は、こんな薄汚いものではない。
 光陵テニス部の最後となったバリュエーションで、部長の成田から「お前の努力の勲章だ」と言って渡されたユニフォーム。それは地道に練習を重ねた者だけに与えられる誇り高きものだった。
 「そんなの、勲章でも何でもねえよ」
 「お前がどう思おうと、それを必要とする人間は現実に存在する。恨むんなら、1ドルだって払おうとしなかったお前の親父を恨め」
 悪びれた様子もなく、平然と言い放つアップルガース。その口元には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
 どうやら彼には己の立場の優位性を認識する能力はあっても、役割についての理解はないようだ。
 「いいや。どうしようもねえ親父だと思っていたが、安心したぜ。
 勲章を金でどうにかしようとする下種野郎より、よっぽどマシだ」
 これを聞いて、アップルガースがおもむろに立ち上がった。
 自分より歳も立場も下の生徒から、しかも蔑視する日本人から暴言を吐かれたことが、よほど頭に来たのだろう。透を捉える視線が、獲物に対するそれに変わっている。
 「俺はイエローの中でも、日本人がもっとも嫌いだ。
 俺たちがいなけりゃ何もできない似非先進国のくせして、態度だけは一人前。愚かで卑しいお前等ジャップが、この国に足を踏み入れること自体、汚らわしい」
 じりじりと近づいてくるアップルガースの口元が、不気味な歪み方をしている。彼が何らかの危害を加えようとしていることは、一目瞭然だった。
 だがしかし、一歩たりとも引く気はなかった。彼にはまだ言わねばならないことがある。
 「アンタこそ、似非コーチじゃねえか。
 アンタをまともな指導者と信じて、毎日、部活に来ている部員もいるんだぞ。そいつらに恥ずかしくねえのかよ?」
 「俺は毎年テニス部を優勝に導いている。誰の目から見ても立派な指導者だ。但し、Aランク限定だがな」
 「『立派な』の後ろに、クソをつけたほうが良いんじゃねえか?」
 「自分の肌の色を見てから、物を言え!」
 その怒鳴り声と同時に、アップルガースが後ろ手に隠し持っていたラケットを振り上げた。
 そこには明らかな殺意が見えていた。それも人を人とも思わぬ軽々しい殺意が。
 こうして何人もの部員を傷つけてきたのだろう。不意打ちでやられれば素手で受け止めるしかない。腕の骨折は免れまい。
 だが、ここに一人例外がいた。
 日頃から剣道四段の素早い打突を受け慣れている少年にとって、卑怯な不意打ちをかわして反撃に転じることなど造作もない。
 透は頭上からの一撃を背中のラケットで受け止めると、相手に怯む隙も与えず、ある一点に狙いを定めた。
 受け口気味のアップルガースには、退屈な時に顎を撫でるという分かりやすい癖がある。
 顔の輪郭の中でもとくに突出している個所だけに、つい手がいくのかもしれないが、彼の場合、人が真剣に話していようが、挨拶の途中であろうがお構いなしで、それが透には不快に思えてならなかった。
 いま透の目線のすぐ上には、アップルガースの顎がある。しかも、獲物が思い通りにならずにいきり立っているのか、さらに突き出た格好だ。
 透はそこに狙いをつけると、渾身の力を込めて蹴り上げた。
 テニス部のコーチとは名ばかりで、己の肉体を鍛えることもないのだろう。透の蹴りをまともに喰らったアップルガースの体は、思いのほか遠くへ飛んでいき、マネージャールームの壁に激突してから、ボロ雑巾のようにくたりと落ちた。
 「貴様、こんなことして……。覚悟は出来ているんだろうな」
 ただでさえ目立って見える下顎が、倍に腫れ上がっている。
 「お前に利用価値はない。今すぐ、ここから出て行け!」
 「ああ、こんなテニス部、未練はねえよ。こっちから願い下げだ!」
 これが透の退部届けとなった。

