第31話 遺言
シアトル行きのバスに揺られながら、透は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
外は、この時期にしては珍しく、雨が降っていた。たぶん、冷たい雨が。
しかし、そんな事はどうでも良かった。この目に映すものがない為に、仕方なく車窓からの景色を受け入れている者には、今さら何を見せられても同じであった。
周りで起きている全ての事柄が、壁を一枚隔てた外の世界の出来事に思えた。この窓ガラスに映し出される景色のように。
すれ違う車。通り過ぎていく街並み。そこで暮らす人々も。皆がそれぞれの時を過ごしているというのに、自分だけが流れから取り残されている。ここだけ時間が止まっている。
意図して踏ん張っている訳ではない。何もしないでいるだけだ。溺れるでもなく、逆らうでもなく、ただ移りゆくものを眺めている。
このまま何もしなければ、そのうち世間からも取り残されて、元の生活には戻れなくなるかもしれないが、それでも良かった。周りに合わせて強引に時を進めるよりは、少しでも長く彼の余韻に浸っていられる。
透は膝の上に視線を落とすと、持ち主を失ったラケットから彼の残像を手繰り寄せた。
初めてジャンと出会ったのは、透がまだ十二歳の時だった。鍛え抜かれた筋肉に包まれ、鋭い目つきをした男は、ひと睨みしただけで相手をねじ伏せられるほどの迫力があった。
今にして思えば、自分はジャンのその有無を言わせぬ強さに惹かれていたのだろう。そして彼と長く接するうちに、その強さは自身の為ではなく、大事なものを守る為のものだと知った。
ジャンには大事なものがたくさんあった。古くからの友人はもちろん、ストリートコートに出入りするメンバーに対しても、等しく自身の懐に入れて可愛がっていた。
酒を愛し、女を愛し、仲間内では不評とされる『ラビッシュ・キャッスル』のキドニー・パイにも目一杯の愛情を注いだ彼が、何よりも大切にしたのはテニスプレイヤーとしての誇りであった。
「原石と、石ころの違いを教えてやろうか?」
思い出の中の声が、すぐ耳元で聞こえる。あの時、ジャンは大きな拳を突きつけ、こう言った。
「ここに魂を持っている奴だけが、本物になれる。それがない奴は、いくら素質があっても石ころと同じだ。よく覚えておけ」と。
透は拳が突きつけられた左胸に自身の手を当ててみた。
数日前までは、手強い挑戦者が来るたびに、この場所が熱くなった。だが今は、彼の言葉をもってしても、何も感じられない。感じるとは、どういう事かも、忘れてしまったようだ。
せめて一目だけでもジャンの亡骸と対面することが出来たなら、少しは違ったかもしれない。たとえその結果に得たものが、受け止めきれないほどの悲しみであろうが、怒りであろうが、何らかの感覚を忘れずにいれただろう。
心の片隅で、もしかしたらジャンは生きているのかもしれない、との女々しい願望が残っていた。今までのことは、全てゲイルの作り話であると。
むやみに時を進めてしまえば、この小さな可能性もすぐに消えてなくなりそうで、そこから離れることが出来なかった。
今は何も考えず、何にも心を奪われず。消えかかる彼の残像を捕まえ、じっとしている。そうする事が、万に一つの可能性を見失わずに済む唯一の手段であった。
透はふと車窓に映る自身の姿を見て、滑稽だと思った。ジャンの死を認められない自分が、彼の遺言を遂行しようとしている。
だが、それも一瞬のことで、別にどうでも良いと思った。これが彼の望みであるならば、生死にかかわらず、どんな事をしてでも叶えたかった。
ジャンの望みは、彼の愛用していたラケットをシアトルの彼女に渡すこと。ゲイルからこの話を聞かされたのは、ジャンの葬儀の後だった。
式は密葬。立会人はゲイルのみ。
透は指示を守って式には参列せず、教会から少し離れた森の入口で、墓地へと運ばれていく彼の棺を、ほんの束の間、見送った。
本来ならば街一番の大聖堂で、公葬が執り行われてもおかしくない程の人物なのに、最期まで仲間の行く末を案じたリーダーは、牧師と親友だけの孤独な葬儀を選択した。
透の人生において、誰かを弔うという行為は初めての経験だった。
