第30話 最後の命令

 気がつけば、そこはテニスコートであった。ペイントだらけのコンクリートの地面ではなく、白いラインがよく映えるクレーコートの中に、透は立っていた。
 「もしかして、戻って来られたのか?」
 どこか懐かしさを覚える風景は紛れもない光陵学園のテニスコートで、隣では遥希や唐沢がストローク練習を行なっている。
 穏やかな時間が流れていた。そこに出入りするだけで見知らぬ人から侮蔑の目を向けられることもなければ、身の危険を感じることもない。拳を振るわず練習に没頭できる幸せな日常が、ここにある。
 「本当に戻って来られたのか?」
 ずっと帰りたいと願っていた。機会あるごとに、想いを深くしてきた場所なのに、何故か手放しで喜ぶことが出来なかった。大事なことを忘れているようで、落ち着かない。
 「おかえり、トオル」
 背後に人の気配を感じて振り返ってみると、コートを囲む金網フェンスの外側から誰かが微笑みかけている。
 とっさに透は奈緒だと思った。すると、正体不明の誰かが思い通りの姿になった。
 写真の中でしか会うことの叶わなかった彼女が、手を伸ばせば届く距離にいる。
 透は矢も盾もたまらず、フェンスの側へ駆け寄った。
 「奈緒! 俺さ……」
 「トオル、見て?」
 奈緒が携帯電話を取出し、花の画像を開いて見せた。
 「河原で咲いてたの、撮ってきちゃった。立ち葵って言うんだよ」
 「ああ、知っている」
 「この花は下から順番に咲いていって、一番の上の花が咲く頃に夏が来るの」
 「それも、知っている。だって、奈緒が前に教えてくれた……。えっ、夏? もうすぐ冬だろ?」
 いくら日本とアメリカとの間に時差があったとしても、同じ北半球に位置しているのだから、季節までは違わない。
 透は、自分がなぜ秋だと思うのか。その根拠を探そうと、辺りを見回した。
 理由は分からないが、それを証明することが大事なことと繋がっているような気がしてならない。
 コートに降り注ぐ日差しも、軽やかに吹き抜ける風も、初夏の匂いを含んでいる。テニス部員達は、皆、半袖のウエアで活動しているし、奈緒の制服も夏服だ。
 周りは皆、夏の格好をしているというのに、自分だけが秋だと思っている。一体、これはどういうことなのか。今は何年、何月、何日なのか。今は――。
 冷静になり始めた頭の中に、ある一つの事実が浮かび上がる。
 今、唐沢は高校一年生だ。高等部に上がったはずの彼が、なぜ中等部のクレーコートで遥希と打ち合っているのか。しかも彼のユニフォームは中等部にいた頃のままである。
 「これは、夢……?」
 確か、高等部のユニフォームは襟や袖口に赤いラインが一本多く入っていたかと思うが、明確にイメージできるほど覚えていない。ここでは透の記憶に深く刻まれている方の姿が反映されているのかもしれない。
 そう考えると、奈緒の服装に関しても合点がいく。いつも眺めている写真の彼女は、夏の制服だ。
 これは自分の記憶が見せている夢なのだ。
 そこに思い至ると同時に、懐かしい風景は消え去り、十二面のコートが一面のコンクリートに変わった。危険と背中合わせのジャックストリート・コートである。
 やはり、この唐突な展開は夢に違いない。
 しかし頭では夢だと分かっていても、そこから抜け出すことが出来なかった。何度、目を瞬いても、現実世界へは戻れない。
 一刻も早く、大事なものを探さなければならなかった。それが何であるかは分からなかったが、ともかく探し出そうとコートの中を走り回っていると、奥の方から話し声が聞こえてきた。
 丸太の上からだろうか。誰かの声がする。
 「良いか? よく聞くんだ。人は本来、それぞれ“あるべき場所”を持っている」