 マネージャールームを出ると同時に、ケニーが血相を変えて駆け寄ってきた。
 「トオル、大丈夫かい? 大きな音がしたけど、まさかコーチが君に暴力を?」
 ケニーも透と同じ疑問を感じて、話し合いに来たようだ。彼の手には過去の戦績を記録したスコアファイルが握られている。
 透は返事に窮した。
 アップルガースが保護者に寄付という名の賄賂を要求していることは、Aランクの部員には与り知らぬことである。
 しかも部内には、その要求に応じた者もいる。少なくとも、今回選出されたBランクの親たちは、いくらかの金をアップルガースに渡している。
 純粋にコーチを信じ、仲間を信じ、キャプテンの務めを果たそうとしているケニーに、たったいま見聞きした真実を打ち明ける気にはなれなかった。
 「キャプテン。悪いが、もうアンタとは一緒に出来ない」
 「どうして? 何があった?」
 「やる気が失せた。それだけ……」
 透は短くそう答えると、ケニーを押しのけるようにして立ち去った。
 ケニーには悪いと思ったが、上手く言葉にできなかった。
 ただ怒りだけがあった。
 日本人というだけで、いくら努力をしても試合には出られない。こんな理不尽な話があって良いのか。
 だが、この怒りをケニーにぶつけてはいけない。仮にぶつけたとしても、分かってもらえない。
 彼はAランクの人間で、Bランクの自分とは出発点からして違うのだ。
 ケニーにそのつもりはないと分かっていても、コーチから言われた一言がまだ胸に残っていた。
 「自分の肌の色を見てから、物を言え」
 謂れのない差別に怒りを覚えながら、アメリカ人のケニーに理解してもらえるはずがないと、人種の違いを意識する自分がいる。
 その矛盾がさらなる混乱を招いて、透は真っ直ぐ向けられたケニーの青い瞳から逃げ出すことしか出来なかった。

 勢いに任せて学校を飛び出してきたものの、透はそこで初めて行く当てのないことに気がついた。
 アメリカに着いてから、当たり前のようにテニス部に入部して、それ以降は家と学校を往復する毎日だ。そのテニス部を退部した今となっては、あの騒がしい我が家へ帰るしかない。
 こんなことが前にもあった。
 光陵テニス部に入部して間もない頃、初めてのバリュエーションで遥希に惨敗し、悔しさを紛らわせるために秘密基地になりそうな隠れ場を探したけれど、結局、どこにもなくて、渋々ながら帰宅した。
 ただあの時の透には、アドバイスをくれる唐沢がいて、励ましてくれる奈緒がいた。
 怒られるにしても、慰められるにしても、言葉の壁も、人種の違いもなかった。皆が一人の人間として向き合ってくれた。
 本当は地区大会が終わったら、奈緒にエアメールを出すつもりであった。
 気に入った写真ではなかったが、約束の絵葉書も買って、あとは近況を短い文章にまとめるだけだった。
 出来れば、そこに「地区大会優勝」の一文を添えられればベストだが、たとえ不本意な結果に終わったとしても、テニス部に籍を置き、元気にしている旨を伝えて、心配性の彼女を安心させようと思っていた。
 それなのに、たった一ヶ月で退部したなんて、笑い話にもなりはしない。
 気分は最悪だというのに、通りを吹き抜ける風はあくまでも爽やかで。それがより一層孤独を感じさせる。自分一人だけが周りから取り残されているような。
 一目で気に入ったこの街も、いまは色褪せて見える。
 「一体、どこ行きゃ良いんだよ……」
 あてもなく歩き回っているうちに、体を突き動かしていた激しい怒りは薄れていき、代わりに行き場のない不安が押し寄せる。
 ひどく心細かった。
 テニス部を退部したということは、それに繋がる全てを失ったということだ。
 志を同じくする仲間もいなければ、体を鍛える場所もない。いや、試合に出られるチャンスもないのだから、鍛える理由すらないのだ。
 いまごろになって、己の軽率さが悔やまれる。
 このぐらいの差別は辛抱すべきだったのか。
 日本人であることがハンデになるとは思いもしなかった。
 自由の国アメリカ ―― そのイメージが先行して、人種差別など、教科書に出てくる歴史上の出来事だと思っていた。
 だがその悪しき習慣は時代とともに薄れつつあるとは言え、いまだ現存する。
 人種に限らず、宗教、国籍、学歴、職業、家柄、時に病気やケガまで。この世の中の至るところで差別は存在する。
 たまたま自分が差別される側に立たされなかっただけで、日本の、住んでいた街の、身近なところにもいたのかもしれない。
 本人に何ひとつ非がないのに、不当な扱いを受けていた人たちが。虐げられていた人たちが。
 集団の中で突出するより、皆と同じであることを好む日本人。その中で生活していた透は、差別に対しての免疫がなかった。
 やはり、我慢すべきだったのかもしれない。
 間違ったことをしたとは思わない。しかし、何かが違っていたのだろう。
 自分なりの答えを出すには、多くのものが足りなかった。時間も、知識も、経験も、何もかもがなさ過ぎた。