それは想像していたような深い悲しみや、嘆きに満ちたものではなかった。例えて言うなら、大事な宝物を取り上げられた直後に空になった手のひらを見るような。目の前で起きている事実に対して、感情が置いてきぼりにされた時の感覚によく似ていた。
それ故、悲しみに伏すこともなければ、涙を流すこともなく。透は、弔いの儀式がひっそりと進められる傍らで、故人の好きだった『アメージング・グレイス』を演奏し続けた。
かつてジャンが透を慰める為に、そして透がジャンを励まそうとして、二人の間で何度も行き交った思い出の曲。これを奏でる事だけが、唯一、許される行為であった。
短くてシンプルなメロディは、同じ問いかけを繰り返すのに適していた。
何故、彼を死なせてしまったのか。何故、自分の方が生かされているのか。
台車に乗せられ、独りで眠りに就こうとしているリーダーに幾度となく問いかけてみたが、返事の代わりに聞こえてきたのは、人手不足の教会が申し訳程度に鳴らした弔鐘だけだった。
気持ちが沈むようなことがあると、ジャンは決まって丸太の上から海を眺める振りをした。
コートから背を向けじっと遠くを見つめる姿は、『非運の覇者』と呼ばれた彼の人生を映し出しているようで、透は物悲しさを感じずにはいられなかった。居たたまれなくなって、拙いながらも『アメージング・グレイス』をハーモニカで演奏し、どうにか元気づけようとするのだが、本人は励ましているつもりでも、気が付けばいつも立場は逆転していた。そして彼の側を離れる頃には、透の方が大きな安らぎをもらっていた。
ジャンとは、そういう男だった。逆立ちしても、足元にも及ばない。何もかもが大きい男であった。
突然、大切な人を失った時。きちんと別れを言えずに去られた時。思い出は過去形にならずに、未完成のまま記憶の中を漂うことになる。
その場で手に取ることも許されず、過去へ押しやることも叶わない。悲しい形で存在し続ける故人の姿。
透がこれら未完の思い出を抱えて演奏を続けていると、葬儀を終えたゲイルが一本のラケットを渡しにやって来た。
ずしりと重いラケットは、ジャンが護身用に鉄パイプを素材にして特注で作らせた一品だ。
「シアトルに、『ノリコ・ハセガワ』という女がいる。このラケットを、彼女に渡して欲しい」
シアトルにジャンの本命の彼女がいることは、以前、透も聞いた事がある。「今まで惚れた中で、最高の女」と話していた。
だが、それ以上のことについては何も知らされていなかった。彼女との面識もなければ、シアトルの何処に住んでいるかも分からない。
ゲイルが詳細を伝えるまでに、かなりの間があった。ジャケットから煙草を取り出し、火をつける仕草も、普段よりも丁寧に行われていた。
ゆっくりと下に向かって吐き出された煙が、石造りの教会の壁と同化して一旦見えなくなり、上昇するに従って青い空を背景に浮かび上がったかと思えば、風に乗って消えていく。
透にはさして意味のある行為とは思えなかったが、ゲイルは同じ事を二度、三度と繰り返してから、小さなメモ紙を手渡した。
「これがアドレスだ。そこへ行って、彼女にラケットを渡して欲しい、と頼まれた。約束を守り通した証として」
「俺が?」
「理由は知らんが、ジャンは貴様に頼め、と言った。大事な用件なら俺が伝えると説得したんだが、頑として聞き入れなかった」
名前から察するに、「ノリコ・ハセガワ」は日本人と見て間違いない。ジャンは自分の最期が誤解なく伝わるように、同じ日本人である透に託そうとしたのかもしれない。
ラケットで人を傷つけない。アドレスと共に渡されたラケットには、誓いの証のプロミスリングがしっかりと結ばれていた。
「昔から、あいつは女に甘かった。奴の唯一の弱点というか、俺に言わせりゃ汚点だな」
ゲイルが遠い目をして故人を語り始めた。独り言にしては声が大きいが、透に向けて話しているようにも思えなかった。
「あいつは大胆な発想をするわりに、緻密なゲーム展開を得意とするプレイヤーだった。そのくせ女の事になると、後先考えない阿呆でな。
今回のことも……女との約束など破ってしまえば、致命傷にはならなかったはずだ」
ジャンは我が身が危うい状況であっても、彼女との約束を守り通した。透の記憶でも、「女の為なら命がけになれる」というような発言をしていた。その時は単なる女好きの冗談だと聞き流したが、彼は本心からそう思っていたのだ。