 聞き覚えのある声だが、テニス部の先輩達とは違う。もっと大人の低い声で、時々乱暴な口調になるが、何故かその声で怒鳴られると安心する。
 ここまで分かっているのに、肝心の声の主が思い出せない。丸太の上には誰がいるのか。
 どうしても確かめたくなって上まで登ろうとするが、次々と足場が崩れて、頂上まで辿り着けない。
 「アンタ、一体、誰なんだ!?」
 叫び声を上げた透の視界に、赤い革のジャケットを着た男の後姿が飛び込んできた。
 「トオル、お前は何があっても“あるべき場所”へ帰れ」

 「ジャン!」
 消えかかるジャケットを掴もうと腕を伸ばした瞬間、透の視界には全く別のものが映っていた。心配そうに覗き込むビーとレイの顔だった。
 目標を失った指先が、柔らかなクッションに触れた。体がソファに横たえられている。夢の中で足場が悪いと感じたのは、このせいだ。
 今度こそ、現実の世界に戻れたようだ。後頭部に感じる痛みが、何よりの証拠である。
 見覚えのあるソファの柄から、ここがモニカの自宅であることと、窓から差し込む光の加減で、そろそろ陽が落ちる時刻であることまでは分かったが、まだ釈然としなかった。大事なことを忘れている気がする。
 ふらつく上体を無理に起こし、記憶から抜け落ちたものが何なのか。朝からの行動を振り返る。
 今朝、モニカのグラデュエーションの準備をする為にブレッドの勤めるホテルへ行き、そこで警察関係者らしき男達の密談を聞いて、慌ててストリートコートへ戻った事までは覚えている。その後、コートの奇襲がチャンフィーの罠だと気づき、『ラビッシュ・キャッスル』へ向かい、そこで乱闘になり、それから――。
 突如として、意識を失う前の記憶が甦る。
 「ジャン! ジャンは無事なのか!?」
 自分の視界を埋めた赤い色は、ジャケットの色なのか。それとも血の色なのか。
 彼の無事を確認する前に気を失ってしまったが、あの鈍い感触は間違いない。ジャンが透の身代わりとなって、男の刃を受けたのだ。
 「ジャンは、どこにいる?」
 息つく間もなく質問を浴びせかける透とは対照的に、レイもビーも押し黙ったままだった。二人の沈黙が、更なる不安を掻き立てる。
 「あの後、何があった? ビー? レイ? なぜ黙っている?」
 「止めて、トオル。この二人は、ジャンから命令を受けているの」
 どうにかして答えを聞き出そうとする透を、モニカが制した。
 「ジャンの命令? それなら、ジャンは無事なのか? そうなんだろ?」
 今度は間に入ったモニカにまで、黙られてしまった。
 リーダーの無事を確認したいだけなのに、なぜ、三人とも口を開こうとしないのか。なぜ、視線さえも合わせてくれないのか。
 ただ一つだけ、ハッキリしたことがある。ここに透の疑問に答えてくれる者はいない。
 「分かった、もう良い。自分で確かめに行く」
 万が一、ジャンが倒れたままでいるのなら、一刻も早く病院へ連れて行かなければならない。ここで彼等と押し問答をするよりも、『ラビッシュ・キャッスル』へ戻った方が、早く解決するはずだ。
 答えの得られぬ会話に見切りをつけ、部屋を出て行こうとする透の前に、レイが立ちふさがった。
 「そこをどけ、レイ!」
 「それはできない。『絶対に戻ってくるな』と、ジャンから言われている」
 「なら、ジャンは生きているんだな?」
 投げかけた質問が、再び空を切る。繰り返される沈黙。目が合いかけても、すぐに逸らされる。気心の知れた仲間達が、この時ばかりは遠い存在に思えた。
 「どうして黙っている? レイ? ビー? モニカ? 俺達、仲間じゃねえのかよ!?」
 透の悲痛な叫びに、ようやくビーが重い口を開いた。
 「分からねえんだ……あの後、どうなったか」