 重い足取りで家に帰ると、こんな時に限って龍之介がリビングのソファに寝そべり、午後の優雅なひと時を過ごしていた。
 「随分、早いじゃねえか」
 「退部してきた。テニス部……」
 「そうか」
 息子がいつになく沈んだ声で話しているというのに、龍之介の関心事はよそにあるらしく、新聞の風刺漫画を眺めてニヤニヤ笑っている。
 この父に慰めの言葉を期待した自分が愚かであった。たとえ天変地異が起こったとしても、龍之介が息子を気にかけることなどありはしない。
 「親父、アメリカって、自由の国じゃねえのかよ?」
 「この国で自由に出来るのは、ほんの一握りの連中だ」
 どうにか気を引こうと投げかけた質問にも、父の反応は薄かった。
 「白人ってことかよ?」
 「阿呆。アメリカ全土で、白人がどれだけいると思っている」
 「だったら、何だよ?」
 「てめえに降りかかった火の粉は、てめえで払えるノウハウを持つ者。つまりは力だ」
 「だったら、その力を持たない奴は、どうすりゃ良いんだよ?」
 「地べたを這いずり回って、頭を低くして生きていくだけだ」
 さも当然と言わんばかりの物言いに、透の苛立ちは加速していった。
 「俺はチームの誰よりも練習しているし、試合じゃ一度も負けてない。Aランクの連中だって、中には俺より下の奴もいる。
 それなのに、ろくに話も聞いてもらえない。いくら力をつけたって、日本人は金を積まなきゃダメなんだ!」
 自分でも八つ当たりだと分かっている。怒りをぶつける相手は、龍之介ではない。
 しかし理不尽な仕打ちに対する怒りを、我慢して持ち帰った悔しさを、もう押し込めることは出来なかった。
 ここでようやく龍之介が顔を上げたが、そこに驚きや戸惑いは見られず、むしろ分かりきった質問をされた時のような、冷めた感がある。
 「それはお前の力が半端だからだ」
 息子の心からの訴えにも動じることなく、父はサラリと言ってのける。
 確かに半端と言われれば、それまでだ。
 透の無敗記録はあくまでもBランク内での話であって、他のランクで同じ結果が出せるかどうかは分からない。仮に出せたとしても、たかが弱小チームで一番になれたというだけで、誇れるほどのものではない。
 光陵テニス部でも、レギュラーの座についたとは言え、大会で優秀な成績を収めたわけでもなく、ライバルの遥希を倒すという当初の目標も、結局、果たせぬままだった。
 何者にもなれていない無力な自分。その情けない現実を弱っている時に突きつけられて、透は一言も返せなかった。
 「何なんだよ、皆して……。
 ちくしょう! 俺はただテニスがしたいだけなのに……」
 何が正しいのか、分からなくなっていた。テニスをしたいと望むことさえ、いけないことのように思えた。
 「力がねえなら、地べたを這い回れ。頭を低くして這いずり回ったついでに、世の中の裏側まで見てくりゃ、少しは使い物になるだろう」
 龍之介が腕組みをしながら意味ありげな笑みを浮かべている。これは父が将棋などで相手の出方をみる時によく取るポーズだ。
 「世の中の裏側って、てめえは息子をグレさせてえのか?」
 「こんなことでグレるなら、お前はそこまでの男だ。
 都合の悪いことは全部誰かのせいにして、一生『俺は悪くない』とほざいていろ」
 「だって、俺は悪くない! 何も悪いことはしていない。何も……」
 実際、罪として咎められるようなことは何一つしていない。
 しかし、自分は悪くないと叫んで、無関係の人間に八つ当たりをして、それが解決策に繋がるとも思えない。
 父からの問いかけが、胸に応えた。
 ふたたび新聞に視線を落とした龍之介が、独り言のように呟いた。
 「一回に付き、ボードが1ドル。コートが2ドル。俺は現金しか受け取らん」
 「何だよ、さっきから裏側とか、ボードとか……」

 一瞬にして謎が解けた。裏側に、ボードに、コート。
 透はリビングを飛び出すと、玄関から表の庭を走り抜け、建物の裏側へと回った。
 「さっさと教えろよ、クソ親父!」
 この時、透は生まれて初めて父に感謝した。
 自宅の裏庭に引かれた白いラインと、その両脇に打ちつけられたネットポスト。
 ネットこそ張られていないが、それは紛れもなくテニスコートであり、その後ろにあるのは壁打ち用のボードであった。
 毎日の部活動で忙しく、陽の高いうちに帰ることのなかった透は、自宅の裏庭にこんな立派な設備があるとは夢にも思わなかった。
 壁打ちボードを前にして、萎えかけた気持ちに火がついた。
 テニスを続けるのは、テニス部でなくても良い。ボールが打てる場所さえあれば、どうにかなる。
 日本を発つ前、成田が最後にかけてくれた言葉がふと胸に甦る。
 「どこへ行こうが、光陵テニス部のレギュラーとしての誇りを忘れるな」
 権力に屈せず、金で解決しなかった結果、テニス部という居場所を失った。だが、もう後ろは振り返らない。
 何にも出来ない無力な自分に残されたものは、ちっぽけなプライドだけだが、いまはそれで充分だ。
 「上等じゃねえか、クソ親父! こうなったら、地べたを這いずり回って、這い上がって、絶対、見返してやるからな!」
 一度は閉ざされた道が、父の一言によって開かれた。
 透は背中からラケットとボールを取り出すと、壁打ちボードに向かってその第一歩を打ちつけた。






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