「まったく、歴史に残る阿呆だ。『伝説のプレイヤー』が聞いて呆れる」
本来なら故人を罵倒するなど、決して許される行為ではない。しかし、透は黙って聞いていた。
二本目の煙草を取り出そうとして、ゲイルが忌々しげに舌打ちをした。空になったパッケージをクシャリと握り潰す手には、必要以上の力が込められている。
煙草は彼にとって、己を律するために不可欠な小道具だったに違いない。煙というカムフラージュを失った彼が、長い吐息を漏らした。
「だがな……俺は、その阿呆が好きだった」
そう言い終えた彼の横顔は、いまだかつてないほど優しく、穏やかに見えた。そして、その柔和な横顔が透の記憶に残るゲイルとの最後の思い出となった。
「もうすぐシアトルに到着するわ」
モニカは、隣の席にいる透に声をかけた。
「モニカ、ごめんな」
「何が?」
「グラデュエーション、できなかった」
「あなたのせいじゃないわ」
普段通りの調子で答えてから、モニカは密かに胸を撫で下ろした。
一つは、今朝からずっと口を閉ざしていた透が返事をしたこと。もう一つは、彼がとっさに吐いた嘘に疑問を持たず、信じてくれていることに。
本当は、今日が新しい就職先となる予定のテニスクラブの試験日だった。
先週、コーチテストに合格し、プロコーチの資格を得たモニカは、早速、父親の経営するテニススクールとは別の企業に履歴書を送り、就職活動を進めていた。父親に対する反抗心よりも、外の世界で自身を鍛える武者修行の意味合いが強かった。
ところが、運よく面接の約束を取り付け、この朗報を持ってグラデュエーションに向かおうとした矢先、思わぬ訃報が飛び込んできた。モニカのコーチとしての才能を認め、心から応援してくれたリーダーの死。しかも自分が想いを寄せる少年をかばっての悲劇であった。
世話になったリーダーの訃報も悲しかったが、それ以上に、残酷な現実に打ちひしがれていく透を見るのが辛かった。
恐らく、彼は近しい人の死に接した経験がないのだろう。まして、その死因が自身にあるとなれば、二重の衝撃を受けたに違いない。
ジャンの死が確かなものになるにつれ、感情がストレートに映し出される琥珀色の瞳は生気を失い、何も映さず、何にも応えず、どちらが死人か、判別つかない状態になっていった。
そんな彼がシアトルへ行くと言い出した時、モニカは迷わず付いていくことを決意した。この状態の彼を独りで行かせてしまったら、もう二度と会えないような気がしたのである。
相手の都合で面接が延期になったと嘘を吐き、大して土地勘もないのにシアトルへの案内役を買って出た。
罪悪感はなかった。それよりも優先すべきことが分かっていたからだ。
どんな事があっても、彼の側にいる。たとえ彼の視界に入らなくても、返事がなくとも、ただ側にいたかった。
透がジャンの死を受け入れ、再び生きる気力を取り戻すまでは。それまでは、何があっても側を離れないと心に決めた。
「雨……?」
ずっと外を眺めていたにもかかわらず、透がバスから降りるなり、驚いたように空を見上げた。
「この時期のシアトルは、雨が多いのよ。きれいな街だし、住みやすいって言うけど、アタシは苦手なの」
すぐに彼の心が離れてしまうと知りながら、あえてモニカは会話を続けた。
「ショッピングには最高だけど……。そうそう、確かシアトルには日本人の野球選手がいたわよね? 何て名前だったかしら?」
「ノリコ・ハセガワ」
ゲイルから渡されたメモを握り締め、透が呟いた。
彼は返事のつもりだろうが、問いの答えにはなっていなかった。本来は、日本人なら誰もが知る大リーガーの名を挙げるところを、彼は「ノリコ・ハセガワ」と返してきたのだから。
まるで虚実の世界をさ迷う魂の抜け殻だ。それも一日の大半は虚ろな世界に身を置いて、何か関心のある事柄が見えた時だけ現実世界に顔を出す。
「そうだったわね。彼女のアパートメントは、この辺りのはずだけど……」
モニカはその答えを否定することなく、話を合わせた。今は少しでも長く会話を続け、現実世界に留め置く時間を増やさなければならない。
「ここだわ」
メモに書かれた住所には三階建ての古びたアパートが建っていた。サンフランシスコの街中なら漏れなく強盗の標的となりそうな造りだが、治安の良いシアトルではそうでもないのだろう。