 「どういうことだ?」

 ビーの話によると、彼等が『ラビッシュ・キャッスル』に到着したのは、ジャンが透をかばって刺された直後であった。
 ジャンを刺した男はその場で逃げたが、他の手下達がまだ残っていた。
 倒れたジャンを見てパニックに陥りかけた透を、一足先に現場に到着していたゲイルが後ろから一撃を加え、気絶させたという。
 「ゲイルって、あのゲイルか?」
 思いもよらぬ人物の名を告げられ、透は事情を把握するまでに少しの時間を要したが、やがてゲイルがジャンの親友であることを思い出し、彼の行動の意図するところを悟った。
 ゲイルは、以前、透とナンバー2の座を賭けて敗北した後、ずっと姿を消していた。裏の世界に通ずる彼の事だから、何処かからかチャンフィー達の不穏な動きを聞きつけ、親友の窮地を救おうと、この街に戻ってきたのだろう。
 「そのガキを連れて、さっさと行け! あとは俺が始末する」
 そう言って、ゲイルは倒れている透を二人に預け、自身がリスクの高い後処理を引き受けた。
 しんがりを務めるにしても、ジャンを病院に連れて行くにしても、ゲイルの方が腕も立つし、顔も広い。透に一撃を加えて気絶させたのも、自分のせいで血まみれになったジャンを前にして、冷静でいられるはずがないと判断したからだ。
 六人もの敵に囲まれ、いつパニックに陥るやも知れぬ少年と負傷者を抱えながらの戦いは、どう考えても無理がある。ビーとレイもゲイルの下した判断に納得し、透を連れて場を去ろうとした時、まだ意識のあるジャンから命じられたのだ。
 「お前等二人は、トオルとモニカが“あるべき場所”へ帰るまでを見届けろ。絶対に戻って来るんじゃない。これは、俺からの最後の命令だ」

 「最後の……命令……?」
 その言葉に、透は絶句した。
 ジャンの生死は分からない。だが、あの赤い視界が全て出血の跡だとすれば、生きている可能性はきわめて低い。
 そして「最後の命令」と告げた本人の言葉。その時すでに、ジャンが覚悟を決めていたとしたら――。
 三人が何を聞いても答えなかったのは、絶望的な状況から予想される最悪の結末を口にしたくなかったからである。
 事の詳細を聞かされ、透は今までに経験した事のない恐怖に襲われた。自分の身に危険が迫った時の分かりやすい恐怖とは違う。途方もない大きさのものが、何処からともなく忍び寄る。得体の知れない恐怖であった。
 透は迫りくる足音を近くに感じながらも、かろうじて正気を保った。この目で確かめるまでは信じない。信じてはいけない。頭に浮かんだ最悪の結末を封じ込めると、再び出口へ向かった。
 「レイ、そこをどいてくれ」
 「出来ない、と言っただろう。これはリーダーの最後の命令なんだ」
 「そのリーダーが、心配じゃねえのかよ? 最後の命令なんて、あっさり認めて良いのかよ?」
 「それは……」
 「殺されたくなければ……」
 自分でも恐ろしくなるほど簡単に脅し文句がついて出た。仲間の胸倉を掴む手に躊躇いはなかった。
 「殺されたくなければ、そこをどけ。俺は本気だ、レイ」
 悲しい光景だ、と透は思った。仲間を危めてまでリーダーの安否を確認したいと願う自分は、人の道から外れているのかもしれない。だが掴んだ腕に温情が加えられることはなかった。
 一歩も譲らぬ覚悟を見せられ、レイが唇を歪ませた。チャンフィーの奇襲を受けた際にも冷静な判断を下した彼が、リーダーの命令と仲間の覚悟の狭間で、答えを出せずにいる。
 すると、玄関から扉の開く音がした。冷静沈着な親友よりも先に答えを出したのは、ビーだった。
 「トオルの言う通りだ。こんな命令、認めてたまるか。
 本当に最後なのか、俺様も確かめに行く。レイはどうする?」
 理屈抜きの感情が、時として物事の本質に近いこともある。歪んだ唇から、溜め息が漏れた。
 「分かったよ。ジャンを怒らせるのは、この三人じゃないとね」

 最終的にモニカも加わり、四人は手がかりを得るために『ラビッシュ・キャッスル』へ向かった。
 負傷したジャンを抱えて行く先は病院だろうが、街中にはいくつも存在する。闇雲に探して回るよりも、あそこのオーナーに聞いた方が、早く居場所が特定できるに違いない。
 店の中へ入ると、床一面にキャンディ・レイの残骸が散らばっていた。透は足元の一つを拾い上げると、モニカに手渡した。
 「モニカ、ごめん。本当はグラデュエーションのお祝いに、ブレッドから渡してくれって頼まれていたんだ。だけど……」
 床に散乱していたのは、菓子だけではない。壊れた椅子、割れたグラスと、茶色の破片はジャンが好んで飲んでいたバトワイザーのボトルだ。
 あの乱闘がいかに激しく、罪深いものであったか。本来の役目を果たせず砕け散った欠片の数々が、物言えぬ体をもって訴えかけていた。世の中には取り返しのつく罪と、つかない罪があるのだと。
 唇を噛み締め、俯く透の肩に、モニカが手をかけた。
 「ブレッドの気持ちはちゃんと受け取ったわ。それより、今はジャンを探すことを第一に考えましょう」
 「うん。でも、ごめん……」
 謝るしか方法はなかった。
 じわじわと膨らむ自責の念。それはモニカに対してだけでなく、ブレッドに対しても、そしてジャンに対しても同じであった。
 あの時、安易に気を抜かなければ。自分さえしっかりしていれば、こんな事にはならなかった。
 少なくとも刺されそうになったあの一瞬に、自分が諦めずに避ける努力をしていれば、素振りだけでも見せていれば、ジャンが身を挺して助けることもなかったはずである。
 自身が犯した過ちに、押し潰されそうになった時だった。店のオーナーを見つけたビーが、皆を代表してジャンとゲイルの行方を尋ねた。
 「オーナー、あの二人の居場所を知らないか?」
 いつもは無口で捻くれ者のオーナーだが、事情を察してか、この時は素直に答えてくれた。
 「教会にいるはずだ。森の向こうの……」
 オーナーから居場所を聞かされた途端、ビーとレイの顔色が変わった。
 「トオル? 今日はここまでにして、また日を改めて……」
 青ざめた顔で説得に入ったレイの言葉を、ビーが素早く遮った。
 「止めておけ、レイ。こいつの性格からして、ここで大人しく帰るわけがない」
 「だけど……」
 「それ以上、言うな。最後の命令を無視してまで戻って来たのは、自分達の目で確かめる為だろ?」
 この時、透はなぜレイが急に態度を変えたのか、分からなかった。確かに教会は葬儀を行なう場でもあるが、教会の牧師とジャンは旧知の仲である。単純に助けを求めに向かったかもしれない。
 まだ希望は残っている。事情を知らない透は、この時まではそう思っていた。

 目指す教会は、メインストリートから公園に入って森を抜ければ、それ程遠くない。森の途中から小道が二手に別れ、左へ行けばストリートコート、右の道を辿れば十分程で石造りの小さな建物が見えてくる。
 大通りから離れた森の奥で、危険区域と隣り合わせの立地条件では訪れる者もなく、ただ寂れるのを待つばかりの教会だが、透にはそれなりに思い出がある。
 去年のクリスマスにビーがキャンドルを盗み出した事や、それがジャンにバレて、冬休みにボランティアとして働かされた事も。そのせいか、透は知り合いの家を訪ねる感覚で向かっていた。教会の裏手の芝に整然と並べられた、石で出来たプレートの意味も知らないで。
 もうすぐジャンに会える。漠然と、そう思っていた。
 一刻も早く彼に会って、謝りたい。