建物の入口まで来て、透の足が止まった。その様子を見て、モニカはまた心が痛んだ。
これから「ノリコ・ハセガワ」に会って、ジャンの死を知らせなければならない。透自身もまだ受け止め切れない現実を、故人が最も愛した女性に事実として説明するのだ。
ラケットに結ばれたプロミスリングを見せて、ジャンが最期まで約束を守り通したことを。そして、彼が命を落とすに至った経緯も。
きっと透は非難を恐れているのではない。責任の所在を明確にされるより、ジャンの死が明らかになる事の方が怖いのだ。
誰かに事実として伝えるには、自分自身がその死を受け入れなければならない。また託された使命を終えることで、ジャンとの接点を失くすという新たな悲しみも生まれる。これらの感情が、彼の足を重くしているに違いない。
入口で躊躇う透を見兼ねて、モニカは自分が先に入ってドアベルを鳴らした。
ところが、部屋の中から応答はなかった。何度か鳴らしてみたが、扉は閉ざされたままである。
「留守なのかしら?」
意見を求めて振り返ると、透は建物の入口まで引き返し、何も言わずに膝を抱えて座り込んだ。彼女の帰りを待とうとしているらしかった。
雨のせいもあるだろうが、辺りはすでに暗くなり始めている。人を待つのに好条件とは言い難い。
それに、いくら治安の良いシアトルとは言え、暗くなってから土地勘のない者がうろつくには危険も多い。身の安全を第一に考えれば、宿の確保が先である。
「モニカ……?」
早々に立ち去ろうとするモニカの背後から、消え入りそうな声が追いかけてきた。
呼び止めようとして、声をかけたのだと思う。名前しか呼ばれなかったが、請うような眼差しが訴えていた。「側にいてくれ」と。
「温かい飲み物を買ってくるわ。この街は、コーヒーだけは不自由しないのよ」
側にいる ――きっとそれは誰でも良かったのかもしれないが―― モニカがその意を示した途端、透はラケットに視線を落として、再び虚ろな世界へ帰っていった。
こんな弱々しい彼を見るのは初めてだった。「口と諦めは悪い方だ」と豪語し、モニカの毒舌を物ともせず、倍返しにしてくるようなヤンチャな少年が、今は見る影もない。
「だから、シアトルは苦手なのよ」
せめて日が差していてくれれば、少しは気晴らしになるものを。モニカは降り注ぐ冷たい雨に向かって文句をつけた。
テイクアウトのコーヒーを抱えて戻ってくると、相変わらず透は建物の入口で膝を抱えてじっとしていた。先ほど別れた時と同じ格好で、そこだけ時間が止まったようだ。
モニカは袋からカップを取り出すと、コーヒーの温もりだけでも伝わるよう、冷たくなった彼の両手に掴ませた。それから、また現実世界に呼び戻すための話題を探した。
「これ、すごくステキなデザインよね。オリエンタルな感じがして」
ジャンのラケットに結ばれたプロミスリングを指して、話を引き出してみる。
「ああ、彼女からのプレゼントだって。昔、ジャンが荒れていた頃に、このリングを結んで誓いを立てさせられたって、話していた」
「そうなの?」
「俺達も分けてもらったんだぜ。ほら!」
何を言っても興味を示さなかった少年が、話題がジャンの思い出話に及んだと同時に、息を吹き返した。
「前に魔女の姉貴が、大物集団を連れて来た事があっただろ? あの時、モニカは先に帰ったから知らないと思うけど、大変だったんだぜ」
「どんな風に?」
その詳細は他の仲間から聞かされていたが、わざと興味深げな顔を向けた。
「俺に負けたあいつ……何て言ったかなぁ? 忘れちゃったけど、試合の後でいきなり殴りかかって来てさ。俺達と大物集団とで乱闘になったんだ。
俺も頭に血が上って、相手をラケットで殴ろうとしたところを、ジャンに見つかって。思いっきり怒られた。テニスプレイヤーの誇りを忘れるなって。
その時に貰ったんだ。プロミスリング。そうだ、これも一緒に返さなきゃ」
透が自身のラケットに結んであったプロミスリングを外して、ジャンのラケットに結び直そうとした。四等分にされたという紐は不器用な少年の手には負えぬほど短くなっていたが、それでも懸命に結ぼうとしている。こうしなければ、命に係わるとでも言わんばかりの思い詰めた表情だ。
「貸してみて?」
「でも……」
「私のほうが上手く結べると思うけど?」