 逸る気持ちを抑え切れず、透は教会の建物が見えるや否や、入口へ向かって駆け出した。
 ところが扉に手をかけたと同時に、黒い人影が目の前に立ちはだかった。
 「ゲイル!」
 黒いジャケットにサングラスをかけた男は、ジャックストリート・コートにいた頃と変わらない、あのゲイルであった。
 「ジャンは?」
 質問と共に中へ入ろうとする透を、ゲイルが押し止めた。
 「お前達は、ここから先へは入れない」
 「どうして? 俺達は、ジャンに会いに来たんだ。中にいるんだろ? 入れて……」
 「奴は死んだ」

 ずっと頭の中で否定し続けてきた事実をあまりにもあっさり告げられ、透は何を言われたのか、理解できなかった。いや、理解は出来たが、受け入れることが出来なかった。
 昔からゲイルは、冗談を言ったり、嘘を吐いたりするような人間ではなかった。まして親友の窮地を救いに来た彼が、冗談でその死を口にするとは思えない。
 それでも、すぐには認められなかった。
 「嘘だ」
 「本当だ」
 「嘘だ! そんなの、嘘に決まっている。俺は信じない」
 「信じる、信じないは貴様の勝手だが、奴が死んだのは事実だ」
 皮肉なことに、この時が初めてだった。ゲイルの人間的な一面を目の当たりにしたのは。
 かつて「非情なナンバー2」として、ジャックストリート・コートの内でも外でも恐れられていた男。透自身も、その非情さに腹を立て、何度も対立した。喜怒哀楽で言えば、彼が他人に見せる感情は“怒”の部分しかなかった。
 しかし、今のゲイルから見えるのは、痛々しいほどの“哀”だった。いつもなら容赦なく責めてくるはずの口調に覇気はなく、人を突き刺すような視線も虚ろなものだった。
 表面上は平静を装っているが、少し前まで悲しみに暮れていた者の顔である。
 これが、全てを物語っている。間違いなくジャンは死んだのだ。

 「それが本当なら、証拠を見せてくれ」
 絶対に認めない。認められる訳がない。最強と謳われた男が、そう簡単に亡くなるはずがない。
 「そこをどいてくれ、ゲイル!」
 半ば強引に扉を開けようとした透を片腕で制すると、ゲイルが親友から託された指示を淡々と伝えた。
 「式は密葬。立会いは俺ひとり。ジャックストリート・コートのメンバーは解散。
 報復は絶対にしないこと。全員“あるべき場所”へ帰れ。
 以上が奴の遺言だ」
 “あるべき場所”へ帰れ ―― その台詞を発するのは、それを願うのは、この世でたった一人しかいない。
 必死にすがろうとしていた微かな希望が崩れ始めた。密葬。解散。遺言。どれもリーダーの死を示すに充分な証拠であった。
 「なんで……なんで、遺言なんて言うんだよ? 式って、何だよ? 密葬って、どういう事だよ?」
 これら揺るぎない証拠を並べられても、透は尚も否定し続けた。
 「嘘だって言ってくれよ。これじゃあ、まるで……まるで……」
 認めたくない現実が会話を重ねるごとに確かなものとなり、それに立ち向かう気力が削られていく。
 「貴様は幹部になって日が浅いから知らんだろうが、ここには俺達のかつての仲間が眠っている。
 ストリートコートに出入りする連中で、家族なんてものがいる奴の方が珍しいからな。死んだとしても、引き取り手が名乗り出るケースは稀だ。
 だからジャンが挑戦者から没収した戦利品を教会へ納めて、その代わりに身寄りのないメンバーの埋葬と墓地の管理を頼んでいた」
 相変わらずゲイルの口調に覇気はなかったが、人を欺く時に生ずる後ろ暗い空気も存在しなかった。もともと彼には裏社会の匂いが染みついているのだが、今はそれも感じられない。ただ一人、ジャンの最期を看取った者として、事の次第を正確に伝えようとしている。その誠意が、抑揚のない話し方に滲み出ていた。
 「俺とジャンはメンバーがこうなるのを何度も見てきた。仲間の死を遺体という形で見せられれば、死を悼む気持ちが恨みや憎しみに転じて、復讐へ向かう事もある。実際、そうして命を落とした者もいる。
 お前等が馬鹿げた真似をしないようにと、ジャンは俺に密葬を頼んだ。
 何人たりとも遺体を見ることを禁ずる。葬儀の参列も必要ない。すべて俺ひとりで済ませろと。
 奴の気持ちを、汲んでやって欲しい」
 最後にゲイルは、そう言いながら頭を下げた。あのプライドの高い男が、しかも彼より歳もランクも下だった透に頭を下げた。
 もう否定のしようがなかった。数時間前まで「クソガキ」だ、「酔っ払い」だ、と吠え合っていたリーダーは、この世に存在しないのだ。

 「なんで? なんで、俺なんかの為に? 俺を庇わなければ、ジャンは死なずに済んだのに……」
 突き付けられた現実があまりに重過ぎて、体の震えが止まらなかった。ずっと否定し続けてきたのは、どれだけ正気を保とうとしても、この恐ろしい事実だけは抱えることが出来ないと分かっていたからだ。
 「なんで、俺なんかの為に……ジャンが死ぬぐらいなら、俺が代わりに、ジャンの代わりに……」
 途中まで言いかけたところで、力強い拳が透の襟首を捕らえた。
 「貴様! 今、何を言おうとした!?」
 非情な男の周りを覆っていた “哀”は消え、かつて何度も目にした“怒”が現れた。
 「良いか、クソガキ? 俺もそう思っている。
 こんな中途半端なガキの命が、『伝説のプレイヤー』とまで謳われた男の命より尊いはずがない。貴様がとっとと刺されて死んでくれりゃ、ジャンが命を落とす事もなかったってな!」
 掴まれた襟首には容赦なく力が加えられていったが、透は抵抗しなかった。心のどこかで、このまま締め付けてくれ、とさえ願っていた。罪深い命を背負って生きながらえるよりも、ここで罪人として裁かれる方が合っている。
 「ゲイル! いくらアンタでも、そこまで言うことはないだろ!」
 ビーが慌てて止めに入ったが、恨みのこもった拳が緩められることはなかった。
 これで良い。このままで良い。
 ところが次の瞬間、ゲイルが何かを思い出したように拳を解いた。
 「貴様を絞殺してやりたいのは山々だが、そんな事をしても失った命は戻らない。
 ジャンが死んだのは事実だ。あいつが貴様を命がけで守ったのも事実だ。
 万が一、その命を粗末にするような事があったら、その時こそ、貴様を殺しに来るから覚悟しろ。覚悟して……生きろ……」
 黒いサングラスの奥から、つうと一筋の光が流れ落ちた。透の喉元を圧迫していた力も緩められ、心の片隅にあったささやか願望は、形にならずに終わった。

 「ジャンに……話したい事の半分も伝えていない。いつも怒らせてばかりで……」
 強く首を絞められていたせいか、透は地面に降ろされた後も、まだ足に力が入らなかった。足だけでなく、どこもかしこも折れてしまったようで、立つ事はおろか、座る事さえままならない。
 「行き場のなかった俺を拾って、育ててくれたお礼も、まだ言っていない。本当はいつも感謝してたのに、言えなくて……。
 アングルボレーだって、せっかく教えてくれたのに、まだ完成していない。
 ゲイル? 本当に……本当に、ジャンは……?」
 「ああ。いくら諦めの悪い貴様でも、こればかりはどうしようもない」
 「もう、ジャンに会えないのか? 本当に?」
 それは問いかけというより願いに近く、また、願いというより祈りに近かった。
 数時間前に悪態をついていたリーダーが、突然、死んだと聞かされ、遺体を確認することも、見送ることも叶わない。
 ジャンの最後の望みは密葬だ。立会人のゲイルを除いて、誰も出席することの許されない葬儀である。