「分かった。じゃあ、頼んだ」
少しだけ、ほんの僅かな時間だが、透が元の姿に戻った気がした。
「ビーとレイの分も、返してもらえば良かったかな」
「でも、アナタ達の誓いの証がなくなるわよ?」
「俺達は良いんだ、もう……」
ふと電池が切れたように、彼の声がトーンダウンした。話がジャンから逸れた途端、また生気のない顔つきになった。
生き返った気がしたのは、やはり錯覚だった。
二時間ほど待ってみたが、「ノリコ・ハセガワ」は戻って来なかった。
透よりはいくらか世間の常識を知るモニカは、自分達の軽率な行動を悔やんだ。色々な事が一度に起こり、気が動転していたとは言え、事前に連絡を入れておくべきだった。
聞いた話では、確かジャンの彼女はモデルの仕事をしているはずだ。もしかしたら、ファッション・ショーなどで海外へ出かけているかもしれない。
急ぐ旅ではないが、金銭的に余裕がある訳でもない。特に透は、今回の旅行で日本へ帰るために蓄えていた貯金をほぼ使い果たしたと聞いた。それを考えると、あまり長居はできなかった。
仕方なくモニカは隣の住人に事情を話し、管理人の連絡先を聞き出した。
驚いたことに、管理人によると、「ノリコ・ハセガワ」は三ヶ月前に引っ越したとの話であった。モデルの事務所を通しての契約だった為に、彼女がどこへ引っ越したか、行き先は分からないという。しかも頼みの綱である事務所は、すでに倒産した事まで聞かされた。
水物と言われる業界ではよくある話らしいが、これで彼女との繋がりは完全に断たれた事になる。
モニカは透に悟られないよう、落胆と苛立ちの混じった溜め息を少しずつ吐き出した。やはりシアトルとは相性が悪いらしい。不測の事態がこうも重なるなんて。
中でも信じがたいのは、ジャンが彼女の転居を知らされていなかった事である。ひょっとしたら、二人は別れた後なのか。付き合っていれば、引越し先ぐらいは教えるはずである。
今となっては確かめようもないが、透の気持ちを考えると、これ以上、悲劇的な展開にならないで欲しいと心から願った。
「ジャン、ごめん……」
引き取り手を失くしたラケットを抱え、透はすでに「ノリコ・ハセガワ」の転居までも、自分のせいにし始めている。
「きっとジャンは、もう一度、会いたかったんだ。一番好きな人に……。それなのに、ごめん……」
「アナタのせいじゃない」と言いかけて、モニカは思い止まった。今の彼に何を言っても、ますます自責の念を深めるだけである。
わざわざ雨の中をシアトルまで来たにもかかわらず、肝心の彼女は行方知れずで、連絡の取りようがない。仮に連絡先が分かったとしても、彼氏に黙って居所を変えるような女がどんな反応を見せるか。二人が別れた後なら、尚更、自分達のしている事は迷惑行為以外の何ものでもないだろう。
もう充分過ぎるほど傷ついた透に、これ以上の悲劇を見せたくはなかったが、さすがに故人の遺志をうやむやにするのも気が引ける。一体、どうすれば良いのか。
途方に暮れていると、モニカの携帯電話にレイから連絡が入った。電話越しではあるが、冷静な彼にしては珍しく語気が荒い。
「ゲイルがやられた! もう我慢できない」
「ちょっと待って、レイ? どうしたの?
落ち着いて、何があったか、分かるように説明してちょうだい」
「明日、チャンフィーを……」
「チャンフィーを、なに!?」
「チャンフィー」の名を口にしたと同時に、透の目つきが変わった。そしてモニカから携帯電話をむしり取ると、声を張り上げた。
「復讐は絶対にするな! これはジャンの遺言だ。
何のために密葬にしたか……。おい、レイ? 聞いているのか!?」
どうやら一方的に電話を切られたようだ。
悪い事とは重なるものなのか。透もモニカも、互いに口に出しては言わないが、電話の様子から新たな悲劇が生まれる予感はあった。
「モニカ? 今からサンフランシスコに戻る方法はあるか?」
「まさか、今から帰るつもり?」
「ああ、走ってでも帰る。これ以上、仲間を失ってたまるか!」
虚ろな世界をさ迷っていた少年が、現実世界に戻ってきた。皮肉にもチャンフィーによって失われた生気が、その名の出現によって呼び戻された。ただ残念なことに、琥珀色の瞳に宿っていたのは、生きる気力などという生易しい光ではなくて、怨念にまみれた憎しみの炎であった。