 「ゲイル、頼む。一目で良いから、ジャンに会わせてくれ。
 せめて一言だけ。一言だけ謝らせて……お願いだから」
 ゲイルの足元にうずくまり、透はひたすら懇願し続けた。あんなに嫌っていた相手が、今はジャンと自分を繋ぐ唯一の架け橋に思え、無意識のうちに彼にしがみついていた。
 「お願いだから、ジャンに会わせて……会わせてください。お願いします」
 消え入りそうな声が、暗闇に包まれた教会の敷地に響き渡った。
 しおれた体から絞り出された祈りの言葉は、扉の番人の胸にも達したはずだが、残念なことに偉大なるリーダーが安置された場所までは届かなかった。
 「親友として、ジャンの遺言を破る事は出来ない。代わりと言ってはなんだが、コートにあった花を棺の中に入れさせてもらう。
 お前達が用意したんだろ?」
 ゲイルにとっても、せめてもの譲歩に違いない。花の出処を尋ねる口調には、彼らしからぬ戸惑いのようなものが見えていた。
 「コートに……ジャックストリート・コートに行ったのか?」
 「ああ。お前達を逃がした後、残りの連中を片付けて病院へ向かおうとしたら、ジャンが……」
 時折詰まりそうになりながら、ゲイルがその後の話をし始めた。

 「ゲイル、悪いが俺をストリートコートへ連れて行ってくれ」
 深手を負っているというのに、ジャンはゲイルに治療にはおよそ適さぬ場を告げた。
 「無茶を言うな、ジャン。そんな体で行ったとしても、寿命を縮めるだけだ。それより、まずは医者だ」
 「だからこそ、頼んでいる。この俺が、病院のベッドなんかで死ねると思うか?」
 「ジャン……」
 「最後に会えたのがお前で良かった、ゲイル。他の連中なら、間違いなく病院に送りつけられている」
 口調は冗談めかしていたが、青白い顔と多量の出血が、残された時間の短さを物語っていた。
 テニスコートで死ねたら本望。いかにも彼らしい選択だ。
 親友の気持ちを察したゲイルは、血だらけの体を担いでストリートコートへ向かった。
 丸太の上まで連れて行くと、ジャンは満足そうに頬を緩ませ、そして例の遺言を伝えた。
 式は密葬、立会いはゲイルだけ。メンバーは解散する。報復は絶対にしない。
 次第に荒くなる呼吸の中で、彼はリーダーの務めを果たそうと、懸命に言葉を継いだ。復讐という無意味な争いから仲間を守る為に。
 「特に『俺を怒らせる三人』には、最後ぐらい俺の言うことを聞けと……伝えてくれ……」
 それが誰を指すのか、ゲイルにもすぐに分かった。本心は「怒らせる」ではなく「心配させる」であり、即ち、それは愛おしさの現れだという事も。
 ひと通り話し終えたところで、ジャンが二本指で煙草を求める仕草をした。
 「わがままついでに、一本、良いか?」
 「吸うのか、ジャン?」
 高校からの付き合いだというのに、ゲイルはジャンが煙草を吸うとは知らなかった。
 「一度は止めた……本気でテニスをやろうと思って……」
 「そこからして、違っていたんだな。結局、俺は止められなかった。何もかも中途半端なままだ」
 「そうでもないさ。お前のおかげで、俺は再び夢を追いかけることが出来た。
 ゲイル、感謝している……本当に……」
 ふうっと白い煙を吐き出すと、ジャンが遠い目をして微笑んだ。
 もうほとんど意識はないはずだが、何故かこの時の表情は楽しげなものだった。何か特別な思い出に浸っているような。
 間もなくして、煙草を持つ手が止まり、風に吹かれた灰と共に力なく落ちていった。
 「……ここで原石……良かった……」
 これが『伝説のプレイヤー』と呼ばれた男の最期であった。






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